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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第6話 受理印は、過去を変えない

# 第6話


## 受理印は、過去を変えない


 こん、と扉が鳴った。


 弱い音だった。


 夜間未受理窓口の扉を叩く音には、それぞれ形があるのだと、リディアは少しずつ分かり始めていた。


 エマの音は、迷いながらも縋るようだった。

 セシリアの音は、震えを抑え込んだ硬さがあった。

 今の音は、そのどちらとも違う。


 開いてほしいのに、開いたら困る。

 助けてほしいのに、助けられる資格がないと思っている。


 そんな音だった。


 ノアが扉へ向かう。


「どうぞ」


 扉が開く。


 入ってきたのは、青年だった。


 二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。

 灰色の外套を羽織り、雨に濡れた前髪が額に貼りついている。体格は悪くないのに、肩が内側へ丸まり、まるで自分の存在を少しでも小さくしようとしているようだった。


 彼は受付室に入るなり、深く頭を下げた。


「すみません。ここで……届かなかった書類を扱ってもらえると聞きました」


 声はかすれていた。

 長い間、喉の奥にしまい込んでいた言葉を、ようやく押し出しているような声だった。


 ノアがいつものように名乗る。


「夜間未受理窓口です。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「ユリス・オルダです」


「本日のご相談は」


 ユリスは、外套の内側から一通の封筒を取り出した。


 封筒は古びている。

 端は擦り切れ、封蝋は一度押されたあとで割られ、また乱暴に閉じ直されていた。


 何度も開けられた手紙。

 けれど、誰にも渡されなかった手紙。


 リディアは、無意識に息を詰めた。


 ユリスは封筒を両手で持ったまま、言った。


「父への謝罪文です」


 その一言だけで、受付室の空気が少し重くなった。


「お父様は」


 リディアが静かに尋ねると、ユリスは目を伏せた。


「三年前に、亡くなりました」


 また、三年前。


 リディアは思わずエマの顔を思い出した。

 亡くなった婚約者の手紙を抱えていた若い女性。

 今夜、この窓口には、三年前に止まった時間が続けて流れ込んできている。


 だが、ユリスの手紙から感じるものは、エマのものとは違った。


 愛しさではない。

 未練でもない。


 もっとざらついたもの。

 後悔と、怒りと、言い訳と、もう届かないことを知っている諦め。


「父と、最後に会った日に喧嘩をしました」


 ユリスはぽつりと語り始めた。


「くだらないことでした。家業を継ぐかどうかで揉めて。父は古い文具店をやっていて、私はそんな店に未来はないと言ったんです」


 リディアは、黙って聞いた。


「父は怒りました。私も怒鳴りました。もう二度と帰らないと言って、店を出ました」


 ユリスの手が封筒を握りしめる。


「次の日、父は倒れました。店の奥で。発見された時には、もう」


 言葉が途切れた。


 時計の針の音だけが、静かに響く。


 ユリスは唇を噛んだ。


「謝りたかったんです。でも、葬儀の時にも、墓の前でも、うまく言えませんでした。だから手紙を書きました。何度も。何度も書き直して」


 彼は封筒をカウンターに置いた。


「でも、出せませんでした。死んだ人に手紙を出せるはずがない。そんなこと分かっているのに、捨てることもできなくて」


「それで、こちらへ」


「はい」


 ユリスは顔を上げた。


 目の下は赤い。

 眠れていないのだろう。


「ここなら、死んだ人にも届けられるんですか」


 その問いに、リディアはすぐ答えられなかった。


 答えを知っているわけではない。

 だが、ノアの言葉を覚えている。


 受理は奇跡ではありません。

 失われた命は戻りません。


 ノアが、リディアの代わりに答えた。


「死者へ直接、書類を届けることはできません」


 ユリスの表情が、少しだけ強張る。


「……そうですか」


「はい」


 ノアの声は静かだった。


「この窓口が受理できるのは、生きている人の中に未受理のまま残っている願いです」


「生きている人の中に」


「亡くなった方を呼び戻すことはできません。過去を変えることもできません。ですが、残された人の中で止まっている言葉を、正式に受け付けることはできます」


 ユリスは、長い間、何も言わなかった。


 やがて、かすかに笑う。


「都合のいい奇跡は、ないんですね」


「ありません」


 ノアは即答した。


 リディアは思わずノアを見た。


 もう少し言い方があるのではないか、と思った。

 だが、ユリスは怒らなかった。


 むしろ、その冷たいほど正確な答えに、少しだけ安心したように見えた。


「その方が、いいのかもしれません」


 ユリスは言った。


「もし父が戻ってきたら、たぶん私は、また謝れない」


 リディアは胸の奥が痛んだ。


 戻ってきてほしい。

 けれど、戻ってきたら向き合えない。


 後悔とは、なんて厄介なものなのだろう。


 ノアがリディアに目を向ける。


「臨時受理官」


 リディアは頷いた。


「ユリス様。この謝罪文に残された未受理の一文を読み取ることはできます。ただし、先にお伝えしておきます」


 ユリスが顔を上げる。


「受理印は、過去を変えません。お父様が亡くなったことも、最後に喧嘩をしたことも、あなたが手紙を出せなかったことも、消えません」


「……はい」


「そのうえで、この手紙を読みますか」


 ユリスは封筒を見つめた。


 しばらくして、頷いた。


「お願いします」


 リディアは封筒を開いた。


 中には、何枚もの便箋が入っていた。


 一枚目。

 何度も書き直された跡がある。


 父さんへ。

 あの日はすみませんでした。

 言いすぎました。

 店のことも、父さんのことも、本当は――


 そこで線が引かれ、消されている。


 二枚目。


 ごめんなさい。

 父さんの店を馬鹿にして、ごめんなさい。

 親不孝で、ごめんなさい。

 最後にあんなことを言って、ごめんなさい。


 また消されている。


 三枚目も、四枚目も、同じだった。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 何度も繰り返される謝罪の言葉は、紙の上で積み重なりすぎて、かえってどこにも届かなくなっているようだった。


「謝ってばかりですね」


 ユリスが自嘲するように言った。


「他に、何を書けばいいか分からなかったんです」


 リディアは便箋を揃えた。


 そして、一番最後の紙に指を置く。


 そこだけが、ほとんど白紙だった。


 上部に一行だけ。


 父さんへ。


 その下は空白。


 リディアは指先に意識を集中した。


 紙に残った感情が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 古い店の匂い。

 紙束の乾いた香り。

 インクの瓶。

 木製の棚。

 夜遅く、店の奥で帳簿をつける父親の背中。


 少年の頃のユリスが、棚の影からそれを見ている。


 父親は無口な人だった。

 褒めるのが下手で、叱るのも下手で、けれど、壊れたペン先を直す手つきだけは驚くほど優しい。


 ユリスは、その手が好きだった。


 だが成長するにつれ、古い文具店が恥ずかしくなった。

 父の古い考え方が嫌になった。

 自分はもっと大きな商会で働きたい。もっと広い世界に出たい。


 それを父は理解しなかった。


 いや、理解しなかったのではない。

 どう送り出せばいいか、分からなかったのかもしれない。


 喧嘩の日。


 ユリスは言った。


 ――こんな古臭い店、もうすぐ潰れる。


 父親は黙った。


 その沈黙に、ユリスはさらに苛立った。


 ――父さんみたいにはなりたくない。


 そこで記憶は、刃物のように途切れる。


 リディアは息を詰めた。


 紙の空白に、文字が浮かぶ。


 父さんに、もう一度叱ってほしかった。


 リディアは、すぐには顔を上げられなかった。


 ごめんなさい、ではない。

 許してください、でもない。


 ユリスが本当に言いたかったのは、父に叱られたかった、だった。


 父が生きているなら。

 自分を見て、怒って、呆れて、それでも何か言ってくれるなら。


 その罰を受けることで、まだ親子の続きがあると信じられたのかもしれない。


「読めたんですか」


 ユリスが尋ねる。


 リディアは頷いた。


 言葉を選ぶ。


 エマの時も、セシリアの時もそうだった。

 読めた一文を、そのまま投げるだけではいけない。


 リディアは静かに言った。


「この謝罪文に残っていたのは、『ごめんなさい』ではありませんでした」


 ユリスの顔がこわばる。


「では、何ですか」


「あなたが本当に言いたかったのは」


 リディアは、ゆっくり読み上げた。


「父さんに、もう一度叱ってほしかった。」


 ユリスは瞬きをした。


 一度。

 二度。


 やがて、顔を歪めた。


「……そんな」


 声が震える。


「そんな子どもみたいなこと」


「はい」


 リディアは頷いた。


「子どもみたいな言葉です」


 ユリスが唇を噛む。


 リディアは続けた。


「でも、父親に向ける謝罪が、いつも立派な言葉である必要はないと思います」


 ユリスは顔を伏せた。


「叱ってほしかった」


 その声は、ほとんど息だった。


「そうだ。俺は、父さんに怒ってほしかった。馬鹿野郎って。店を馬鹿にするなって。お前の好きにしろ、でも二度とそんな言い方をするなって」


 封筒を握る手が震える。


「何か、言ってほしかった」


 リディアは黙っていた。


 ユリスの目から、涙がこぼれた。


「でも、父さんは何も言わなかった。最後まで」


 ノアが静かに口を開く。


「ユリス様。この謝罪文は、死者には届きません」


 ユリスは顔を上げた。


 その瞳には、痛みと諦めがあった。


「分かっています」


「ですが、この手紙には、まだ宛先が残っています」


「宛先?」


 ユリスは眉をひそめた。


「父はもう」


「お母様はいらっしゃいますか」


 ユリスの表情が固まった。


「……います」


「お父様が亡くなったあと、話をされましたか」


「母とは」


 ユリスは言葉を詰まらせた。


「必要なことだけです。葬儀のこと、店のこと、相続のこと。母は何も言いませんでした。私も、何も」


 リディアは、便箋の端に目を落とした。


 そこに、かすかな筆圧の跡がある。


 ユリスのものではない。

 もっと細い、年配の人の手。


「この封筒、一度どなたかが開けていますね」


 ユリスが息を呑んだ。


「分かるんですか」


「封蝋が割られて、閉じ直されています。あなたが?」


「いいえ。私は……出せないまま机に入れていました」


 ノアが台帳を見る。


「差出人、ユリス・オルダ。宛先、故ダリオ・オルダ。未配達理由、宛先死亡」


 そこまで読んで、ノアの目が細くなる。


「補足痕があります」


「補足痕?」


「宛先人以外が、書類に触れた痕です」


 リディアは便箋をめくる。


 一番最後の白紙の裏に、薄い文字の跡があった。


 インクではない。

 書こうとして、書かなかった言葉。


 リディアが指を置くと、短い一文が浮かんだ。


 あの人も、あなたを待っていた。


 リディアは顔を上げた。


「これは、お母様の」


 ユリスの顔色が変わる。


「母が、読んだんですか」


「おそらく」


「そんな……」


 ユリスは椅子から立ち上がりかけた。


「どうして何も言わなかったんだ」


 怒りのようなものが声に混じる。


 けれど、すぐに力が抜けた。


「いや……言えるわけないか」


 彼は額に手を当てた。


「俺だって、何も言わなかった」


 リディアはノアを見る。


 ノアは小さく頷いた。


「この案件は、ここだけでは完了しません」


「どういう意味ですか」


 ユリスが尋ねる。


 ノアが答える。


「謝罪文は死者には届きません。ですが、あなたとお母様の間に残っている未受理の言葉があります」


「母と、私の間に」


「はい」


 リディアは、ユリスへ向き直った。


「ユリス様。この手紙を受理する前に、お母様と話す必要があります」


 ユリスは目を逸らした。


「今さら、何を話せば」


「それを決めるために、話すんです」


 リディアの声は、自分でも驚くほど静かだった。


「謝る言葉を整える前に、まだ残っている人と向き合う必要があると思います」


 ユリスは黙り込んだ。


 受付室の時計が、十一時を少し過ぎた時を刻む。


 やがて彼は、小さく言った。


「母は、まだ店にいます」


「店に?」


「父の文具店です。私は継がないと言ったままで、でも母は閉めずにいます。客もほとんど来ないのに」


 ノアが台帳を閉じる。


「では、行きましょう」


 リディアは驚いた。


「今からですか」


「未受理の言葉は、時機を逃すとまた沈みます」


「でも、夜です」


「だからこそ、です」


 当然のように言って、ノアは扉の方へ歩いた。


 リディアはユリスを見た。


「行けますか」


 ユリスは迷った。


 迷って、迷って、最後に頷いた。


「……行きます」


 扉を出ると、そこは旧庁舎の地下階段ではなかった。


 リディアは足を止めた。


 目の前にあったのは、王都の南区にある古い商店街だった。

 雨は小降りになっている。夜の石畳に、硝子灯の光がにじんでいた。


 振り返ると、背後の扉は小さな文具店の裏口になっていた。


「この窓口、どこにでも繋がるんですか」


 リディアが呟くと、ノアが答えた。


「必要な場所へだけです」


「便利ですね」


「便利なものほど、たいてい代償があります」


「それ、さっきも聞きました」


「大切なことなので」


 ユリスは二人のやり取りを聞いている余裕もないようだった。


 彼は店の表へ回る。


 古い看板が雨に濡れている。


 オルダ文具店


 窓の奥に、まだ灯りがともっていた。


 ユリスは扉の前で立ち止まる。


 手を伸ばし、引っ込める。


 また伸ばす。


 その背中を、リディアは黙って見守った。


 代わりに開けることはできない。

 受理官は、依頼人の扉を代わりに開ける人ではない。


 ただ、開けるまでそばにいることはできる。


 ユリスは息を吸い、扉を開けた。


 からん、と古いベルが鳴る。


 店の中は、紙と木とインクの匂いがした。


 棚には便箋、封筒、ペン先、インク瓶、帳簿、包装紙が並んでいる。

 古いが、どれも丁寧に整えられていた。


 奥の帳場に、一人の女性が座っていた。


 白髪の混じった髪を後ろで束ねた、細身の女性。

 彼女は眼鏡を外し、驚いたように立ち上がった。


「ユリス」


 ユリスは、返事をしなかった。


 母親はリディアとノアを見て、不安そうに眉を寄せる。


「お客様……では、なさそうですね」


 ノアが一礼する。


「夜分に失礼いたします。夜間未受理窓口の者です」


 母親の顔が、わずかに変わった。


 知っている顔だった。


「……本当に、あるんですね」


 彼女はそう言った。


 リディアは察した。


 この人も、どこかで未受理窓口の気配に触れていたのだ。


 ユリスが封筒を差し出した。


「母さん。これ、読んだのか」


 母親は封筒を見て、目を伏せた。


「ごめんなさい」


「読んだんだな」


「ええ」


「どうして何も言わなかった」


 ユリスの声が震える。


「父さんに謝りたいって、書いてあっただろ。なのに、どうして」


 母親は、静かに椅子に座り直した。


「あなたが、まだ聞ける顔をしていなかったから」


 ユリスが息を詰める。


「何だよ、それ」


「私も、言える顔をしていなかった」


 母親は封筒を受け取った。


 指先が、紙の端を懐かしむようになぞる。


「あの人はね、あなたが店を出ていったあと、怒ってなんていなかった」


 ユリスの目が揺れる。


「嘘だ」


「本当よ。しばらく黙って、それから棚の奥から古い箱を出してきたの」


「箱?」


「あなたが子どもの頃に折った紙飛行機を入れていた箱」


 ユリスの顔が歪んだ。


 母親は、静かに続けた。


「あの人は、それを見ながら言ったわ。『あいつは、ここより遠くへ行きたいんだろう』って」


「……父さんが?」


「ええ」


「そんなこと」


 ユリスの声が崩れる。


「俺には、一度も」


「あの人は、言葉が下手だったから」


 母親は少し笑った。


 寂しい笑みだった。


「あなたも、よく似ている」


 ユリスは黙った。


 リディアは、店の奥に並ぶ便箋を見た。


 ここにも、言葉にならなかったものがたくさんある。

 父が息子に言えなかったこと。

 息子が父に言えなかったこと。

 母がその間で抱え続けたこと。


 ユリスが、ようやく言った。


「俺は、父さんに、もう一度叱ってほしかった」


 母親の目に涙が浮かぶ。


「そう」


「謝りたかった。けど、本当は……怒ってほしかった。まだ間に合うみたいに。まだ息子でいられるみたいに」


 母親は封筒を胸に抱いた。


「あなたは、ずっと息子よ」


 その一言で、ユリスの顔がくしゃりと崩れた。


「でも、俺は父さんに」


「言えなかったことは、消えないわ」


 母親は言った。


「でも、言えなかったから全部終わり、ではないでしょう」


 ユリスはその場に膝をついた。


 泣き声をこらえるように、両手で顔を覆う。


 母親は帳場から出てきて、彼の前に立った。

 抱きしめるのではなく、ただそっと肩に手を置く。


 それだけだった。


 けれど、その手は、何年も届かなかった場所にようやく届いたように見えた。


 ノアがリディアへ目配せする。


 リディアは頷いた。


 ユリスは涙を拭い、謝罪文を差し出した。


「これを、受理してください」


 リディアは確認する。


「お父様に直接届くわけではありません」


「分かっています」


「過去は変わりません」


「はい」


「最後に言った言葉も、お父様が亡くなったことも、消えません」


「分かっています」


 ユリスは母を見た。


「でも、俺は母さんと、これから話したい。父さんのことも、店のことも、自分がこれからどうしたいのかも」


 母親は頷いた。


「聞かせて」


 リディアは受理印を取り出した。


 夜間未受理窓口から持ってきたはずの印が、いつの間にか彼女の手の中にある。

 やはり、必要な時に現れるのだろうか。


 重い。


 今夜三度目の重さ。

 けれど、少しずつ分かってきた。


 この重さは、過去を変えるための重さではない。

 変えられない過去を、誰かが抱え直すための重さだ。


 リディアは謝罪文の最後の空白に、受理印を押した。


 赤い印が、紙に沈む。


 店の中の硝子灯が、わずかに揺れた。


 棚の奥で、古い箱がひとりでに開く。


 中から、小さな紙飛行機が一つ、ふわりと落ちた。


 ユリスがそれを拾う。


 紙は古く、折り目は黄ばんでいた。

 だが、裏に小さな文字があった。


 父親の字だろう。


 遠くへ行っても、帰ってくる場所くらいは残しておく。


 ユリスは、それを見たまま泣いた。


 声を殺さずに、子どものように泣いた。


 母親も泣いていた。


 リディアは、二人から少し離れて立っていた。


 ノアが隣に来る。


「受理印は、過去を変えない」


 リディアは小さく言った。


「はい」


「でも、過去を見直す場所は作れる」


「その通りです」


 ノアは、珍しくすぐに肯定した。


 リディアは、受理済みとなった謝罪文を見つめた。


 父は戻らない。

 喧嘩の言葉も消えない。

 後悔も、きっと完全には消えない。


 けれど、ユリスと母は、同じ過去を別々に抱え込むのではなく、一緒に持つことができるかもしれない。


 それだけで、時間は少し動く。


 店を出るころには、雨はほとんど止んでいた。


 文具店の裏口を抜けると、そこはまた夜間未受理窓口の受付室だった。


 カウンターの台帳が淡く光っている。


 謝罪文――受理済


 その下に、一文が記されていた。


 父さんに、もう一度叱ってほしかった。


 リディアは、しばらくその文字を見つめていた。


 ノアが台帳を閉じようとした時、ページの隅から一枚の小さな紙片が滑り落ちた。


「これは?」


 リディアが拾い上げる。


 古い申請控えだった。

 紙は薄く、角は欠けている。


 そこには、王宮の印が押されていた。


 そして、かすれた文字でこう記されている。


 救済願控え


 リディアの胸が強く鳴った。


 ノアの表情が、今度こそはっきりと変わった。


「どこから……」


「ユリス様の謝罪文に?」


「いいえ」


 ノアは紙片を見つめたまま、低く言った。


「これは、十年前の王宮文書です」


 リディアは、白紙申請書の一文を思い出す。


 お姉様を、殺さないで。


 救済願。

 王女。

 十年前。


 すべてが、また一つ近づいた気がした。


 紙片の裏に、うっすらと別の文字が浮かぶ。


 王女救済願――控え一部


 受付室の時計が、止まった。


 ノアは、かすれるような声で言った。


「……まだ、残っていたのか」

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