第3話 最初の依頼は、渡せなかった恋文だった
お姉様を、殺さないで。
白紙の申請書に浮かんだその一文は、瞬きをしても消えなかった。
リディアは、指先が冷えていくのを感じた。
十年前。
王女。
救済願。
未受理。
頭の中で、それぞれの言葉がばらばらに転がる。けれど、どれも一つに結びつけてはいけないもののように思えた。
王国の第一王女アレリアは、十年前に病で亡くなった。
それは誰もが知っている事実だ。
王都の子どもでさえ知っている。
冬の流行病に倒れ、若くして亡くなった優しい王女。民を思い、孤児院へ寄付をし、病人の見舞いにも足を運んだという、美しい思い出の中の人。
その王女についての書類に、
殺さないで。
そんな一文が残っている。
「……これは」
リディアは、かすれた声で言った。
「本当に、王女様のことなんですか」
ノアは、落ちた台帳を拾い上げた。
その表情はいつも通り静かだった。
けれど、指先だけがわずかに強張っている。
「現時点では、断定できません」
「でも、台帳には王女救済願と」
「古い記録です。欠落も多い。未受理案件は、正式な保管手順に従っていないものがほとんどです」
「逃げていますね」
自分でも驚くほど、まっすぐな言葉が出た。
ノアはリディアを見た。
黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、痛みのようなものが揺れた。
「……はい」
認めるのか。
リディアは息を呑んだ。
「この案件は、今のあなたが触れるには重すぎます」
「私が拾った書類です」
「未受理案件は、必要な受理官のもとへ来ると申し上げました」
「なら、私に必要だから来たのでは」
「必要と、今すぐ受け止められることは違います」
ノアは台帳を閉じた。
その音は小さかったのに、部屋の空気を切るように響いた。
「リディア様。あなたは今日、職を失ったばかりです。ここへ来て、まだ一件も受理していません。受理印の重さも、未受理案件の終わらせ方も知らない」
「だから、王女様の書類は扱えないと?」
「今は、です」
ノアは白紙の申請書を、丁寧に木箱の上へ移した。
紙に浮かんだ文字は、やがて薄くなり、何もなかったように消えていく。
だが、消えたわけではない。
リディアには分かった。
あの一文は、紙の奥へ沈んだだけだ。
「まずは、通常案件を一つ扱っていただきます」
「通常案件……」
「未受理窓口の仕事を知るためです」
「練習のように言わないでください」
「練習ではありません。どの案件にも、誰かの人生が残っています」
その言葉に、リディアは黙った。
ノアはカウンターの上を整え、古い呼び鈴を一つ置いた。
真鍮製の小さな鈴。細かな傷がついているが、手入れされている。
「夜間未受理窓口は、必要な人にしか見えません」
「では、依頼人が来るんですか」
「ええ」
「こんな夜に」
「出せなかった書類は、たいてい夜に重くなります」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、扉の外で小さな音がした。
こん、と。
誰かが迷いながら、扉を叩く音。
リディアの背筋が伸びる。
ノアが静かに言った。
「最初の依頼人です」
扉が開いた。
入ってきたのは、若い女性だった。
年はリディアと同じくらいか、少し上。淡い栗色の髪を後ろでまとめ、質素だが丁寧に繕われた外套を着ている。裾は雨に濡れ、靴には泥がついていた。
彼女は、部屋に入ってすぐ、怯えたように周囲を見回した。
「あの……ここは」
「夜間未受理窓口です」
ノアが答える。
「出せなかった書類、言えなかった願いを受け付けています」
女性は唇を震わせた。
「本当に……あったんですね」
リディアは、彼女の両手に目を留めた。
女性は一通の封筒を握っていた。
何度も開け閉めされたのだろう。封の部分は擦り切れ、角は丸まり、紙は少し波打っている。
ただ、大切にされてきたものだと分かった。
捨てられず、しまい込まれ、また取り出され、胸に押し当てられてきた紙。
ノアが促す。
「お名前を伺っても?」
「エマ・リーベルと申します」
「本日のご相談は」
エマは封筒を見下ろした。
何かを言おうとして、言葉が喉につかえたように黙る。
リディアは、カウンターの向こうからそっと言った。
「急がなくて大丈夫です」
エマが顔を上げる。
その目は赤かった。
泣いてきたのかもしれない。あるいは、泣けない夜を何度も越えてきたのかもしれない。
「これは、婚約者からの手紙です」
彼女は封筒を差し出した。
「三年前に、亡くなりました」
リディアは思わず息を止めた。
エマは続ける。
「事故でした。王都の外れの橋が崩れて、馬車が川へ落ちて……彼だけが、帰ってきませんでした」
言い慣れた説明なのだろう。
言葉は整っていた。
けれど、整いすぎていた。
何度も同じ話をして、何度も同じところで心を止めてきた人の声だった。
「その手紙は、事故のあとに見つかったのですか」
リディアが尋ねると、エマは頷いた。
「彼の部屋の机の引き出しに。私宛てでした。でも、最後の一文だけが書かれていなかったんです」
エマは封筒から便箋を取り出した。
古い便箋。
薄い青い罫線。
丁寧な文字。
リディアは、差し出された便箋を受け取った。
最初の数行には、日常のことが書かれていた。
次の休みに市場へ行こう。
君が欲しがっていた青いリボンを見つけた。
冬になる前に、部屋の窓を直しておく。
来年の春には、もう少し広い家を探そう。
なんでもない未来の話。
それが、かえって胸を締めつける。
そして最後の行。
エマ、君にどうしても伝えたいことがある。
そこで文章は途切れていた。
その下に、広い空白がある。
エマはその空白を見つめた。
「私は、ずっと考えていました。彼は最後に何を書こうとしていたのか」
指先が震えている。
「愛している、だったのか。待っていてほしい、だったのか。忘れないで、だったのか。……でも、分からなくて」
「それを知りたいのですね」
「はい」
エマは小さく頷いた。
「知ることができれば、私は、まだ彼を待っていていいのかもしれないと思ったんです」
リディアは言葉を返せなかった。
待っていていいのか。
その言葉は、あまりにも重かった。
ノアが静かに確認する。
「エマ様。この手紙の未受理部分を正式に読み取る場合、あなたが望む言葉とは違う一文が現れる可能性があります」
エマの顔がこわばる。
「違う……?」
「未受理窓口が扱うのは、書かれてほしかった言葉ではありません。本当に書かれるはずだった言葉です」
「それでも」
エマは便箋を見つめたまま言った。
「それでも、知りたいです」
ノアはリディアを見た。
「臨時受理官。手順を」
リディアは背筋を伸ばした。
「手順と言われても」
「書類に触れ、浮かぶ一文を読む。ただし、すぐに口にしないこと」
「なぜですか」
「読めた言葉を、依頼人にどう渡すかも受理官の仕事です」
リディアは便箋に目を落とした。
この空白に、エマは三年間縛られている。
その一文を知りたいと願っている。
けれど、ノアの言う通りなら、浮かぶ言葉はエマが望むものとは限らない。
リディアは、便箋の空白に指を置いた。
紙は乾いている。
だが、触れた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹いたような気がした。
――春になったら、広い家を探そう。
そんな文字の奥で、別の感情が揺れる。
息苦しさ。
焦り。
諦め。
愛しさ。
そして、痛いほどの優しさ。
目の前の部屋が遠のき、別の光景が浮かぶ。
小さな机。
灯りの下で震える手。
便箋の上に落ちる影。
咳を押し殺す青年。
カイル。
エマが亡くなった婚約者の名を呼ぶ声が、記憶の中で聞こえた気がした。
青年は何度もペンを持ち直している。
書こうとして、止まる。
消す。
また書こうとする。
その胸の奥には、エマへの愛情が確かにあった。
だが、それだけではない。
恐れがある。
自分がいなくなったあと、彼女の人生を縛ってしまうことへの恐れ。
リディアの指先に、かすかな熱が集まる。
空白に、文字が浮かんだ。
君を自由にしたい。
リディアは息を止めた。
エマは気づかず、祈るように両手を握っている。
「見えたんですか?」
その声は、期待に震えていた。
リディアは便箋から指を離した。
消えたはずの文字が、まだ目の裏に残っている。
君を自由にしたい。
それは、愛の言葉だった。
間違いなく、愛の言葉だった。
けれど、エマが待っていた言葉ではない。
愛している。
忘れないで。
僕を待っていて。
そういう言葉を、彼女は三年間探していたのだろう。
それなのに、空白に残されていたのは、彼女を自分から解き放とうとする一文だった。
「リディア様」
ノアの声がした。
リディアは、彼の方を見た。
ノアは何も言わない。
ただ、静かに待っている。
読めた言葉を、依頼人にどう渡すかも受理官の仕事。
そう言われたばかりだ。
エマが一歩近づく。
「彼は、何て……?」
リディアは便箋を握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。
書類を傷めてはいけない。
けれど、目の前の人も傷つけてはいけない。
その二つが、今は同じではなかった。
「エマさん」
リディアは、ゆっくりと言った。
「この手紙は、あなたをとても大切に思って書かれたものです」
エマの目に、涙が浮かぶ。
「では、やっぱり」
「ですが」
その一言で、エマの表情が凍った。
リディアの喉が痛む。
「最後の一文は、あなたが待っていた言葉とは違うかもしれません」
「違う……」
「はい」
「愛している、ではないのですか」
まっすぐな問いだった。
リディアは答えられなかった。
愛していなかったわけではない。
むしろ、愛していたからこその一文だ。
けれど、ここでそう説明しても、ただの慰めに聞こえる。
エマは震える声で言った。
「私は、三年間、あの人の最後の言葉を待っていたんです」
「はい」
「彼が私を待っていてほしいと言ってくれたら、私はこのままでよかった。誰に何を言われても、私は間違っていないと思えた」
リディアは、エマの指に目を落とした。
薬指には、古びた指輪があった。
銀色の細い指輪。
小さな青い石がはめ込まれている。
石は淡く光っていた。
ノアがそれに気づき、わずかに目を細める。
「追憶魔法ですね」
エマは指輪を隠すように手を握った。
「彼がくれたものです。忘れないように、と」
「それは、記憶を留める魔法ですか」
リディアが尋ねると、エマは頷いた。
「声を、少しだけ。眠る前に、聞こえるんです。彼が私を呼ぶ声が」
リディアは胸が痛くなった。
思い出は、救いにもなる。
けれど、鎖にもなる。
エマはその指輪を三年間つけ続け、未完成の手紙を何度も読み、空白の一文を待っていた。
彼女の時間は、あの日から動いていない。
リディアは便箋をもう一度見た。
君を自由にしたい。
これは、冷たい言葉ではない。
カイルが残した、最後の優しさだ。
だが、その優しさは、受け取る側に痛みを伴う。
「……今日は」
リディアは言いかけた。
今日は、ここまでにしてもいいのではないか。
準備ができてから、伝えればいいのではないか。
けれど、エマは首を横に振った。
「言ってください」
涙が頬を伝う。
「ここまで来たんです。知らないまま帰ったら、私はまた三年、同じ空白を見ることになります」
その言葉に、リディアは背筋を伸ばした。
そうだ。
受理官は、依頼人の代わりに決める人ではない。
依頼人が受け取ろうとしているなら、逃げてはいけない。
リディアは便箋を両手で持ち、エマを見る。
「最後の一文は」
声が震えないように、ゆっくり息を吸った。
「こうです」
エマは目を閉じなかった。
まっすぐに、リディアを見ていた。
「君を自由にしたい。」
硝子灯の光が、わずかに揺れた。
エマの表情から、色が消える。
唇が開く。
けれど、言葉は出なかった。
しばらくして、彼女は小さく笑った。
笑ったというより、壊れかけた息がそう聞こえただけだった。
「……自由に」
指輪をはめた手が震える。
「そんなの、ずるい」
リディアは何も言えなかった。
「そんな言葉を残されたら、私は……待っていられないじゃないですか」
エマの声が崩れた。
「私は、待っていたかったのに」
便箋の上に、涙が落ちる。
リディアは慌てて手を出しかけたが、ノアが小さく首を振った。
止めるな、ということだろう。
今、エマが泣くことも、きっとこの書類の続きなのだ。
エマは両手で顔を覆った。
「愛していなかったんですか」
「違います」
リディアは即座に言った。
それだけは、はっきり言えた。
「違います。あの方は、あなたを愛していました」
「なら、どうして」
「あなたを、自分の死で閉じ込めたくなかったんだと思います」
エマの肩が震える。
「彼は、自分がいなくなったあとも、あなたに生きてほしかった。待ち続けることではなく、あなた自身の時間を進めてほしかった」
「そんなの……」
エマは指輪を握りしめた。
「そんなの、勝手です」
「はい」
リディアは頷いた。
「勝手だと思います。残される側の痛みを、全部分かっていたわけではないと思います」
ノアが少しだけリディアを見た。
リディアは続けた。
「でも、空白に残っていたのは、あなたを手放すための冷たさではありませんでした。あなたを縛りたくないという、必死な願いでした」
エマは泣きながら、便箋を見つめた。
長い沈黙が落ちる。
時計の針は、また動き始めていた。
かち、かち、と静かな音が部屋に戻る。
やがて、エマは小さく言った。
「私は……どうしたらいいんですか」
リディアはすぐには答えなかった。
どうしたらいいか。
それを決めるのは、受理官ではない。
「それは、エマさんが決めることです」
リディアは言った。
「この一文は、命令ではありません。あなたが彼を忘れなければならないという書類でもありません。ただ、彼が最後にそう願ったという記録です」
「記録……」
「はい。受け取るかどうかも、これからどう生きるかも、あなたが決めていいんです」
エマは、濡れた睫毛を伏せた。
「決めて、いい」
その言葉を、初めて聞いたように繰り返す。
やがて彼女は、薬指の指輪に触れた。
「この指輪を外したら、彼の声が聞こえなくなります」
「はい」
「忘れてしまうでしょうか」
「分かりません」
リディアは正直に答えた。
「でも、声が聞こえなくなることと、忘れることは、同じではないと思います」
エマの涙が、また落ちた。
けれど今度の涙は、さきほどとは少し違って見えた。
崩れるための涙ではなく、何かをほどくための涙。
ノアが、赤い受理印をリディアの前に置いた。
「この案件を受理しますか」
リディアはエマを見た。
「エマさん。受理しても、過去は変わりません。カイルさんは戻りません。あなたが過ごした三年も、消えません」
エマは頷いた。
「はい」
「それでも、この一文を正式に受け取りますか」
エマは、震える指で便箋に触れた。
そして、長い時間をかけて頷いた。
「受け取ります」
リディアは受理印を手に取った。
思っていたより重い。
ただの印鑑なのに、誰かの時間の上に押すものだと思うと、指が震えた。
ノアの声が静かに響く。
「未受理案件番号なし。差出人、故カイル・ベル。受取人、エマ・リーベル。未完了の私信一通」
リディアは、便箋の空白の下に受理印を押した。
赤い印が、紙に沈む。
その瞬間、エマの指輪の青い石が淡く光った。
部屋の中に、誰かの声がかすかに響いた。
――エマ。
エマが息を呑む。
それは、一度だけだった。
優しい、若い男の声。
呼びかけるだけの、短い声。
だが、その声は別れを惜しむように少し揺れ、やがて夜の奥へ溶けた。
指輪の光が消える。
エマは指輪を見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女は指輪を外した。
外した指輪を捨てはしなかった。
両手で包み、胸元に押し当てる。
「……忘れません」
エマは涙の残る顔で言った。
「でも、明日は、部屋の窓を開けます」
リディアの胸が詰まった。
それは、とても小さな一歩だった。
けれど、三年止まっていた人にとっては、きっと大きすぎるほどの一歩だった。
エマは何度も頭を下げ、手紙と指輪を大切に抱えて帰っていった。
扉が閉まる。
受付室に、静けさが戻った。
リディアは受理印を置いたあと、力が抜けたように椅子に座り込んだ。
「……これが、受理」
「はい」
ノアは台帳に記録をつけている。
「私は、正しかったんでしょうか」
「分かりません」
あまりにも即答だったので、リディアは顔を上げた。
ノアは平然としている。
「そこは、慰めるところでは?」
「受理官の仕事に、完全な正解はありません」
「……厳しいですね」
「ですが、あなたは逃げませんでした」
ノアは台帳を閉じた。
「最初の受理としては、十分です」
十分。
その言葉が褒め言葉なのか、ただの評価なのか、リディアには分からなかった。
けれど、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなった。
カウンターの上で、受理済みとなった台帳の一ページが淡く光る。
そこには、エマの案件名が記されていた。
未完了の私信――受理済
その下に、小さな文字が浮かぶ。
君を自由にしたい。
リディアはその文字を見つめた。
言われたかった言葉と、言うべきだった言葉は、いつも同じとは限らない。
それでも、受け取られなかった一文は、確かに誰かの時間を動かすことがある。
そのとき、閉じたはずの台帳が、ひとりでにめくれた。
ばさり、と乾いた紙の音がする。
リディアとノアは同時に目を向けた。
新しく開いたページには、別の案件名が浮かび上がっていた。
婚約破棄届――未受理
リディアは思わず息を呑む。
ノアが静かに言った。
「次の案件です」
台帳の余白に、細い赤文字が浮かぶ。
提出者本人の意思確認、未完了。
そして、その下にもう一行。
王都庁舎記録監査局、処理済。
リディアの指先が冷えた。
記録監査局。
自分を追い出した部署の名だった。




