第28話 間に合わなかった願い
馬車の車輪が、王都の石畳を鳴らしていた。
王宮北棟を出たのは、朝と昼の境目だった。
空は白く明るい。
けれど、馬車の中は重かった。
ミリア王女は、窓際に座り、膝の上で二つのものを抱えている。
一つは、十年前に奪われた王女救済願の原本。
もう一つは、白い花の刺繍布。
刺繍布の裏には、彼女が自分自身に残した記録が縫い込まれていた。
私が忘れた時のために。
その一文を思い出すたび、リディアは胸が痛んだ。
ミリアは、ただ閉じ込められていただけではなかった。
忘れなさいと言われ続けながら、自分が見たものを、自分の手で残そうとしていた。
声にできなかったから、糸にした。
書類を奪われたから、布に縫った。
彼女は十年間、ずっと戦っていたのだ。
それを、誰も戦いとは呼ばなかっただけで。
リディアの隣では、カイルが帳簿を抱えている。
療養記録から写し取ったミリアの本来の言葉。
王女救済願の再読記録。
公開審理請求の控え。
若い記録係の顔は青ざめていた。
無理もない。
彼は今、王宮総務卿にも、記録監査官にも、侍医長にも逆らった。
これまでの人生が、一日で足元から崩れたようなものだ。
それでも、帳簿を手放さない。
ノアは向かいの席で、窓の外を見ている。
黒い制服。
静かな横顔。
だが、リディアには分かった。
彼は落ち着いているわけではない。
王女救済願の原本に、自分の名があった。
受け取ってほしい人として、書かれていた。
その事実は、ノアの中で何度も反芻されているはずだ。
十年前、彼は受理できなかった。
だが、ミリアの紙には、彼が手を伸ばしたことも残っていた。
罪も、躊躇も、わずかな救いも。
書類は、ひとつの面だけを残すものではない。
正しく読めば、人がどれほど複雑だったかまで残っている。
イリスは、ミリアの隣で彼女の手をそっと支えていた。
侍女としてではなく、証人として。
ミリアが小さく呟いた。
「間に合わなかったのですね」
誰もすぐには答えられなかった。
馬車の音だけが続く。
リディアは、ミリアを見る。
彼女は原本を見つめていた。
「私の願いは、間に合わなかった」
その声は静かだった。
泣いてはいない。
泣くよりも深い場所で、言葉が出ているようだった。
「お姉様は、戻らない」
リディアは、喉の奥が詰まるのを感じた。
それは、誰も否定できない事実だった。
受理印は過去を変えない。
どれほど正しく読んでも、どれほど遅れて届いても、死者は戻らない。
アレリア王女は亡くなった。
ミリアの救済願は、姉の命には間に合わなかった。
ノアが、静かに言った。
「はい」
その返事は残酷なほど正直だった。
ミリアの指が、原本の端を握る。
ノアは続けた。
「間に合いませんでした」
イリスが息を呑む。
だが、ミリアは目を閉じただけだった。
ノアは、逃げずに言った。
「十年前、あなたの願いはアレリア殿下の命には間に合いませんでした。私も、受け取れませんでした。王宮も、庁舎も、誰も間に合わせることができなかった」
リディアは、胸が痛くなった。
それでも、必要な言葉だった。
間に合ったと慰めてはいけない。
何かが救われたからよかった、と簡単に言ってはいけない。
ミリアが十年間抱えてきたものは、そんな言葉では軽くならない。
ミリアは、かすかに頷いた。
「そうですね」
声が震える。
「私は、ずっとどこかで思っていました。もしかしたら、まだ間に合うのではないかと。夜の窓口なら、時間のどこかへつながっていて、お姉様が生きているところまで戻れるのではないかと」
彼女は、原本を胸に抱いた。
「でも、違うのですね」
ノアは答えた。
「違います」
その声は低かった。
「夜間未受理窓口は、過去を変える場所ではありません」
「では、何のためにあるのですか」
ミリアの問いは、幼い頃の彼女のようだった。
助けてほしかった子どもの声。
ノアは、少しだけ沈黙した。
それから言った。
「過去を、なかったことにしないためです」
ミリアの目が揺れる。
リディアは、その言葉を受け取った。
過去は変わらない。
だが、過去をなかったことにするかどうかは、今の人間が決める。
間に合わなかった願いでも、読まれなければ、願ったこと自体が消される。
助けを求めた手が、最初からなかったことにされる。
それが、いちばん残酷なのだ。
「間に合わなかった願いにも、意味はありますか」
ミリアが尋ねた。
リディアは、すぐには答えられなかった。
それは軽々しく答えてはいけない問いだった。
意味があると言うことは、救えなかった痛みをきれいなものに変えてしまう危うさがある。
意味なんてないと言えば、ミリアが十年抱えてきた願いをもう一度落としてしまう。
リディアは、ゆっくりと言葉を探した。
「意味は、最初から決まっているものではないと思います」
ミリアがリディアを見る。
「間に合わなかったことは、変わりません。アレリア王女は戻らない。十年前に受け取られなかった事実も消えない」
リディアは、自分の内部告発受付控えに触れた。
「でも、今それを読むことで、次に誰かの願いが間に合うようにすることはできます」
ミリアの目に涙がにじむ。
「次の誰か」
「はい」
「お姉様ではなく」
「はい」
リディアは頷いた。
「それは、とてもつらいことだと思います」
ミリアは、唇を噛んだ。
「ええ」
小さな声だった。
「とても、つらいです」
誰も慰めなかった。
イリスが、ただミリアの手を握っている。
馬車は、王都庁舎へ向かって走る。
道の両側には、朝の市場へ向かう人々がいた。
野菜を積んだ荷車。パンを抱えた少年。桶を持つ女。仕事へ急ぐ職人。
彼らは、王宮の馬車が通ると道を開ける。
誰も、その中に十年間閉じ込められていた王女がいるとは知らない。
誰も、これから王都庁舎で公開審理が開かれるとは知らない。
だが、彼らの中にも、きっと未受理の願いを抱えている人がいる。
出せなかった手紙。
握りつぶされた申請。
諦めた訴え。
言えなかった言葉。
リディアは、窓の外を見ながら思った。
アレリア王女は、この人たちの書類を読んでいたのだ。
顔も知らない民の、震える文字を。
そして、制度にしようとした。
優しい人が倒れたら願いが落ちるから。
誰か一人が背負うものではないから。
馬車が大きく揺れた。
カイルが帳簿を押さえる。
「すみません」
御者の声が外から聞こえた。
「庁舎前の通りが混んでいます」
リディアは窓から外を見た。
王都庁舎が近づいている。
高い塔。
広い階段。
正面玄関。
だが、その前に人だかりができていた。
「何でしょう」
イリスが不安そうに言う。
ノアが窓の外を見て、わずかに目を細めた。
「公開審理の告知が出たようです」
「もう?」
リディアは驚いた。
公開審理請求が受理されたのは、ほんの少し前だ。
それなのに、庁舎前には人が集まり始めている。
掲示板の前に、多くの市民が立っていた。
その中に、見覚えのある顔があった。
セシリア・レント。
上品な外套をまとい、まっすぐ掲示板を見ている。
その隣には、商会の者らしき男が数人いる。
少し離れた場所に、マルタとリーナがいた。
リーナはまだ顔色が悪いが、母の手をしっかり握っている。
さらに、パン屋のエルザ。
その横にテオ。
ミナも、小さな手でエルザのスカートを掴んでいる。
リディアは息を呑んだ。
「みんな……」
どうして来たのだろう。
伝えたわけではない。
けれど、公開審理の告知を見て集まったのかもしれない。
自分たちの書類が、もう夜の窓口だけのものではなくなったから。
テオが馬車に気づいた。
彼は目を見開くと、こちらへ手を振った。
リディアは、思わず小さく手を返した。
ミリアが、それを見て尋ねる。
「あの子たちは?」
「夜間未受理窓口で受け取った書類の、依頼人たちです」
「そう」
ミリアは、窓の外を見つめた。
テオ。
ミナ。
リーナ。
まだ若い、あるいは幼い人たち。
間に合った願いもある。
ぎりぎりで、受け取れた願い。
ミリアは、小さく呟いた。
「よかった」
その声には、痛みと安堵が混じっていた。
自分の願いは、姉の命には間に合わなかった。
でも、あの子たちは間に合った。
その事実は、ミリアを傷つけると同時に、支えているようだった。
馬車が庁舎の裏口へ向かう。
公開審理の関係者は、中央記録広間へ直接入ることになっているのだろう。
裏口には、職員が数名待っていた。
その中に、リディアは見覚えのある門番を見つけた。
朝、職員名簿の前で彼女に言った男だ。
――あの、どちら様ですか。
彼は、馬車から降りたリディアを見て、目を瞬かせた。
「あなたは……」
リディアの胸が少しだけ冷えた。
また忘れられているのだろうか。
だが、門番は困惑した顔で続けた。
「リディア……クラウスさん、ですか」
リディアは息を止めた。
名前を呼ばれた。
完全にではない。
彼の声には不確かさがある。
だが、朝のように「どちら様ですか」とは言わなかった。
「はい」
リディアは答えた。
「リディア・クラウスです」
門番は、どこか申し訳なさそうに視線を落とした。
「すみません。今朝、私はあなたを……知らないと言った気がします」
「はい」
「でも、掲示板に内部告発受付番号が出て、それを見たら、思い出したんです」
彼は、ぎこちなく言った。
「雨の日、あなたが解雇通知を握っていたことを」
リディアは、胸の奥が熱くなった。
記録が戻ると、記憶も少し戻る。
ヴァルターの言葉を思い出す。
記録から剥がれた名は、記憶の中でも居場所を失う。
その逆もあるのだ。
記録に戻れば、記憶にも戻る。
まだ完全ではなくても。
「思い出してくださって、ありがとうございます」
リディアが言うと、門番は慌てて首を振った。
「礼を言われることでは」
彼は、まるで以前の護衛と同じようなことを言った。
リディアは少しだけ微笑んだ。
小さなことだ。
でも、確かに一つ戻った。
名前が。
裏口から中央記録広間へ向かう廊下を進む。
庁舎の中は、いつもと違っていた。
職員たちがざわめいている。
普段は静かな記録棟に、緊張した空気が流れている。
誰かがリディアを見て、小声で何かを囁く。
改ざん者。
告発者。
リディア・クラウス。
いくつもの呼び名が、空気の中を揺れている。
リディアは背筋を伸ばした。
怖くないわけではない。
足は少し震えている。
でも、もう雨の中で一人追い出された時とは違う。
隣にはミリアがいる。
ノアがいる。
イリスがいる。
カイルがいる。
そして、外には見届けようとしている人たちがいる。
中央記録広間の扉の前に着いた。
大きな両開きの扉。
普段は、重要な記録の読み合わせや、庁舎と王宮の共同確認に使われる場所だ。
リディアも書記官補佐として何度か入ったことがある。
だが、公開審理の場として使われるのを見るのは初めてだった。
扉の前には、王宮側の職員と庁舎側の職員が並んでいる。
そこに、セシリアもいた。
彼女はリディアを見ると、深く一礼した。
「リディアさん」
「セシリア様」
「私も証人として呼ばれました」
「証人?」
「婚約破棄届の件です」
セシリアの目は強かった。
「私の書類も、EX-04へ移管されていました。今度は、自分の口で話します」
リディアは頷いた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
セシリアは少しだけ微笑んだ。
「間に合わなかったものもあります。でも、間に合ったものを黙らせる理由にはなりません」
その言葉に、ミリアが顔を上げた。
セシリアは、ミリアへ静かに礼をする。
「第二王女殿下。私は、あなたのお姉様の改革案がもし十年前に通っていたなら、救われた一人かもしれません」
ミリアの目が揺れる。
「でも、私は今日、自分の声で話せます」
セシリアは続けた。
「だから、アレリア王女殿下の願いは、完全に間に合わなかったわけではないと、私は思います」
ミリアの瞳に涙が浮かんだ。
けれど、その涙は先ほどとは少し違っていた。
悲しみだけではない。
誰かに受け取られたことへの涙だった。
扉の向こうから、鐘の音が鳴った。
正午を告げる一つ前の鐘。
カイルが帳簿を抱きしめる。
「始まります」
ノアがリディアを見る。
「準備は?」
リディアは息を吸った。
準備ができている、とは言えなかった。
怖い。
緊張している。
何を問われるのか分からない。
だが、ここまで持ってきた書類がある。
間に合わなかった願い。
ぎりぎり間に合った願い。
まだ間に合わせなければならない願い。
それらを、ここで読む。
「行きます」
リディアは言った。
ミリアも原本を抱き直す。
「私も」
扉が開いた。
中央記録広間には、多くの人がいた。
王宮側の席。
庁舎側の席。
貴族院の席。
一般傍聴席。
高い天井の下、中央に大きな記録卓が置かれている。
その奥に、ローディス・カイルが座っていた。
王宮総務卿として、審理の席に。
その横には、ヴァルター・グレイス。
彼の表情は読めない。
だが、リディアを見ると、ほんのわずかに頷いた。
リディアたちは、中央へ進んだ。
広間中の視線が集まる。
ミリア王女が、原本を抱いて歩いている。
ノア・エルセイドという死亡扱いの書記官が、その隣にいる。
元書記官補佐リディア・クラウスが、内部告発受付控えを持っている。
誰もが、何かが始まることを感じていた。
記録卓の前に立つと、カイルが帳簿を開いた。
声は震えていた。
だが、読み上げた。
「内部告発受付番号、C-117。公開審理を開始します」
広間が静まる。
リディアは、胸元の受付控えに触れた。
ミリアは、王女救済願の原本を卓上へ置いた。
その紙が、淡く光る。
間に合わなかった願い。
けれど、今ここにある願い。
ミリアは顔を上げた。
そして、広間全体に聞こえる声で言った。
「十年前、私の願いは、姉の命には間に合いませんでした」
広間に、息を呑む気配が広がる。
ミリアは続けた。
「それでも、読んでください」
王女救済願の原本が、強く光った。




