第34話 未受理は正式な処理か
王宮総務卿室による、記録外追加指示の経緯確認。
カイル・ロムが読み上げたその言葉に、中央記録広間の空気が重く沈んだ。
公文書開示式典によって、三つの記録は開かれた。
侍医局記録。
王宮総務記録。
薬剤庫払出記録。
そこには、同じ夜の同じ処方について、違う内容が残っていた。
侍医局記録では、眠花液は通常量。
王宮総務記録では、眠花液は通常量三倍、白鈴草抽出剤を併用。
薬剤庫払出記録では、さらに赤月根粉末が記録外追加されている。
そして、追加指示の欄には。
総務卿室口頭指示
その文字があった。
ミリア王女は、王女救済願の原本を胸に抱いていた。
その顔は青白い。
けれど、もう椅子に座らされる王女の顔ではなかった。
彼女は、自分の願いが正式再審査対象になった瞬間を見た。
姉の死にまつわる記録が、病死の一言では終わらないことを見た。
だから、震えながらも立っていた。
ローディス・カイルは、記録卓の奥で静かに口を開いた。
「まず確認しておきたい」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「王宮総務卿室が、王族の処置について侍医局と連携すること自体は、不自然ではない。特別処方、面会制限、記録の保全。いずれも王家を守るための正式な管理業務である」
カイルが記録する。
ローディスは、記録されることをもう止めなかった。
記録されてもなお、自分の言葉で上書きするつもりなのだろう。
「そして、未受理という処理もまた、正式な行政処理の一つである」
その言葉に、広間がざわめいた。
未受理。
今夜から今日にかけて、何度も見てきた言葉。
リディアは、胸元の内部告発受付控えを握った。
ローディスは続けた。
「不備のある書類、管轄外の申請、提出者の判断能力に疑義がある願い、王家や国家の安全に関わる危険な訴え。そうしたものをそのまま受理すれば、混乱を招く。ゆえに、未受理、保留、受理禁止、不存在処理は必要な処理だ」
ローディスの視線が、リディアに向く。
「君たちは、未受理という言葉を悪のように扱っている。だが、未受理は正式な処理だ」
その一言は、広間の空気を大きく揺らした。
リディアは、すぐには答えなかった。
なぜなら、ローディスの言葉の一部は正しいからだ。
書類には、不備がある。
受理できない申請もある。
誰かを傷つける願いを、そのまま叶えることはできない。
未受理という処理自体が、すべて間違いなわけではない。
そこを否定してしまえば、こちらの言葉もまた、ただの感情論に見えてしまう。
ノアが静かにリディアを見る。
答えるのは、彼ではない。
臨時受理官として、告発者として、この場に立つリディアだった。
リディアは、ゆっくり息を吸った。
「はい」
広間が静まる。
「未受理は、必要な処理です」
ローディスの目が細くなる。
傍聴席に戸惑いが広がった。
テオが思わず身を乗り出しかけ、エルザに袖を掴まれる。
ミリアも、不安そうにリディアを見る。
リディアは続けた。
「不備がある書類は、そのまま受理できません。危険な願いもあります。誰かを殺してほしい、消してほしいという申請を、そのまま叶えることはできません」
封印庫で見た黒い箱の札を思い出す。
領主暗殺嘆願――受理禁止
相続人抹消願――受理禁止
婚約者排除願――受理禁止
あれらをすべて同じ重さで受け取ることはできない。
「でも」
リディアは、記録卓の上の通達書を見た。
代替紙による未受理処理を行うこと。
「正式な未受理には、条件があります」
カイルがペンを構える。
リディアは、一つずつ言った。
「提出された書類を確認すること。
不受理または未受理の理由を記録すること。
提出者に通知すること。
再提出の可否を示すこと。
誰が判断したのかを残すこと」
アレリア王女の改革案が、淡く光った。
リディアは、その紙へ手を伸ばす。
「アレリア王女の改革案にも、同じことが書かれています」
彼女は読み上げた。
「第一条。嘆願、届出、救済願その他民より提出される書類について、受付者は受領または不受理の理由を記録しなければならない」
紙の文字が、中央記録広間の空中に浮かび上がる。
続いて、第二条。
「不受理または保留とした書類については、提出者本人に対し、その理由および再提出の可否を文書で通知すること」
リディアは顔を上げた。
「これを満たしているなら、未受理は正式な処理です」
ローディスは黙っていた。
「でも、ミリア殿下の王女救済願は違いました」
ミリアの手が、原本を強く握る。
「原本は奪われました。代替紙に未受理印が押されました。提出者本人には、未受理の理由も、原本がどこへ行ったかも知らされませんでした。本人の発言は、療養記録へ編入されました」
リディアは、通達書を指さした。
「これは、正式な未受理ではありません」
広間が静まる。
「未受理という名前を使った、隠蔽です」
その言葉に、傍聴席から小さな息を呑む音が広がった。
ローディスの表情は変わらない。
だが、白い手袋の指が、わずかに動いた。
「強い言葉だ」
彼は言った。
「だが、王族の安全に関わる場合、通常の通知や記録手続きを省略することはあり得る」
ヴァルターが静かに言う。
「省略する場合にも、省略理由を記録する必要があります」
ローディスの視線が彼へ向く。
ヴァルターは続けた。
「王宮記録監査規程、保全処理条項。機密保持のため通常手続を省略する場合、処理理由、責任者、保管先を封緘記録に残すこと。後日、監査請求があれば開示対象とすること」
カイルが急いで記録する。
リディアはヴァルターを見た。
彼は、静かにローディスを見ている。
「王女救済願について、その封緘記録はありません」
ヴァルターは言った。
「あるのは、受理禁止通達と、代替紙処理の指示だけです」
ローディスの声が低くなる。
「封緘記録は、王家保全により上位封鎖された」
「なら、その上位封鎖記録を示してください」
ヴァルターは即座に返した。
広間がざわめく。
ローディスは沈黙した。
その沈黙を、カイルが記録する。
「王家保全による上位封鎖記録の提示要求。現時点で提示なし」
ローディスは、カイルを見た。
だが、カイルはもう目を逸らさなかった。
リディアは、再審査卓に手を置いた。
「暫定未受理再審査卓として、ここで確認します」
彼女は、通達書、王女救済願、薬剤記録、療養記録を順に見た。
「未受理は正式な処理か」
その問いを、広間全体に向けて置く。
「正式な処理なら、理由があるはずです。記録があるはずです。通知できない場合でも、なぜ通知できないのか、後で確認できる痕跡があるはずです」
彼女の声は、だんだん落ち着いていった。
「しかし、ここにある処理は違います。原本を奪う。代替紙に印を押す。提出者の言葉を別分類に移す。受付者を死亡扱いにする。改革案を不存在処理にする。告発者を処分対象へ変える」
自分の内部告発受付控えが光る。
「それは正式処理ではありません」
リディアは、はっきり言った。
「正式な処理に見せかけた、記録の切断です」
その瞬間、再審査卓の上に新しい文字が浮かんだ。
争点:未受理処理の適法性
カイルが読み上げる。
「争点追加。未受理処理の適法性」
広間がどよめいた。
ローディスは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「では、君たちは全ての未受理を調べるつもりか」
「必要なものを調べます」
「誰が必要と判断する」
「再審査卓です」
「暫定の卓が?」
「はい」
リディアは答えた。
「暫定だからこそ、記録します。どの案件を扱い、どの案件を扱わないのか。その理由も」
ローディスは、薄く笑った。
「結局、君たちも選別するのだな」
痛いところだった。
リディアは、一瞬だけ言葉に詰まる。
すべてを受け取ることはできない。
すべてを同時に審理することもできない。
必ず、選ぶことになる。
それは、ローディスたちがしてきたことと、どこが違うのか。
その問いは、軽く扱ってはいけない。
リディアが答えを探していると、ミリアが静かに言った。
「違いは、隠さないことです」
広間の視線がミリアへ向く。
ミリアは原本に手を置いたまま、震える声で続けた。
「選ばなければならないことは、あると思います。全部を一度に読むことはできません。危険な願いもあると思います」
彼女は、少しだけ息を整えた。
「でも、選んだことを隠してはいけないのだと思います。読まなかった理由も、後回しにした理由も、誰がそう決めたのかも」
アレリア王女の改革案が、ふわりと光った。
ミリアは続ける。
「私は、十年間、理由を知らされませんでした。私の紙がどこへ行ったのかも、私の言葉が何に変えられたのかも、教えてもらえなかった」
彼女はローディスを見た。
「それは、選別ではありません。奪うことです」
広間が静まり返った。
ローディスは、何も言わない。
その代わり、貴族院の席から一人の男が立ち上がった。
「発言を求めます」
カイルが記録する。
「貴族院、発言請求」
男は、五十代ほどの貴族だった。
名前を告げる。
「貴族院法務委員、エドガー・ランスです」
彼はローディス側の席に近いが、表情は慎重だった。
「この審理は、感情的ではありますが、重要な論点を含んでいます。未受理という処理が正式かどうかではなく、未受理の手続きが正しく行われたかを問うべきです」
リディアは彼を見た。
敵か味方か分からない。
だが、少なくとも論点をずらしてはいない。
エドガーは続けた。
「未受理が正式な処理であることは、行政上否定できません。しかし、原本差し替え、代替紙処理、提出者への通知欠如、記録分類の変更、これらが通常の未受理に該当するかは別問題です」
カイルが必死に書く。
エドガーはローディスを見る。
「総務卿。王女救済願について、未受理理由記録はありますか」
ローディスは沈黙する。
「提出者本人への通知記録は」
沈黙。
「代替紙を使用した理由の記録は」
沈黙。
エドガーは、ゆっくり頷いた。
「では、少なくとも現時点で、正式な未受理処理として必要な記録は提示されていない」
広間がざわめいた。
ローディスは、冷たい声で言った。
「貴族院法務委員が、王宮総務手続きに口を出すのか」
「公開審理の場です」
エドガーは答えた。
「しかも貴族院関係者の名が王女救済願に含まれている。貴族院も無関係ではありません」
バルツァー・レント。
その名を、誰もが思い出したのだろう。
貴族院席に緊張が走る。
ローディスの顔が、わずかに険しくなった。
リディアは、今の発言を逃さなかった。
「では、暫定再審査卓として提案します」
彼女はカイルを見る。
「未受理処理を三つに分けて記録してください」
「三つ?」
「はい」
リディアは、記録卓に向かって言った。
「一つ。正式な未受理。不備や管轄外、危険性など、理由が記録され、提出者へ通知される処理」
カイルが書く。
「二つ。保留。本人確認や追加資料が必要で、判断を先送りにする処理。これも理由と期限を記録する」
ミリアが頷く。
「三つ」
リディアの声が低くなる。
「不正未受理。原本の隠匿、差し替え、提出者への無通知、判断者の記録なし、分類の偽装、存在しないことにする処理」
広間が静まり返った。
カイルのペンが止まる。
ノアが静かに言った。
「続けてください」
カイルは、震える手で書いた。
未受理処理の暫定分類
一、正式未受理
二、保留
三、不正未受理
その文字が、再審査卓の上に浮かび上がる。
アレリア王女の改革案が強く光った。
余白に、新しい一文が現れる。
名前を分ければ、責任も分けられます。
リディアは息を呑んだ。
アレリア王女の筆跡。
ミリアが、その一文を見て涙ぐむ。
「お姉様……」
リディアは、静かに続けた。
「王女救済願は、現時点で三つ目に該当します」
ローディスが口を開く。
「断定が早い」
「では、必要記録を提示してください」
リディアは言った。
「未受理理由記録。提出者通知記録。代替紙処理理由。判断者一覧。保管先記録」
ローディスは黙った。
その沈黙を、今度は広間全体が見ていた。
沈黙も、記録になる。
カイルが、ゆっくり読み上げた。
「王女救済願について、正式未受理に必要な記録の提示を求める。現時点で提示なし」
ローディスの顔が冷たくなる。
「記録係。君は自分の立場を分かっているのか」
カイルの手が震えた。
だが、彼は答えた。
「はい」
声は小さかった。
けれど、広間は静かだった。
「今、記録係として立っています」
リディアは、胸が熱くなった。
カイルはもう、王女の涙を病状に変えるだけの記録係ではない。
今、自分の職をかけて、沈黙まで記録している。
その時、再審査卓の上に、別の書類が現れた。
一枚ではない。
数枚の細い紙片。
それぞれに、未受理印がある。
表題が浮かぶ。
未受理理由記録簿――抜粋
リディアは目を見開いた。
「これは……」
ヴァルターが低く言う。
「誰かが出しましたね」
紙片の端には、庁舎の保管印があった。
王宮ではない。
王都庁舎。
そのうちの一枚に、見覚えのある文字が浮かんでいる。
婚約破棄届 未受理理由:提出者意思確認不要。家長判断優先。
セシリアが息を呑む。
「私の……」
次の紙片。
養子縁組願 未受理理由:孤児院進路調整優先。申請者通知不要。
エルザが、テオの肩を抱いた。
さらに次。
面会希望届 未受理理由:対象児童の精神安定のため。本人通知不要。
ミナが小さく震える。
リディアは、紙片を見つめた。
未受理理由記録は、あった。
ただし、提出者へ通知されていない。
本人確認もされていない。
理由も、誰かの都合で書かれている。
「これは、正式な未受理ですか」
リディアは、ローディスではなく広間全体に問いかけた。
誰もすぐには答えなかった。
未受理理由は書いてある。
だが、それは本人の声を聞かず、通知もせず、上位者の都合を優先した理由だ。
ノアが静かに言った。
「理由が書かれているだけでは、正式とは言えません」
ヴァルターも頷く。
「理由、通知、本人確認、判断者の妥当性。すべてが必要です」
アレリア王女の改革案の第三条が光る。
リディアは、再審査卓に手を置いた。
「では、この紙片群は二つ目でも三つ目でもないかもしれません」
カイルが顔を上げる。
「では?」
「不完全未受理」
リディアは言った。
「理由はある。でも、本人に届いていない。本人確認がない。再提出の機会も示されていない」
カイルが書く。
四、不完全未受理
その文字が浮かび上がった瞬間、再審査卓の光が少し強くなった。
名前を分ければ、責任も分けられる。
アレリア王女の言葉が、また胸に響く。
ローディスは、低く言った。
「分類を増やせば、解決した気になるだけだ」
「いいえ」
リディアは答えた。
「今まで一つの『未受理』に押し込められていたものを、分けて読めるようにしているんです」
彼女は、王女救済願を見た。
「受理できない願い。後で確認すべき願い。理由だけ書いて本人に届かなかった願い。意図的に隠された願い」
そして、ミリアを見る。
「同じ未受理でも、違います」
ミリアは頷いた。
「私の願いは、隠されました」
セシリアが言う。
「私の届は、理由をつけて本人の意思を消されました」
エルザが続ける。
「私の養子縁組願は、孤児院の都合を優先された」
マルタが言う。
「私の絶縁届は、娘を守る目的を読まれませんでした」
それぞれの言葉が、再審査卓へ届いていく。
未受理という一語で隠れていた違いが、少しずつ形を持つ。
カイルは、分類表の下に追記した。
今後、未受理案件は分類名のみで処理せず、理由、通知、本人確認、判断者を併記することを暫定手続きとする。
エレノアが、それを見て頷いた。
「式典管理官として、公開審理内の暫定手続きとして妥当と認めます」
ヴァルターも言った。
「記録監査局として、記録対象とします」
ローディスが沈黙する。
その沈黙の中、再審査卓の上に置かれた王女救済願が光った。
紙の余白に、幼いミリアの筆跡が浮かぶ。
私は、受理してほしかった。
その下に、今のミリアの声のような文字が重なる。
でも、受理できないなら、せめて理由を教えてほしかった。
広間は、誰も声を出さなかった。
それは、未受理という処理の核心だった。
受け取れないこともある。
願いが叶わないこともある。
でも、理由も知らされず、存在も消され、自分が悪かったのだと思わされることが、人を壊す。
リディアは、静かに言った。
「未受理は正式な処理になり得ます」
ローディスを見て、続ける。
「けれど、あなたたちがしてきたことは、正式な処理ではありません」
広間の床に、四つの分類が浮かんだ。
正式未受理
保留
不完全未受理
不正未受理
そして、王女救済願の上には。
不正未受理疑い
その文字が刻まれた。
ローディスの顔が、初めてはっきりと歪んだ。
その時、記録扉が再び鳴った。
ごうん、と。
新たな紙束が、扉の奥から浮かび上がる。
それは、黒い紐で縛られていた。
表紙には、こう書かれている。
EX-04運用規程
リディアの背筋が冷えた。
ヴァルターが、低く呟く。
「出てきましたか」
ミリアが原本を抱きしめる。
ノアは台帳に手を置く。
ローディスは、今度こそ止めようとした。
「その規程は開くな」
しかし、再審査卓の上に浮かんだ四分類の光が、黒い紐に触れた。
紐が、ゆっくりほどけていく。
カイルが震える声で読み上げた。
「次項、EX-04運用規程の確認」
リディアは、息を吸った。
未受理は正式な処理か。
その問いの答えは、まだ途中だった。
次に読むべきは、未受理を隠蔽へ変えた運用そのものだった。




