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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第39話 この国で泣く人を減らしたい

 地下第三書庫の中は、思っていたよりも広かった。


 扉を開けた瞬間に押し寄せてきたのは、埃の匂いでも、黴の匂いでもなかった。


 紙の匂いだった。


 古い紙。

 乾いたインク。

 革紐。

 封蝋。

 そして、ほんの少しだけ焦げたような匂い。


 リディアは、扉の前で足を止めた。


 目の前には、天井まで届く書架がいくつも並んでいる。


 棚の一つ一つに箱があり、束があり、筒があり、封筒が差し込まれていた。


 そのどれにも、薄い札が付いている。


 未開封

 要確認

 アレリア殿下宛

 民嘆願控え

 未整理

 EX-04移管予定

 焼損扱い


 焼けていない。


 少なくとも、書庫全体は燃えていない。


 入口付近の壁だけが黒く煤けている。

 奥の書架は、十年前から時間を止めたように静かに並んでいた。


 ミリア王女は、扉の内側で立ち尽くしていた。


 王女救済願の原本を胸に抱きしめ、書架を見つめている。


「こんなに……」


 声が震えていた。


「お姉様宛の紙が、こんなに」


 イリスが、そっと彼女の背を支える。


 ノアは、台帳を開きながら低く言った。


「読まないでください」


 リディアは、その言葉の厳しさに少し驚いた。


 だが、すぐに意味を理解した。


 目の前の書類は、すべて誰かの願いだ。


 ひとつひとつを読めば、必ず誰かの痛みに触れる。


 助けてほしい。

 返してほしい。

 調べてほしい。

 信じてほしい。

 会わせてほしい。

 止めてほしい。


 それを全部読もうとしたら、人は潰れる。


 アレリア王女が残した言葉の通りに。


 すべてを一度に読んではならない。


 リディアは深く息を吸った。


「目録作成だけです」


 自分に言い聞かせるように言った。


「表題、差出人の属性、日付、旧分類、危険度、保護必要性。本文は読まない」


 カイル・ロムが、存在確認簿を開いた。


「はい。目録項目を作ります」


 彼の手は震えていたが、声は前より落ち着いていた。


 エレノア・ヴィスが書庫内を見渡す。


「棚ごとに区分しましょう。左列から順に番号を振ります。封印の破損があるものは先に記録、内容確認は後回しに」


 ヴァルター・グレイスは、入口近くの壁に貼られた封鎖札を見ていた。


 その顔には、苦いものが残っている。


 ここを焼損扱いにしたと認めたばかりだ。


 自分が封じた場所を、今、自分の手で開いている。


「目録の古い控えがあるはずです」


 ヴァルターが言った。


「アレリア殿下が作成していた整理番号が残っていれば、それを基準にできます」


「どこに?」


 リディアが尋ねると、ヴァルターは書庫の奥を指した。


「中央机です」


 彼らは、ゆっくり書架の間を進んだ。


 足を踏み出すたび、棚の札がかすかに揺れる。


 まるで、眠っていた紙たちが、誰かの気配に気づいて身じろぎしているようだった。


 ノアが再び言った。


「視線を落としすぎないでください」


「分かっています」


「表題だけでも、引き込まれるものがあります」


 リディアは頷いた。


 それでも、目に入ってしまう。


 母を返してください

 村の子どもが三人死にました

 給金が払われません

 私は盗んでいません

 あの薬を止めてください

 妹を売らないでください


 リディアは、思わず足を止めそうになった。


 しかし、ノアが小さく言う。


「リディア様」


 彼女は、はっとして顔を上げた。


「すみません」


「謝る必要はありません」


 ノアの声は静かだった。


「読もうとしてしまうのは当然です。だから、仕組みが要る」


 リディアは、胸にその言葉を置いた。


 仕組みが要る。


 優しさだけでは、ここを越えられない。


 中央机は、書庫の奥にあった。


 広い机。

 その上には、まだ整理途中だったと思われる紙束が積まれている。


 インク壺は乾き、羽ペンは折れたまま置かれていた。


 まるで、書いていた人が急に席を立ち、二度と戻らなかったようだった。


 ミリアが、その机を見て立ち止まった。


「お姉様の机……」


 声が小さく震える。


 彼女は、ゆっくり近づいた。


 机の端に、薄い布がかけられている。


 その下に、一冊の小さな帳面があった。


 表紙は淡い青。

 角は擦れている。


 そこには、アレリア王女の筆跡でこう書かれていた。


 嘆願整理覚え


 ミリアの手が震えた。


「触っても……いいのでしょうか」


 誰もすぐには答えなかった。


 リディアは、ノアを見る。


 ノアは台帳を開き、慎重に言った。


「嘆願整理覚え。アレリア王女作成と思われる。地下第三書庫中央机上にて発見。目録作成に必要な範囲で確認」


 カイルが記録する。


 エレノアも頷いた。


「発見記録を取った上で、確認できます」


 ミリアは、小さく息を吸った。


 そして、帳面に触れた。


 その瞬間、表紙が淡く光った。


 開いた最初のページに、整った文字が並んでいる。


 嘆願を読む時の約束


 ミリアが、震える声で読み上げた。


「一、すぐに答えを出そうとしない」


 リディアは息を止めた。


「二、誰の声か分からない時は、勝手に補わない」


 ノアが、静かに目を伏せる。


「三、泣きながら書かれた紙を、泣かずに読めると思わない」


 ミリアの声が揺れる。


「四、読んだあと、必ず休む」


 カイルのペンが止まりかけた。


 その一文は、書記官たちに向けられたものでもあるのだろう。


 ミリアは、次の行を読もうとして、息を詰めた。


 リディアがそっと尋ねる。


「殿下?」


 ミリアは涙を浮かべたまま、最後の行を読んだ。


「五、一人で救おうとしない」


 書庫の中が、静まり返った。


 一人で救おうとしない。


 アレリア王女は、自分にも言い聞かせていたのだろう。


 けれど、彼女は結局、一人で背負いすぎた。


 制度ができる前に倒された。


 ミリアは帳面を胸に抱きそうになったが、途中で手を止めた。


「これは、私が抱くものではありませんね」


 リディアは静かに頷いた。


「目録作成の資料として、みんなで読みます」


「はい」


 ミリアは帳面を中央机に戻した。


 それから、ページを一枚めくる。


 次のページには、棚ごとの整理方針があった。


 青札:生活救済

 赤札:本人危険

 灰札:死亡・事故・失踪

 金札:王宮・貴族院・領主関係

 黒札:危険願意を含むため再審査必須

 白札:未分類


 ノアが、小さく息を吐いた。


「夜間窓口の色分類と、ほぼ同じです」


 リディアは驚いて彼を見る。


「アレリア王女も、同じ分類を?」


「おそらく、夜間窓口の古い処理とつながっていたのでしょう」


 ノアは、書架を見回した。


「もしくは、人の願いを分類しようとすると、自然に似てくるのかもしれません」


 ヴァルターが静かに言った。


「アレリア殿下は、夜間未受理窓口の存在を完全には知らなかったはずです」


「完全には?」


「噂のようなものは聞いておられました。読まれなかった願いが流れ着く場所がある、と」


 ミリアが顔を上げる。


「だから、私は夢で夜の窓口と言っていたのですね」


「おそらく」


 ミリアは、自分の王女救済願を見つめた。


「お姉様は、夜の窓口を昼に作ろうとしていた」


 リディアは頷いた。


「はい」


 帳面の次のページを開く。


 そこには、目録番号が並んでいた。


 A-001 井戸水汚染申立

 A-002 冬季救援米配給願

 A-003 母子扶助願

 B-001 奉公人保護願

 B-002 妹売却差止願

 C-001 橋崩落事故再調査願

 C-002 坑道落盤事故証言書


 リディアは息を呑んだ。


「広間に浮かんだものと一致しています」


 カイルが急いで存在確認簿を照合する。


「はい。サラさんの橋崩落事故再調査願は、C-001です」


 サラの願いは、アレリア王女の整理帳にもあった。


 つまり、アレリア王女はそれを読もうとしていた。


 いや、少なくとも、目録に入れていた。


 ミリアの目に涙が浮かぶ。


「お姉様は、サラさんの紙も知っていたのですね」


「はい」


 リディアは、胸が熱くなった。


 広間でサラは言った。


 息子の死を調べてほしいと願った母親がいたと、残るだけでいい、と。


 その願いは、十年前、アレリア王女の机に届いていた。


 完全に消えてはいなかった。


 帳面のページは、さらに続く。


 しかし、あるところで文字が乱れていた。


 インクが濃くなり、線が少し震えている。


 日付があった。


 春月十一日


 ミリアの体がこわばる。


 アレリア王女が倒れた前夜。


 リディアは、ページをめくる前に確認した。


「読みますか」


 ミリアは、しばらく黙っていた。


 そして言った。


「全部は、読まない方がいいですね」


「はい」


「でも、見出しだけ」


「はい」


 リディアがページを支え、ミリアが見出しを追う。


 そこには、条文ではなく、短いメモが書かれていた。


 改革案に添える言葉


 その下に、アレリア王女の手書き。


 この国で泣く人を減らしたい。


 ミリアの息が止まった。


 リディアも、言葉を失った。


 それは、とても素朴な一文だった。


 王国秩序を正すため。

 庁舎制度を改革するため。

 貴族院の権限を制限するため。

 王宮の透明性を高めるため。


 そういう大きな言葉ではなかった。


 ただ。


 この国で泣く人を減らしたい。


 ミリアの目から涙が落ちた。


「お姉様らしい」


 声が震えていた。


「難しいことをたくさん考えていたのに、最後はこう書くのですね」


 リディアは、その一文を見つめた。


 笑えるほど単純で、だからこそ逃げ場のない言葉だった。


 泣く人をなくす、ではない。


 減らしたい。


 すべての願いを叶えるとは言っていない。

 すべての悲しみを消すとも言っていない。

 それでも、今より少しでも泣く人を減らしたい。


 アレリア王女は、世界を綺麗事で塗り替えようとしたのではない。


 泣く人を一人でも減らすために、制度を作ろうとした。


 ノアが静かに言った。


「だから、受理ではなく受付だったのですね」


 リディアは彼を見る。


「どういう意味ですか」


「すべての願いを叶えることはできない。亡くなった人は戻らない。壊れたものも、すべては元に戻らない」


 ノアは、アレリアの一文を見つめた。


「でも、泣く理由を一つ減らすことはできるかもしれない。理由を知らされない涙。嘘を信じ込まされる涙。誰にも届かなかったと思う涙」


 ミリアが、原本を抱きしめる。


「私の涙も」


「はい」


 ノアは答えた。


「姉君を失った涙は消えません。けれど、助けを求めたことを罪だと思い続ける涙は、少し減らせるかもしれない」


 ミリアは泣いた。


 静かに。


 けれど、その涙は、これまでの涙とは違っていた。


 痛みはある。


 でも、自分を責めるだけの涙ではなかった。


 リディアは、帳面の一文をカイルへ示した。


「記録してください」


 カイルが頷く。


 声を震わせながら読み上げる。


「アレリア王女、改革案添付予定文。『この国で泣く人を減らしたい』」


 その一文が、存在確認簿の上に浮かび上がった。


 すると、書庫の中の紙束が、静かに光り始めた。


 一つずつ。


 青い札。

 赤い札。

 灰色の札。

 金色の札。

 黒い札。

 白い札。


 全部が一斉に叫ぶわけではなかった。


 ただ、自分たちがここにいると、静かに灯っている。


 ミリアが、涙を拭って言った。


「全部は、今日読めません」


 リディアは頷く。


「はい」


「全部は、私にも背負えません」


「はい」


「でも、目録を作ります」


 ミリアの声は、まだ弱い。


 それでも、はっきりしていた。


「お姉様の代わりに泣くのではなく、お姉様が減らしたかった涙を、少しでも減らすために」


 リディアは、深く頷いた。


「始めましょう」


 それから、地下第三書庫の目録作成が始まった。


 まず、中央机にあるアレリア王女の整理帳を基準にした。


 棚ごとに番号を振る。


 開封はしない。


 封印の状態、表題、差出人属性、旧分類、保護必要性だけを見る。


 リディアは左列の棚を担当した。


 ノアは危険度の色を確認する。

 カイルは存在確認簿へ記録する。

 エレノアは個人名保護の印をつける。

 セシリアは貴族家関係の書類の扱いを助言する。

 エルザは孤児や子どもに関わる書類を見つけると、すぐに印をつけた。


 ミリアは、中央机のそばに座り、アレリアの整理帳と照合していた。


 イリスがそばについている。


 無理はしない。


 一頁読んだら休む。

 ひとつ確認したら水を飲む。

 つらくなったら目を閉じる。


 それも、仕組みの一部だった。


 最初に記録された棚。


 第三書庫A列一段目。生活救済嘆願。計四十二件。封印状態良好。個人名保護必要。


 次。


 A列二段目。冬季救援、食糧配給、井戸水、医療費免除。計三十七件。緊急性高かった可能性あり。現在は経過確認要。


 カイルが「緊急性高かった可能性あり」と書いた時、少し手が止まった。


 緊急だった。


 でも、十年経っている。


 間に合わなかったものが、ここにもある。


 リディアは静かに言った。


「現在の状態確認を、別欄に」


「はい」


 カイルは書き足す。


 現在状況確認要。


 救援米を求めた村は、今どうなっているのか。

 井戸水を訴えた人々は、生きているのか。

 医療費免除を求めた家族は、助かったのか。


 すぐには分からない。


 けれど、分からないことも記録する。


 分からないまま、分かったふりをしない。


 それが、今日の約束だった。


 ミリアが、整理帳を見ながら呟いた。


「お姉様は、余白にたくさん書いています」


「何を?」


 リディアが尋ねると、ミリアは一行を指した。


 この願いは、受理できない部分と調査すべき部分を分けること。


 次の余白。


 怒りの言葉の下に、恐怖がある。


 さらに。


 嘘かもしれない。けれど、嘘と決める前に、なぜ嘘を書かなければならなかったかを見る。


 リディアは、息を呑んだ。


 アレリア王女は、ただ同情していたのではない。


 冷静に読もうとしていた。


 怒りや恨みをそのまま正義にしない。

 けれど、怒りごと捨てもしない。


 誰かを傷つける願いでも、その奥に調査すべき事実があるかもしれない。


 それを分ける。


 だから制度が要る。


 ノアが静かに言った。


「受理してはならない願いを、願いごと捨てないための方法ですね」


 リディアは頷いた。


「はい」


 ミリアは、姉の余白を指でなぞった。


「お姉様は、優しいだけではなかったのですね」


 ヴァルターが答えた。


「はい」


 その声は、少しだけ苦しかった。


「優しいだけなら、私はあれほど恐れなかった」


 ミリアはヴァルターを見る。


「お姉様は、強かったのですか」


「強かった」


 ヴァルターは言った。


 そして少し間を置き、付け加えた。


「強すぎたのではなく、仕組みの必要を知っていました。そこが、怖かった」


 ミリアは静かに頷いた。


 目録作成は続く。


 B列一段目。奉公人保護願。計二十九件。本人危険あり。匿名希望多数。証言保護対象。


 B列二段目。未成年者保護、売買差止、帰郷願。計二十三件。優先確認必要。


 エルザの顔が険しくなる。


「子どもの紙が多いね」


 リディアも、胸が重くなった。


 テオやミナと同じような書類が、ここにある。


 今、どれほど間に合うのか。


 分からない。


 けれど、目録を作る。


 C列。事故、死亡、失踪。計六十八件。遺族申出可能性あり。死亡記録照合要。


 カイルの手が止まる。


「六十八……」


 声がかすれている。


 ノアが言う。


「休憩を入れます」


「でも」


「決めたはずです」


 ノアの声は静かだが、強かった。


「読んだ者を休ませる」


 リディアは頷いた。


「休みましょう」


 地下書庫で、一度作業を止めた。


 それも記録された。


 目録作成第一休止。理由:担当者負荷軽減。


 カイルは、自分でそれを書いて少し笑った。


「こんなことまで記録するんですね」


「必要です」


 リディアは答えた。


「休んだことも、続けるための手続きです」


 ミリアは、水を飲みながらアレリアの帳面を見つめていた。


 ふと、彼女が言った。


「お姉様は、休んだのでしょうか」


 誰も答えられなかった。


 机に残された乾いたインク壺。

 折れた羽ペン。

 途中で止まった整理帳。


 きっと、休めなかったのだ。


 制度を作る前に、彼女自身が制度のない場所で倒された。


 ミリアは、そっと帳面を閉じた。


「私たちは、休みます」


 その言い方が、どこか姉への約束のようだった。


 休憩の後、作業は再開された。


 そして、D列の棚に入った時、空気が変わった。


 札の色は金。


 王宮、貴族院、領主関係。


 ヴァルターが慎重に棚の封印を確認する。


「ここは、特に本文を読まないように」


 リディアは頷く。


 表題だけを見る。


 領主税額再計算願

 徴税吏暴行申立

 貴族家奉公契約解除願

 王宮薬剤処置再調査願

 第一王女殿下面会願

 王宮北棟搬出記録確認願


 最後の二つに、ミリアの手が震えた。


「面会願……」


 イリスが支える。


 リディアは、無理に読まない。


 表題だけ記録する。


 しかし、ひとつの封筒だけ、封印が割れていた。


 中身が半分見えている。


 そこに、見覚えのある名前があった。


 ダリオ・オルダ


 リディアは息を呑む。


「ダリオさんの?」


 ノアが封筒を見た。


「王宮嘆願処理記録補助者としての報告書かもしれません」


 ヴァルターが顔を強張らせる。


「それは、私も知らない」


 リディアは、慎重に封筒の表だけを確認する。


 第一王女アレリア殿下宛 嘆願処理不正に関する補助報告


 差出人。


 ダリオ・オルダ


 旧分類。


 EX-04移管済


 リディアは胸が強く鳴った。


 ダリオは、王女救済願の控えだけでなく、アレリア王女へ正式に報告しようとしていた。


 その報告も、ここに閉じ込められていた。


「存在確認を」


 リディアが言うと、カイルが記録する。


 D列三段目。ダリオ・オルダ作成補助報告書を確認。内容未読。関連度高。保全対象。


 記録保全印を押す。


 封筒が静かに光った。


 ミリアが呟いた。


「この人も、お姉様に届けようとしていたのですね」


「はい」


 リディアは答えた。


 そして、胸の中で思った。


 広間へ戻ったら、ダリオに伝えなければならない。


 あなたの報告は、ここにありました、と。


 そして、まだ読んでいません、と。


 それは、読まないことではない。


 順番を守ることだ。


 書庫の最奥に、ひときわ古い箱があった。


 札はついていない。


 ただ、青い布で包まれている。


 ヴァルターが眉をひそめる。


「これは、目録にない」


 ノアが台帳を開く。


「未登録です」


 リディアは、その箱に近づいた。


 近づくだけで、胸が重くなる。


 強い光ではない。


 むしろ、静かすぎる。


 箱の上に、小さな紙片が挟まっていた。


 アレリア王女の筆跡。


 最後に読むこと。


 ミリアが息を呑む。


「お姉様が……」


 リディアは、すぐに箱へ触れなかった。


 最後に読むこと。


 その言葉は、誘惑でもあった。


 ここまで来たなら、開けたくなる。

 何が入っているのか知りたくなる。


 だが、アレリア王女は順番を残した。


 最後に読むこと。


 なら、今ではない。


 ノアが静かに言った。


「目録だけにしましょう」


「はい」


 リディアは頷いた。


 カイルが記録する。


 未登録箱一件。青布包み。アレリア王女筆跡と思われる札『最後に読むこと』あり。内容未確認。開封保留。


 ミリアは、箱を見つめていた。


 目には涙がある。


 けれど、手を伸ばさない。


「最後に読むなら」


 ミリアは言った。


「最後まで進める仕組みを作ってからですね」


 リディアは、静かに微笑んだ。


「はい」


 アレリア王女が残した約束を、ミリアは守ろうとしている。


 全部を一度に読まない。


 順番を守る。


 読んだ人を休ませる。


 一人で救おうとしない。


 それが、この国で泣く人を減らすための、最初の手続きだった。


 目録作成は、ひとまず第一段階を終えた。


 カイルが件数をまとめる。


「地下第三書庫、第一存在確認」


 彼は声を整えて読み上げた。


「生活救済関連、七十九件。本人危険関連、五十二件。死亡・事故・失踪関連、六十八件。王宮・貴族院・領主関連、四十一件。危険願意含有、十三件。未分類、二十七件。未登録箱、一件」


 合計。


「二百八十件」


 誰も声を出さなかった。


 二百八十。


 数字にすれば、たったそれだけにも見える。


 だが、そのひとつひとつに泣いた人がいる。


 リディアは、アレリア王女の一文を思い出した。


 人の痛みは、数にすると軽く見える。


 だから、件数だけで終わらせてはいけない。


 しかし、件数を数えなければ、仕組みも作れない。


 ミリアが、静かに言った。


「二百八十の願い」


 ノアが答える。


「二百八十の入口です」


 リディアは頷いた。


「存在確認簿へ移します」


 カイルが記録する。


 エレノアが封緘手順を整える。


 ヴァルターが局長印を押す。


 リディアは、存在確認印を持った。


 ミリアが手を重ねる。


 ノア、カイル、エレノア、ヴァルターも、それぞれ手を添える。


 今回は、全員で押した。


 地下第三書庫内未開封嘆願群――存在確認


 印が、目録の表紙に沈む。


 書庫全体が、静かに光った。


 紙束が叫ぶことはなかった。


 ただ、少しだけ息をしやすくなったように見えた。


 ミリアは、アレリアの帳面をそっと閉じた。


「お姉様」


 彼女は、静かに言った。


「私は、この国で泣く人をゼロにはできません」


 涙が頬を伝う。


「でも、減らしたいです」


 リディアは、その横で頷いた。


「私もです」


 ノアが言う。


「私も」


 カイルも、小さく言った。


「私もです」


 イリス、エレノア、セシリア、エルザも、それぞれ頷いた。


 ヴァルターは、少し遅れて言った。


「私も、そのために記録します」


 それは、赦しではない。


 それでも、同じ方向を向く言葉だった。


 地下第三書庫の扉へ戻る時、リディアは最後に青布の箱を振り返った。


 最後に読むこと。


 その札は、静かにそこにあった。


 まだ読まない。


 まだ開けない。


 それでも、存在は確認した。


 リディアたちは目録を抱え、階段へ戻った。


 中央記録広間へ戻れば、また多くの人が待っている。


 民の嘆願の存在確認簿。

 地下第三書庫の目録。

 王女救済願の受付番号。

 EX-04運用規程の一時停止。


 やることは多すぎる。


 すぐに救える人ばかりではない。


 間に合わなかった願いもある。


 それでも、今日ひとつだけ変わった。


 泣く人を減らすという言葉が、祈りではなく、手続きになり始めた。


 階段の上から、昼の光が差していた。


 リディアは、目録を抱きしめる。


 そして、広間へ戻るために一歩を踏み出した。


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