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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第38話 赦されたいのではなく

 地下へ続く階段は、思っていたよりも狭かった。


 王宮の床下に、こんな場所があることを、リディアは知らなかった。


 石の壁は冷たく、ところどころに古い煤の跡が残っている。

 足音は吸い込まれず、硬く反響した。


 先頭を歩くのはノアだった。


 黒い制服の背中が、薄暗い階段の先にある。

 彼の手には台帳。

 台帳の端から淡い光がこぼれ、足元を照らしていた。


 その後ろに、ヴァルター・グレイス。


 さらに、ミリア王女とイリス。

 リディア、カイル、エレノア、セシリア、エルザが続く。


 中央記録広間のざわめきは、もう遠い。


 階段を一段下りるごとに、昼の光が薄れ、紙と石と焦げた匂いが濃くなっていく。


 ミリアの呼吸が、少し浅くなっていた。


「殿下、大丈夫ですか」


 イリスが小さく尋ねる。


 ミリアは首を横に振った。


「大丈夫ではありません」


 正直な答えだった。


 けれど、彼女は足を止めなかった。


「でも、行きます」


 リディアは、その言葉を聞いて胸が痛くなった。


 大丈夫ではないけれど進む。


 今のミリアは、ずっとその繰り返しだ。


 王宮の奥の部屋から出た時も。

 自分の救済願を読んだ時も。

 公開審理の中央で助けを求めてもよかったのかと問いかけた時も。


 痛みが消えたから前へ進んでいるのではない。


 痛みを抱えたまま、進んでいる。


 階段の途中で、ヴァルターが足を止めた。


 ノアも振り返る。


「どうしました」


 ヴァルターは、壁に手を置いていた。


 そこには、焦げたような黒い筋が走っている。


「ここで、火災記録が作られました」


 低い声だった。


「実際には、この先までは燃えていない。入口付近だけを焼き、焼損扱いにした」


 カイルが帳簿を開く。


「地下第三書庫、焼損記録は偽装の可能性あり」


 ペンの音が、階段に響いた。


 ヴァルターは、少しだけ目を伏せる。


「可能性ではありません。偽装です」


 リディアは、彼を見る。


「あなたは知っていたんですね」


「はい」


 ヴァルターは否定しなかった。


 その答えに、階段の空気が重くなる。


 ミリアが、震える声で尋ねた。


「なぜ、言わなかったのですか」


 ヴァルターは、すぐには答えなかった。


 石壁に触れたまま、長い沈黙を置く。


「言えば、封鎖が破られると思ったからです」


「それは、十年前の話ですか」


「十年前も、その後も」


 ミリアの手が、王女救済願の原本を強く握った。


「ここには、お姉様宛の嘆願があるかもしれないのに」


「あります」


 ヴァルターは静かに言った。


 ミリアの顔が強張る。


「見たのですか」


「目録だけは」


「それでも、言わなかった」


「はい」


 その言葉は、言い訳を含まなかった。


 だからこそ、重かった。


 エルザが低く言う。


「ずいぶん、簡単に認めるんだね」


「簡単ではありません」


 ヴァルターは答えた。


「ですが、認めなければ記録になりません」


 リディアは、その横顔を見た。


 ヴァルターは、赦しを求めるような顔をしていなかった。


 苦しそうではある。


 後悔もある。


 けれど、誰かに許されて楽になりたいという表情ではない。


 もっと冷たく、もっと重いものを、自分の足元に置こうとしている顔だった。


 ミリアが、静かに言った。


「あなたは、赦されたいのですか」


 階段が、しんと静まった。


 ノアがわずかに顔を上げる。


 カイルのペンも止まる。


 ヴァルターは、ミリアを見た。


 しばらく黙ってから、答えた。


「いいえ」


 短い返事だった。


 ミリアの目が揺れる。


「では、なぜ話すのですか」


 ヴァルターは、焦げた壁から手を離した。


「赦されたいのではなく」


 彼は言った。


「責任の場所を、正しく残したいのです」


 その言葉は、階段の石壁に低く響いた。


「私は、十年前に多くのものを守れませんでした。アレリア殿下の改革案。ミリア殿下の救済願。ノア・エルセイドの記録。民の嘆願。そして、自分が見たもの」


 ノアの表情が、かすかに動いた。


 ヴァルターは続ける。


「私は、ローディスに従っただけだと言えます。王家を守るためだったとも言えます。混乱を防ぐためだったとも言えます。実際、それらは完全な嘘ではありません」


 リディアは、息を詰めた。


「ですが、それだけを書けば、私の責任は薄まります」


 ヴァルターは、自分の胸元から一枚の書類を取り出した。


 薄い灰色の紙。


 そこには、まだ何も書かれていないように見えた。


 しかし、再審査卓の光を受けた瞬間、表題が浮かび上がった。


 関与申告書――未提出


 カイルが息を呑む。


「関与申告書……」


 エレノアが低く言った。


「本来、調査対象者が自らの関与範囲を申告するための書類です。ほとんど使われません」


 ヴァルターは、紙を見つめた。


「私は、何度もこれを書きかけました」


 紙の端には、書いては消した跡がある。


 インクの滲み。

 折り目。

 爪で削ったような傷。


「けれど、提出しませんでした。提出すれば、私の立場も、記録監査局も、王宮の処理も揺らぐ。そう考えた」


 彼は、自嘲するようには笑わなかった。


 ただ、事実として言った。


「結局、私はまた守れなかったのです」


 ミリアは、涙の浮かぶ目でその紙を見ていた。


「それを、今出すのですか」


「はい」


「私に赦してほしいからではなく?」


「はい」


 ヴァルターは、はっきり答えた。


「殿下が私を赦す必要はありません。ノアも、リディア・クラウスも、誰も、私を赦す義務はありません」


 彼は、関与申告書をカイルへ差し出した。


「ただ、私がどこで何を知り、どこで止めなかったのか。それを残します」


 カイルは、震える手で紙を受け取った。


 だが、すぐには開けない。


 リディアは、ヴァルターを見た。


「ここで読むのですか」


「一部だけ」


 ヴァルターは答えた。


「地下第三書庫を開ける前に、必要な部分を」


 ノアが言った。


「それは、書庫の封鎖に関する関与ですか」


「はい」


 ヴァルターは頷いた。


 カイルが関与申告書を開く。


 文字が浮かび始めた。


 私は、地下第三書庫が焼損していないことを知っていた。

 私は、焼損扱い記録の作成に補助者として関与した。

 私は、書庫内にアレリア王女宛の未開封嘆願が保管されている可能性を認識していた。

 私は、それを公開しなかった。


 ミリアの唇が震える。


 イリスがそっと支える。


 カイルは、声を震わせながら読み上げた。


 読み終わると、階段はしばらく静かだった。


 エルザが、低く言った。


「ひどい話だね」


「はい」


 ヴァルターは答えた。


「ひどいことをしました」


 セシリアが尋ねる。


「なぜ、今まで黙っていたのですか」


「理由はいくつもあります」


 ヴァルターは言った。


「職を失うのが怖かった。王宮が崩れるのが怖かった。貴族院が反発するのが怖かった。民の嘆願を開けば、処理しきれないほどの責任が出るのが怖かった」


 彼は、一度言葉を切った。


「そして何より、アレリア殿下が正しかったと認めるのが怖かった」


 ミリアが顔を上げる。


「お姉様が?」


「はい」


 ヴァルターの声は苦かった。


「あの方は、私が恐れていたことを全部分かっていました。嘆願は重い。制度は悪用される。受理禁止も必要になる。読んだ者は潰れる。だからこそ、仕組みにしなければならないと」


 彼は、階段の下を見た。


「私は、その正しさが怖かった」


 リディアは胸が痛んだ。


 正しいことが、時に人を怖がらせる。


 なぜなら、正しいと認めた瞬間、自分がしてこなかったことも見えてしまうから。


「アレリア殿下の改革案が間違っていればよかった」


 ヴァルターは言った。


「理想論だったと、未熟だったと、危険だったと切り捨てられれば、私は楽でした」


 ミリアの目から涙が落ちる。


「でも、違ったのですね」


「違いました」


 ヴァルターは答えた。


「今、この審理で分かりました。あの方は、ただ優しかったのではない。制度の必要性を、私よりも正確に見ていた」


 彼は、ミリアへ深く頭を下げた。


「私は、あなたの姉君を止めました。救済願も、民の嘆願も、地下第三書庫も、封じました」


 ミリアは、何も言わなかった。


 ヴァルターは続ける。


「赦されたいのではありません」


 その声は、階段の奥へ沈んでいくようだった。


「この先にある書庫を開ける時、私が関係者であることを記録しておいてください。私が案内者であると同時に、封鎖に関与した者であることを」


 カイルは、関与申告書の末尾に記録した。


 地下第三書庫開封立会人ヴァルター・グレイスは、同書庫封鎖および焼損扱い記録作成への関与を申告。赦免請求なし。責任範囲記録を求める。


 その文字が浮かび上がる。


 関与申告書の表題が変わった。


 関与申告書――提出


 リディアは、その変化を見つめた。


 謝罪文とは違う。


 赦しを求めるものでもない。

 弁明でもない。


 これは、責任の位置を記録するための紙。


 ノアの謝罪文が「受け取れなかった者」の記録なら、ヴァルターの関与申告書は「止めなかった者」「封じた者」の記録だ。


 ミリアは、少しの間、ヴァルターを見つめていた。


 そして、静かに言った。


「私は、あなたを赦せるか分かりません」


「はい」


「ノアにも、同じことを言いました」


「はい」


「でも、あなたの申告書は受け取ります」


 ヴァルターの表情が、ほんのわずかに揺れた。


 ミリアは続けた。


「赦すためではありません。お姉様が何を封じられたのか、知るためです」


 ヴァルターは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼ではありません」


 ミリアの声は震えていた。


「受付です」


 その言葉に、リディアは息を呑んだ。


 ミリアは、もう受付の意味を自分の言葉にしている。


 受け取る。

 ただし、赦しとは別に。

 責任を消さず、記録として置く。


 ノアが台帳を開いた。


 関与申告書――受付


 リディアは、小さな受付印を取り出す。


 しかし、ヴァルターが首を横に振った。


「私自身が押すべきではありません」


「もちろんです」


 リディアは頷いた。


 ミリアが手を伸ばした。


「私が押します」


「殿下」


 イリスが心配そうに呼ぶ。


 ミリアは、静かに言った。


「これは、私が赦す印ではありません。私が聞いたという印です」


 リディアは受付印を渡した。


 ミリアは関与申告書に印を押した。


 受付


 灰色の紙に、やわらかな赤い印が沈む。


 ヴァルターは目を伏せた。


 それは救いではない。


 しかし、逃げ道でもなかった。


 記録された責任として、彼の足元に置かれた。


 階段の下で、古い扉が見えてきた。


 黒い鉄扉。


 表面はところどころ煤けているが、完全に焼けてはいない。


 扉の上には、古い銘板があった。


 地下第三書庫


 その上から、後に貼られた札が重なっている。


 焼損につき閉鎖


 しかし、再審査卓から続く金色の線が、その札に触れると、文字が揺れた。


 焼損につき閉鎖


 その下から、別の文字が浮かび上がる。


 封鎖処理


 リディアは、息を吸った。


「やっぱり」


 カイルが記録する。


 地下第三書庫、焼損閉鎖表示の下に封鎖処理表示を確認。


 ヴァルターが扉の前に立つ。


「封鎖解除には、三つの確認が必要です」


「三つ?」


「王女救済願受付番号。記録監査局長権限。関与申告書」


 彼は、自分の提出した紙を見た。


「私が関与を認めなければ、この扉は開きません」


 リディアは、胸が冷えるのを感じた。


 つまり、彼の申告書は、この扉を開ける鍵でもあった。


 赦されたいのではなく。

 扉を開けるために。


 自分の罪を鍵として差し出したのだ。


 ミリアが王女救済願の原本を扉へ向ける。


 受付番号が光る。


 王救一号


 ヴァルターが局長印をかざす。


 さらに、関与申告書が光る。


 三つの光が、扉の封印に触れた。


 封印はすぐには解けなかった。


 代わりに、扉の表面に一文が浮かぶ。


 開封理由を提示せよ


 リディアは、前に出た。


「王女救済願受付番号、王救一号に関連する資料確認のため」


 ノアが続ける。


「アレリア王女宛未開封嘆願の存在確認および目録作成のため」


 カイルが記録する。


 ミリアが、最後に言った。


「姉が一人で読もうとしたものを、もう一人に背負わせないため」


 その言葉に、扉が静かに震えた。


 鉄の奥から、紙の擦れる音が聞こえる。


 一枚ではない。


 何百枚、何千枚もの紙が、扉の向こうで身じろぎしたような音。


 イリスが小さく息を呑む。


 エルザが低く呟いた。


「多いね」


 セシリアが、顔を引き締める。


「ええ」


 ノアが、リディアに言った。


「ここから先は、目録作成だけです。読もうとしすぎないでください」


「分かっています」


「本当に?」


 ノアの声は、少しだけ厳しかった。


 リディアは、苦笑しそうになった。


 しかし、すぐに真顔で頷いた。


「本当に」


 ミリアも言った。


「私も、全部は読みません」


 彼女は原本を胸に抱く。


「お姉様の代わりに全部読むのではなく、お姉様が必要だと言った仕組みを作るために入ります」


 ヴァルターは、その言葉に目を伏せた。


「それが、正しい」


 鉄扉の封印が、一つずつ消えていく。


 焼損表示が剥がれ落ちる。

 封鎖処理の文字が薄れる。

 最後に、銘板だけが残る。


 地下第三書庫


 扉が、ゆっくり開いた。


 冷たい空気が流れ出す。


 中は、暗かった。


 だが、完全な闇ではない。


 奥の方で、小さな金色の光がいくつも揺れている。


 紙の端が、光を持っているのだ。


 リディアは、一歩踏み出そうとして、立ち止まった。


 扉の脇に、一枚の小さな紙が貼られていた。


 古い紙。


 アレリア王女の筆跡。


 そこには、たった一文だけがあった。


 私を赦すためではなく、この人たちを忘れないために開けてください。


 ミリアが、その文字を見て泣いた。


 声を殺さず、静かに泣いた。


 ヴァルターも、ノアも、何も言わなかった。


 リディアは、紙にそっと手を添えた。


「開けます」


 そう告げてから、彼女たちは地下第三書庫へ入った。


 赦しを求めるためではなく。


 責任を誰か一人に押しつけるためでもなく。


 忘れられた願いに、まず居場所を与えるために。


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