第2話 こちらでは、出せなかった書類を受け付けます
扉の向こうは、思っていたよりも明るかった。
地下へ続く古びた入口から想像していたのは、湿った石壁と、埃をかぶった倉庫のような場所だった。
けれど、リディアの目の前に広がっていたのは、小さな受付室だった。
磨かれた木の床。
壁一面に並ぶ古い書架。
天井から下がる丸い硝子灯。
中央には、王都庁舎の受付窓口によく似たカウンターがある。
ただし、そこには昼の庁舎にはない静けさがあった。
誰かが咳払いをする音も、羽ペンが紙を走る音も、職員同士がひそひそ話す声もない。
ただ、壁にかかった大きな時計だけが、規則正しく針を進めている。
時刻は、夜の九時を少し過ぎていた。
リディアは入口の前で立ち止まった。
外では雨が降っているはずだった。
旧棟の地下階段を下りる直前まで、雨は肩を打ち、髪を濡らし、解雇通知の文字をにじませていた。
なのに、この部屋に入った途端、雨音が遠くなった。
まるで、王都から少しだけ切り離された場所に来てしまったようだった。
「どうぞ、こちらへ」
黒い制服の青年――ノアは、カウンターの内側へ回った。
その動きは、庁舎の熟練職員のように無駄がない。
けれど、王都庁舎のどの部署にも、リディアは彼の顔を見た覚えがなかった。
「あの」
ようやく声が出た。
「ここは、王都庁舎の一部ですか」
「はい。正確には、王都庁舎に属していた機関です」
「属していた?」
「現在の正規部署一覧には記載されておりません」
ノアは淡々と答えた。
それはつまり、存在しない部署ということだった。
リディアは思わず背後を振り返る。
扉はまだ開いている。
戻ろうと思えば戻れる。
けれど、手の中の白紙申請書が、かすかに熱を持っていた。
助けてください。
さきほど読めた一文が、紙の奥でまだ息をしているように感じる。
「あなたは、誰なんですか」
「夜間未受理窓口、管理官のノアと申します」
「管理官……」
「はい」
ノアはカウンターの上に一冊の台帳を置いた。
黒い革表紙。
角は擦り切れているが、丁寧に手入れされている。
表紙には金文字で、こう記されていた。
未受理案件台帳
「リディア・クラウス様。本日付で、あなたには当窓口の臨時受理官として勤務していただきます」
「勤務?」
あまりにも自然に言われたので、リディアは聞き間違えたのかと思った。
「私は、ついさっき解雇されたばかりです」
「存じております」
「記録改ざんの疑いをかけられています」
「存じております」
「庁舎への立ち入りも禁じられています」
「ここは、現在の王都庁舎の管轄外です」
ノアは少しも表情を変えない。
「したがって、立入禁止命令には抵触しません」
「そういう問題ではありません」
「では、どういう問題でしょうか」
リディアは言葉に詰まった。
正しい。
たしかに、彼の言っていることは、書類上は正しい。
だが、正しすぎる答えは、ときどき人を不安にさせる。
「私は、ここで何をすればいいんですか」
「こちらでは、昼の庁舎で受け付けられなかった書類を扱います」
「不備書類ということですか」
「いいえ」
ノアは首を横に振った。
「不備ではありません。出せなかった書類です」
「出せなかった?」
「渡せなかった手紙。握りつぶされた届出。書いたものの、提出する勇気が出なかった申請書。制度上は存在しない願い。死者に届かなかった言葉。誰にも読まれず、どこにも分類されなかった後悔」
彼の声は、硝子灯の下で静かに響いた。
「そうしたものは、消えません」
「消えない?」
「はい。人が心の底から願いながら、それを言葉にできなかったとき。言葉にしたのに、誰にも受け取られなかったとき。その想いは、書類の形を借りて残ることがあります」
リディアは、手の中の白紙申請書を見た。
宛先も、氏名も、日付もない。
けれど、そこには確かに、誰かの願いがある。
「それを、受理するのがこの窓口です」
「受理したら、どうなるんですか」
「案件によります」
「曖昧ですね」
「正確に申し上げるなら、過去そのものは変わりません」
ノアは台帳を開いた。
そこには、日付も受付番号もばらばらの書類名が並んでいた。
未提出の婚約破棄届。
返送された謝罪文。
宛先不明の遺言状。
破棄された養子縁組申請。
白紙の嘆願書。
どの文字も古びているのに、不思議と生々しかった。
乾いたインクの向こうに、まだ誰かの体温が残っているようだった。
「変わるのは、未受理のまま止まっていたものです」
「止まっていたもの」
「人の決意。関係。記憶。ときには、人生の進む方向」
ノアはリディアを見る。
「ただし、受理は奇跡ではありません。失われた命は戻りません。犯された罪も消えません。けれど、誰かが言えなかった一文を正式に受け付けることで、その人が次へ進める場合があります」
リディアは黙った。
書記官だった彼女は、受理という言葉の重さを知っている。
書類は、ただの紙ではない。
受理された瞬間、そこに記された願いや申請は、世界のどこかに正式な場所を得る。
婚姻届なら、関係が変わる。
死亡届なら、存在の扱いが変わる。
異動願なら、働く場所が変わる。
では、後悔を受理したら。
人は、どう変わるのだろう。
「なぜ、私なんですか」
リディアは尋ねた。
「書記官なら、他にもいます。私より上の者も、経験のある者も」
「あなたには読めますから」
「何がですか」
「未受理の声です」
ノアは、リディアの手元を指した。
「その申請書には、何と書かれていますか」
「白紙です」
「表面上は」
「……助けてください、と」
答えてから、リディアは息を呑んだ。
なぜ口にしてしまったのだろう。
確証などない。
文字が浮かんだように見えただけだ。
雨に濡れ、職を失い、疲れていただけかもしれない。
なのに、ノアは静かに頷いた。
「やはり」
「やはり、とは」
「通常、未受理案件の本当の一文は、本人以外には読めません。管理官である私にも、完全には読み取れない。しかし、ごくまれに、それを読める者が現れます」
「私は、そんな力を持っていません」
「昼の庁舎でも、あなたは見えていたはずです」
その言葉に、リディアの胸が冷えた。
「番号の抜け。印影の違い。書類の余白に残る違和感。本来あるべき一文が、そこにないこと」
「それは、ただの職業上の注意です」
「そう思っていたのは、あなた自身だけです」
リディアは反論しようとした。
だが、言葉が続かなかった。
彼女は昔から、書類の小さな乱れに気づく子どもだった。
母が書いた買い物メモに、買うはずだった薬の名前が抜けていること。
近所の老人が出した手紙に、宛先ではなく謝罪の言葉を書きたかったのだと感じたこと。
庁舎に入ってからは、受理済みの書類より、未受理に回された書類の方が、なぜか声を持っているように思えたこと。
気のせいだと思っていた。
書記官としての勘だと片づけていた。
「……この申請書は、誰のものですか」
リディアは白紙申請書をカウンターに置いた。
ノアは台帳をめくる。
「受付番号なし。提出者不明。発生日不明。分類は、救済願に近いですが、正式な様式とは異なります」
「では、どうやって受理するんですか」
「まず、依頼人を探します」
「依頼人が分からないのに?」
「未受理案件は、必要な受理官のもとへ来ます」
「ずいぶん都合のいい仕組みですね」
「はい。ですが、都合のいいものほど、たいてい代償があります」
ノアは、カウンターの下から小さな木箱を取り出した。
中には、赤い印鑑が収められていた。
古びた受理印。
持ち手の部分には、細い銀の文字で「夜間未受理窓口」と刻まれている。
「リディア様。あなたがこの案件を担当するなら、この印を使っていただきます」
「担当しないと言ったら?」
「扉はあちらです」
ノアは入口を示した。
「ただし、外に戻れば、あなたは王都庁舎を追われた元書記官です。記録改ざんの疑いをかけられ、下宿に戻って、明日から仕事を探すことになります」
「脅しですか」
「事実確認です」
冷たい。
けれど、意地悪ではない。
リディアはそう感じた。
ノアの言葉には感情が薄い。
それなのに、不思議と嘘がない。
リディアは受理印を見た。
自分は、今日、職を失った。
信じていた庁舎から追い出された。
正しいことをしたはずなのに、間違った者として扱われた。
ならば。
せめて一枚くらい、正しく扱われなかった書類を、正しく扱ってもいいのではないか。
「……臨時です」
リディアは言った。
「私は、ここで正式に働くとは言っていません。この一件だけです」
「承知しました」
ノアは少しも驚かなかった。
「では、臨時受理官リディア・クラウス様。最初の手続きを始めましょう」
「何をすれば?」
「申請書に触れて、読めるものをすべて読み上げてください」
リディアは白紙申請書に指を置いた。
紙は、雨に濡れていたはずなのに、もう乾いている。
指先に、かすかな震えが伝わった。
助けてください。
最初に読めたのは、その一文だった。
けれど、今度はその奥に、別の気配があった。
暗い場所。
閉じた扉。
小さな手。
銀色の髪飾り。
それから、震える声。
リディアは息を詰めた。
「……女の子」
ノアの指が、台帳の上で止まった。
「はい」
「まだ幼い。たぶん、十歳くらい。どこかに閉じ込められている」
「続けてください」
ノアの声は変わらない。
けれど、その変わらなさが、かえって不自然だった。
「名前は……分からない。でも、誰かを呼んでいる」
「誰を?」
リディアは、紙に浮かぶ見えない文字を追った。
胸がざわつく。
これは自分の感情ではない。
紙に残された誰かの恐怖だ。
「お姉様、と」
その瞬間、部屋の時計が止まった。
リディアは顔を上げる。
さっきまで規則正しく時を刻んでいた針が、九時十三分を指したまま動かない。
ノアは台帳の上に手を置いたまま、動かなかった。
まるで、聞いてはいけない名前の一部を聞いてしまったように。
「ノアさん?」
彼はゆっくりと目を伏せた。
「……その案件は、通常の未受理ではないかもしれません」
「どういう意味ですか」
答えの代わりに、カウンター奥の書架で一冊の台帳がひとりでに落ちた。
大きな音が、静かな部屋に響く。
リディアが近づくと、落ちた台帳は勝手に開いていた。
古いページ。
十年前の日付。
そこには、赤い線で抹消された案件名があった。
王女救済願――未受理
リディアは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
十年前。
王女が病で亡くなった年だ。
ノアが低い声で告げる。
「リディア様。今夜あなたが拾ったのは、王国で最も受理してはならない書類かもしれません」
そのとき、白紙申請書の端に、新しい文字が浮かび上がった。
今度は、リディアにもはっきり読めた。
お姉様を、殺さないで。




