第5話 婚約破棄届は、誰が握りつぶしたのか
謝罪文――宛先死亡により未配達
台帳に浮かんだその一行を見た瞬間、リディアは息を呑んだ。
恋文。
婚約破棄届。
そして、謝罪文。
未受理窓口に届く書類は、どれも静かな顔をしている。
けれど、その奥には、誰かが言えなかった言葉が沈んでいる。
「今夜、続けて扱うのですか」
リディアが尋ねると、ノアは台帳を見つめたまま首を横に振った。
「いいえ。今はまだ、依頼人がこちらへ来ていません」
「でも、台帳には出ています」
「案件の気配が近づいているだけです。正式に受付できるのは、依頼人か、依頼人に相当する書類が窓口に届いてからです」
「依頼人に相当する書類……」
「ええ。出せなかった本人が来られない場合もありますので」
ノアは、開いたページに細い栞を挟んだ。
「ですが、その前に確認すべきものがあります」
「確認?」
「セシリア様の婚約破棄届です」
リディアは顔を上げた。
先ほど受理したばかりの書類。
セシリア・レントが、自分の名前で提出しようとした婚約破棄届。
そこには、彼女の本当の一文が残っていた。
私は、売られるために生まれたのではありません。
リディアは、その言葉を思い出すだけで胸が熱くなった。
「受理は終わったのではないのですか」
「受理そのものは終わりました」
ノアは台帳を数枚戻す。
セシリアの案件ページには、赤い受理印が記録されていた。
だが、その下に残る文字がある。
分類外:EX-04
王都庁舎記録監査局、処理済
「受理によって、止まっていたものは動きました。ですが、なぜ止められていたのかは、まだ残っています」
リディアはその文字を睨むように見た。
「誰が握りつぶしたのか、ということですね」
「はい」
「セシリア様のお父様ではないのですか。届を取り上げたと、本人が言っていました」
「最初に握りつぶしたのは、父親かもしれません」
ノアは静かに言った。
「ですが、未受理として処理したのは別です」
リディアは唇を引き結んだ。
分かっていた。
セシリアの父が屋敷の中で届を取り上げたとしても、王都庁舎の未受理印を押せるはずがない。
記録監査局の処理印を残せるはずがない。
誰かが、庁舎の中で動いたのだ。
「調べる方法はありますか」
「あります」
ノアは、カウンターの奥にある小さな棚から、細長い箱を取り出した。
中には、薄い透明な紙が何枚も収められている。
「処理痕写しです」
「処理痕?」
「書類に押された印や、通過した部署の記録を写し取る紙です。昼の庁舎にも似た道具がありますが、こちらのものは未受理案件に残る痕跡も拾えます」
ノアはその一枚を、セシリアの婚約破棄届の上に重ねた。
透明な紙が、淡く光る。
最初に浮かんだのは、セシリアの署名だった。
次に、レント家の家印。
その横に、別の印影がにじむ。
バルツァー家。
リディアは目を細めた。
「相手方の家印ですか」
「正式な同意印ではありません。照会印です」
「照会?」
「この届が出されたことを、バルツァー家が知った痕跡です」
透明な紙の上で、さらに文字が浮かぶ。
照会先:バルツァー家代理人室
照会理由:家間契約保護
リディアの胸に、嫌なものが沈んだ。
「つまり、セシリア様が届を出そうとした時点で、相手方に知らされた」
「そのようです」
「本人の意思を確認する前に?」
「はい」
リディアは思わず声を強めた。
「おかしいです。婚約破棄届は、提出者本人の意思確認が先です。相手方への照会は、その後のはず」
「その通りです」
「なら、手順が逆です」
「意図的に、逆にされています」
透明な紙の光が強くなる。
次に現れたのは、赤い未受理印だった。
だが、ただの未受理印ではない。
印の下に、小さな処理番号が隠れていた。
EX-04
リディアは息を止めた。
「この番号……」
「分類外処理です」
「通常の未受理ではない」
「はい」
「誰が、この処理を?」
ノアは透明な紙の端を押さえた。
すると、今までぼやけていた処理者欄に文字が浮かび始める。
だが、途中で途切れていた。
処理者:記録監査局 第三保管係
承認者:――――
承認者名だけが、黒く塗りつぶされたように見えない。
「消されていますね」
リディアは言った。
「かなり強い処理です」
「強い処理?」
「通常の改ざんではありません。記録そのものに触れる権限がある者でなければできない」
リディアは、昼間のヴァルターの声を思い出した。
――正式な調査が終わるまで、庁舎への立ち入りを禁じる。
あの冷たい声。
少しも揺れない視線。
整えられた机。
リディアが見つけたのは、おそらくこの書類だった。
セシリアの婚約破棄届が、通常の手順を外れて処理されていることに気づいた。
そして、気づいた者は邪魔になった。
「記録監査局長なら、可能ですか」
リディアは尋ねた。
ノアはすぐには答えなかった。
「可能です」
短い答えだった。
「ヴァルター・グレイス局長が、直接?」
「断定はできません。承認者名が消されています」
「でも、できる」
「はい」
リディアは拳を握った。
手のひらに爪が食い込む。
「なぜ、そこまでして一人の令嬢の婚約破棄届を止めるんですか」
「一人の令嬢の届ではなかったからでしょう」
「どういう意味ですか」
ノアは処理痕写しをめくった。
さらに下の層から、別の書類名が浮かぶ。
家間契約付帯文書
商会権利移管予定書
婚姻成立後、レント家所有商会の管理権をバルツァー家へ移すこと
リディアは、眉をひそめた。
「セシリア様のお母様の商会……」
「ええ」
「婚姻が成立すれば、商会はバルツァー家の管理下に入る予定だった」
「そのようです」
「だから、彼女の破棄届は邪魔だった」
セシリアは言っていた。
母の商会は、母が死ぬ前に自分へ残してくれたものだと。
小さくても、自分の名前で守りたいと思ったものだと。
その商会を奪うために、彼女の婚約は利用されようとしていた。
そして彼女が逃げようとした書類は、未受理にされた。
リディアの中で、怒りがゆっくりと形を持ちはじめる。
「でも、それならバルツァー家が圧力をかけたとしても、記録監査局が従う理由は?」
ノアは黙って、さらに処理痕を映した。
今度は、文字ではなく印章が浮かんだ。
貴族院の印。
その下に、名前が出る。
バルツァー・レント議員補佐室経由
リディアは目を疑った。
「レント……?」
「バルツァー家とレント家の合同代理名義です」
「セシリア様のお父様も関わっていたということですか」
「届を取り上げた時点で、少なくとも関与はしています」
「自分の娘の届を」
リディアの声が低くなった。
「自分の娘が逃げようとした書類を、相手方と一緒に潰した」
「家を守るためだった、という言い方をするでしょうね」
ノアは感情を乗せずに言った。
「商会の権利移管で得られる資金。貴族院への足がかり。家名の維持。そういったものを並べれば、正当化はいくらでもできます」
「正当化できても、正しくはありません」
「はい」
ノアは、珍しくすぐに頷いた。
リディアは透明な紙に浮かぶ印を見つめた。
セシリアの父。
バルツァー家。
貴族院。
そして、記録監査局。
一枚の婚約破棄届を止めるために、いくつもの手が重なっている。
まるで、白い紙の上に、見えない手が何本も伸びてきて、セシリアの署名を押し潰しているようだった。
「この処理痕を、セシリア様に渡せますか」
リディアは言った。
「渡すことはできます」
「なら」
「ですが、注意が必要です」
ノアは透明な紙をそっと外した。
「これを持って昼の庁舎へ行けば、彼女はまた争いの中心に立たされます。父親、婚約者、バルツァー家、記録監査局。すべてを相手にすることになる」
「でも、事実です」
「事実は、人を救うこともありますが、殴ることもあります」
リディアは言葉を詰まらせた。
ノアの言葉は冷たい。
けれど、間違ってはいない。
エマの手紙の時もそうだった。
真実を渡せばいいというものではない。
どう渡すか。
いつ渡すか。
受け取る準備があるか。
それも受理官の仕事だ。
「……では、どうすれば」
「本人の意思を確認します」
「セシリア様の?」
「はい。彼女がこの処理痕を望むかどうか」
「もう帰ってしまいました」
「未受理の書類は、必要なときに道を開きます」
ノアは、淡々とした口調で言った。
その直後、扉の外で足音がした。
リディアは思わずノアを見る。
「……まさか」
「必要なときでしたね」
こん、と扉が鳴る。
ノアが応じる。
「どうぞ」
入ってきたのは、セシリアだった。
外套はすでに雨で濡れている。
彼女は、先ほどよりも顔色を失っていた。
胸には、受理済みとなった婚約破棄届を抱えている。
「セシリア様」
リディアが声をかけると、セシリアは小さく頭を下げた。
「すみません。帰ろうとしたのですが……」
「何かありましたか」
「この書類が」
彼女は婚約破棄届を差し出した。
「外に出た途端、裏に文字が浮かびました」
リディアは受け取る。
裏面には、細い赤文字が浮かんでいた。
処理痕確認未了。提出者本人への告知、未完了。
ノアが頷く。
「やはり、本人への告知が必要な案件でした」
セシリアは不安げにリディアを見た。
「私は、まだ何か受け取らなければならないのですか」
その声は震えていた。
先ほど、自分の一文を受け取り、ようやく少し立てたばかりの人に、さらに重いものを渡す。
リディアの胸が痛んだ。
「セシリア様」
リディアは、ゆっくりと言った。
「あなたの婚約破棄届が未受理にされた経緯を、少し調べました」
セシリアの肩がこわばる。
「父ですか」
最初に出たのは、その言葉だった。
リディアは答えに迷った。
父親は関わっている。
だが、父親だけではない。
セシリアは薄く笑った。
「分かっています。父が、私のために動くはずがありません。家のためなら、私の署名くらい簡単に消すでしょう」
「関わっていた可能性は高いです」
リディアは正直に言った。
「ですが、未受理として処理したのは、屋敷の中だけで完結するものではありませんでした。バルツァー家、貴族院の関係部署、そして記録監査局が関わっています」
セシリアは目を伏せた。
驚いた様子はなかった。
どこかで、分かっていたのかもしれない。
自分一人の声が、なぜこんなに簡単に消されたのか。
その背後に、いくつもの力があることを。
「私の届は」
セシリアは小さく言った。
「そんなに、邪魔だったのですね」
リディアは、すぐには返事ができなかった。
邪魔だった。
その一言は、あまりにも残酷だった。
けれど、事実でもあった。
セシリアの届は、誰かにとって邪魔だった。
彼女が自分の名前で生きようとすることが、誰かの利益を壊すものだった。
「セシリア様」
リディアは処理痕写しを見せた。
「この記録を、受け取りますか」
セシリアは透明な紙を見た。
そこには、家印。照会記録。EX-04。記録監査局の処理印。
そして、黒く塗りつぶされた承認者欄。
彼女の顔が少しずつ青ざめる。
「これを持てば、あなたは争うことができます。自分の届が不当に未受理にされたと訴えることができるかもしれません」
リディアは続けた。
「ですが、その場合、あなたはまた家やバルツァー家と向き合うことになります。噂も広がるでしょう。傷つくこともあると思います」
セシリアは黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて彼女は、処理痕写しから目を離さずに言った。
「私は、さっきまで、もう終わったのだと思っていました」
「はい」
「自分が先に破棄を望んだ。その記録が残った。それだけで十分だと」
彼女は細く息を吸った。
「でも、これを見てしまったら、私だけの問題ではないのですね」
リディアは頷いた。
「おそらく」
「私の届を握りつぶせた人たちは、他の人の届も握りつぶせる」
「はい」
「私が黙っていれば、その人たちはまた同じことをする」
セシリアの手が震えた。
けれど、彼女は逃げなかった。
「怖いです」
その言葉は、正直だった。
「父と争うのも、バルツァー家と争うのも、怖い。私は強い人間ではありません。今日ここへ来るだけでも、何度も引き返そうと思いました」
リディアは静かに聞いていた。
「でも」
セシリアは顔を上げた。
「私の名前で出した届を、誰かに勝手に消されたままにしておきたくありません」
彼女は処理痕写しに手を伸ばす。
「受け取ります」
「よろしいのですか」
「はい」
セシリアは、震える指で透明な紙を掴んだ。
「これは、私が捨てられた令嬢ではなく、自分で逃げようとした人間だった証拠です」
リディアの胸が詰まった。
セシリアは強くなったのではない。
怖いまま、受け取ることを選んだ。
それは、リディアが思っていたよりずっと勇気のいることだった。
ノアが台帳に追記する。
「処理痕写し、提出者本人へ告知完了」
その瞬間、セシリアの婚約破棄届のページが淡く光った。
だが同時に、黒く塗りつぶされていた承認者欄が、一瞬だけゆらめく。
リディアは目を凝らした。
文字が、ほんの少し見えた。
承認者:記録監査局長――
そこまで浮かび、すぐに黒く潰れる。
「今の」
リディアの声がかすれた。
ノアも見ていた。
彼の表情は険しい。
「局長……」
セシリアが呟く。
「記録監査局長が、私の届を?」
リディアの脳裏に、ヴァルターの顔が浮かぶ。
冷たい声。
銀縁の眼鏡。
整えられた机。
――リディア・クラウス。王都庁舎書記官補佐の任を、本日付で解く。
リディアはようやく理解した。
自分は、単に庁舎の不正を見つけたのではない。
記録監査局長自身が関わる未受理処理に触れてしまったのだ。
だから、消された。
セシリアは処理痕写しを胸に抱いた。
「私は、この件をすぐに訴えることはできないかもしれません」
「はい」
「でも、隠しません。母の商会を守るためにも、自分の名前を取り戻すためにも、準備します」
リディアは頷いた。
「必要なら、夜間未受理窓口は記録を保管します」
ノアが横から付け加える。
「ただし、昼の法的手続きでは、あなた自身の証言が必要になります」
「分かっています」
セシリアは、今度こそしっかりとした声で答えた。
「私の届ですから」
その一言に、リディアは静かに胸を打たれた。
私の届。
ただの紙ではない。
誰かの所有物でも、家の道具でも、取引の材料でもない。
セシリア自身の名前で書かれた、セシリア自身の届。
だからこそ、握りつぶされてはいけなかった。
セシリアが帰ったあと、受付室にはしばらく沈黙が残った。
リディアは台帳に浮かぶEX-04を見つめる。
「これは、セシリア様だけの記号ではありませんね」
ノアは答えない。
「私の解雇通知にも、あるかもしれない」
「可能性はあります」
「王女救済願にも?」
ノアの手が止まった。
それが答えだった。
リディアの背筋に冷たいものが走る。
「EX-04は、何を分類しているんですか」
ノアは、長い沈黙のあとで言った。
「権力者にとって、受理されると困る願いです」
その言葉は、受付室の静けさに重く落ちた。
リディアは白紙の申請書が収められた木箱を見る。
十年前の王女救済願。
お姉様を、殺さないで。
あの一文もまた、誰かにとって受理されると困る願いだったのだろうか。
そう思った瞬間、扉の外で風が鳴った。
雨はまだ止んでいない。
ノアが台帳を閉じようとした時、さきほど栞を挟んだページがひとりでに開いた。
謝罪文――宛先死亡により未配達
その下に、新しい文字が浮かぶ。
差出人、来訪予定。
こん、と扉が鳴った。
今度の音は、これまでより弱々しかった。
まるで、叩いた本人が本当に開いてほしいのか分からないような音。
リディアは受理印を見た。
まだ、指には重さが残っている。
それでも、彼女は扉の方へ向き直った。
ノアが静かに言う。
「次の依頼人です」
リディアは小さく息を吸った。
出せなかった書類は、夜に重くなる。
そして今夜もまた、誰かがその重さを抱えてここへ来た。




