第17話 民の嘆願を読む王女
読まれないと分かっている願いを、それでも書いた人がいるのです。
焦げた台帳の上に浮かんだその一文は、静かだった。
叫びではない。
助けを求める悲鳴でもない。
それなのに、受付室にいた誰の声よりも、深く響いた。
リディアは息を止めたまま、焦げたページを見つめていた。
文字は淡い金色を帯びている。
古い紙の上に浮かび、消えかけ、けれど完全には消えない。
ノアが、かすれるように呟いた。
「アレリア殿下……」
その声には、これまで聞いたことのない響きがあった。
敬意。
痛み。
そして、十年間押し込めてきた後悔。
リディアは、そっと台帳へ指を伸ばした。
「触れても、いいですか」
ノアは答えなかった。
代わりに、リディアの方へ一歩近づく。
「深く入りすぎないでください」
「また、自分の名前を忘れないように、ですか」
「はい」
ノアは真剣な顔で頷いた。
「これは、ただの記録ではありません。アレリア殿下が読んだ嘆願、考えたこと、残そうとした制度。その断片が混じっています」
「王女様の記憶ですか」
「完全な記憶ではありません」
ノアは焦げた台帳を見る。
「紙に残った意思です」
紙に残った意思。
リディアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
書類には、書いた人の意思が残る。
出せなかった手紙にも。
握りつぶされた届出にも。
未受理のまま隠された嘆願にも。
では、民の嘆願を読み続けた王女の書類には、どれほどの意思が残っているのだろう。
リディアは、自分の名前を小さく口にした。
「リディア・クラウス」
それから、焦げたページに指を置いた。
瞬間、受付室の灯りが遠ざかった。
木のカウンターも、硝子灯も、壁一面の書架も、紙の奥へ沈んでいく。
代わりに現れたのは、白い光だった。
王宮。
高い天井。
大理石の床。
長く続く廊下。
窓から差し込む午後の光。
リディアは、今度は誰かの体の中にいるわけではなかった。
少し離れた場所から、光景を見ている。
白い部屋の中央に、大きな机がある。
机の上には、嘆願書の束が積み上げられていた。
新しい紙。
古い紙。
端が破れた紙。
雨に濡れて波打った紙。
何度も折られ、開かれ、また折られた紙。
どれも、王宮に届いた民の嘆願だった。
その前に、一人の若い女性が座っている。
淡い金の髪。
白い指。
落ち着いた横顔。
年は二十歳前後だろうか。
王女らしい華やかな装飾は少ない。
髪飾りも、耳飾りも控えめだ。
けれど、そこに座っているだけで、部屋の空気が整うような人だった。
第一王女アレリア・エル・ラウゼリア。
リディアは、一目でそう分かった。
肖像画で見たことがある。
王都庁舎の廊下に掲げられていた、病で若くして亡くなった慈愛の王女。
民を思う優しい人だったと、歴史の小冊子に記されている王女。
だが、今目の前にいる彼女は、額縁の中の静かな王女ではなかった。
一枚の嘆願書に目を通し、余白に小さく印をつける。
次の紙を開く。
内容を読み、眉を寄せる。
別の台帳と照合する。
その手つきは、祈る人のものではなく、働く人のものだった。
「殿下」
傍らの若い書記官が、困ったように言った。
「そろそろお休みを。もう三刻も読み続けておられます」
アレリアは目を上げなかった。
「この束だけ読んだら」
「そのお言葉を、二束前にも伺いました」
部屋の隅で、幼い少女が小さく笑った。
リディアは、そちらを見る。
十歳ほどの少女。
アレリアと同じ、淡い金の髪。
少し大きすぎる椅子に座り、読めもしない書類を真似して広げている。
ミリア王女だ。
十年前、救済願を持って走った幼い少女。
まだ、この頃の彼女は明るい顔をしていた。
姉を見る目には、憧れがあふれている。
「お姉様は、いつも『これだけ』って言うのに、これだけで終わったことがありません」
「ミリア」
アレリアは、少しだけ笑った。
「あなたまで書記官の味方をするの?」
「だって、お姉様が休まないと、みんな困ります」
「みんな?」
「書記官も、侍女も、わたしも」
ミリアは、胸を張る。
「わたしは、お姉様とお茶を飲む係です」
部屋の空気が、少し柔らかくなった。
若い書記官も、わずかに笑みを浮かべる。
だが、アレリアは手元の嘆願書へ視線を戻した。
「では、この一枚だけ」
「またそれです」
ミリアが頬を膨らませる。
アレリアは、嘆願書を両手で持ち直した。
そこには、荒い文字で訴えが書かれている。
奉公先から娘を戻したい。
契約時に約束された給金が払われていない。
本人に会わせてもらえない。
庁舎へ相談したが、契約不備なしとして返された。
リディアは、胸が締めつけられた。
マルタとリーナの件に似ている。
十年前から、同じ構造はあったのだ。
アレリアは、その嘆願書を読み終えると、そっと別の箱へ入れた。
箱には、小さくこう書かれている。
再確認
書記官が戸惑ったように言った。
「殿下、それも再確認ですか」
「ええ」
「しかし、庁舎では不備なしと判断されています」
「庁舎が不備なしと判断したことと、この人が困っていないことは同じではありません」
アレリアは静かに言った。
「本人確認はされていますか」
「記録上は、雇用主からの報告があります」
「本人確認は?」
書記官は、言葉に詰まった。
アレリアは、嘆願書の端に指を置く。
「なら、確認が必要です」
「殿下。王宮が個別の奉公契約にまで踏み込めば、貴族家から反発が」
「反発する理由がなければ、反発しないはずです」
柔らかい声だった。
だが、その言葉には芯があった。
書記官は、それ以上言い返せなかった。
ミリアが、書類をのぞき込む。
「お姉様、どうしてそんなにたくさん読むの?」
アレリアは、妹の方を見た。
「気になる?」
「うん。王宮に来る書類は、偉い人が先に選んでいるんでしょう?」
「そうね」
「じゃあ、読まなくてもいい書類は、最初から来ないんじゃないの?」
幼い問いだった。
だが、リディアには胸に刺さった。
読まなくてもいい書類。
受け取らなくてもいい願い。
誰が、それを決めるのか。
アレリアは、ミリアの隣に座るように手招きした。
ミリアが椅子を降り、姉のそばへ駆け寄る。
アレリアは、机の上から一枚の紙を取った。
それは、ひどく古い嘆願書だった。
端は汚れ、字は震えている。
裕福な家の者が書いたものではないことは、一目で分かる。
「これを見て」
ミリアは、書類を覗き込む。
「読めない」
「そうね。まだ少し難しいわ」
「何て書いてあるの?」
「遠い村の人が、税の計算が間違っていると訴えているの」
「税?」
「お金や作物を、王国に納めること」
「間違っているなら、直してあげればいいのに」
「そうできればいいわね」
アレリアは少しだけ微笑む。
「でも、この書類は三度、庁舎に出されて、三度とも戻されている」
「どうして?」
「書式不備」
「しょしきふび?」
「書き方が間違っている、ということ」
ミリアは眉を寄せた。
「でも、困っているんでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、書き方が間違っていても、読めばいいのに」
その言葉に、アレリアは静かに頷いた。
「私も、そう思うの」
リディアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
子どもの素朴な問い。
けれど、それは書類仕事の根本を突いている。
書式が間違っているから読まない。
添付が足りないから返す。
管轄外だから受け付けない。
そうした手続きは必要だ。
だが、その奥にある困りごとまで消していい理由にはならない。
アレリアは、ミリアの頭をそっと撫でた。
「読まれないと分かっている願いを、それでも書いた人がいるのです」
焦げた台帳に浮かんだ一文と同じだった。
リディアは息を呑む。
ミリアは、姉の言葉をまだ完全には理解していない顔をしていた。
「読まれないって分かってるのに?」
「ええ」
「どうして書くの?」
アレリアは、少し考えた。
「他に、手がないから」
静かな答えだった。
「声を上げても届かない。会いに行っても門前払いされる。誰かに話しても信じてもらえない。それでも、紙に書けば、もしかしたら誰かが読むかもしれない」
アレリアは、嘆願書に目を落とした。
「それは、最後の手なのだと思う」
ミリアは、小さな手で自分の胸を押さえた。
「最後の手」
「だから私は、読まれないはずだった紙ほど、読まなければいけないと思うの」
部屋の中が、静かになった。
若い書記官は、何も言わない。
その横顔には、困惑と敬意が混じっている。
リディアは、その書記官を見た。
ノアではない。
だが、どこかで見たような顔だった。
王宮臨時受付にいた別の書記官だろうか。
アレリアは再び机に向かい、嘆願書を読み始める。
リディアの視界が揺れた。
場面が変わる。
同じ部屋。
だが、机の上の書類はさらに増えている。
アレリアの顔には疲れが見える。
ミリアは部屋の隅で眠っている。侍女がそっと毛布を掛けている。
扉が開き、若い官吏が入ってきた。
リディアは、その顔を見て息を止めた。
ヴァルターだ。
今より若い。
銀縁の眼鏡は同じだが、顔つきにはまだ硬さよりも鋭さが勝っている。
彼は深く一礼した。
「アレリア殿下。記録監査局より参りました。ヴァルター・グレイスです」
「ご苦労さまです」
アレリアは、疲れた様子を見せずに顔を上げた。
「調査をお願いしていた件ですね」
「はい」
ヴァルターは数枚の書類を机に置く。
「庁舎の未受理処理について、過去五年分を抽出しました」
「結果は?」
「件数が異常です」
アレリアの表情がわずかに変わる。
ヴァルターは続けた。
「通常の不備返却ではなく、受付記録を残さないまま処理済みにされた案件が複数あります。分類欄には正式記号ではない処理番号が使われています」
リディアは、胸の奥でその言葉を待った。
ヴァルターが書類の一枚を開く。
そこに記されていたのは。
EX-04
アレリアは、その記号をじっと見つめた。
「これは、正式な分類ではありませんね」
「はい。少なくとも、庁舎規程にはありません」
「誰が使っているのですか」
「記録監査局の一部、貴族院関係窓口、家族関係窓口、奉公契約窓口に痕跡があります」
「広いですね」
「はい」
ヴァルターは、少しためらった。
「殿下。これ以上調べるなら、慎重になさるべきです」
「なぜですか」
「これは、単なる事務不備ではありません」
若いヴァルターの声は、今の彼よりも少しだけ熱を帯びていた。
「権力者に都合の悪い嘆願を、正式な不受理記録にも残さず、存在しなかったことにする仕組みです」
リディアは、思わず息を吸った。
十年前のヴァルターは、もう気づいていた。
そして、それをアレリアに報告していた。
「仕組み」
アレリアは、静かに繰り返した。
「では、止めなければなりませんね」
「殿下」
ヴァルターの声が硬くなる。
「止めることは、容易ではありません」
「容易ではなくても、止める必要があります」
「この仕組みに関わっているのは、庁舎の下級職員だけではありません。貴族院、王宮高官、領主家、商会。多くの者が、この処理によって不都合な嘆願を隠してきた可能性があります」
「だからこそです」
アレリアは、机の上に積まれた嘆願書を見た。
「この紙を書いた人たちは、自分の願いがどこで止められたのかも知らないまま待っている」
「待つだけで済むならよい方です」
ヴァルターは言った。
「待つうちに諦める者もいます。自分が悪かったのだと思い込む者もいる。訴えを取り下げたことにされる者も」
リディアは、テオの顔を思い出した。
エルザが迎えに来なかったと思わされていた少年。
ミナの顔も。
叔母が来なかったのは、自分が悪い子だからだと思わされていた少女。
十年前から同じことが起きていた。
「では、なおさら」
アレリアの声は震えなかった。
「未受理案件を再審査する仕組みを作りましょう」
ヴァルターは、目を見開いた。
「再審査?」
「はい。庁舎や貴族家だけに判断を任せず、未受理とされた嘆願を第三者が確認する機関を設けます」
アレリアは羽ペンを取った。
机の上の白紙に、表題を書き始める。
王国嘆願制度改正案
リディアの心臓が鳴った。
これだ。
焦げた台帳に記されていた、存在しないはずの改革案。
アレリア王女は、この時すでに書き始めていた。
ヴァルターは、険しい顔でそれを見ている。
「殿下。それを進めれば、王宮は敵だらけになります」
「敵になるのは、願いを握りつぶしてきた者たちだけです」
「その者たちが、国の中枢にいます」
「なら、なおさら民の願いを人質にしてはいけない」
アレリアはペンを止めない。
白紙に言葉が増えていく。
嘆願受付の透明化。
未受理理由の記録義務。
本人確認の徹底。
第三者機関による再審査。
孤児、奉公人、未成年者、寡婦、下級市民の申請保護。
リディアは、その文面を食い入るように見つめた。
これは、夜間未受理窓口がやっていることに近い。
ただし、秘密の夜の窓口ではなく、昼の制度として。
アレリア王女は、夜に迷い込むしかなかった願いを、昼の王国の中へ戻そうとしていた。
若いヴァルターは、しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「殿下は、国を壊すおつもりですか」
アレリアは顔を上げた。
怒ってはいなかった。
ただ、悲しそうに微笑んだ。
「いいえ」
彼女は言った。
「国を、これ以上静かに壊さないためです」
その言葉に、リディアの胸が震えた。
静かに壊れる国。
表面上は平和でも、その内側で嘆願が握りつぶされ、人の人生が歪められ、誰かが自分を責め続ける国。
ヴァルターは何も言わなかった。
ただ、アレリアの書く改正案を見ていた。
その目にあったのは、反発だけではない。
恐れ。
この王女が、本当にそれをやってしまうことへの恐れ。
場面が、また揺れる。
今度は、夜だった。
同じ部屋。
机の上には、王国嘆願制度改正案の草案がある。
アレリアは一人ではなかった。
幼いミリアが、眠そうな目をこすりながら、姉の横に立っている。
「お姉様、まだ書いてるの?」
「ええ。もう少しだけ」
「もう少しって、また?」
ミリアは不満そうに言いながらも、姉の隣に椅子を持ってくる。
アレリアは笑った。
「眠いなら、部屋に戻りなさい」
「いや。ここにいる」
「どうして?」
「お姉様がひとりで無理をするから」
ミリアは、精いっぱい真面目な顔をする。
アレリアは、妹の頬に触れた。
「ありがとう」
「その紙、何?」
「嘆願を、きちんと受け取るための仕組み」
「仕組み?」
「困っている人が書類を出した時、勝手に捨てられないようにする約束です」
ミリアは、改正案を覗き込む。
まだ読めない文字が多いのだろう。
首をかしげている。
「書類って、紙なのに、そんなに大事?」
アレリアは、妹の手を取った。
「書類は紙ではなく、人が差し出した手です」
リディアは、その言葉に胸を打たれた。
書類は紙ではなく、人が差し出した手。
だから、受け取らないことは、その手を払うことなのだ。
ミリアは、自分の手を見つめた。
「じゃあ、お姉様は、いっぱい手をつないでるの?」
アレリアは、少し驚いたように瞬きをした。
そして、ふっと笑った。
「そうかもしれないわね」
「重くない?」
子どもらしい問いだった。
アレリアは、すぐには答えなかった。
窓の外を見る。
王都の夜に、小さな灯りがいくつも瞬いている。
「重いわ」
彼女は正直に言った。
「でも、誰か一人が全部を持つべきものではないの」
「じゃあ、どうするの?」
「だから、仕組みにするの」
アレリアは、改正案に手を置いた。
「誰か優しい人が頑張るから救われる、では長く続かない。優しい人が倒れたら、また願いは落ちてしまう」
リディアは、息を呑んだ。
アレリアは、ただ理想だけを語っていたのではない。
彼女は分かっていた。
個人の善意だけでは足りない。
夜間未受理窓口のように、偶然たどり着けた人だけが救われる仕組みでは足りない。
必要なのは、制度。
「だから、誰かが読まなければならない紙を、誰か一人の善意に任せないようにするの」
ミリアは、難しい顔をした。
「難しい」
「難しいわね」
「でも、お姉様がやるなら、いいことなんでしょう?」
アレリアは、少し寂しそうに笑った。
「いいことだと、私は思っている」
「じゃあ、私も手伝う」
「ミリアには、まだ早いわ」
「早くない」
ミリアは頬を膨らませる。
「私も、手をつなぐ」
アレリアは、妹を見つめた。
そして、そっと抱きしめた。
「ありがとう」
その腕の中で、ミリアは満足そうに目を閉じる。
リディアは、その光景を見て胸が苦しくなった。
この少女が、やがて姉を助けるために救済願を書く。
そして、その手は払われる。
今はまだ、何も知らない。
場面が暗くなる。
紙の上の文字が揺れ、王宮の部屋が遠ざかる。
最後に、アレリアの手元だけが見えた。
王国嘆願制度改正案。
その末尾に、彼女は小さく追記を書いている。
ミリアには、まだ知らせないこと。
リディアは息を呑んだ。
なぜ。
そう思った瞬間、視界が戻った。
夜間未受理窓口。
焦げた台帳。
硝子灯。
カウンター。
積み上げられた未受理書類。
リディアは、台帳に手を置いたまま息を乱していた。
「リディア様」
ノアの声が近い。
「名前を」
「リディア・クラウス」
すぐに答えた。
「私は、リディア・クラウスです」
ノアが小さく頷く。
「戻れています」
リディアは、ゆっくり手を離した。
指先が震えている。
アレリア王女の声が、まだ耳の奥に残っていた。
読まれないと分かっている願いを、それでも書いた人がいるのです。
書類は紙ではなく、人が差し出した手です。
誰か優しい人が頑張るから救われる、では長く続かない。
リディアは、焦げた台帳を見下ろした。
「アレリア王女は、制度にしようとしていたんですね」
「はい」
ノアの声は静かだった。
「夜間未受理窓口のような場所を、秘密ではなく、正式な仕組みにしようとしていた」
「おそらく」
「だから、消された」
ノアはすぐには答えなかった。
だが、その沈黙で十分だった。
リディアは、ページの末尾に残った追記を見た。
ミリアには、まだ知らせないこと。
「これは、どういう意味でしょうか」
「アレリア殿下は、ミリア殿下を巻き込みたくなかったのでしょう」
「でも、ミリア王女は結局、知ってしまった」
「はい」
ノアの声が、かすかに沈む。
「そして、救済願を出そうとした」
リディアは、白紙申請書の木箱を見る。
中の紙は静かだった。
だが、沈黙しているだけで、そこには確かに声が残っている。
「ミリア王女に会わなければいけません」
リディアは言った。
ノアは、予想していたように目を伏せた。
「簡単ではありません」
「王宮の奥にいるんですよね」
「公式には、療養中です。公務から離れ、面会も限られています」
「実際には?」
ノアは答えなかった。
「幽閉に近いのですか」
その問いにも、彼は答えなかった。
だが、やはり沈黙が答えだった。
リディアは唇を噛んだ。
十年前、姉を助けようとして救済願を出した少女。
その願いは受け取られず、姉は亡くなった。
そして彼女は、今も王宮の奥にいる。
その少女が、何を望んでいるのか。
それを聞かずに王女救済願を受理することはできない。
ヴァルターの言葉がよみがえる。
――あの方に会うということは、十年前、助けを求めた少女にこう告げることだ。あなたの願いは、姉を救えなかった、と。
リディアの胸が痛む。
それでも、願いをなかったことにし続けることもまた、傷だ。
「アレリア王女の改革案は、まだ残っていますか」
リディアが尋ねると、ノアは焦げた台帳をめくった。
ページの一部は焼けている。
完全な文面は見えない。
しかし、断片は残っていた。
王国嘆願制度改正案
未受理案件の再審査機関設置
本人確認義務化
処理理由の記録義務
弱者申請保護条項
リディアは、その文字を目で追った。
これを公にできれば。
夜間未受理窓口で扱っていることを、昼の制度へつなげられるかもしれない。
だが、今はまだ断片だ。
そして、その中心にある王女救済願は未受理のまま。
ノアが言った。
「第十七案件、王宮嘆願処理記録の一部読解。アレリア王女の改革案存在を確認」
「存在しないことにされた文書ですね」
「はい」
「では、まず存在したことを記録します」
リディアは、台帳の余白に仮受付印を押した。
淡い朱色の印が、焦げた紙に沈む。
王国嘆願制度改正案――存在確認
その文字が浮かんだ瞬間、受付室の奥にある白紙申請書が淡く光った。
そこに、新しい一文が浮かぶ。
妹を、巻き込みたくありませんでした。
リディアは息を止めた。
アレリア王女の声。
だが、次の瞬間、別の小さな文字がその下に浮かぶ。
幼い筆跡。
それでも、私は知ってしまった。
ミリア王女の声。
姉は守ろうとして隠した。
妹は隠されたまま、危険を知ってしまった。
その二つの声が、白紙の中で重なっている。
ノアが、苦しそうに目を伏せた。
「リディア様」
「はい」
「ここから先は、アレリア殿下の理想だけではありません」
彼は言った。
「ミリア殿下の傷に入ります」
リディアは、白紙申請書を見た。
それでも、読んで。
その一文が、もう一度胸の奥で光る。
「読みます」
リディアは言った。
「でも、勝手に決めません。ミリア王女に、必ず会います」
焦げた台帳のページが静かに閉じた。
そして、未受理案件台帳がひとりでにめくれる。
次のページに浮かんだ文字を見て、リディアは息を呑んだ。
王宮侍女のメモ――未受理
その下に、震えるような一文が浮かぶ。
ミリア殿下は、今も毎夜、同じ言葉を繰り返しています。
さらに、もう一行。
お姉様を、殺さないで。
受付室の灯りが、静かに揺れた。
十年前の願いは、まだ終わっていない。
ミリア王女は、今もあの夜の中にいる。




