第35話 浮かび上がる民の嘆願
EX-04運用規程
黒い紐で縛られたその紙束が、中央記録広間の記録扉から浮かび上がった瞬間、空気が変わった。
王女救済願。
王国嘆願制度改正案。
宮総保第七号。
薬剤記録。
未受理理由記録簿。
ここまで開かれてきた書類は、いずれも痛みを持っていた。
けれど、この紙束は違う。
痛みそのものではない。
痛みをどう隠すか、その手順を書いたものだった。
リディアは、暫定未受理再審査卓の前で息を止めた。
床には、前話で定めた四つの分類がまだ浮かんでいる。
正式未受理
保留
不完全未受理
不正未受理
その光が、黒い紐に触れている。
紐は、ゆっくりほどけていく。
ローディス・カイルが、低く言った。
「その規程は、王宮と庁舎の内部運用文書だ。公開審理の対象ではない」
ヴァルター・グレイスは、静かに紙束を見ていた。
「すでに対象です」
「局長」
「EX-04分類が、王女救済願、改革案、不存在処理、孤児院関連書類、婚約破棄届、養子縁組願に共通して使われている以上、運用規程の確認は不可避です」
カイル・ロムが震える手で記録した。
EX-04運用規程、関連処理根拠として開示対象に追加。
ローディスの視線が鋭くカイルへ向く。
だが、カイルはペンを止めなかった。
リディアは、再審査卓の上に現れた紙束に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、黒い紐が完全にほどけた。
紙束の表紙が開く。
最初のページに、古い文字が浮かんだ。
例外第四類処理規程
通称:EX-04
広間がざわめく。
通称。
正式な名前ではなかった。
最初から、隠語のように使われていた分類。
リディアは、ゆっくり読み上げた。
「例外第四類処理。通常受付、通常不受理、保留、返戻、再提出案内のいずれにも適さず、王国秩序、王家保全、貴族院均衡、領地安定、商業契約、家門維持に重大な影響を与える恐れがある嘆願、届出、申請を分類する」
読み終えた瞬間、広間のあちこちで小さな声が上がった。
王国秩序。
王家保全。
貴族院均衡。
領地安定。
商業契約。
家門維持。
言葉は整っている。
だが、その中に「提出者本人の保護」はなかった。
「民の救済」もなかった。
アレリア王女の改革案と、あまりにも違う。
リディアは次の項目を読む。
「対象となる書類は、受付記録を残さず、必要に応じて分類外保管、存在保留、不存在処理、代替紙処理のいずれかへ移管する」
ミリア王女の顔が青ざめた。
「代替紙処理……」
自分の原本が奪われ、白紙に未受理印を押された処理。
それは偶然でも、現場の混乱でもなかった。
規程にあった。
リディアは、喉の奥が熱くなるのを感じながら読み続ける。
「提出者本人への通知は、当該通知により混乱、暴動、家門毀損、王家不信、契約破綻、証言拡散の恐れがある場合、省略できる」
セシリアが息を呑む。
マルタが、リーナの手を強く握った。
エルザは、テオの肩を抱いたまま、低く唸るように言った。
「便利な言葉ばかりだね」
リディアはうなずきたくなった。
混乱。
家門毀損。
王家不信。
契約破綻。
証言拡散。
どれも、声を上げた側ではなく、声を受け取られると困る側の言葉だった。
カイルが記録しながら、かすれた声で言った。
「この規程だと……本人に知らせない理由が、いくらでも作れます」
ノアが静かに答えた。
「だから、EX-04は増えたのでしょう」
広間の床が、かすかに震えた。
再審査卓の上に置かれたEX-04運用規程のページが、ひとりでにめくれる。
次の見出しが現れた。
運用補助表
そこには、分類ごとの処理例が並んでいた。
家門維持に関わる婚姻届、婚約破棄届、離縁届
奉公契約の解除願、待遇改善願、未払い給金申立
孤児、未成年者、寡婦、病者による保護願
王宮、貴族院、領主、商会への告発
死亡、失踪、薬剤処置、事故処理に関する再調査願
読み上げながら、リディアの声が震えた。
これまで受け取ってきた書類が、そこに並んでいる。
セシリアの婚約破棄届。
マルタの絶縁届。
テオの養子縁組願。
ミナの面会希望届。
孤児院の進路調整簿。
王女救済願。
アレリア王女の薬剤記録。
ばらばらの事件ではなかった。
EX-04は、それらを最初から飲み込むために作られていた。
ローディスが言った。
「必要な規程だ」
その声は冷静だった。
「家門や契約に関わる書類を無制限に受理すれば、国は乱れる。奉公人が一斉に契約解除を求めれば、商会は崩れる。婚姻や相続に関する届出が不用意に通れば、貴族社会は混乱する。告発が真偽不明のまま広まれば、暴動になる」
リディアは、ローディスを見た。
「では、なぜ本人確認をしなかったのですか」
ローディスは答えない。
「なぜ理由を通知しなかったのですか」
沈黙。
「なぜ再提出の機会を示さなかったのですか」
さらに沈黙。
「それができないなら、せめて封緘記録を残すべきでした」
リディアは、EX-04運用規程を指さした。
「でも、この規程は逆です。どう残さないか、どう知らせないか、どう存在しなかったことにするかを書いている」
広間が静まった。
その静けさの中で、再審査卓の上の紙束がまた震えた。
ページの隙間から、細い紙片が一枚浮かび上がる。
リディアは息を呑んだ。
紙片には、かすれた文字で表題があった。
井戸水汚染申立――未受理
次の紙片。
橋崩落事故再調査願――未受理
さらに。
未払い給金申立――分類外
領主税額再計算願――不存在処理
農地境界再審査願――保管先不明
兵役遺族補償願――返戻記録なし
紙片は一枚、また一枚と浮かび上がる。
広間の床から。
記録扉の隙間から。
EX-04運用規程の余白から。
まるで、長い間押さえつけられていたものが、ようやく空気を得たように。
リディアは、声を失った。
これは、王女の件だけではない。
貴族の婚約破棄だけでもない。
孤児院だけでもない。
民の嘆願だ。
アレリア王女が読もうとした、民の声。
それが、次々と浮かび上がっている。
ミリアが、震える声で言った。
「お姉様が、読んでいたもの……」
リディアは、アレリア王女の部屋を思い出した。
大きな机。
積み上げられた嘆願書。
荒い文字で書かれた奉公契約の訴え。
税の計算が間違っているという村の嘆願。
読まれないと分かっている願いを、それでも書いた人がいるのです。
その声が、今、広間全体に戻ってきている。
紙片はさらに増えた。
村道修繕願――三度返戻後、EX-04
冬季救援米配給願――不完全未受理
坑道落盤事故証言書――受理禁止
港湾荷役人死亡補償願――不存在処理
寺院孤児引取願――分類外移管
医療費免除願――通知記録なし
傍聴席のあちこちから、声が漏れた。
「それ、うちの村の……」
「その坑道事故、聞いたことがある」
「港の事故は、病死扱いになったはずじゃ」
「救援米の願いは、出したって村長が言っていた」
ざわめきは、次第に広がっていく。
単なる見物人だった傍聴者たちの顔が変わっていた。
誰かの話ではなく、自分たちの記憶に触れ始めている。
広間の空気が大きく揺れた。
ローディスが、鋭く言った。
「静粛に」
だが、ざわめきは簡単には収まらなかった。
なぜなら、紙が止まらないからだ。
次々と浮かび上がる。
母子扶助願――未通知
薬害調査願――保留期限超過
失踪奉公人捜索願――雇用主報告優先
徴税吏暴行申立――証言拡散防止のため分類外
火災補償再審査願――領主判断済として未受理
カイルの手が震えた。
「書ききれません」
その声には、恐怖があった。
リディアも同じだった。
目の前に浮かぶ嘆願の数が多すぎる。
すべてを今ここで読むことはできない。
すべてを審理することもできない。
けれど、無視することもできない。
このまま放置すれば、また闇へ落ちる。
ノアが低く言った。
「リディア様、飲まれないでください」
「飲まれる?」
「民の嘆願は重いです。アレリア殿下が一人で背負おうとした重さです」
リディアは息を詰めた。
そうだ。
アレリア王女は、これを一人で読んでいた。
机に積み上がった紙束を。
助けてほしい。
返してほしい。
調べてほしい。
信じてほしい。
そのすべてに目を通そうとした。
優しいからではない。
強いからでもない。
仕組みにしなければ、一人が潰れると分かっていたからだ。
リディアは、再審査卓に手を置いた。
ここで自分まで全部を背負おうとしてはいけない。
それでは、アレリア王女と同じ場所で倒れる。
必要なのは、仕組みだ。
「カイルさん」
「はい」
「全部を書き写そうとしないでください」
カイルが顔を上げる。
「でも、記録しないと」
「一覧として存在確認を取ります。個別内容は番号化してください」
カイルは、はっとした。
「番号化……」
「はい。浮かび上がった嘆願を、まず受付番号ではなく、存在確認番号として記録します。内容、分類、元の提出先、現在の処理状態だけを一覧に」
ノアが頷く。
「継続受付の前段階ですね」
リディアは言った。
「まだ受け取れません。まだ読めません。でも、存在したことだけは記録する」
ミリアが、小さく頷いた。
「一人で読まないために」
「はい」
リディアは、再審査卓の上の新しい印を見る。
再審査印の横に、いつの間にかもう一つの小さな印があった。
印面には、こう刻まれている。
存在確認
昼の印だ。
カイルが、震えながら新しい台帳を開く。
「存在確認簿を作ります」
エレノア・ヴィスが、式典管理官として前へ出た。
「王宮式典管理官として、存在確認簿の作成を補助します。傍聴席の書記経験者を臨時記録補助に回してください」
庁舎側の席から、数名の職員が立ち上がった。
中には、リディアを知らないと言った門番の姿もあった。
彼は戸惑いながらも、記録用紙を受け取っている。
リディアの胸が少し熱くなった。
少しずつだ。
少しずつ、昼の人たちが動き始めている。
ヴァルターが指示を出す。
「浮上した嘆願は、番号、表題、旧分類、処理状態、提出者属性のみ記録。内容の詳細読解は後回し。重複を避けるため、光の色ごとに分ける」
ノアが補足する。
「赤は本人危険あり。青は生活救済。金は王宮、貴族院関係。灰は死亡、事故、失踪。黒は受理禁止分類。混色は要注意」
カイルが驚いたようにノアを見る。
「そんな分類が」
「夜間窓口では、色で重さが分かることがあります」
ノアは静かに答えた。
「昼の記録でも使えるなら、使ってください」
リディアは、その言葉に胸が震えた。
夜の知恵が、昼の手続きになる。
これこそが、夜間窓口を昼の王宮へ持ち込むということなのだ。
存在確認印が、再審査卓の上で光った。
リディアはそれを手に取る。
重さは、受理印ほどではない。
けれど、軽くもない。
存在したことを認める。
それは、救うことではない。
解決でもない。
だが、消されないための最初の一歩だ。
リディアは、浮かび上がった紙片の束に印を押した。
存在確認
その瞬間、広間の床に散らばっていた紙片が、次々と薄い光の枠に収まっていく。
番号が振られていく。
民嘆願存在確認一号
民嘆願存在確認二号
民嘆願存在確認三号
番号は増えていく。
十。
二十。
五十。
百。
カイルと臨時記録補助たちが、必死に書いている。
広間の人々は、もう騒がなかった。
ただ、自分たちの目の前で浮かび上がる民の嘆願を見ていた。
そこには、華やかな王宮の言葉はなかった。
多くは、震える字だった。
村の名。
家族の名。
事故の日付。
返してほしい土地。
会わせてほしい子ども。
払ってほしい給金。
調べてほしい死。
ローディスは、その様子を冷ややかに見ていた。
「数を並べれば、正義になると思うのか」
リディアは、顔を上げる。
「いいえ」
「なら、これは何だ」
「入口です」
リディアは答えた。
「まだ正義ではありません。救済でもありません。ただ、ここに書いた人がいたという入口です」
ローディスは笑わなかった。
ミリアが、静かに言った。
「私は、十年前、その入口に立っていました」
広間が静まる。
「でも、扉は閉められました」
彼女は、浮かび上がる民の嘆願を見つめた。
「この人たちも、同じだったのですね」
ミリアの声は震えていた。
「王女だから特別だったのではなく、王女でさえ閉められた。なら、民の人たちは、どれほど閉められてきたのでしょう」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
アレリア王女の改革案が、ふわりと浮かび上がる。
余白に、金色の文字が現れた。
民の嘆願は、王宮を責めるためだけにあるのではありません。
続いて。
王宮が、民から何を預かっているのかを忘れないためにあります。
ミリアが涙をこぼした。
リディアも胸が詰まった。
アレリア王女は、民の嘆願を読んでいた。
それは、王宮を壊すためではなかった。
王宮が何の上に立っているのかを忘れないためだったのだ。
リディアは、存在確認簿の最初のページを見た。
そこには、すでに百を超える番号が並んでいる。
けれど、まだ終わらない。
紙片は、さらに浮かぶ。
そのうちの一枚が、他の紙より強く光った。
色は、赤と金が混ざっている。
ノアが低く言った。
「注意してください」
その紙片は、再審査卓の中央へゆっくり降りてきた。
表題が浮かぶ。
アレリア王女宛 民嘆願束控え
ミリアが息を呑む。
「お姉様宛……?」
紙片ではなかった。
薄い紙が何枚も束ねられた控え。
表紙には、アレリア王女の筆跡で短いメモがあった。
すぐには救えない。けれど、忘れてはならない。
リディアは、その文字を見つめた。
その下に、分類があった。
EX-04移管予定
ヴァルターが息を呑む。
「これは……」
リディアは彼を見る。
「知っているのですか」
ヴァルターは、苦しそうに目を伏せた。
「アレリア殿下が、最後にまとめていた民の嘆願束です」
ミリアの顔が青ざめる。
「最後に……」
「改革案に添付する予定だった実例集です」
ヴァルターは言った。
「制度が必要である根拠として、殿下が選んだ嘆願の控えです」
リディアは、胸が強く鳴るのを感じた。
アレリア王女は、ただ条文を書いていたのではない。
具体的な民の嘆願を添えて、制度がなぜ必要なのかを示そうとしていた。
その実例集が、EX-04へ移管される予定だった。
つまり、改革案だけではなく、改革案の根拠となる民の声まで消されようとしていたのだ。
ローディスが、低く言った。
「それは、開くべきではない」
リディアは、彼を見る。
「なぜですか」
「そこには、選ばれた嘆願しかない。王女が自分の理想に合うものを集めた偏った資料だ」
「なら、開いて確認しましょう」
「民の実名がある」
「必要なら伏せます」
「領主、商会、貴族の名もある」
「それも記録の一部です」
ローディスの声がさらに低くなる。
「開けば、収拾がつかなくなる」
リディアは、答えた。
「収拾がつかなくなるほど、隠されていたのですね」
広間が静まる。
ミリアが、アレリア王女のメモに触れた。
「お姉様が、忘れてはならないと書いたなら」
声は震えていた。
「私は、忘れたくありません」
ノアが静かに言った。
「ただし、全件を読むのは危険です」
リディアは頷く。
「存在確認をします。内容は概要まで。個人名は必要なところだけ伏せます」
エレノアが式典管理官として頷く。
「民の嘆願束控え、個人名保護付き存在確認として扱うのが妥当です」
カイルが記録する。
リディアは存在確認印を手にした。
ミリアが、その手に重ねる。
「一緒に」
リディアは頷いた。
二人で、アレリア王女宛の民嘆願束控えに印を押した。
存在確認
その瞬間、束の表紙が開いた。
中から、無数の声が一度に広がるかと思った。
しかし、そうはならなかった。
代わりに、アレリア王女の筆跡が、最初のページに浮かんだ。
すべてを一度に読んではならない。
リディアは息を止めた。
次の行。
人の痛みは、数にすると軽く見える。けれど、一つずつ読むと、読む者が潰れる。
ノアが目を伏せた。
ミリアは、涙を浮かべてその文字を追う。
さらに続く。
だから制度が要る。順番が要る。記録が要る。担当者を交代させる仕組みが要る。読んだ者を休ませる仕組みが要る。
リディアは、胸を打たれた。
アレリア王女は、分かっていた。
民の嘆願を読むことの重さを。
読む側も壊れることを。
だから、善意ではなく制度にしようとした。
ミリアが、震える声で言った。
「お姉様は、自分が潰れそうだと分かっていたのですね」
ヴァルターが、静かに答えた。
「はい」
「それでも読んでいた」
「はい」
「でも、本当は一人で読みたかったわけではなかった」
ヴァルターは、少しだけ目を伏せた。
「そうです」
ミリアは、涙を拭った。
「なら、私たちは一人で読んではいけません」
リディアは頷いた。
「はい」
ミリアは、広間を見回した。
「この民の嘆願束は、今日ここで全部読みません」
ローディスが、わずかに目を細める。
ミリアは続けた。
「でも、存在したことを記録します。消されたことを記録します。順番を決めて、読める人を増やして、提出者を守る方法を考えます」
その声は、まだ弱い。
だが、はっきりしていた。
「それがお姉様の改革案なのだと思います」
アレリア王女の改革案が光った。
再審査卓の上に、新しい文言が浮かび上がる。
民嘆願存在確認簿 作成開始
カイルが読み上げる。
「民嘆願存在確認簿、作成開始」
広間に、低いざわめきが広がった。
だが、今度のざわめきは恐怖だけではなかった。
戸惑い。
怒り。
不安。
そして、かすかな希望。
傍聴席の中から、一人の老女が立ち上がった。
「発言を……してもよろしいでしょうか」
彼女は庁舎職員でも、貴族でも、王宮関係者でもない。
小さな布包みを抱えた、ただの民に見えた。
エレノアが、リディアを見る。
リディアはうなずいた。
「お名前を、言える範囲で」
老女は、震える声で答えた。
「サラと申します。東市場で、野菜を売っています」
カイルが記録する。
サラは、布包みから一枚の紙を取り出した。
「十年前、息子が橋の崩落で死にました。再調査願を出しました。けれど、返事はありませんでした」
広間が静まる。
サラは、浮かび上がった紙片の中の一枚を指さした。
橋崩落事故再調査願――未受理
「あれは、私の紙です」
リディアの胸が締めつけられた。
民の嘆願が、紙から人へ戻った瞬間だった。
番号ではなく、表題ではなく。
サラという人の声になった。
「今日、全部読まれなくてもいいです」
サラは言った。
「でも、あったと記録してください。息子の死を、私が調べてほしいと願ったことを」
リディアは、存在確認印を握りしめた。
「記録します」
サラの紙片が、存在確認簿の一号ではなかった。
すでに番号は振られている。
だが、その横に、新しい欄が浮かぶ。
提出者本人申出あり
カイルが記録した。
サラは、涙を拭きながら座った。
その後ろで、別の人が立ち上がりかける。
さらに別の人も。
リディアは手を上げた。
「今日は、全員の詳細を聞くことはできません」
広間が少しざわめく。
リディアは続けた。
「でも、申出の窓口を作ります。存在確認簿に番号を付け、後日、本人確認と保護の上で順番に聞き取ります」
ノアが静かに補足する。
「無理に今、全員が話す必要はありません。話すことにも負担があります。名前を伏せることもできます。まず、存在確認を」
この言葉に、何人かが安堵したように座った。
アレリア王女の言葉が、また思い出される。
読んだ者を休ませる仕組みが要る。
それは、話す者にも必要だ。
ミリアが、サラの方へ向かって深く頭を下げた。
王女が、市場の老女へ。
広間が息を呑む。
「あなたの願いを、十年遅れて見つけました」
ミリアは言った。
「すぐに答えを出せません。でも、もう存在しなかったことにはしません」
サラは、涙を流しながら何度も頭を下げた。
リディアは、その光景を見て胸が震えた。
これが、昼の窓口の始まりなのだ。
全員をすぐ救う場所ではない。
でも、なかったことにしない場所。
ローディスは、沈黙していた。
彼の前には、まだEX-04運用規程が開かれている。
その規程から、民の嘆願が浮かび上がっている。
そして、その一枚に、本人が名乗り出た。
もう、単なる紙の束ではない。
リディアは、再審査卓に手を置いた。
「EX-04運用規程について、暫定判断を求めます」
広間が静まる。
「この規程は、未受理処理の正式運用を装いながら、提出者本人への通知省略、代替紙処理、不存在処理を可能にしていました。現時点で、多数の民の嘆願が同規程により処理されていたことが確認されています」
カイルが記録する。
リディアは続けた。
「よって、暫定未受理再審査卓として、EX-04運用規程を停止し、既存のEX-04処理済み案件を存在確認簿へ移すことを提案します」
広間が大きくざわめいた。
EX-04を停止する。
それは、ただ一つの事件を審理することとは違う。
王宮、庁舎、貴族院、領地、商会、家門。
あらゆる場所に影響が出る。
ローディスが、低く言った。
「止めれば、未処理の危険案件が表へ出る」
「だから存在確認簿です」
リディアは答えた。
「すぐに公開するのではありません。保護し、分類し、順番を決めて読む」
「理想論だ」
「いいえ」
ミリアが言った。
その声は、静かだった。
「お姉様の理想を、手続きにします」
広間の空気が震えた。
ヴァルターが、ゆっくりと立ち上がる。
「記録監査局長として、EX-04運用規程の一時停止に賛成します」
広間がざわめく。
エレノアも言った。
「式典管理官として、同規程のもとで開示妨害が起きた事実を確認しました。一時停止は妥当です」
貴族院法務委員のエドガー・ランスも、重い表情で立った。
「貴族院法務委員として、即時全面廃止には慎重であるべきと考えます。しかし、現行運用の一時停止と、存在確認簿への移管には賛成します」
ローディスの表情が険しくなる。
リディアは、再審査印を見た。
そして、存在確認印の隣に、新たな印が現れていることに気づいた。
印面には、短くこうあった。
停止
重い印だった。
リディア一人では持てない気がした。
ノアが手を添える。
ミリアも添える。
ヴァルター、エレノア、エドガー、カイル。
それぞれが手を添えた。
多すぎる手。
けれど、それでよかった。
これは一人で押してよい印ではない。
リディアは、息を吸った。
「EX-04運用規程」
カイルが読み上げる。
「不正未受理および不完全未受理を生む運用が確認されたため、公開審理終了まで一時停止。既存案件は、民嘆願存在確認簿へ移管」
リディアたちは、停止印を押した。
重い音が、広間に響いた。
一時停止
EX-04運用規程の表紙に、その印が沈む。
同時に、広間に浮かんでいた民の嘆願が、一斉に光った。
消えるのではない。
整列していく。
番号を持ち、分類を持ち、存在確認簿へ移っていく。
民の嘆願が、初めて「なかったことにされない場所」を得た。
リディアは、胸を押さえた。
膝が少し震えている。
ミリアが隣で、静かに泣いていた。
「お姉様」
彼女は呟いた。
「全部は救えません。でも、始まりました」
アレリア王女の改革案が、淡く光った。
余白に、一文が浮かぶ。
始まりは、受理よりも小さくてよい。
続いて。
ただし、消さないこと。
リディアは、その文字を見つめた。
消さない。
それが今日、できた最初のことだった。
その時、中央記録広間の扉が開いた。
外から、新しいざわめきが流れ込む。
庁舎前に集まっていた人々だ。
彼らは、広間の中で何が起きているのか、まだすべては知らない。
だが、掲示板に新しい告知が浮かび上がったのだろう。
カイルが、震える声で読み上げた。
「庁舎前掲示。民嘆願存在確認簿、申出受付開始」
ローディスが立ち上がる。
その顔は、怒りに冷えていた。
「開けたな」
彼は、リディアたちを見た。
「君たちは、閉じていたものを開けた」
リディアは、再審査卓に手を置いた。
「はい」
声は震えていなかった。
「浮かび上がったものを、もう沈めません」
広間の床には、まだ多くの光が残っていた。
民の嘆願。
ひとつひとつは小さく、弱く、震える紙。
けれど、集まれば、王宮の床を照らすほどの光になった。




