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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第4話 恋文ではなく、別れの手紙

 台帳に浮かんだ文字を、リディアはしばらく見つめていた。


 婚約破棄届――未受理


 そして、その下に続く一文。


 王都庁舎記録監査局、処理済。


 記録監査局。


 昼間、リディアを解雇した部署。

 ヴァルター・グレイスが局長を務める、王国の公文書を監査する機関。


 その名が、夜間未受理窓口の台帳に浮かんでいる。


「……どういうことですか」


 リディアは、台帳から目を離せなかった。


「未受理案件に、記録監査局が関わっているんですか」


 ノアはすぐには答えなかった。


 カウンターの上に置かれた受理印を木箱に戻し、エマの案件が記されたページを閉じる。

 その手つきはいつも通り丁寧だったが、沈黙が少し長かった。


「未受理案件のすべてに、というわけではありません」


「では、一部には関わっているんですね」


「その可能性があります」


「可能性」


 リディアは思わず苦く笑った。


「庁舎の人みたいな言い方ですね」


「私は元々、庁舎の人間でしたので」


 あまりにも平然と言われたため、リディアは返す言葉を失った。


「……今、元々と言いましたか」


「はい」


「それは、どういう」


 問いかけようとしたところで、ノアが静かに片手を上げた。


「その話は、今夜のうちに扱うには重すぎます」


「またそれですか」


「今のあなたは、最初の案件を受理したばかりです」


 ノアの視線が、先ほど閉じた台帳へ落ちる。


「受理した直後の受理官は、思っている以上に消耗しています。書類に残った感情に触れるということは、自分の心の一部を貸すことでもありますから」


「私は、大丈夫です」


 言ってから、リディアは自分の声が少しかすれていることに気づいた。


 エマの涙。

 カイルの未完成の手紙。

 空白に浮かんだ「君を自由にしたい」という一文。


 受理印を押したときの、指に残る重さ。


 それらが、まだ体のどこかに残っている。


 ノアは小さく頷いた。


「大丈夫だと言える方ほど、大丈夫ではないことが多いです」


「嫌な言い方ですね」


「よく言われます」


 リディアは、深く息を吐いた。


 反論する気力が少し抜ける。

 たしかに、足元がふわふわしていた。


 自分は正しいことをしたのだろうか。

 エマは本当に救われたのだろうか。

 あの一文を伝えたことで、彼女をさらに傷つけただけではなかったのか。


 けれど、最後にエマは言った。


 ――明日は、部屋の窓を開けます。


 あれは、きっと嘘ではなかった。


「受理とは」


 リディアは、カウンターに置かれた木箱を見つめながら言った。


「願いを叶えることではないんですね」


「はい」


 ノアは即座に答えた。


「では、何なんですか」


「未受理のまま止まっていたものに、正式な場所を与えることです」


「場所」


「言葉にできなかった想いを、なかったことにしない。誰にも届かなかった一文を、世界のどこかに記録する。それによって、止まっていた時間が動き出す場合があります」


「動き出さない場合も?」


「あります」


 ノアの答えは、いつも少しも甘くない。


「受理しても、依頼人がその一文を受け取れない場合もあります。逆に、受理したことで痛みが増す場合もある」


「それでも受理するんですか」


「依頼人が望み、受理官が必要だと判断すれば」


「難しいですね」


「はい」


 ノアは、ようやく少しだけ目を伏せた。


「だから、迷ってください。迷わない受理官が、一番危険です」


 リディアは、その言葉を胸の奥で繰り返した。


 迷ってください。


 昼の庁舎では、迷いは欠点だった。

 処理は早く、判断は明確に、書類は滞りなく。


 迷っていると、上司に叱られた。

 窓口で待つ者にため息をつかれた。

 同僚に余計な仕事を増やすなと笑われた。


 けれど、ここでは迷えと言われる。


 不思議な場所だ。

 そして、危うい場所でもある。


 リディアはもう一度、台帳に開かれた新しいページを見た。


 婚約破棄届――未受理。


「この案件は、今すぐ扱うんですか」


「依頼人が来れば」


「来なければ?」


「こちらから探すこともあります」


「依頼人が望んでいないかもしれないのに?」


「未受理案件が台帳に浮かぶ時点で、誰かの願いがまだ残っています」


 ノアはそう言って、ページの余白を指さした。


 そこには、細い文字が少しずつ浮かび上がっていた。


 提出者本人の意思確認、未完了。


 リディアは眉を寄せる。


「本人の意思確認……」


「婚約破棄届は、双方の家や代理人が関わることも多い書類です。ですが、本来もっとも重要なのは、当人の意思です」


「それが確認されないまま処理された」


「そのようです」


 リディアの胸に、昼間見つけた書類の記憶がよみがえる。


 保管済みのはずなのに、地下保管庫へ送られていた婚約関連書類。

 番号が飛んだ台帳。

 角度のずれた決裁印。

 そして、その不自然さを報告した直後に与えられた解雇通知。


 もしかすると、自分が見つけた不正は、この案件につながっているのかもしれない。


 そう思った瞬間、カウンターの端に置かれた呼び鈴が、ひとりでに鳴った。


 ちりん。


 小さな音だった。

 それでも、受付室の空気が変わる。


 ノアが扉へ目を向けた。


「来ましたね」


 リディアは背筋を伸ばした。


「次の依頼人ですか」


「おそらく」


 扉の向こうで、足音が止まった。


 すぐには叩かれない。


 ためらっているのが分かる。


 リディアは、先ほどのエマを思い出した。

 出せなかった書類は、たいてい夜に重くなる。

 ノアの言葉が、今は少し分かる気がした。


 こん、と扉が鳴る。


 ノアが応じた。


「どうぞ」


 扉が開いた。


 現れたのは、若い令嬢だった。


 リディアは一目で、彼女が貴族階級の人間だと分かった。

 深緑の外套は控えめだが、仕立てがいい。手袋の縁には細い刺繍。雨に濡れた靴でさえ、庶民のものとは革の質が違う。


 だが、その顔色はひどく悪かった。


 薄い金髪は整えられているのに、目の下には疲れがある。

 背筋はまっすぐ伸びているが、それは気丈さというより、倒れないために自分を支えているように見えた。


 令嬢は部屋に入るなり、深く頭を下げた。


「こちらで、未受理の書類を扱っていただけると聞きました」


 声は澄んでいた。

 けれど、奥にかすかな震えがある。


 ノアがいつもの調子で応じる。


「夜間未受理窓口です。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「セシリア・レントと申します」


 レント。


 リディアは、その姓に覚えがあった。


 王都の西区に屋敷を持つ中級貴族。

 古い家柄ではないが、近年商会とのつながりで力を伸ばしている。


 そして、たしか最近、社交界で噂になっていた。


 婚約破棄された令嬢。

 家の面目を潰された哀れな娘。

 相手の貴公子に捨てられた、運のない女性。


 リディアの同僚たちも、昼休みに噂していた。


 ――可哀想に。

 ――でも、あちらの家にも事情があったらしいわ。

 ――破棄された方にも、何か問題があったんじゃない?


 リディアはその時、書類を整理しながら黙っていた。

 人の人生を、見てもいない者たちが数口で片づけていく声が、あまり好きではなかった。


 目の前のセシリアは、その噂の令嬢なのだろうか。


 ノアが尋ねる。


「本日のご相談は」


 セシリアは外套の内側から、一枚の折りたたまれた書類を取り出した。


 その紙は、丁寧に保管されていたわけではなかった。

 何度も握りしめられた跡があり、折り目は白く擦れている。


 それでも、破れてはいない。

 捨てることもできず、隠し続けることもできず、何度も取り出された紙。


「婚約破棄届です」


 リディアの胸が、かすかに鳴った。


 台帳に浮かんだ案件名と同じだ。


 セシリアは続けた。


「世間では、私は婚約者に捨てられた令嬢ということになっています」


 唇に薄い笑みが浮かぶ。


 自嘲の笑みだった。


「ですが、違います」


 彼女は書類をカウンターに置いた。


「最初に破棄届を出そうとしたのは、私です」


 リディアは、反射的にその書類を見た。


 婚約破棄届。

 正式な様式。

 必要事項はすべて埋まっている。


 提出者欄には、セシリア・レントの署名。

 相手方には、ローレン・バルツァー。


 リディアはその名にも覚えがあった。

 バルツァー家。貴族院に席を持つ有力家門の一つだ。


「あなたが、ご自分で破棄を望んだのですか」


 リディアが尋ねると、セシリアは頷いた。


「はい」


 その返事には迷いがなかった。


「ローレン様は、外では穏やかな方として知られています。ですが、婚約が決まってから、私には違いました」


 セシリアの手袋をはめた指が、わずかに強く握られる。


「私の服装、交友関係、読む本、屋敷での振る舞い。すべてに口を出されました。少しでも意見を言えば、レント家はバルツァー家に拾われた立場だと笑われました」


 リディアは黙って聞いた。


「父は、我慢しろと言いました。結婚すれば慣れる。女は家のために嫁ぐものだと」


 セシリアは視線を落とす。


「でも、ある日、彼が私に言ったんです。結婚後は母から受け継いだ小さな商会の権利も、すべてバルツァー家の管理下に置くと。私には、家計の帳簿を見る必要もないと」


「それで、破棄届を」


「はい。母の商会は、母が死ぬ前に私へ残してくれたものです。小さくても、私が初めて自分の名前で守りたいと思ったものでした」


 セシリアは、婚約破棄届に触れた。


「私は、これを提出するつもりでした。ですが父に見つかり、取り上げられました。説得され、叱責され、最後には部屋に閉じ込められました」


「では、この書類は」


「屋敷の使用人が、こっそり返してくれました。ただし、その時にはすでに未受理印が押されていました」


 ノアが静かに書類を引き寄せる。


 リディアも横から覗き込んだ。


 受付欄には、赤い未受理印。

 そして、その下に小さく処理印がある。


 王都庁舎記録監査局。


 リディアの喉が、きゅっと締まった。


 印影の角度。

 線の掠れ。

 文字の押し込み。


 見覚えがある。


 彼女が昼間、帳簿の中で見つけた不自然な印と同じだった。


「理由は、記されていませんね」


 リディアは言った。


「そうなんです」


 セシリアが顔を上げる。


「不備なら直します。添付書類が足りないなら揃えます。でも、何が足りなかったのか、誰も教えてくれませんでした。父は、これで済んだのだから大人しくしていろと」


「その後、婚約はどうなったのですか」


「ローレン様の方から、破棄されました」


 セシリアは静かに言った。


「私が従順でないこと。商会の権利を渡す意思がないこと。それが、あちらの家には不都合だったのでしょう。けれど世間には、彼が私を見限ったことになっています」


 リディアの胸に、鈍い怒りが灯った。


 自分が選ぼうとしたことが消される。

 そのうえで、他人に捨てられた物語に書き換えられる。


 セシリアは顔を上げた。


「私は、名誉を回復したいわけではありません」


「違うのですか」


「噂は、いずれ薄れます。傷は残るでしょうが、それでも生きてはいける」


「では、なぜここへ」


 セシリアは、書類の上に手を置いた。


「私は、私が先に逃げようとしたことを、なかったことにされたくないのです」


 リディアは息を止めた。


「私は捨てられたのではありません。あの家に売られる前に、自分で扉を開けようとした。たとえ誰にも認められなくても、その事実だけは、私の中に残したい」


 ノアがリディアを見る。


「臨時受理官」


 リディアは頷いた。


 今度は、彼に手順を促される前に、セシリアへ向き直る。


「セシリア様。この届に残された未受理の一文を読み取ることはできます。ただし、出てくる言葉が、あなたの予想と違う可能性もあります」


「構いません」


 セシリアは即答した。


「私は、もう自分の言葉から逃げたくありません」


 リディアは、婚約破棄届に指を置いた。


 紙は冷たかった。


 触れた瞬間、ざわりと胸が波立つ。


 豪奢な応接間。

 父親の怒鳴り声。

 閉ざされた扉。

 鍵の音。

 窓の外に見える雨。


 そして、若い令嬢が机に向かっている。


 泣いてはいない。

 唇を強く噛みしめ、震える手でペンを握っている。


 これは、セシリアの記憶だ。


 彼女は婚約破棄届を書いている。

 一文字ずつ、間違えないように。

 自分の名前を、自分の手で。


 その胸にあるのは、怒りだけではなかった。


 怖い。

 恥ずかしい。

 親を失望させたくない。

 家を壊したくない。

 けれど、これ以上、自分を差し出したくない。


 紙の余白に、文字が浮かび上がる。


 私は、売られるために生まれたのではありません。


 リディアは、ゆっくりと息を吐いた。


 その一文は、静かな怒りだった。

 叫びではない。泣き言でもない。


 ただ、自分の人生に境界線を引くための言葉だった。


「読めましたか」


 セシリアが尋ねる。


「はい」


 リディアは、彼女の目を見た。


「この届に残された一文は、こうです」


 セシリアの喉が動く。


 リディアは読み上げた。


「私は、売られるために生まれたのではありません。」


 セシリアの目に、涙が浮かんだ。


 だが、泣き崩れはしなかった。


 彼女は目を閉じ、長く息を吸い込む。


「……はい」


 小さな声だった。


「私は、それが言いたかった」


 彼女の肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。


 それを見て、リディアは胸の奥が熱くなった。


 エマの案件とは違う。

 これは、誰かを手放す一文ではない。


 自分自身を取り戻す一文だ。


 ノアが受理印を取り出した。


「受理しますか」


 リディアはすぐには頷かなかった。


 婚約破棄届。

 相手は有力貴族バルツァー家。

 処理には記録監査局が関わっている。


 これを受理すれば、ただセシリアの心が軽くなるだけでは済まないかもしれない。

 実際の婚約記録、家同士の契約、商会の権利。そういったものに影響が及ぶ可能性がある。


 リディアはノアの言葉を思い出す。


 迷ってください。

 迷わない受理官が、一番危険です。


「セシリア様」


 リディアは言った。


「この届を受理すれば、過去は変わりません。あなたが閉じ込められたことも、先に提出しようとした事実が消されたことも、世間で噂されたことも、なくなりません」


「はい」


「ですが、あなたが自分の意思で婚約破棄を望んだという事実は、正式な場所を持つことになります。その結果、レント家やバルツァー家との関係に影響が出る可能性があります」


「分かっています」


「本当に、よろしいですか」


 セシリアは、まっすぐに頷いた。


「私は、私の名前で、この届を出します」


 その声には、もう震えがなかった。


 リディアは受理印を手に取った。


 重い。


 やはり、重い。


 エマの手紙とは違う重さだった。

 誰かの記憶をほどく重さではなく、現実の扉を開ける重さ。


 ノアが台帳を開く。


「未受理案件、婚約破棄届。提出者、セシリア・レント。相手方、ローレン・バルツァー。提出者本人の意思確認、完了」


 リディアは、婚約破棄届の余白に受理印を押した。


 赤い印が紙に沈む。


 その瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。


 セシリアの婚約破棄届から、細い光の線が伸びる。

 それは台帳の上を走り、壁の書架へ、さらにどこか遠くへと消えていった。


「何が……」


 リディアが呟くと、ノアが答えた。


「関連記録へ反映されています」


「関連記録?」


「婚約記録、家間契約、財産権付帯文書。受理された届出に紐づく書類です」


 セシリアが小さく息を呑んだ。


「では」


「少なくとも、あなたが一方的に捨てられたという記録だけではなくなります」


 ノアは言った。


「あなたが、自ら破棄を望んだ記録が残ります」


 セシリアの瞳から、涙が落ちた。


 彼女は泣きながら、それでも背筋を伸ばしていた。


「ありがとうございます」


 リディアは首を横に振る。


「私は、書類を受け取っただけです」


「それでも」


 セシリアは、受理済みとなった届出を胸に抱いた。


「誰かに受け取ってもらえたのは、初めてでした」


 その言葉は、リディアの胸に深く刺さった。


 誰かに受け取ってもらえた。


 それだけで、人は泣くことがある。


 セシリアが扉へ向かう。


 その背中は、入ってきた時よりも少しだけ軽く見えた。


 扉の前で、彼女は振り返る。


「リディア様」


「はい」


「あなたも、何かを未受理にされた方なのですね」


 思いがけない言葉に、リディアは固まった。


 セシリアは静かに微笑む。


「書類に触れた時の顔が、私と同じでした」


 それだけ言って、彼女は夜の向こうへ出ていった。


 扉が閉まる。


 受付室に、再び静けさが戻った。


 リディアは、しばらくその場に立っていた。


 自分も、何かを未受理にされた。


 そうだ。


 リディアの解雇通知にも、本来あるべき一文がなかった。

 自分が告発者であるという事実が、どこかで抜き取られていた。


 ノアが台帳を閉じようとした、そのときだった。


 受理済みとなった婚約破棄届の処理欄に、別の文字が浮かび上がった。


 小さな、見慣れない分類記号。


 分類外:EX-04


「ノアさん」


 リディアは、その文字を指さした。


「これは、何ですか」


 ノアの表情が、初めてはっきりと硬くなった。


「……分類外処理番号です」


「分類外?」


「通常の未受理では扱えない案件に付けられることがあります」


「どんな案件ですか」


 ノアは答えなかった。


 リディアは問いを重ねる。


「この記号、私の解雇通知にもあるかもしれませんか」


 ノアは、ようやく彼女を見る。


 その沈黙だけで、答えは十分だった。


 リディアの胸が冷えていく。


「私が庁舎で見つけた婚約関連書類は、セシリア様の届だったんですね」


「可能性は高いです」


「それを報告したから、私は解雇された」


「……可能性は高いです」


 リディアは拳を握った。


 エマの恋文は、別れの手紙だった。

 セシリアの婚約破棄届は、自分を取り戻すための書類だった。


 どちらも、表に見えていたものとは違っていた。


 恋文だと思われたものが、自由を願う別れだったように。

 捨てられた令嬢の書類が、本当は自分で逃げようとした証だったように。


 書類は、見た目通りとは限らない。


 そして、自分の解雇通知も。


 リディアはノアを見る。


「私の解雇通知を、調べられますか」


 ノアはわずかに目を細めた。


「今すぐには、お勧めしません」


「どうして」


「自分自身の未受理は、他人の案件よりも深く刺さります」


「それでも、知らないままではいられません」


 リディアの声は震えていなかった。


「私は、私が何を消されたのか知りたい」


 ノアはしばらく黙っていた。


 やがて、静かに言う。


「では、覚えておいてください」


「何をですか」


「受理印は、過去を変えません」


 ノアは、受理印の入った木箱に手を置いた。


「あなたが失った職も、今日受けた屈辱も、消えません。ですが、あなたが何者として消されたのかは、いずれ読めるかもしれません」


 リディアは胸元に手をやった。


 そこには、雨に濡れた解雇通知が入っている。


 紙は冷たい。

 けれど、その奥に何かが残っている気がした。


 あるべき一文。

 抜き取られた事実。

 未受理にされた、自分自身の名前。


 そのとき、壁の時計が十時を告げた。


 鐘の音が一つ、二つ、静かに響く。


 台帳のページが、またひとりでにめくれた。


 ノアが眉を寄せる。


「今夜は、ずいぶん続きますね」


 新しいページには、まだ文字が完全には浮かんでいない。


 ただ、最初の一行だけが読めた。


 謝罪文――宛先死亡により未配達


 リディアは、胸の奥がざわつくのを感じた。


 死者に届かなかった謝罪文。


 ノアが低く言う。


「次は、少し難しい案件になりそうです」


 リディアは、受理印の木箱を見た。


 重さは、まだ指に残っている。


 それでも彼女は、目を逸らさなかった。

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