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王都の夜間未受理窓口 〜出せなかった願いを受理したら、人生が少しだけ書き換わりました〜  作者: swingout777


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第22話 奪われた申請書

 王女救済願――再読準備


 床に浮かんだ文字は、白い部屋の空気を重くした。


 ミリア王女は、改革案の写しを胸に抱いたまま立っていた。


 顔色は悪い。

 唇は震えている。

 けれど、その目はもう先ほどまでのように、ただ過去に怯えてはいなかった。


 十年前から閉じ込められていた王女が、自分の足でその扉の前に立っている。


 リディアは、胸元の解雇通知を握りしめた。


 そこに浮かんだ一文は、まだ熱を持っている。


 彼女は、告発者である。


 その一文が、今だけリディアをこの場につなぎ止めていた。


 王宮の記録上、彼女はまだ正式な入室者ではない。

 けれど、告発者として、王宮関連記録を確認する権限が一時的に発生している。


 それは、細い糸のような権限だった。

 少しでも力を加えれば切れてしまいそうな、頼りないもの。


 だが、今はそれでも十分だった。


 ヴァルター・グレイスは、部屋の中央に立っていた。


 黒い上着。

 銀縁の眼鏡。

 整った姿勢。


 彼はミリアを見ている。

 その目には、いつもの冷静さがある。


 しかし、リディアは気づいていた。


 ヴァルターは、ミリアを真正面から見ているようで、どこか避けている。


 十年前の少女ではなく、今の第二王女を見ようとしている。

 そうすることで、あの夜に手を伸ばした幼い子どもの姿を見ないようにしている。


「ミリア殿下」


 ヴァルターが静かに言った。


「再読を行えば、あなたが十年前に見たものが記録として浮上します」


「分かっています」


 ミリアの声は小さい。


「そこには、あなたが忘れたいものも含まれる」


「忘れられませんでした」


 ミリアは答えた。


 その一言で、ヴァルターは黙った。


 忘れられなかった。


 それは、王宮の誰もが知っていながら、記録には書かなかった事実だ。


 侍医長が、険しい声で言う。


「殿下。今のご状態で過去の記憶に触れることは危険です。再び強い発作を起こされる可能性があります」


 ミリアは、侍医長を見た。


「私は、発作を起こすたびに何を言っていましたか」


「殿下」


「書いてありますね。療養記録に」


 侍医長の口が閉じる。


 ミリアは、イリスへ目を向けた。


「イリス」


「はい、殿下」


「私が夜に言っていた言葉を、もう一度教えて」


 イリスの目が揺れた。


 だが、彼女は深く息を吸い、答えた。


「お姉様を、殺さないで。受け取って。お願い、受け取って。まだ間に合うから」


 ミリアは目を閉じた。


 その言葉は刃のように彼女へ戻ってきたはずだ。


 それでも、彼女は逃げなかった。


「私は、十年間、同じ言葉を言い続けていたのですね」


「はい」


「なら、読むのは初めてではありません」


 ミリアは目を開けた。


「私は、ずっと読もうとしていたのです」


 リディアは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 本人が、初めて自分の言葉を受け取ろうとしている。


 ノアは、ミリアの少し後ろに立っていた。


 十年前に受理できなかった書記官。

 今度は、王女の手を離さずにそこにいる。


 ヴァルターは、床に浮かぶ文字を見下ろした。


 王女救済願――再読準備


「再読には、原本またはそれに相当する書類が必要です」


 ヴァルターが言った。


 リディアは、すぐに白紙申請書を思い出した。


 夜間未受理窓口に残っていた白紙の紙。

 助けてください。

 お姉様を、殺さないで。

 それでも、読んで。


 そこに何度も浮かんだ言葉。


 ノアが静かに答える。


「原本に相当する白紙申請書は、夜間未受理窓口で仮受付しています」


「ここにはない」


「必要なら、現れます」


 ヴァルターは、わずかに眉を動かした。


「相変わらず、都合のよい場所だ」


「都合がよいものには代償があります」


 ノアの返答に、リディアは一瞬だけ彼を見た。


 いつも聞いてきた言葉。

 けれど、今は重みが違う。


 この場所で便利に開く扉も、現れる受理印も、過去を読ませる台帳も、すべて誰かの未受理を代償にしているのかもしれない。


 ミリアが、小さく言った。


「白紙ではありませんでした」


 全員が彼女を見る。


「私の申請書は、白紙ではありませんでした」


 リディアは息を止めた。


 そうだ。


 夜間未受理窓口に現れた申請書は白紙だった。


 けれど、十年前にミリアが差し出した時、それは本当に白紙だったのだろうか。


 ミリアは、震える手で自分の胸元に触れた。


「私は、書きました。震えていたけれど、確かに書きました。お姉様の名前も、私の名前も、何を見たのかも」


「何を見たのですか」


 リディアは、慎重に尋ねた。


 ミリアの顔が強張る。


 喉が動く。


 しかし、言葉は出なかった。


 ノアが静かに言った。


「無理に話す必要はありません。再読で浮かび上がるものを、殿下ご自身が読める範囲で」


 ミリアは頷いた。


 その時、部屋の空気が揺れた。


 何もないはずの床に、淡い光が集まり始める。


 床に浮かんだ朱色の印の中央に、一枚の紙が現れた。


 白紙申請書。


 夜間未受理窓口にあったはずの紙が、王宮の白い部屋に浮かび上がる。


 しかし、リディアはすぐに違和感を覚えた。


 紙の端が欠けている。


 中央は白い。

 だが、ところどころに、水でにじんだような跡がある。


 いや、水ではない。


 削られた跡だ。


 書かれていた文字が、何かによってこすり取られたように見える。


 ミリアはその紙を見た瞬間、息を詰めた。


「私の」


 声が震える。


「私の申請書……」


 ノアが紙に近づこうとする。


 だが、その前にヴァルターが言った。


「触れるな」


 鋭い声だった。


 ノアの足が止まる。


 ヴァルターは、白紙申請書を見つめている。


 その顔には、はっきりとした緊張があった。


「それは、原本ではない」


「どういう意味ですか」


 リディアが尋ねる。


 ヴァルターは、すぐには答えなかった。


 代わりに、ミリアが言った。


「奪われました」


 全員の視線が彼女へ向く。


 ミリアは、白紙申請書から目を離せない。


「私が受付に出した時、紙は奪われました。あの人が、横から」


 その声は幼い。


 十年前の彼女が、そのまま口を開いているようだった。


「そして、別の紙に替えられた」


 リディアの胸が強く鳴った。


「別の紙?」


「はい」


 ミリアは震えながら頷いた。


「私が書いた申請書ではなく、何も書かれていない紙に未受理印を押したのです」


 ノアの顔から、血の気が引いた。


 リディアも、言葉を失った。


 夜間未受理窓口に届いた白紙申請書。

 そこに残っていた声。


 あれは、ミリアが書いた原本ではなかった。


 奪われた申請書の代わりに差し出され、未受理にされた偽物。


 では、本物はどこにあるのか。


 ヴァルターが低く言った。


「やはり、そこから残っていたか」


 リディアは彼を見る。


「あなたは知っていたのですか」


「すべてではない」


「でも、差し替えがあったことは?」


 ヴァルターは沈黙した。


 その沈黙は、肯定だった。


 ノアが、かすれた声で言った。


「私は、白紙に未受理印が押されたものだと思っていました」


 ミリアが、ノアを見る。


「あなたは、私の紙を見ていない」


「……はい」


「あなたが手を伸ばした時には、もう奪われていた」


 ノアの表情が揺れた。


 十年前の自責が、今わずかに形を変えた。


 彼は受け取れなかった。

 それは事実だ。


 だが、彼が受け取る前に、申請書はすでに奪われていた。


 それでも、罪が消えるわけではない。

 受け取れなかった事実は残る。


 しかし、真実は少し違っていた。


 リディアは、白紙申請書を見つめた。


「では、この紙は」


「代わりに未受理にされた紙です」


 ミリアは言った。


「でも、私がそこに叫んだから。私の声が、移ったのだと思います」


 紙に残る声。


 書かれた文字ではなく、差し出そうとした願いそのものが、白紙に焼きついた。


 だから十年後、夜間未受理窓口へ流れ着いたのだ。


 リディアは、胸が震えた。


「本物の申請書には、何が書かれていたのですか」


 ミリアは口を開きかけた。


 しかし、すぐに息が詰まったように胸を押さえる。


 イリスが支える。


「殿下」


「大丈夫」


 ミリアは言ったが、大丈夫には見えなかった。


 リディアは、一歩下がった。


「今すぐ言わなくて大丈夫です」


「でも」


「読みます。紙に残っている分から」


 リディアは、白紙申請書へ目を向けた。


「この代わりの紙にも、あなたの声は残っています」


 ノアが頷く。


「再読は、原本探索のための手続きとして進められます」


 ヴァルターが厳しい声で言う。


「許可していない」


 ミリアが、はっきり言った。


「私が許可します」


 ヴァルターは彼女を見る。


「殿下」


「これは、私の申請書です」


「その紙は原本ではありません」


「それでも、私の声が残っています」


 ミリアは、震える足で一歩前へ出た。


 イリスが支えようとするが、ミリアは首を振る。


「リディアさん」


「はい」


「一緒に読んでください」


 リディアは頷いた。


 ノアが静かに言う。


「私も、記録します」


 その言葉に、ミリアの目が揺れた。


 十年前は、受理できなかった書記官。

 今は、記録する。


 それは小さなことではなかった。


 記録係の若い男が、帳簿を抱え直した。


「私も、記録します」


 声は震えていたが、逃げていなかった。


 リディアは、白紙申請書の端に指を置いた。


 ミリアも、震える手で反対側に触れる。


 ノアは台帳を開く。


 部屋の床に浮かぶ文字が変わった。


 王女救済願――代替紙再読開始


 白紙申請書が、淡く光った。


 最初に浮かんだのは、幼い筆跡ではなかった。


 音だった。


 走る足音。

 息切れ。

 白い廊下。

 遠くで怒鳴る大人の声。


 リディアの視界が揺れる。


 十年前の王宮。


 幼いミリアが走っている。


 手には、申請書。


 今度は、はっきり見えた。


 紙は白紙ではない。


 震える文字が並んでいる。


 王女救済願

 提出者:ミリア・エル・ラウゼリア

 対象者:第一王女アレリア・エル・ラウゼリア


 その下に、幼い字で必死に書かれた文がある。


 だが、リディアにはまだ読めない。


 視界の中のミリアは、廊下を曲がる。


 大人たちの声が聞こえる。


「急病という形で発表する」


「改革案の写しは?」


「回収済みです」


「ミリア殿下に知られた可能性は?」


「子どもです。証言にはなりません」


 幼いミリアの足が止まる。


 手の中の申請書が震える。


 その時、部屋の隙間から何かが見えた。


 白い寝台。


 金の髪。


 倒れているアレリア王女。


 そのそばに立つ数人の影。


 誰かが言う。


「まだ息があります」


 別の声。


「なら、なおさら急げ」


 ミリアの中で、世界が割れる。


 お姉様が生きている。


 まだ、生きている。


 だから彼女は走った。


 王宮臨時受付へ。


 扉の前で、若い書記官が振り向く。


 ノアだ。


 若いノアは、驚いた顔をする。


「ミリア殿下?」


 ミリアは、机へ申請書を差し出す。


「受け取ってください」


 幼い声が震える。


「お姉様を助けて。まだ息をしているの。病気じゃないの。薬を飲まされて、眠らされて、連れていかれるの」


 リディアの喉が凍った。


 薬。


 眠らされて。


 連れていかれる。


 それが、原本に書かれていた内容なのか。


 若いノアが手を伸ばす。


 その指が紙に触れる直前。


 横から白い手袋が割り込んだ。


 申請書が、ミリアの手から奪われる。


 幼いミリアが叫ぶ。


「返して!」


 白い手袋の人物は、顔を見せない。


 袖口に、銀の留め具。


 王宮高官のもの。


 その手は、奪った申請書を素早く折りたたむ。

 そして、机の上に別の白紙を置く。


「王女殿下の混乱による書類だ」


 冷たい声。


「受理の必要はない」


 若いノアは動けない。


 ミリアは手を伸ばす。


「違う! それじゃない! 私が書いたのは、それじゃない!」


 だが、誰も聞かない。


 白紙に、赤い未受理印が押される。


 音が響く。


 どん、と。


 その瞬間、ミリアの声が世界から切り離される。


 視界が、激しく揺れた。


 リディアは、現在の王宮の部屋へ引き戻された。


 ミリアは膝をついていた。


 イリスが必死に支えている。


 リディアも息が上がっていた。


 ノアは台帳を握りしめ、顔を青ざめさせている。


 記録係の若い男は、震えながらも帳簿に書いていた。


 代替紙確認。

 原申請書、受付時に奪取。

 未受理印は代替白紙に押印。


 記録監査官が怒鳴る。


「書くなと言っただろう!」


 だが、記録係は泣きながら首を横に振った。


「これは、記録です」


「お前の職はないと思え」


「それでも、これは記録です」


 リディアは、彼を見る。


 若い記録係の姿が、十年前のノアに重なった。


 今度は、誰かが書いている。


 ノアができなかったことを、今の誰かがしている。


 ミリアは、苦しげに息をしながら言った。


「見たでしょう」


 声がかすれている。


「私、見たの。お姉様は、まだ生きていた」


 部屋が凍った。


 ヴァルターの表情も硬い。


 リディアは、静かに尋ねた。


「アレリア王女は、あの時まだ生きていたのですね」


 ミリアは頷いた。


「でも、病ではなかった」


「薬を飲まされた、と言っていました」


「薬草の匂いがした。お姉様は、眠っているみたいだった。でも、手が動いたの」


 ミリアは自分の手を見つめた。


「私を見たの。お姉様が、少しだけ目を開けて」


 涙が落ちる。


「そして、口を動かした」


「何と?」


 リディアが聞くと、ミリアは震えた。


「逃げなさい、と」


 その言葉で、リディアの胸が痛んだ。


 アレリア王女は、最後まで妹を守ろうとした。


 自分が危険な状態にありながら、逃げろと言った。


 ミリアは泣いている。


「でも私は逃げなかった。走って、申請書を書いて、受け付けてもらおうとした。なのに」


 白紙申請書が、床の上で淡く光る。


 奪われた申請書


 その文字が浮かび上がった。


 ノアが低く言った。


「原本を探す必要があります」


「どこにあるのですか」


 リディアが尋ねる。


 ミリアは首を振る。


「分かりません。奪った人が持っていった」


 リディアは、ヴァルターを見る。


「あなたは知っていますか」


 ヴァルターは、しばらく黙っていた。


 やがて、低く答える。


「原本は、存在しないことにされた」


「またそれですか」


「事実だ」


「どこで」


 リディアは一歩前へ出る。


「どこで、存在しないことにされたのですか」


 ヴァルターの目が、わずかに揺れた。


「王宮記録監査局の封印庫」


 ノアが息を呑む。


「封印庫……」


「そこにあるのですか」


「あるなら、そこだ」


 ヴァルターは言った。


「だが、開けられない」


「なぜ」


「開ければ、王女救済願だけではなく、十年前の不存在処理記録がすべて出る」


「なら、開けるべきです」


「国が揺れる」


「もう揺れています」


 リディアの声は震えていた。


 怒りではなく、確信で。


「揺れているのに、上から布をかけて見ないふりをしていただけです」


 ヴァルターは何も言わない。


 白紙申請書の上に、新しい文字が浮かぶ。


 原申請書所在:王宮記録監査局封印庫


 続いて、別の文字。


 開封権限:記録監査局長


 リディアは、ヴァルターを見た。


「あなたが、開けられる」


 ヴァルターは答えない。


「局長権限で」


「開けることはできる」


 彼は静かに言った。


「だが、開けるとは言っていない」


 ミリアが、涙の残る顔でヴァルターを見た。


「ヴァルター」


 その声に、ヴァルターの表情がわずかに変わった。


 王女に名を呼ばれたからではない。


 十年前の少女に呼ばれたように聞こえたからだ。


「あなたも、あの紙を見たの?」


 ヴァルターは、すぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 そして。


「見ました」


 ミリアの目が揺れる。


「どうして、私に言ってくれなかったの」


 ヴァルターは、目を伏せない。


 けれど、答えるまでに時間がかかった。


「言えば、あなたは壊れると思ったからです」


「私は、もう壊れていました」


 ミリアの声は静かだった。


「壊れたまま、十年も一人にされました」


 その言葉は、誰よりも重かった。


 ヴァルターの顔から、ほんの少しだけ冷静さが剥がれた。


 ミリアは続ける。


「私に何が起きたのか、私が何を見たのか、誰も言ってくれなかった。みんな、忘れなさいと言った。でも、忘れられなかった」


 彼女は、ノアに支えられながら立ち上がろうとした。


 リディアも手を貸す。


 ミリアは、震える足でヴァルターの前に立った。


「私は、壊れたから苦しかったんじゃない」


 涙が頬を伝う。


「壊れたことを、誰も記録してくれなかったから苦しかったの」


 部屋の中に沈黙が落ちた。


 侍医長も、記録監査官も、何も言えなかった。


 リディアは、その言葉を胸に刻んだ。


 未受理とは、まさにそれだ。


 傷ついたこと。

 助けを求めたこと。

 不正を見たこと。

 それらを記録されないまま、なかったことにされる。


 人は、痛みそのものだけでなく、痛みを認められないことでも壊れる。


 ミリアは、震える声で言った。


「封印庫を開けて」


 ヴァルターは動かない。


「私の申請書を返して」


 その言葉に、床の朱色の印が強く光った。


 王女救済願――原本返還請求


 リディアは息を呑んだ。


 願いが、次の形を得た。


 救済願の受理ではなく、まず原本の返還。


 奪われた申請書を、本人へ返すこと。


 ヴァルターは、光る文字を見下ろしていた。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「分かりました」


 記録監査官が叫ぶ。


「局長!」


 ヴァルターは彼を見ない。


「封印庫を開けます」


 リディアは、息を止めた。


 ノアも、ミリアも、イリスも、記録係も、全員がヴァルターを見ている。


 ヴァルターは、静かに続けた。


「ただし、開封に立ち会う者は限られます。ミリア殿下、リディア・クラウス、ノア・エルセイド、記録係一名」


「私も」


 イリスが言った。


 ヴァルターは彼女を見る。


「侍女は対象外です」


「私は、殿下の言葉をここまで運びました」


 イリスの声は震えていた。


「殿下の涙を、療養記録で終わらせたくないと書いたのは私です。最後まで見届けます」


 ミリアが、彼女の手を握った。


「イリスも一緒に」


 ヴァルターは、しばらく黙った。


 そして頷く。


「よろしい」


 侍医長が慌てて言う。


「殿下のお体が」


「侍医長」


 ミリアは、彼を見た。


「私は、病人としてではなく、提出者として行きます」


 その言葉で、部屋の空気が変わった。


 提出者。


 十年前、王女救済願を出した本人。


 今、彼女は自分をそう名乗った。


 リディアは、胸が熱くなるのを感じた。


 ノアが、静かに頭を下げた。


「提出者本人の意思を確認しました」


 床の文字が変わる。


 提出者:ミリア・エル・ラウゼリア

 意思確認:原本返還を希望


 白紙申請書がふわりと浮かび上がり、ミリアの手元へ近づいた。


 ミリアはそれを受け取る。


 白紙の代替紙。

 十年前、彼女の本物の申請書の代わりに未受理にされた紙。


 ミリアは、それを胸に抱いた。


「これは、本物ではないけれど」


 彼女は呟いた。


「私の声を、持っていてくれたのね」


 リディアは、何も言えなかった。


 紙は返事をしない。


 けれど、淡く光った。


 まるで、十年越しにその言葉を受け取ったように。


 ヴァルターが扉へ向かう。


「封印庫へ」


 彼の声は、いつもの冷静さを取り戻していた。


 だが、リディアには分かった。


 何かが変わり始めている。


 封印庫を開ける。


 それは、王女救済願の原本を探すだけではない。


 十年前に不存在処理されたものすべてが、眠る場所を開けるということだ。


 リディアは、胸元の解雇通知を握った。


 彼女は、告発者である。


 その文字の下に、新しい一行が浮かぶ。


 立会権限、一時発生。


 リディアは頷いた。


 書類が、また道を開いた。


 ミリアはノアの手を借りながら歩き出す。


 イリスが反対側を支える。


 記録係は帳簿を抱え、泣きそうな顔でついてくる。


 扉の外へ出る直前、ミリアは一度だけ振り返った。


 白い療養室。

 十年間閉じ込められていた部屋。


 彼女は小さく息を吸う。


「行ってきます」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 アレリア王女へか。

 十年前の自分へか。

 それとも、ずっとここに置き去りにしていた声へか。


 リディアは、その横で静かに言った。


「行きましょう」


 奪われた申請書を取り戻すために。


 受け取られなかった願いを、今度こそ本人の手へ返すために。


 王宮の奥の廊下を、彼女たちは歩き始めた。


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