第37話 王女救済願、受付
中央記録広間の床に、地下へ続く薄い線が浮かび上がっていた。
淡い金色の線。
それは、記録卓の下から伸び、広間の中央を横切り、大きな記録扉の奥へ続いている。
その先にあるのは、王宮地下第三書庫。
焼損扱いにされていた場所。
だが、ヴァルター・グレイスは言った。
焼損ではなく、封鎖です。
その言葉が、広間に重く残っている。
ミリア王女は、王女救済願の原本を胸に抱いたまま、床の線を見つめていた。
顔色は悪い。
それでも、その目はもう逃げていなかった。
「地下第三書庫……」
ミリアは小さく呟いた。
「そこに、お姉様宛の嘆願が」
「はい」
ヴァルターが答えた。
「アレリア殿下が読みきれなかった民の嘆願、改革案に添付する予定だった控え、そして未整理の書類群が保管されている可能性があります」
「可能性?」
リディアは聞き返した。
「私は、中へ入ったことがありません」
ヴァルターの声は低かった。
「十年前、第三書庫は焼損扱いになりました。立入禁止となり、目録上は失われたことになっています」
「でも、失われていない」
「はい」
ヴァルターは、ローディスを見る。
「少なくとも、封鎖した記録は残っています」
ローディス・カイルは沈黙していた。
その顔は冷たく整っている。
けれど、先ほどまでとは違う。
民の嘆願が浮かび上がり、EX-04運用規程が一時停止され、王宮北棟の巡回記録まで保全対象になった。
彼の言葉だけで場を閉じることは、もう難しい。
だが、それでも彼は折れていなかった。
「地下第三書庫を開ける必要はない」
ローディスは言った。
「今日の審理は、王女救済願に関するものだ。民の嘆願束や焼損書庫まで開けば、収拾がつかなくなる」
リディアは、床に伸びる金色の線を見た。
彼の言葉は、また一部だけ正しい。
地下第三書庫を開けば、さらに多くの書類が出るだろう。
嘆願。
証言。
告発。
事故記録。
死亡記録。
全てを今日、読むことはできない。
だが、開けないままでは、何があるのかも分からない。
その時、再審査卓の上に置かれた王女救済願の原本が、静かに光った。
幼いミリアの筆跡が浮かび上がる。
お姉様を、助けてください。
広間のざわめきが、すっと引いた。
その一文は、もう何度も読まれている。
けれど、見るたびに胸が痛んだ。
十年前、この紙は救えなかった。
アレリア王女の命には、間に合わなかった。
だが、だからといって、この願いの手続きが終わったわけではない。
リディアは、ようやく気づいた。
王女救済願は、まだ「受理」されていない。
原本は返還された。
再読された。
正式再審査対象になった。
でも、願いそのものは、まだ受付番号を持っていない。
十年前に受付で奪われたまま、正式な入口を通っていない。
リディアはノアを見た。
「ノアさん」
「はい」
「王女救済願は、今どの状態ですか」
ノアは台帳を開いた。
そこに文字が浮かぶ。
王女救済願
原本返還済
本人再読済
正式再審査対象
受付状態:未了
広間が静まり返った。
ミリアが、息を呑む。
「未了……」
その声は、ひどく小さかった。
十年前からここまで来ても、まだ入口を通っていない。
リディアは、胸が締めつけられた。
だが、同時に分かった。
だからこそ、地下第三書庫へ進む前にしなければならないことがある。
この願いを、まず正式に受付する。
助けることはできなかった。
受理して叶えることはできない。
けれど、願いが出された事実を正式に入口へ置く。
それをしなければ、次の調査は始まらない。
「ミリア殿下」
リディアは、静かに呼びかけた。
ミリアが顔を上げる。
「王女救済願を、正式に受付します」
ミリアの唇が震えた。
「受理ではなく?」
「はい」
リディアは頷いた。
「受理印は、願いを叶えたことを意味するものではありません。でも、この願いはアレリア王女の命を救うという意味では、もう叶えられません」
ミリアの目に涙が浮かぶ。
痛い言葉だった。
けれど、嘘にしてはいけない。
「だから、まず受付です」
リディアは続けた。
「十年前、入口で奪われた願いを、今度こそ入口に置きます。そこから、再審査と調査を始めます」
ミリアは、王女救済願の原本を見下ろした。
幼い自分の字。
震えた線。
涙で滲んだ一文。
それでも、読んで。
「受付……」
ミリアは呟いた。
「私は、十年前、ただ受け取ってほしかった」
「はい」
「助けられるかどうかも、分からなかった。でも、受け取ってほしかった」
「はい」
リディアの声も震えた。
ミリアは、ノアを見た。
「ノア」
「はい」
「今度は、受付できますか」
ノアは、まっすぐミリアを見た。
その目に、十年分の痛みがあった。
「はい」
彼は言った。
「今度は、受付します」
その言葉に、ミリアの目から涙が落ちた。
ノアは、再審査卓の前に進み出た。
黒い制服の袖口が、淡い光を受けていた。
十年前、王宮臨時受付で受け取れなかった書記官。
死亡扱いとなり、夜間未受理窓口に縛られた男。
その彼が、昼の中央記録広間で、王女救済願の原本を前に立っている。
カイルが、震える声で確認した。
「受付者は、どなたに記録しますか」
ノアは、一瞬だけ目を閉じた。
そして答えた。
「ノア・エルセイド。王宮臨時受付補助。現在、暫定未受理再審査卓受付補助」
カイルが記録する。
受付者:ノア・エルセイド
受付補助:リディア・クラウス
リディアは、はっとした。
「私も?」
ノアは頷いた。
「この受付は、十年前の受付席のやり直しではありません」
「はい」
「今ここにある再審査卓での、新しい受付です。あなたがいなければ、この卓はありませんでした」
リディアは胸が熱くなった。
ミリアが、小さく頷く。
「リディアさんにも、受け取ってほしいです」
「……はい」
リディアは答えた。
「一緒に、受付します」
再審査卓の木箱が開いた。
中には、これまで見てきた印が並んでいる。
受理。
仮受付。
継続受付。
再審査。
存在確認。
記録保全。
停止。
その奥に、今まで気づかなかった印があった。
いちばん小さく、いちばん素朴な印。
印面には、ただ二文字。
受付
リディアは、それを見つめた。
受理印より軽い。
再審査印よりも静かだ。
けれど、どの印よりも最初にあるべきものだった。
受け付ける。
紙が出されたことを認める。
差し出された手を、まず払わない。
ノアがその印を手に取ろうとして、手を止めた。
指が震えている。
ミリアは、それを見ていた。
ノアは、ゆっくり息を吸った。
「十年前、私はこれを押せませんでした」
広間は静かだった。
「だから、今日押します。ただし、これは私の罪を消す印ではありません」
ノアは言った。
「この願いが、確かに出されたことを記録する印です」
ミリアは、涙を拭った。
「はい」
リディアが、受付印に手を添えた。
ミリアも、原本の端に手を置く。
カイルが帳簿を開き、ヴァルターが記録監査局長として立ち会う。
エレノアが式典管理官として頷く。
イリスがミリアの背を支える。
セシリア、マルタ、リーナ、エルザ、テオ、ミナ、ダリオ、ユリス、そして民の嘆願を抱えた人々が見守っている。
リディアは言った。
「王女救済願」
ノアが続ける。
「提出者、ミリア・エル・ラウゼリア」
カイルが記録する。
「対象者、第一王女アレリア・エル・ラウゼリア」
ミリアが、小さく震えながら言った。
「願意、お姉様を助けてください」
その一文に、広間の空気が揺れた。
助けることは、もうできない。
それでも、その願意は書き換えない。
幼いミリアが書いた通りに記録する。
ノアは、受付印を持った。
リディアの手がその上に重なる。
二人で、原本の余白へ印を下ろす。
音は小さかった。
とん、と。
だが、その音は中央記録広間全体に響いた。
受付
朱色でも、黒でも、金でもない。
やわらかな赤の印が、十年前の紙に沈んだ。
その瞬間、王女救済願の原本が強く光った。
幼い文字が浮かび上がる。
それでも、読んで。
その下に、新しい行が現れる。
受付番号:王救一号
ミリアが息を呑んだ。
「番号……」
カイルが、震える声で読み上げる。
「王女救済願、受付番号、王救一号」
リディアの胸が熱くなる。
番号。
ただの記号。
けれど、これほど重い番号を彼女は知らなかった。
十年前、入口で奪われた願いが、ようやく番号を持った。
ミリアは原本に触れた。
「お姉様」
涙がこぼれる。
「やっと、受付されたよ」
広間の誰も、すぐには言葉を発しなかった。
受理ではない。
解決でもない。
アレリア王女が戻るわけではない。
けれど、十年前から止まっていた手続きが、今ようやく動き出した。
その時、アレリア王女の改革案が淡く光った。
余白に、一文が浮かぶ。
受付とは、まだ答えを出せない願いに、居場所を与えることです。
リディアは、その文字を見て胸が震えた。
居場所。
王女救済願は、十年間居場所を奪われていた。
白紙に差し替えられ、療養記録へ押し込められ、封印庫に隠された。
でも今、受付番号を得た。
居場所を得た。
ノアは、受付印を置いた。
その手は震えている。
ミリアが彼を見た。
「ノア」
「はい」
「今度は、受け取ってくれましたね」
ノアは深く頭を下げた。
「はい」
「ありがとう」
ノアの顔が痛みに揺れた。
「私に礼を言う必要はありません」
「それでも」
ミリアは言った。
「受け取ってくれたことには、ありがとうと言いたい」
ノアは、しばらく何も言えなかった。
やがて、かすれた声で答えた。
「受け取りました」
その言葉に、ノア自身の台帳が光った。
彼の記録の欄に変化が起きる。
記録状態:死亡扱い
その文字の下に、新たな行が浮かぶ。
現職務:暫定未受理再審査卓受付補助
リディアは息を呑んだ。
死亡扱いが消えたわけではない。
だが、その下に現在の職務が書き足された。
過去の処理に、今の記録が重なった。
ノアはそれを見つめ、目を閉じた。
「……まだ、戻ったわけではありません」
「はい」
リディアは静かに答えた。
「でも、今ここにいることは記録されました」
ノアは、ほんの少しだけ頷いた。
ローディスが、低く言った。
「茶番は終わったか」
広間の空気が冷える。
ミリアが原本を抱く手に力を込める。
ローディスは続けた。
「受付番号を与えたところで、アレリア殿下は戻らない。地下第三書庫を開けても、民の嘆願を並べても、過去は変わらない」
「はい」
ミリアが答えた。
その声は、思いのほか静かだった。
「過去は変わりません」
ローディスが彼女を見る。
ミリアは続ける。
「でも、あなたが過去を隠すことは、これ以上許しません」
広間が静まる。
ミリアは、王女救済願の原本を記録卓に置いた。
受付印が光っている。
「私の願いは、姉の命には間に合いませんでした。でも、受付されました」
彼女は、床に伸びる地下第三書庫への金色の線を見る。
「だから、次に進みます」
リディアもその線を見た。
王女救済願に受付番号が与えられた瞬間、地下への線はさらに強くなっている。
まるで、正式な入口ができたことで、次の扉を開く資格が生まれたように。
ヴァルターが言った。
「王女救済願の受付番号が発行されたため、関連資料として地下第三書庫の開封請求が可能になります」
カイルが記録する。
リディアは頷いた。
「では、開封請求を」
「待ちなさい」
ローディスの声が響く。
「地下第三書庫には、王女殿下宛の未整理嘆願がある。すでに民嘆願存在確認簿が膨大な数になっている。これ以上開ければ、庁舎は機能を失う」
リディアは答えた。
「だから、全部を読むのではありません」
ミリアも続ける。
「存在確認をします」
ノアが言う。
「未開封嘆願束の件数、表題、処理状態、危険度、保護必要性を確認するだけです」
ヴァルターが補足する。
「開封は全体ではなく、目録作成に限定します」
エレノアが式典管理官として頷く。
「公文書搬出ではなく、封鎖状態確認であれば、正午審理内で実行可能です」
ローディスは冷たく言った。
「そうやって、少しずつ開けていくのか」
リディアは、まっすぐ彼を見た。
「はい」
広間が静まる。
「一度にすべてを救えないから、少しずつ開けます。一度にすべてを読めないから、目録を作ります。一人では潰れるから、仕組みにします」
リディアは、アレリア王女の改革案に手を置いた。
「それが、アレリア王女の改革案です」
ミリアが小さく頷いた。
「そして、私の受付された願いの続きです」
王女救済願の受付印が、淡く光る。
床の金色の線が、記録扉の前で一本の道になった。
そこに、新しい書類が現れる。
地下第三書庫 封鎖状態確認請求書
カイルが読み上げる。
「請求者、王女救済願受付番号、王救一号。提出者、ミリア・エル・ラウゼリア。告発者、リディア・クラウス。暫定未受理再審査卓による関連資料確認」
ミリアがペンを取る。
手は震えている。
だが、今度は迷わなかった。
ミリア・エル・ラウゼリア
リディアも署名する。
リディア・クラウス
ノア、カイル、イリス、ヴァルター、エレノアが続く。
最後に、セシリアが前へ出た。
「関連受理済み案件提出者として、立会いを求めます」
マルタも言う。
「私も」
エルザが言う。
「私も行くよ。中に子どもの書類があるなら、放っておけない」
テオが小さく言う。
「俺も」
「テオ」
「だって、また子どもの紙があるかもしれないだろ」
リディアは、全員を見る。
地下第三書庫へ全員を連れていくのは危険だ。
だが、立会人は必要だ。
ローディスに閉じさせないためにも。
ヴァルターが判断した。
「地下へ降りる人数は制限します。ミリア殿下、リディア・クラウス、ノア・エルセイド、カイル・ロム、イリス・ベルク、私、エレノア管理官。関連受理済み案件代表として、セシリア・レント、エルザ・ミント」
マルタは一瞬何か言いかけたが、リーナを見て頷いた。
「私はここで待ちます」
エルザがテオを見る。
「あんたは残る」
「でも」
「残るのも仕事だよ」
テオは不満そうだったが、うなずいた。
リディアは、封鎖状態確認請求書に受付印を押した。
受付
その瞬間、中央記録広間の奥の記録扉が開いた。
中は、暗い階段だった。
地下へ続いている。
冷たい空気が流れ出す。
古い紙と、石と、かすかな焦げ臭さ。
ミリアの顔が白くなる。
イリスが支える。
「殿下、無理なら」
「行きます」
ミリアは言った。
「王女救済願は、受付されました。なら、提出者として行きます」
リディアは頷いた。
「一緒に」
ノアが先に立ち、台帳を開く。
ヴァルターは封印解除印を持ち、エレノアは式典記録を抱える。
カイルは存在確認簿を胸に抱いた。
セシリアとエルザも続く。
リディアは、地下へ降りる前に一度だけ広間を振り返った。
そこには、多くの人がいた。
民の嘆願を持つ人たち。
受理された人たち。
まだ順番を待つ人たち。
全てを今すぐ救えない。
けれど、入口はできた。
王女救済願が、受付された。
その事実が、地下へ続く道を開いた。
リディアは、受付控えを胸にしまった。
そして、暗い階段へ一歩踏み出す。
王宮地下第三書庫。
アレリア王女宛の未開封嘆願が眠る場所へ。
十年前に閉じられた声を、今度は目録から始めるために。




