第24話 それでも、読んで
原本の文字が、淡く光り始めた。
封印庫の最奥で、誰も動けなかった。
ミリア王女は、十年前に奪われた申請書を両手で抱えている。
その指は震えていた。
けれど、もう離さなかった。
リディアは、ミリアの隣に立っていた。
胸元には、雨に濡れた解雇通知。
彼女は、告発者である。
その一文が、今もリディアの内側で小さく燃えている。
ノアは台帳を開いている。
記録係は震える手で帳簿を構えている。
イリスは、ミリアの背中にそっと手を添えている。
ヴァルター・グレイスは、金庫の前に立ったまま、原本から目を逸らさなかった。
黒い箱が並ぶ封印庫で、白い申請書だけが、まるで呼吸しているように光っていた。
「殿下」
ノアが静かに言った。
「無理にすべて読む必要はありません」
ミリアは、小さく首を横に振った。
「いいえ」
声は細い。
それでも、決まっていた。
「私は、十年前からずっと、この続きを探していました」
彼女は原本を開いた。
そこには、幼い筆跡があった。
ところどころインクが滲み、文字の大きさも揃っていない。
手が震えていたことが分かる。
それでも、必死に書かれていた。
王女救済願
提出者:ミリア・エル・ラウゼリア
対象者:第一王女アレリア・エル・ラウゼリア
ミリアの唇が震える。
彼女は一度目を閉じた。
そして、読み始めた。
「お姉様を、助けてください」
封印庫の空気が、わずかに震えた。
リディアは息を止める。
その一文は、何度も見てきた。
白紙申請書にも、王宮侍女のメモにも、ミリアの夢にも残っていた。
けれど、原本から読み上げられると、重さが違った。
これは記憶ではない。
悪夢でもない。
十年前、たしかに書かれた申請だった。
ミリアは続ける。
「お姉様は、病気ではありません。北の寝室で、眠らされています。薬の匂いがしました。お姉様は、まだ息をしています」
イリスが口元を押さえた。
記録係のペン先が震える。
ノアは台帳に目を落としたまま、顔色を失っていた。
ヴァルターは動かなかった。
ミリアの声は震えながらも、途切れなかった。
「お姉様は、私に逃げなさいと言いました。でも、私は逃げません。お姉様が書いていた紙を、燃やさないでください。民の嘆願を、捨てないでください」
リディアの胸が詰まった。
幼いミリアは、姉の命だけでなく、姉が守ろうとしていた書類のことまで書いていた。
アレリア王女が読んでいた嘆願。
存在しないことにされた改革案。
そのすべてが、この救済願に繋がっている。
ミリアは、次の行で声を詰まらせた。
リディアがそっと言う。
「殿下、休んでも」
「いいえ」
ミリアは小さく息を吸った。
「ここを、読まなければいけないの」
彼女は、原本を見つめた。
「お姉様の部屋にいた人の名前を書きます」
封印庫の空気が、凍った。
リディアの背筋が冷える。
受理してはならない願い。
その理由が、ここにある。
これは単なる救済願ではない。
幼い王女による、王宮内部への告発だった。
ミリアは、震える声で読み上げた。
「王宮侍医長、セーヴァス・ローエン」
記録係が、帳簿へ書く。
侍医長の名。
「貴族院議員、バルツァー・レント」
リディアの指先が冷たくなった。
バルツァー家。
セシリアの婚約破棄届。
マルタの絶縁届。
テオの養子縁組願。
孤児院の進路調整簿。
すべてに影を落としていた名前が、十年前の王女救済願にもあった。
ミリアは続けた。
「王宮総務卿、ローディス・カイル」
ヴァルターの表情が、ほんのわずかに硬くなった。
その名は、おそらく今も王宮の中枢に近い人物なのだろう。
ミリアの指が、原本の端を握りしめる。
「それから」
声が震えた。
彼女は、言葉を飲み込むように一度止まった。
ノアが静かに言う。
「殿下。読めるところまでで構いません」
ミリアは、彼を見た。
その目には涙が浮かんでいる。
「あなたの名前も、あります」
ノアの表情が止まった。
リディアは息を呑む。
ミリアは、原本へ目を落とした。
「王宮臨時受付補助、ノア・エルセイド」
封印庫に、深い沈黙が落ちた。
ノアは、目を閉じなかった。
逃げなかった。
ただ、自分の名前が幼い王女の筆跡で書かれている原本を見つめていた。
ミリアは、涙をこぼしながら言った。
「私は、あの時、そこにいた人の名前を全部書いたの。悪い人だけじゃない。見ていた人も、受け取ってほしい人も、誰かがあとで探せるように」
ノアの喉が動いた。
「私は」
声がかすれていた。
「受け取ってほしい人として、書かれていたのですか」
ミリアは頷いた。
「あなたは、手を伸ばしたから」
その一言で、ノアの顔が崩れかけた。
十年前、彼は受け取れなかった。
命令に逆らえず、白紙に未受理印が押されるのを見ていた。
その事実は消えない。
けれど、幼いミリアの申請書には、彼はただの加害者として書かれていたわけではなかった。
受け取ってほしい人。
その場所に、彼の名前が残されていた。
ノアは、深く頭を下げた。
「それなのに、私は受け取りませんでした」
ミリアは、泣きながら首を横に振った。
「今、受け取ってくれた」
ノアの手が、台帳の上で震えた。
リディアは、胸が痛くなった。
赦しではない。
すべてが終わったわけでもない。
けれど、十年間ひとつの形で固まっていた罪が、少しだけ別の形を持ちはじめている。
ミリアは、次の行を読む。
「記録監査局調査補助、ヴァルター・グレイス」
ヴァルターは、動かなかった。
リディアは彼を見た。
彼の名もまた、原本にある。
ミリアは、苦しげに続けた。
「ヴァルターは、廊下にいました。お姉様の紙を持っていました。お姉様の紙を、燃やさないでと言いました」
リディアの目が見開かれる。
「燃やさないで……?」
ヴァルターの顔が、わずかに歪んだ。
ほんの一瞬だった。
けれど、確かに痛みが見えた。
ミリアは原本を見つめたまま言う。
「私は、あなたが敵なのか味方なのか分からなかった。だから名前を書いた。あとで、誰かが聞いてくれるように」
ヴァルターは、長い間何も言わなかった。
やがて、低く答える。
「私は、守れませんでした」
それは、初めて聞く声だった。
記録監査局長としての声ではない。
冷静で、整った、切れ味のある声でもない。
十年前の若い官吏が、そのまま老いたような声だった。
「アレリア殿下の改革案も、あなたの申請書も、ノアも」
ヴァルターは原本を見た。
「何一つ、守れなかった」
ミリアの目から、また涙がこぼれた。
リディアは、息を詰める。
ヴァルターは、ずっと守ったと言っていた。
国を。王家を。秩序を。
けれど本当は、守れなかったものの前に立ち続けていたのかもしれない。
それを認める代わりに、守ったものだけを数えてきた。
国は残った。
戦乱は起きなかった。
王家は続いた。
そう言い続けなければ、彼自身が持たなかったのかもしれない。
ミリアは、原本の最後の段落へ目を落とした。
その紙の下部は、インクが濃く滲んでいた。
涙で濡れたのか。
急いで書いたからか。
文字は乱れている。
それでも、読める。
「私は、嘘をついていません」
ミリアが読む。
「私は、怖いです。でも、お姉様はまだ生きています。だから、受け取ってください」
声が震える。
「もし、受理してはいけないと言われても」
ミリアは息を詰まらせた。
リディアは、次の言葉を知っている気がした。
白紙申請書に、何度も浮かんだ言葉。
ミリアは、涙をこぼしながら読み上げた。
「それでも、読んで」
封印庫の黒い箱が、一斉に震えた。
その一文は、幼いミリアの字で書かれていた。
けれど、リディアには分かった。
そこには、ミリアだけでなく、アレリア王女の声も重なっている。
読まれないと分かっていても書いた人がいる。
受理してはならないと分類されても、そこに読まれるべき痛みがある。
それでも、読んで。
この物語の最初から、ずっと紙の奥で響いていた声だった。
原本の文字が強く光る。
床に、朱色の印が浮かぶ。
王女救済願――原本再読完了
記録係が、泣きながら帳簿へ書く。
提出者本人による原本再読。
差し替え事実確認。
原本返還完了。
関係者名確認。
ノアも、夜間未受理窓口の台帳へ記録する。
彼の手は震えていた。
それでも、一文字ずつ書いていた。
ミリアは、読み終えた原本を胸に抱いたまま、その場に座り込んだ。
イリスが支える。
「殿下」
「読めた」
ミリアは、泣きながら笑った。
「最後まで、読めた」
リディアは、彼女の前に膝をついた。
「はい」
声が震えた。
「あなたが、読みました」
ミリアは、リディアを見る。
「これで、お姉様は助かる?」
その問いは、十年前の少女のものだった。
リディアの胸が痛む。
嘘はつけない。
「アレリア王女は、戻りません」
ミリアの顔が歪む。
それでも、リディアは続けた。
「でも、アレリア王女が守ろうとしたものは、まだ戻せます」
ミリアは、原本を抱く手に力を込める。
「お姉様の改革案」
「はい」
「民の嘆願」
「はい」
「読まれなかった書類」
「はい」
ミリアは、涙を拭った。
その顔には、まだ痛みがある。
けれど、今までとは違う。
十年前の夜に閉じ込められていた少女が、少しだけ今へ戻ってきた顔だった。
ヴァルターが、低く言った。
「原本を読んだ以上、手続きは二つに分かれます」
リディアは立ち上がった。
「二つ?」
「一つは、王女救済願の受理判断」
ヴァルターは、ミリアの手元の原本を見る。
「もう一つは、原本に記された関係者への調査開始」
封印庫の空気が重くなる。
関係者。
バルツァー・レント。
王宮侍医長セーヴァス・ローエン。
王宮総務卿ローディス・カイル。
ノア・エルセイド。
ヴァルター・グレイス。
そして、まだ原本に記されたほかの名があるかもしれない。
リディアは尋ねた。
「調査は、誰が行うのですか」
ヴァルターは、わずかに黙った。
「本来なら、記録監査局です」
「その局長が、関係者です」
「そうだ」
ヴァルターは、短く認めた。
「なら、第三者が必要です」
リディアの言葉に、封印庫の奥で何かが小さく光った。
アレリア王女の改革案が反応している。
未受理案件の再審査機関。
王宮、庁舎、貴族院のいずれにも属さない独立した権限。
アレリア王女が作ろうとしていた制度。
まだ存在しない。
存在しないことにされた。
けれど、必要な場面が今ここにある。
ノアが静かに言った。
「夜間未受理窓口は、正式な第三者機関ではありません」
「はい」
リディアは頷いた。
「でも、今はここしかありません」
ヴァルターが彼女を見る。
「臨時受理官が、王宮の調査を担うつもりか」
「担うのではありません」
リディアは答えた。
「記録します。読まれなかったものを、まず記録します」
彼女は、胸元の解雇通知を取り出した。
その紙は、強く熱を持っていた。
彼女は、告発者である。
その下に、新しい文字が浮かぶ。
関連原本確認済。
告発範囲拡大。
王宮嘆願制度改正案、不存在処理に関する告発を追加。
リディアは息を呑んだ。
自分の解雇通知が、告発文に変わり始めている。
処分通知として作られた紙が、彼女の手の中で、別の形を取り戻そうとしている。
ノアが静かに言った。
「あなた自身の未受理も、動いています」
「はい」
「このまま進めば、戻る場所は変わります」
リディアは、解雇通知を見た。
王都庁舎に戻ること。
元の書記官補佐として名簿に名前を戻すこと。
それだけが、もう目的ではなくなっている。
「戻るのではなく」
リディアは言った。
「新しい受付を作る必要があります」
ミリアが顔を上げる。
「お姉様の改革案を?」
「はい」
リディアは、原本と改革案の写しを見た。
「夜間未受理窓口に流れ着いた願いを、夜の中だけで終わらせないために」
ミリアの目に、かすかな光が宿った。
ヴァルターは黙っていた。
その沈黙は、反対ではない。
まだ受け入れられない、という沈黙だった。
その時、封印庫の入口の方から足音が響いた。
複数人。
硬い靴音。
記録監査官だけではない。
もっと多い。
ヴァルターが顔を上げる。
「早いな」
「誰ですか」
リディアが尋ねると、ヴァルターは短く答えた。
「王宮総務卿の者だろう」
ローディス・カイル。
原本に名前のあった人物。
封印庫の開封は、すでに王宮内へ伝わっている。
ミリアが原本を抱きしめる。
イリスが青ざめる。
ノアが台帳を閉じた。
「退避しますか」
リディアは一瞬迷った。
原本は取り戻した。
改革案の写しもある。
ここで逃げることはできるかもしれない。
だが、封印庫にはまだ無数の箱がある。
受理禁止。
不存在処理。
EX-04。
その中には、本当に危険な願いもあるだろう。
同時に、救われるべき声も閉じ込められている。
このまま扉を閉じれば、また闇の中へ戻る。
リディアは、封印庫の黒い箱を見渡した。
すべてを今すぐ読むことはできない。
でも、存在を記録することはできる。
リディアは、仮受付印を手にしていることに気づいた。
いつの間にか、手の中に現れていた。
ノアが言う。
「リディア様、それは」
「便利なものほど、代償があるのでしょう」
「はい」
「なら、分かっています」
リディアは、封印庫の床に膝をつき、仮受付印を押した。
黒い石床に、淡い朱色の印が広がる。
封印庫内不存在処理記録群――存在確認
個別受理判断、未了
仮受付
封印庫全体が、低く震えた。
黒い箱の札が一斉に光る。
リディアは、胸を押さえた。
重い。
あまりにも重い。
すべてを受け取ったわけではない。
ただ、存在したと認めただけだ。
それでも、膝が崩れそうになるほどの重さだった。
ノアが彼女を支える。
「無茶をしましたね」
「分かっています」
リディアは息を荒げながら答えた。
「でも、これで簡単には消せません」
足音が近づく。
封印庫の入口に、人影が現れる。
白い手袋。
整った袖口。
銀の留め具。
リディアは息を呑んだ。
十年前、ミリアの申請書を奪った手。
その記憶と同じ袖口。
現れた男は、年を重ねてはいたが、姿勢はまっすぐだった。
王宮総務卿、ローディス・カイル。
彼は封印庫の中を見渡し、ミリアの手にある原本を見た。
そして、静かに言った。
「それは、受理してはならない願いです」
ミリアが震える。
リディアは、彼女の前に立った。
胸元の解雇通知が、熱く光る。
ローディスはリディアを見る。
「君は何者だ」
リディアは、息を整えた。
そして、はっきり答えた。
「リディア・クラウス」
自分の名前を、一字ずつ置くように。
「告発者です」
その瞬間、封印庫の仮受付印が強く光った。




