第23話 受理してはならない願い
王宮の奥の廊下は、音を吸い込むように白かった。
壁も、床も、天井も、磨かれた石でできている。
朝の光が細い窓から差し込んでいるのに、その明るさはどこか冷たい。
ミリア王女は、ノアとイリスに支えられながら歩いていた。
その胸には、白紙の申請書が抱かれている。
十年前、彼女が書いた原本の代わりに未受理印を押された紙。
本物ではない。
けれど、ミリアの声を十年間抱えていた紙。
リディアは、その少し後ろを歩いていた。
胸元には解雇通知。
彼女は、告発者である。
立会権限、一時発生。
その文字が、今もかすかに熱を持っている。
消されかけた自分の記録が、王宮の封印庫へ入るための細い道になっている。
それが不思議で、危うくて、少し怖かった。
先頭を歩くのは、ヴァルター・グレイスだった。
黒い上着の背中は、まっすぐだ。
その歩き方には迷いがない。
けれど、リディアには分かる気がした。
迷っていないのではない。
迷いを、歩幅の中に押し込めているのだ。
十年前、彼はアレリア王女の改革案に関わっていた。
調査補助として、段階導入案を書いていた。
それなのに今は、未受理と不存在処理を守る側にいる。
何が、彼を変えたのか。
それとも、彼は変わったのではなく、最初から同じものを見ていたのか。
国を守るという名目。
願いを選別するという現実。
受理してはならない願い。
リディアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
廊下の突き当たりに、黒い扉があった。
王宮の白い壁の中で、そこだけが異物のように沈んでいる。
扉には取っ手がない。
鍵穴もない。
あるのは、銀の小さな銘板だけだった。
王宮記録監査局 封印庫
その下に、さらに小さな文字が刻まれている。
不存在処理記録保管区
ミリアの足が止まった。
イリスが心配そうに支える。
「殿下」
「ここに……」
ミリアの声が震える。
「私の申請書があるのですか」
ヴァルターは振り返らずに答えた。
「あるなら、ここです」
「あるなら?」
リディアは思わず聞き返した。
ヴァルターは扉の前に立ち、銀の銘板に手をかざした。
「不存在処理された書類は、存在しないものとして扱われます。存在しないものの所在を、誰も保証できません」
「言葉遊びです」
リディアの声が低くなる。
「書類を隠すための」
「その通りだ」
ヴァルターは、あっさり認めた。
「だから厄介なのだ」
彼は懐から、細い黒い印章を取り出した。
記録監査局長印。
印面には、王宮と庁舎の紋章が重なっている。
ヴァルターはそれを銘板の下に押し当てた。
音はしなかった。
代わりに、扉の表面に赤い文字が浮かび上がる。
開封権限確認中
続いて、別の文字。
開封理由を提示せよ
ヴァルターは、淡々と言った。
「王女救済願原申請書の返還請求。提出者本人、ミリア・エル・ラウゼリア殿下立会い」
扉の文字が揺れる。
さらに、光がリディアの胸元へ伸びた。
解雇通知が熱を持つ。
リディアはそれを取り出した。
紙の上に、先ほどの一文が浮かぶ。
告発者、王宮関連記録確認のため立会い。
扉の文字が変わる。
立会人確認:リディア・クラウス
次に、ノアへ光が向いた。
ノアは静かに名乗る。
「ノア・エルセイド。王宮臨時受付補助。王女救済願未受理処理時、受付席に在席」
扉の文字が、一瞬乱れた。
該当者:死亡記録あり
ノアは動じなかった。
「死亡扱いです。未受理のまま残っています」
その言葉に、扉の赤文字が沈黙する。
やがて、ゆっくりと変わった。
保留記録として承認
リディアは、思わず息を呑んだ。
死亡扱いでも、生存でもない。
保留記録。
それが、今のノアに与えられる精いっぱいの場所なのだ。
最後に、ミリアの胸の白紙申請書が淡く光った。
扉に文字が浮かぶ。
提出者本人確認
ミリアは、震えながら前に出た。
白紙申請書を扉へ差し出す。
「ミリア・エル・ラウゼリアです」
彼女の声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「十年前、王女救済願を提出しました。奪われた申請書の返還を求めます」
扉の赤文字が強く光った。
本人意思確認完了
重い音がした。
黒い扉が、ゆっくりと開く。
冷たい空気が流れ出した。
紙の匂い。
古いインク。
乾いた革表紙。
そして、どこか焦げたような匂い。
リディアは、胸の奥がざわつくのを感じた。
ここには、存在しないことにされた書類が眠っている。
受理されなかっただけではない。
不受理としても残されず、正式な廃棄記録すらなく、ただ「なかった」とされたもの。
黒い扉の向こうには、広い部屋があった。
窓はない。
天井から下がる硝子灯だけが、薄暗く棚を照らしている。
棚は壁一面に並び、中央にも列を作っている。
その棚には、黒い箱がぎっしりと置かれていた。
箱の一つ一つに銀の札がついている。
不存在処理
封印対象
EX-04
受理禁止
最後の文字を見て、リディアは足を止めた。
「受理禁止……」
ヴァルターが振り返る。
「ここには、受理してはならない願いも保管されている」
その言葉は、静かだった。
しかし、部屋の空気を一段冷たくした。
「受理してはならない願いとは、何ですか」
リディアが尋ねると、ヴァルターは棚の一つへ手を伸ばした。
黒い箱を取り出す。
箱の札には、こう書かれていた。
領主暗殺嘆願――受理禁止
リディアは息を呑んだ。
ヴァルターは箱を開けなかった。
「ある村から出された嘆願だ。重税に苦しみ、領主を殺してほしいと訴えている」
「それは……」
「受理できると思うか」
リディアはすぐには答えられなかった。
領主の不正は調べるべきだ。
重税に苦しむ村の訴えは聞くべきだ。
だが、殺してほしいという願いを、そのまま受理することはできない。
ヴァルターは別の箱を指した。
相続人抹消願――受理禁止
婚約者排除願――受理禁止
隣村追放願――受理禁止
「人の願いは、常に美しいわけではない」
ヴァルターは言った。
「嫉妬、恨み、恐怖、怒り。そうした感情も紙に乗る。受理すれば、誰かを傷つける願いもある」
リディアは、棚に並ぶ箱を見つめた。
受理してはならない願い。
確かに、あるのだろう。
誰かを救うための願いだけではない。
誰かを陥れるための願いもある。
復讐を正義のように書いた紙もある。
嘘で誰かを裁かせようとする書類もある。
それを、すべて同じように受け取ればよいとは言えない。
ヴァルターの声が静かに続く。
「アレリア殿下は、この棚も見た」
ミリアが顔を上げる。
「お姉様が?」
「あの方は、民の嘆願を読みたいと言った。だから私は、ここへ案内した」
ノアがヴァルターを見る。
「あなたが?」
「そうだ」
ヴァルターは、黒い箱を棚へ戻した。
「理想だけで制度を作れば、何が起きるか知っていただく必要があった」
リディアは、胸の奥で反発を覚えた。
だが、完全には否定できなかった。
アレリア王女は優しい人だった。
けれど、優しさだけで制度を作れば、悪用される可能性もある。
誰かを害する願いまで、民の声として扱うのか。
嘘の訴えも、恨みの嘆願も、同じ重さで受け取るのか。
それは、簡単な問いではない。
ミリアが、白紙申請書を抱えたまま言った。
「お姉様は、何とおっしゃったの?」
ヴァルターは、少しだけ目を伏せた。
「『受理とは、願いを叶えることではありません』と」
リディアは息を呑んだ。
その言葉は、ノアから何度も聞いたものだ。
ノアが、かすかに目を見開く。
ヴァルターは続けた。
「殿下は言った。殺してほしいという嘆願を、殺害命令として受け取ってはならない。だが、そこに領主の不正や民の恐怖が書かれているなら、その部分まで捨ててはいけない、と」
封印庫の空気が揺れた気がした。
「願いをそのまま叶えるのではなく、何がその願いを書かせたのかを読むべきだと」
ヴァルターの声は、苦かった。
「それが、あの方の答えだった」
リディアは、棚の黒い箱を見た。
受理禁止。
たしかに、誰かを殺してほしいという願いをそのまま受理することはできない。
でも、それをただ封印すれば、その紙を書かせた痛みも消える。
それは、また別の未受理だ。
ノアが静かに言った。
「アレリア殿下は、受理禁止の分類そのものを否定していたわけではないのですね」
「否定はしていない」
ヴァルターは答えた。
「ただ、その分類が乱用されることを恐れていた」
リディアは、胸が冷えた。
乱用。
その結果が、EX-04なのだ。
本当に受理してはならない願いを隔離するための棚。
それがいつしか、権力者に都合の悪い願いを隠すための棚になった。
殺害願も、婚約破棄届も、養子縁組願も、王女救済願も、同じ闇の中へ押し込められた。
「受理禁止は、必要だった」
ヴァルターは言った。
「だが、それを誰が判断するか。どこまで記録するか。誰が再確認するか。そこが曖昧だった」
「アレリア王女は、そこを制度にしようとした」
「そうだ」
ヴァルターは、ようやくリディアを見た。
「だから危険だった」
「いいえ」
リディアは首を横に振った。
「必要だったんです」
ヴァルターの目が冷たくなる。
「必要なものが、常に実現できるとは限らない」
「でも、消していい理由にはなりません」
リディアは言った。
その声は、自分でも驚くほど静かだった。
「受理してはならない願いがある。だからこそ、なぜ受理できないのかを記録しなければいけない。誰が判断したのか、何を読み取ったのか、危険な部分と救うべき部分をどう分けたのか」
彼女は、黒い箱の列を見渡した。
「それを残さなければ、何でも受理禁止にできます」
ヴァルターは黙った。
リディアは続ける。
「セシリア様の婚約破棄届も、マルタさんの絶縁届も、テオさんの養子縁組願も、本当は誰かを傷つける願いではありませんでした。なのに、受理されると困るから隠された」
ミリアが白紙申請書を抱く手に力を込める。
「私の願いも」
小さく言った。
「お姉様を助けてほしいと書いただけだった」
その声に、ヴァルターの表情がわずかに揺れた。
リディアは、封印庫の奥へ視線を向ける。
「原本は、どこですか」
ヴァルターは、少しの沈黙の後、封印庫のさらに奥へ歩き出した。
「こちらです」
棚の列を抜ける。
受理禁止。
不存在処理。
EX-04。
封印対象。
箱の札が、次々と視界を流れていく。
リディアは、その一つ一つに誰かの願いが入っているのだと思うと、足が重くなった。
読むべきもの。
読んではいけないもの。
読まれないまま閉じられたもの。
どれも、簡単には分けられない。
封印庫の最奥に、小さな金庫があった。
他の黒い箱とは違う。
白い金属でできていて、表面に赤い封印が三重に貼られている。
封印には王宮、記録監査局、貴族院の印。
そして、中央に小さく刻まれた分類記号。
EX-04/王女救済願
ミリアの息が止まった。
ノアも、動かない。
リディアは、胸の奥が強く鳴るのを感じた。
ここにある。
奪われた申請書。
十年前、ミリア王女が書き、受付で奪われた原本。
ヴァルターは金庫の前に立った。
「この封印は、一度開ければ戻せません」
「戻す必要がありますか」
リディアが問う。
ヴァルターは答えない。
ミリアが前へ出た。
「開けてください」
声は震えている。
だが、今度は逃げていない。
「それは、私の申請書です」
ヴァルターは、局長印を取り出した。
一つ目の封印に押す。
赤い封印が、音もなく消える。
次に、記録監査局の印。
二つ目の封印が消える。
最後に、王宮高官の封印だけが残った。
ヴァルターの手が止まる。
「これは、私の権限では開けられない」
リディアは眉を寄せた。
「では、誰なら」
「王族本人、または王宮高官の承認」
ミリアが白紙申請書を見下ろした。
「私では駄目なの?」
「提出者本人であり、王族でもあります」
ノアが静かに言った。
「試す価値はあります」
ミリアは、震える手で白紙申請書を金庫へ近づけた。
代替紙が淡く光る。
金庫の最後の封印が、赤く反応した。
文字が浮かぶ。
王族権限確認
提出者本人確認
開封理由を提示せよ
ミリアは目を閉じた。
そして、はっきりと言った。
「私の願いを、私に返してください」
封印が震える。
だが、消えない。
さらに文字が浮かぶ。
開封不可。受理禁止願に該当
リディアは息を呑んだ。
「受理禁止……?」
ミリアの顔が青ざめる。
「私の願いが?」
ヴァルターは、金庫を見つめたまま言った。
「だから、ここに封印された」
リディアは彼を見る。
「お姉様を助けてほしいという願いが、なぜ受理禁止なのですか」
「原本に何が書かれていたか、覚えているだろう」
ヴァルターはミリアに向けて言った。
「殿下は、誰かを名指しした」
ミリアの肩が震えた。
リディアは、再読で見えた断片を思い出す。
薬。
眠らされて。
連れていかれる。
そして、大人たちの声。
急病という形で発表する。
改革案の写しは回収済み。
ミリアは、見たのだ。
アレリア王女を害した可能性のある人物を。
「原本には、犯人の名前が書かれているのですか」
リディアが尋ねると、ヴァルターは短く答えた。
「可能性がある」
「だから受理禁止?」
「王族が王族を告発する書類だ」
ヴァルターの声は重かった。
「しかも、当時の提出者は幼い第二王女。対象は第一王女。告発先には、王宮高官、貴族院関係者、そして王家に近い者の名があった」
リディアの背筋が冷えた。
ただの救済願ではなかった。
ミリアの申請書は、アレリア王女を助けてほしいという願いであると同時に、誰かを告発する書類でもあった。
それが王家内部に関わるなら、王宮は「受理してはならない願い」と判断したのだ。
ミリアは、震えながら呟いた。
「私は、名前を書いたの」
ノアが静かに言う。
「覚えていますか」
「ぼんやりと」
ミリアは額に手を当てた。
「怖くて、ずっと思い出さないようにしていた。でも、書いた。見た名前を、聞いた名前を、全部」
金庫の封印が赤く光っている。
受理禁止願に該当
リディアは、その文字を睨むように見た。
受理禁止。
確かに、幼い王女による王族または高官への告発は危険だ。
そのまま受理すれば、国が割れるかもしれない。
だが、だからといって奪い、差し替え、存在しないことにしていいはずがない。
リディアは一歩前へ出た。
「この願いを、処罰願として受理するのではありません」
金庫の文字がわずかに揺れる。
リディアは続ける。
「原本返還請求です。提出者本人が、自分の書類を返してほしいと言っています」
解雇通知が胸元で熱を持つ。
リディアはそれを取り出し、金庫へ向けた。
告発者、関連原本の確認を求める。
さらに、ノアが台帳を開いた。
「十年前の受付在席者として、原本差し替えの事実確認を求めます」
記録係が、震えながら帳簿を開く。
「王宮記録係として、現存確認を記録します」
イリスがミリアの手を支えながら言った。
「王宮侍女として、殿下の意思を証言します」
ミリアは、白紙申請書を金庫へ押し当てた。
「私は、誰かを殺してほしいと書いたのではありません」
涙が頬を伝う。
「お姉様を助けてほしいと書きました。見たことを、怖かったけれど書きました」
彼女の声は震えていた。
「それが受理してはならない願いなら、私は何を願えばよかったのですか」
その言葉が、封印庫に響いた。
黒い箱の棚が、かすかに揺れた。
受理禁止。
不存在処理。
EX-04。
閉じ込められていた無数の紙が、息を吸ったように見えた。
金庫の赤い文字が乱れる。
受理禁止願に該当
提出者本人返還請求
告発者関連記録確認
受付在席者証言
王宮記録係現存確認
文字が重なり、揺れ、やがて新しい一行に変わった。
原本返還に限り開封可
封印が、音もなく消えた。
ミリアが息を呑む。
ヴァルターが、ゆっくり金庫を開けた。
中には、一枚の紙があった。
薄い紙。
端は黄ばみ、折り目は古い。
しかし、文字は残っている。
幼い筆跡で、必死に書かれた申請書。
リディアは、何も言えなかった。
ミリアは震える手で、その紙に触れた。
だが、すぐには取らない。
十年間奪われていたものが、目の前に戻ってきた。
触れれば、すべてが本当になる。
彼女は、ノアを見た。
「今度は」
声が震える。
「落とさないで」
ノアは深く頭を下げた。
「はい」
ミリアは、原本を両手で取り上げた。
その瞬間、封印庫全体に淡い光が走った。
黒い箱の札が、次々と小さく震える。
リディアの胸元の解雇通知も、ノアの台帳も、記録係の帳簿も、イリスのメモも、すべてが同じ光を帯びた。
原本が、提出者本人の手へ戻ったのだ。
ミリアは、紙を胸に抱いた。
そして、泣いた。
声を出して、子どものように。
十年前の少女が、ようやく自分の申請書を取り戻した。
リディアは、静かに目を伏せた。
受理はまだ終わっていない。
原本を返しただけだ。
これから、そこに何が書かれているのか読まなければならない。
そこには、誰かの名がある。
受理してはならないとされた理由がある。
そして、アレリア王女の死に触れる真実がある。
ヴァルターが低く言った。
「ここから先は、もう戻せません」
リディアは、原本を抱くミリアを見た。
「戻すために来たのではありません」
彼女は答えた。
「返すために来ました」
ミリアは涙を拭き、原本を見つめた。
幼い字が並んでいる。
その一番下に、強く震えた一文があった。
リディアには、まだ読めない。
ミリアが唇を動かす。
「次は」
声はかすれている。
でも、逃げていない。
「私の願いを、読みます」
原本の文字が、淡く光り始めた。




