第27話 王宮の奥の部屋
公開審理まで、あと数時間。
夜間未受理窓口の硝子灯は消えたままだった。
けれど、受付室は完全な闇ではない。
扉の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。
夜の中でしか見えなかったはずの窓口に、昼の光が入り始めていた。
リディアは、カウンターの上に並んだ書類を見つめた。
王女救済願の原本。
アレリア王女の改革案の写し。
封印庫内不存在処理記録群の存在確認。
聖ユレーネ孤児院関連書類。
セシリアの婚約破棄届。
マルタの絶縁届。
テオの養子縁組願。
ミナの面会希望届。
そして、リディア自身の内部告発受付控え。
これらを、正午に王都庁舎中央記録広間へ持っていく。
夜の窓口で読まれた願いを、昼の広間へ。
そう考えただけで、胸が震えた。
ミリア王女は、カウンターの前に立っていた。
原本を抱きしめたまま、消えた硝子灯を見上げている。
「夜が、終わるのですね」
小さな声だった。
リディアは答えに迷った。
終わる、と言っていいのだろうか。
夜間未受理窓口の灯りは消えた。
けれど、未受理の願いがすべて消えたわけではない。
まだ読まれていない書類はある。
まだ助けを求める声はある。
まだ昼の制度は変わっていない。
ノアが、静かに言った。
「終わるというより、移るのだと思います」
「移る?」
「夜にしか置けなかったものを、昼へ移す」
ミリアは、その言葉をゆっくり受け取った。
「昼へ……」
彼女の指が、原本の端をなぞる。
「私は、ずっと王宮の奥の部屋にいました。昼が来ても、私の部屋だけ夜みたいでした」
イリスが目を伏せる。
リディアは、ミリアの白い療養室を思い出した。
薄いカーテン。
白い花。
薬草棚。
刺繍台。
小さな木箱。
外から見れば静かな王女の部屋。
けれど本当は、言葉を閉じ込める場所だった。
療養という名の未受理。
泣けば病状。
訴えれば妄想。
助けを求めれば悪夢。
王宮の奥の部屋は、ミリア王女自身を未受理にしていた。
カイルが帳簿を抱え直した。
「公開審理には、殿下の療養記録も必要です」
ミリアの肩が小さく震える。
リディアはカイルを見る。
「療養記録?」
「はい」
カイルの顔色は悪かった。
おそらく彼自身が、何度も書いてきた記録なのだろう。
「殿下が夜におっしゃった言葉、侍医長の診断、面会制限の理由、草案写しの管理記録。すべて、王宮北棟の部屋に保管されています」
イリスが息を呑む。
「ですが、あれは侍医長の管理下です」
「正午までに消される可能性があります」
カイルは言った。
「封印庫が開いたことは、もう王宮中に伝わっています。総務卿側は、審理前に不都合な記録を整理するはずです」
整理。
その言葉に、リディアは胸が冷えた。
この人たちは、何かを消す時、いつも整った言葉を使う。
整理。
保全。
療養。
保護。
受理禁止。
けれど、その下で消されるのは人の声だ。
「では、王宮の部屋へ戻る必要がありますね」
リディアが言うと、ミリアが顔を上げた。
「私の部屋へ?」
「はい」
ミリアの目に、恐怖が浮かぶ。
さっき出てきたばかりの部屋だ。
十年間閉じ込められていた場所へ、また戻る。
それがどれほど苦しいことか、リディアにも分かった。
ノアが静かに言う。
「無理に殿下が同行する必要はありません。イリス様とカイル様が場所を知っているなら、私たちだけで」
「いいえ」
ミリアは、ノアの言葉を遮った。
声は震えていた。
「私が行きます」
「殿下」
イリスが心配そうに呼ぶ。
ミリアは、小さく息を吸った。
「私は、ずっとあの部屋にいました。でも、あの部屋に何があったのか、私は見ないようにしていました」
彼女は原本を抱く手に力を込める。
「お姉様の草案を箱に隠して、夜にだけ開けて、朝になるとまた閉じて。私の言葉は療養記録になって、私自身も、その記録を読まないふりをしていました」
その目に、涙がにじむ。
「でも、公開審理で話すなら、私が閉じ込められていた部屋を、私自身が見なければいけないと思います」
リディアは、胸が痛くなった。
ミリアは、もう守られるだけの人ではない。
怖くても、自分の声を取り戻そうとしている。
ノアは、深く頷いた。
「承知しました」
カイルが帳簿を開く。
「王宮北棟へ戻る道は、まだ残っていますか」
ノアは、消えた硝子灯を見上げた。
「窓口の灯りは消えましたが、公開審理請求が受理されたことで、昼側の道が一時的に開いています」
「昼側の道?」
「夜の扉ではなく、記録上の通路です」
ノアが台帳に手を置くと、ページがひとりでにめくれた。
そこに文字が浮かぶ。
公開審理準備手続
関連記録搬出経路:王宮北棟療養区画
受付室の扉が、ゆっくり開いた。
そこに広がっていたのは、闇ではなかった。
白い廊下。
王宮北棟の廊下だ。
朝の光が、細長い窓から差し込んでいる。
リディアは、内部告発受付控えを胸元にしまった。
「行きましょう」
ミリアは頷いた。
原本を抱いて、扉をくぐる。
リディア、ノア、イリス、カイルも続いた。
王宮北棟の廊下は、さきほどより騒がしかった。
遠くで人の声がする。
衛兵の足音。
書類を運ぶ音。
誰かが命令を飛ばしている。
封印庫の開封。
公開審理請求の受理。
ミリア王女の療養室からの退出。
王宮は、静かに揺れ始めている。
ミリアの部屋の前にいた護衛たちは、先ほどと同じ二人だった。
彼らは、ミリアの姿を見ると目を見開いた。
「殿下……」
「中に入ります」
ミリアが言った。
護衛は一瞬戸惑ったが、道を開けた。
その表情には、もう以前のような迷いだけではなかった。
彼らも聞いたのだろう。
王女が自分の言葉を読み上げたこと。
記録係が療養記録ではなく発言記録を書いたこと。
封印庫が開いたこと。
白い扉が開く。
王宮の奥の部屋。
リディアは、もう一度その部屋へ入った。
薄い布のかかった窓。
白い花。
薬草棚。
刺繍台。
小さな机。
寝台。
そして、ミリアが十年間座っていた窓辺の椅子。
最初に来た時よりも、部屋は広く見えた。
いや、違う。
ミリアが立っているからだ。
部屋の主が、ようやく椅子から離れて立っている。
それだけで、部屋の意味が少し変わって見えた。
イリスが、机の引き出しへ向かった。
「療養記録は、こちらに」
引き出しを開ける。
そこには、薄い帳簿が何冊も収められていた。
表紙には、整った文字でこう書かれている。
第二王女ミリア殿下 療養記録
リディアは、胸が重くなるのを感じた。
イリスが帳簿を一冊取り出す。
だが、その瞬間、表紙の文字がにじんだ。
黒い線が走る。
ページの端が、灰のように崩れ始める。
「消えている」
カイルが叫ぶように言った。
リディアは駆け寄る。
帳簿の文字が、次々と薄れていく。
悪夢あり
情緒不安定
同語反復
療養継続
その下に、本来ミリアが言ったはずの言葉があったのだろう。
しかし、そこが黒く潰れている。
イリスの顔が青ざめた。
「侍医長が、遠隔処理を始めています」
「止められますか」
リディアが尋ねると、カイルが帳簿を開いた。
「記録係としての写しを作ります。でも、元の言葉が消えきる前に読まないと」
ミリアが、帳簿に近づいた。
手が震えている。
イリスが止めようとする。
「殿下、これは」
「読ませて」
ミリアは言った。
その声は怖がっていた。
けれど、決意していた。
「私の言葉でしょう」
カイルが帳簿を支える。
リディアはミリアの隣に立った。
ノアは台帳を開く。
「療養記録の下に隠された本来の発言を、未受理案件として確認します」
ミリアは帳簿のページに手を置いた。
黒く潰れた文字が揺れる。
その奥から、細い声が浮かび上がった。
お姉様を、殺さないで。
ミリアは息を詰めた。
カイルがすぐに書く。
さらに、別の一文。
私は、嘘をついていません。
リディアは胸が痛くなる。
まただ。
王女救済願にもあった言葉。
私は、嘘をついていません。
子どもが、何度も自分の真実を証明しようとしている。
次のページ。
あの紙を返して。
次。
お姉様の名前を、病名にしないで。
ミリアの手が震える。
涙が落ちる。
イリスが背中を支える。
「殿下」
「大丈夫」
ミリアは泣きながら言った。
「大丈夫じゃないけれど、読みます」
リディアは、その言葉を聞いて胸が詰まった。
大丈夫じゃないけれど、読む。
それが、この部屋から出るために必要なことなのだ。
療養記録のページが次々と開く。
黒い分類語の下から、本来の言葉が浮かび上がる。
夜の窓口なら、まだ間に合う。
黒い服の書記官は、手を伸ばした。
ヴァルターは紙を燃やさないでと言った。
白い手袋の人が、私の申請書を取った。
私は、お姉様を助け終えていない。
カイルは必死に写している。
ノアも台帳に記録している。
リディアは、一文一文を胸に刻んだ。
これらは病状ではない。
証言だ。
悪夢ではない。
記憶だ。
療養記録の最後の帳簿を開いた時、ミリアの表情が変わった。
ページの間に、薄い布が挟まれていた。
白い刺繍布。
窓辺の刺繍台にあったものと同じ布だ。
花の模様。
白い花の中心に、赤い糸が何度も重ねられている。
ミリアは、その布を見て小さく息を吸った。
「これ……」
イリスが言う。
「殿下が、何度も刺しておられたものです」
「私は、何を刺していたの?」
ミリア自身がそう呟いた。
リディアは刺繍布を見る。
白い花。
赤い中心。
何度も、何度も縫い重ねられた赤。
まるで受理印のようだ。
ノアが静かに言った。
「触れてみてください」
ミリアは、震える指で刺繍布に触れた。
赤い糸が、淡く光る。
布の裏側に、文字が浮かび上がった。
それは刺繍糸で縫われた文字だった。
表からは花にしか見えない。
だが裏から見ると、糸の重なりが文章になっている。
ミリアは震える声で読んだ。
「私が忘れた時のために」
リディアは息を呑んだ。
ミリアは続ける。
「お姉様は、民の嘆願を読んでいた。私は、それを見た。お姉様は、私に逃げなさいと言った。私は、申請書を書いた。奪われた。白紙に未受理印を押された」
ミリアの声が震える。
「これは、私が私に残した記録……?」
イリスが涙をこぼした。
「殿下は、刺繍をしている時だけ、とても静かでした。侍医長も、それをよい療養行為だと記録していました」
リディアは、刺繍布を見つめた。
療養として許された刺繍。
その中に、ミリアは自分の記憶を縫い込んでいた。
誰かに見せるためではない。
未来の自分が忘れてしまった時のために。
王宮の奥の部屋で、彼女はただ閉じ込められていたのではない。
自分の中に残る真実を、どうにかつなぎ止めていた。
ノアが低く言う。
「これも証拠です」
カイルが震える手で記録する。
刺繍布裏面記録。
ミリア王女本人による記憶保持の痕跡。
その時、部屋の扉が強く叩かれた。
「開けなさい!」
侍医長の声だ。
イリスがびくりと震える。
護衛の声もする。
「殿下は記録確認中です。お待ちください」
「療養記録の無断持ち出しは認められません!」
扉の向こうで押し問答が始まっている。
ノアが言った。
「時間がありません」
「必要なものを持ち出しましょう」
リディアは、療養記録の帳簿をまとめようとした。
しかし、帳簿のページはまだ消え続けている。
すべてを運ぶには重すぎる。
ミリアが、刺繍布を胸に抱いた。
「これは、私が持ちます」
「殿下」
「これは、私の部屋で、私が私に残した記録です」
その声には、はっきりした意思があった。
「もう、置いていきません」
リディアは頷いた。
「では、療養記録は写しを」
カイルが、必死に書いた帳簿を差し出す。
「主要な発言は写しました。ただ、原本そのものが」
「原本も必要です」
ノアが言う。
「消えかけでも、消されている痕跡が証拠になります」
リディアは、帳簿のうち三冊を抱えた。
重い。
だが、持てないほどではない。
イリスが残りを持つ。
ノアが台帳を閉じ、部屋を見回した。
「ほかに、持ち出すべきものは?」
ミリアは窓辺の椅子を見た。
十年間、彼女が座っていた椅子。
白い花。
刺繍台。
薬草棚。
どれも、この部屋の一部だった。
だが、すべては持っていけない。
ミリアは、窓辺へ歩いた。
そっとカーテンを開ける。
朝の光が、部屋に入った。
今まで薄い布で遮られていた光が、床に広がる。
ミリアは目を細めた。
「明るい」
それだけの言葉だった。
けれど、イリスが泣きそうな顔になる。
「殿下は、いつも眩しいからと、カーテンを閉めておられました」
「眩しかったのかしら」
ミリアは呟く。
「それとも、明るいところで見るのが怖かったのかしら」
彼女は、窓の外を見た。
王都の屋根が見える。
遠くに、王都庁舎の塔。
正午に向かう場所。
中央記録広間。
ミリアは、静かに言った。
「この部屋は、私を守ってくれたのではありませんでした」
誰も言わなかった。
「でも、私が全部を失わないように、少しだけ残してくれたものもありました」
彼女は刺繍布を抱く。
「だから、憎むだけでは出ていけない気がします」
リディアは、胸が締めつけられた。
この部屋は檻だった。
だが同時に、ミリアが十年を生き延びた場所でもあった。
そこに残した刺繍。
夜ごとの言葉。
机の奥の木箱。
彼女は、この部屋の中で完全には消えなかった。
ミリアは窓辺の椅子に一度だけ触れた。
「もう、戻らないかもしれない」
イリスが息を呑む。
ミリアは振り返った。
「でも、戻るとしても、同じ部屋にはしません」
その目には、まだ涙があった。
けれど、そこには小さな光もあった。
「ここは、私が黙るための部屋ではなく、私が休むための部屋にします」
扉の外で、また強い音がした。
「開けなさい!」
ノアが低く言う。
「行きましょう」
リディアは帳簿を抱え直した。
カイルが自分の記録帳を持つ。
イリスが療養記録の残りを抱える。
ミリアは原本と刺繍布を胸に抱く。
扉を開けると、廊下には侍医長と数人の王宮職員がいた。
彼らの後ろには護衛が立っている。
侍医長はミリアの手元の書類を見て、顔色を変えた。
「殿下、それらは療養記録です。外へ持ち出すことは」
「公開審理の関連資料です」
ミリアが言った。
声は震えていた。
だが、止まらなかった。
「私は、これを提出します」
侍医長が言葉を失う。
リディアは、内部告発受付控えを取り出した。
「公開審理請求は受理済みです。関連資料の搬出を行います」
侍医長がリディアを睨む。
「あなたに権限は」
「あります」
カイルが、リディアの横で帳簿を開いた。
手は震えている。
それでも、はっきり言った。
「王宮記録係カイル・ロムとして、関連資料搬出を記録します」
侍医長の顔が歪む。
「君まで」
ノアが静かに一歩前へ出た。
「道を開けてください」
侍医長は、ノアを見る。
死亡扱いの書記官。
王宮の記録にいないはずの男。
その存在そのものが、今の王宮にとって不都合な記録だった。
護衛の一人が、侍医長に低く言った。
「公開審理請求が受理されたなら、関連資料の妨害は後で問題になります」
侍医長は唇を噛む。
そして、道を開けた。
ミリアは歩き出す。
王宮の奥の部屋から、廊下へ。
今度は、誰かに連れ出されるのではない。
自分の書類を抱いて、自分の足で出ていく。
リディアはその横を歩いた。
胸元の受付控えが、静かに熱を持っている。
王宮の奥の部屋。
そこは、ミリアを閉じ込めていた場所だった。
けれど同時に、彼女が自分に向けて記録を残し続けた場所でもあった。
その部屋から持ち出した帳簿と刺繍布は、公開審理で重要な意味を持つだろう。
療養記録は、もはやただの病状記録ではない。
王女の証言を未受理にしてきた記録だ。
廊下の先に、王都庁舎へ続く搬出用の馬車が待っていた。
正午まで、あまり時間はない。
ミリアは、馬車に乗る前に一度だけ北棟を振り返った。
白い壁。
高い窓。
奥の部屋。
彼女は、小さく言った。
「行ってきます」
今度は、部屋に向かって言っているようだった。
リディアは、その言葉を聞いて、静かに頷いた。
行ってきます。
それは、戻る可能性を残した言葉だ。
ただし、同じ沈黙へ戻るためではない。
自分の声を持ったまま、いつか休む場所として戻るために。
馬車が動き出した。
王都庁舎中央記録広間へ。
夜に受け取られた願いが、昼の広間で読まれる時が近づいていた。




