第45話 置いていかれた怪我人
人が倒れていれば、助ける。
それは帳面より前にある。
けれど、助けたあとには帳面が来る。
どこで倒れていたのか。
誰が見つけたのか。
怪我の程度は。
治療に何を使ったのか。
費用は誰が払うのか。
助けることは簡単ではない。
助けたことを残すのは、もっと難しい。
朝、ギルドの裏手に男が座り込んでいた。
最初に見つけたのはレンだった。
裏口の木箱を出そうとして、扉を開けた。湿った朝の空気が入り、石畳の端に人影が見えた。
男は壁にもたれ、片足を投げ出していた。年は三十前後。冒険者ではない。革の胸当ても、剣もない。代わりに、荷運び人がよく使う太い腰帯を巻いている。
右足首が腫れていた。
靴は脱がれていない。脱げないのだろう。足の甲まで熱を持っている。顔色は悪いが、意識はある。
レンは近づいた。
「動けるか」
男は顔を上げた。
「……転んだだけだ」
答えになっていない。
レンは足首を見た。
靴底に、黒い粉がついている。普通の泥ではない。乾くと金属の匂いが残る粉だった。
腰帯には、荷紐が食い込んだ跡がある。肩口にも赤い線が残っていた。重いものを長く担がされた跡だ。
転んだだけではない。
「中へ」
レンが言うと、男は首を振った。
「いい。少し休めば行く」
「歩けない」
「歩ける」
男は立とうとして、すぐに顔を歪めた。
レンは男の腕を取った。
「入る」
「やめろ。騒ぎにするな」
「騒げない」
レンはそう言って、男を支えた。
男は軽くなかった。荷運び人の体だった。だが、力が入っていない。片足を引きずるようにして、裏口からギルドの中へ入る。
厨房の娘が驚いて振り向いた。
「レンさん、その人」
「怪我」
短かった。
だが、言い捨てではなかった。
「治療係を」
「はい」
娘が奥へ走る。
リーネは受付台から裏へ来た。帳面を持っている。朝の記録を始めたばかりだったらしい。
「どうしました」
「裏にいた」
「冒険者ですか」
「違う」
リーネは男を見る。
男はすぐに言った。
「転んだだけだ。勝手に休んでただけで、ギルドには関係ない」
「お名前をお願いします」
「いらない」
「治療を受けるなら、記録が必要です」
「いらないって言ってるだろ」
男の声は荒かったが、弱かった。
治療係の老婆が来て、男の足を見るなり舌打ちした。
「これは歩く足じゃないね」
「大げさだ」
「黙ってな。腫れが上がってる。靴を切るよ」
「やめろ、靴代が」
「足代より安い」
老婆は容赦なく靴紐を切った。男は顔を歪めたが、文句を飲み込んだ。
リーネは帳面を開く。
「お名前を」
男は答えない。
「名前がなければ、治療記録を作れません」
「作るな」
「作らなければ、薬草も包帯も使えません」
「じゃあ使うな」
老婆が男の額を指で弾いた。
「口だけ元気だね。だったら自分で帰りな」
男は黙った。
帰れないのだ。
マスターが奥から出てきた。
「何だ」
「裏手で倒れていました」
リーネが答える。
「本人は転んだだけだと言っていますが、足首を痛めています」
「名は」
「言いません」
マスターは男を見る。
「言わないなら客じゃない」
「客じゃねえよ」
男が吐き捨てる。
「なら何だ」
「通りがかっただけだ」
「裏口でか」
「……休んでただけだ」
マスターは少しだけ目を細めた。
「レン」
「どうした」
「何を運んだ」
男の肩が跳ねた。
レンは男の腰帯を見た。
「重い箱」
「中身は」
「黒い粉。古い金具。油」
「登録品か」
「違う」
男がレンを睨んだ。
「見てねえだろ」
「匂う」
「何なんだよ、お前」
リーネは男の肩口の跡を見た。荷紐の跡は深い。正規の荷運びなら、荷札がある。行き先もある。運び主も記録される。
だが、男は何も言わない。
言えば、自分だけが残る。
「どこから運びましたか」
リーネが聞く。
「知らない」
「誰に頼まれましたか」
「知らない」
「報酬は」
「もらってない」
嘘ではないかもしれなかった。
約束だけされ、怪我をした途端に捨てられた。そんな顔だった。
老婆が足首に湿布を当てる。男は低く呻いた。
「折れてはいないね。ただ、しばらく荷は担げないよ」
「困る」
「困る足で歩くから悪くなる」
「働けなきゃ、飯が食えない」
その言葉は、受付に落ちた。
リーネは帳面を見た。
治療記録を作るなら、名前がいる。
名前を書けば、事情もいる。
事情を書けば、登録外の荷運びが出てくる。
登録外の荷運びが出れば、男は関係者になる。
上にいる誰かは、知らないと言うだろう。
男だけが残る。
「マスター」
「本人が言わないなら、書けん」
「ですが、このままでは」
「応急処置だ」
マスターは言った。
「通行人が裏手で怪我をしていた。ギルド前の安全管理として応急処置。名前は不明。本人、名乗らず。そこまでなら書ける」
「治療費は」
「内部処理だ」
「薬草は」
「少量だろう」
老婆が鼻を鳴らした。
「少量で済ませるよ。足が腫れたまま働きに出る馬鹿を止める分は、別料金だがね」
男は顔を伏せた。
リーネはペンを持った。
通行人。
名乗らず。
裏手にて足首を負傷。
応急処置。
事実ではある。
だが、全部ではない。
「レンさん」
「どうした」
「運ばされた荷物は、まだありますか」
「ある」
「どこに」
「近い」
男が顔を上げた。
「やめろ。行くな」
「なぜですか」
リーネが聞く。
男は唇を噛んだ。
「あれに触ると、俺が運んだってことになる」
「もう、なっています」
「なってない。俺は知らない。転んだだけだ」
それは、男に残された最後の薄い布だった。
リーネはそれを剥がせなかった。
レンは裏口へ向かった。
「見てくる」
「レンさん」
リーネが呼ぶ。
「触れますか」
「触らない」
「では、何を」
「近づけない」
レンはそう言って出ていった。
裏通りは、朝の人通りが少なかった。
ギルドの裏手から少し離れた荷置き場に、古い木箱が二つ置かれていた。表向きは廃材の箱に見える。だが、片方の角に黒い粉がついている。
箱には荷札がない。
留め具は古い。中から油と金属の匂いがする。壊れた道具か、検査を通していない部品か。少なくとも、普通の荷としては通せないものだった。
箱の近くに、足跡が三つある。
男のもの。
もう一人、軽い靴。
それから、荷車の轍。
運ばせた者は、ここで男を捨てた。
怪我をして動けなくなったから、箱だけを置いていった。
あとで別の者に拾わせるつもりだったのかもしれない。
レンは箱に触れなかった。
近くの積み板を動かし、箱へ続く道を塞ぐ。荷車が入れないよう、片側の石をずらす。雨樋の下に落ちていた水を流し、黒い粉が残る地面を濡らした。
足跡は薄くなる。
だが、箱は見える。
隠さない。
近づけにくくする。
しばらくして、軽い靴の男が来た。
まだ若い。荷運び人ではない。商家の使いか、倉庫の下働き。周囲を見て、箱へ近づこうとしたが、積み板に邪魔されて足を止めた。
レンは壁際に立っていた。
男が気づいて、息を呑む。
「何してる」
レンが聞く。
「いや、落とし物かと思って」
「荷札がない」
「だから、確認を」
「触るな」
男の手が止まった。
レンは一歩近づく。
「名を出すなら、触れ」
「は?」
「名を出さないなら、触るな」
男の顔がこわばる。
意味は伝わった。
箱を持ち去るなら、自分の名が必要になる。
名を出せない荷なら、触れない。
男は舌打ちし、何も持たずに去っていった。
レンは、箱を見た。
仕事ではない。
だが、近づけないようにはできた。
ギルドに戻ると、男は治療を終えて長椅子に座っていた。足首には包帯が巻かれ、眉間には深い皺がある。
リーネが帳面を書いている。
「荷物は」
マスターが聞いた。
「残っている」
「持ち込んだか」
「触ってない」
「誰か来たか」
「来た」
「名は」
「出さなかった」
マスターは頷いた。
「なら、町の詰所に通報だな。荷札のない放置物。危険物の可能性あり。ギルド裏手近辺の安全確認として」
リーネはすぐに書いた。
荷札なしの木箱二点。
ギルド裏手近辺に放置。
中身不明。危険物の可能性あり。
町詰所へ確認依頼。
男が顔を上げた。
「俺の名前は」
「書きません」
リーネは言った。
「通行人への応急処置記録に、あなたの名前はありません。荷物の記録にも、あなたの名前はありません」
「なら、俺は関係ないのか」
「帳面上は」
男は笑わなかった。
「帳面上だけか」
「はい」
リーネはごまかさなかった。
「あなたが運ばされたことは、消えません。でも、今ここで名前を書けば、あなた一人のものになります」
男はしばらく黙った。
「じゃあ、どうすりゃいい」
「足を治してください」
「そのあとで?」
リーネは答えられなかった。
そのあとでまた、同じ仕事を受けるかもしれない。
断れないかもしれない。
別の誰かが運ばされるかもしれない。
マスターが言った。
「荷札のない荷は、もうこの辺じゃ拾われにくくなる」
「それだけか」
「それだけだ」
「少ないな」
「少なくても、ないよりはましだ」
男は低く笑った。笑いというより、息が漏れたような音だった。
「変なギルドだな」
「よく言われる」
マスターはそう言って、男に松葉杖代わりの古い棒を渡した。
「返せよ」
「金は」
「貸し出しだ。折ったら弁償」
「ひでえな」
「歩けるだけましだ」
男は棒を受け取り、立ち上がった。足を引きずりながら、裏口ではなく表の扉へ向かう。
リーネは少し驚いた。
「裏からでなくてよろしいのですか」
男は振り向かなかった。
「表から出た方が、通りがかりっぽいだろ」
そう言って、外へ出ていった。
夕方、町の詰所から人が来た。
荷札のない木箱は回収された。中身は古い金具と、黒く汚れた部品だったという。登録されていない工房の廃材かもしれない。詳しい確認は町側で行うことになった。
ギルドの帳面には、追記だけが残った。
放置物、町詰所へ引き渡し。
ギルド業務への影響なし。
通行安全確認済み。
通行人の男の名は、最後まで空欄だった。
リーネはその空欄を見た。
空欄なのに、重い。
夜、レンは裏口の掃除箱を見た。
前に見つけた折り紙は、まだ底にある。開いていない。
その脇に、小さな布切れが落ちていた。
男の腰帯の布と同じ色だった。
置いていったのか。落ちたのか。
分からない。
レンは拾い上げた。
血はついていない。油の匂いだけが少しする。
背後でリーネが言った。
「レンさん」
「どうした」
「今日の記録は、正しかったのでしょうか」
レンは布切れを見た。
「書けることは、書いた」
「書けないことは?」
「残る」
「どこに」
レンは少し黙った。
「足に」
リーネは返事をしなかった。
男の足首。
荷紐の跡。
名のない応急処置。
荷札のない箱。
書けないものは消えない。
別の場所に残る。
「記録すれば、守れると思っていました」
リーネは小さく言った。
レンはリーネを見た。
「守ることもある」
「守れないこともありますね」
「たぶんな」
リーネは帳面を抱え直した。
「では、書かない方がいいのでしょうか」
「違う」
「何が違うんですか」
「書く場所を、間違えない」
リーネは顔を上げた。
レンはそれ以上説明しなかった。
説明しなくても、少しだけ分かった。
男の名前を書く場所ではなかった。
箱のことは書く場所だった。
水門の時も、壊した者ではなく、壊れた水門を書く場所だった。
検査札の時も、持ち込んだ老人ではなく、廃棄漏れを書く場所だった。
書く場所を間違えると、弱い者だけが残る。
リーネは、帳面の角を指で押さえた。
「難しいですね」
「そうだな」
「レンさんでも、難しいですか」
レンは少しだけ考えた。
「帳面は、難しい」
リーネは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐いた。
「そうですね」
裏口の鍵が閉まる音がした。
今日の仕事は終わった。
帳面には、通行人への応急処置と、放置物の確認だけが残った。
置いていかれた怪我人の名は、どこにもない。
それで守れたものがある。
それでも、守れなかったものがある。
リーネは最後に、治療係の薬草使用欄を確認した。
薬草少量。
包帯一巻。
用途、応急処置。
名前の欄は空いている。
その空欄を、今日は埋めなかった。




