第1話 解雇通知は、雨に濡れて読めなくなった
解雇通知というものは、もっと乾いた紙で渡されるものだと思っていた。
少なくとも、雨に濡れた石畳の上で、泥を跳ねられながら握りしめるものではないはずだった。
王都庁舎の正門は、リディア・クラウスの背後で重い音を立てて閉じた。
鉄の門扉が噛み合う音は、まるで判決のようだった。
「リディア・クラウス。王都庁舎書記官補佐の任を、本日付で解く」
昼間、記録監査局長ヴァルター・グレイスは、そう言った。
その声は、いつものように丁寧で、冷たくて、少しも揺れていなかった。
磨かれた机。整えられた書類の束。銀縁の眼鏡越しに向けられる、温度のない視線。
あの部屋では、何もかもが正しく配置されていた。
ただ一つ、リディアに告げられた処分だけが、間違っていた。
「理由は、決裁文書の不適切な修正、および保管記録の改ざん疑い。正式な調査が終わるまで、庁舎への立ち入りを禁じる」
不適切な修正。
保管記録の改ざん。
どちらも、リディアが見つけた罪だった。
けれど、犯した罪ではなかった。
彼女はただ、帳簿の番号が一つ飛んでいることに気づいただけだ。
決裁印の角度が、通常のものとわずかに違うことに気づいただけだ。
そして、保管済みのはずの婚約関連書類が、なぜか「未受理」として地下保管庫へ送られていることに気づいただけだった。
書類は嘘をつく。
けれど、嘘をつくときほど、紙の上には小さな乱れが残る。
インクの濃淡。
押印の傾き。
余白の不自然な広さ。
あるべき場所に、あるべき一文がないこと。
リディアは、それを見つけるのが得意だった。
得意だったから、職を失った。
雨は夕方から降り続いている。
王都の灯りは水の膜の向こうでぼやけ、馬車の車輪が水たまりを裂いて走っていく。通り過ぎる人々は皆、外套の襟を立て、誰も足を止めない。
リディアは庁舎前の石段を下りきったところで、もう一度だけ手元の通知書を見た。
インクが雨でにじんでいた。
――解雇。
――立入禁止。
――改ざん疑い。
その文字だけが、意地悪なくらい濃く残っている。
「……私が、改ざんなんて」
声に出したところで、雨音に消えた。
行く場所はなかった。
下宿代は来月まで払ってある。だが、記録改ざんの疑いをかけられた元書記官を雇ってくれる場所など、王都にはそう多くない。
ましてリディアは、庁舎勤め以外の仕事を知らない。
朝、決められた時刻に出勤する。
受付番号順に書類を整理する。
不備があれば差し戻す。
正しい文言に整える。
台帳に記録する。
それが彼女の世界だった。
その世界から、今日、彼女の名前だけが切り取られた。
リディアは通知書を胸元に押し込んだ。
濡れた紙が服越しに冷たく貼りつく。
そのときだった。
足元に、一枚の紙が流れてきた。
雨水に乗って、石畳の溝をゆっくり滑ってくる。誰かの落とし物かと思い、リディアは反射的に屈んだ。
拾い上げた紙は、申請書だった。
だが、奇妙だった。
宛先がない。
氏名もない。
日付もない。
受付番号もない。
中央には、ただ赤い印字だけが押されていた。
未受理
「……未受理?」
リディアは眉をひそめた。
通常、未受理の書類は受付番号が振られる前に返却される。返却理由も記される。書式不備。添付書類不足。管轄外。代理人資格なし。
だが、この紙には理由がない。
そもそも、白紙の申請書に未受理印だけが押されているなど、ありえない。
ありえないはずなのに。
紙の端に、かすかな跡があった。
インクではない。
文字として書かれているわけでもない。
けれど、雨に濡れた紙の表面に、光の角度によって、押し殺された声のようなものが浮かび上がる。
リディアは息を止めた。
そこには、こう書かれているように見えた。
助けてください。
指先が冷たくなる。
文字は、次の瞬間には消えていた。
気のせい。
雨のせい。
疲れているだけ。
そう思おうとした。
だが、リディアは書類の上に残る違和感を見逃せない。
それがただの紙ではないことを、彼女の目は知ってしまっていた。
ふと、庁舎の裏手で小さな灯りがともった。
リディアは顔を上げる。
王都庁舎の旧棟。
今は使われていないはずの、古い石造りの建物。
その足元に、地下へ続く階段があった。
「……あんなところに」
何年もこの庁舎で働いてきた。
書庫にも、地下保管庫にも、旧文書室にも入ったことがある。
けれど、その階段を見た記憶はない。
旧棟の壁に沿って、狭い石段が雨に濡れて黒く光っている。
その下から、ぼんやりと暖かな明かりが漏れていた。
リディアは、白紙の申請書を握ったまま歩き出した。
戻れ、と理性が言っていた。
庁舎への立ち入りは禁止されたばかりだ。旧棟であっても、見つかればさらに疑いが増える。
それでも足は止まらなかった。
助けてください。
あの一文が、紙の奥でまだ息をしている気がした。
階段を下りるたび、雨音が遠くなる。
王都の喧騒も、馬車の音も、通りの灯りも、少しずつ背後へ置き去りにされていく。
階段の下には、古びた木の扉があった。
扉の上には、黒ずんだ真鍮の札がかかっている。
リディアは、その文字を読んだ。
夜間未受理窓口
さらに、その下に小さな文字が刻まれている。
出せなかった書類、言えなかった願い、受け付けます。
「夜間……未受理窓口……?」
聞いたことがない。
王都庁舎の部署一覧にも、職員名簿にも、窓口案内にも、そんな名前はなかった。
リディアが扉に手を伸ばそうとした、そのとき。
内側から、かちりと鍵の開く音がした。
ぎい、と扉が細く開く。
中から現れたのは、黒い制服を着た青年だった。
年は二十代半ばに見える。
背筋はまっすぐで、髪は夜のように黒い。
顔立ちは整っているが、表情はほとんど動かない。
ただ、その目だけが妙に静かだった。
長い年月を閉じ込めた古文書のような、深く乾いた目。
青年は、リディアの手元にある申請書を見る。
それから、深く一礼した。
「お待ちしておりました」
リディアは一歩下がった。
「……私を?」
「はい」
「人違いでは」
「リディア・クラウス様。王都庁舎書記官補佐。本日付で解雇通知を受け取られた方ですね」
心臓が強く鳴った。
「どうして、それを」
「こちらは、そういう窓口ですので」
答えになっていない。
リディアは申請書を胸に抱え直す。
「あなたは、誰ですか」
「申し遅れました」
青年は、受付係のように正確な所作で頭を下げた。
「夜間未受理窓口、管理官のノアと申します」
「管理官……」
「こちらでは、未受理のまま残された願いを受け付けております」
リディアは、真鍮の札を見上げた。
夜間未受理窓口。
存在しないはずの窓口。
白紙の申請書。
雨に濡れてもにじまない未受理印。
見えたはずのない一文。
「私は、もう庁舎の職員ではありません」
声が少し震えた。
「書類改ざんの疑いをかけられています。庁舎への立ち入りも禁じられています」
「存じております」
「なら、なぜ私を」
ノアは、リディアの手元に視線を落とした。
「その書類を、読めたからです」
「読めた?」
「白紙ではありませんでしたね」
リディアは言葉を失った。
ノアは扉を少し広く開ける。
中には、小さな受付室が見えた。
磨かれた木のカウンター。
古い台帳。
壁一面に並ぶ書架。
そして、カウンターの上に置かれた赤い受理印。
外の雨とは別の時間が、そこだけ静かに流れているようだった。
「リディア・クラウス様」
ノアは言った。
「あなたの最初の担当案件です」
「担当……?」
「はい」
彼の声は、どこまでも穏やかだった。
「その書類を、受理していただけますか」
リディアは、手の中の申請書を見下ろした。
白紙のはずの紙。
けれど、そこには確かに、誰かの声が残っている。
助けてください。
その一文だけが、リディアには読めた。
そして彼女は、その夜、自分がもう普通の書記官には戻れないことを知った。
リディアが扉をくぐった瞬間、背後の王都庁舎から、リディア・クラウスという名前の職員記録が一枚、音もなく消えた。




