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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第六章 書けない依頼

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第45話 置いていかれた怪我人

 人が倒れていれば、助ける。


 それは帳面より前にある。


 けれど、助けたあとには帳面が来る。


 どこで倒れていたのか。

 誰が見つけたのか。

 怪我の程度は。

 治療に何を使ったのか。

 費用は誰が払うのか。


 助けることは簡単ではない。

 助けたことを残すのは、もっと難しい。


 朝、ギルドの裏手に男が座り込んでいた。


 最初に見つけたのはレンだった。


 裏口の木箱を出そうとして、扉を開けた。湿った朝の空気が入り、石畳の端に人影が見えた。


 男は壁にもたれ、片足を投げ出していた。年は三十前後。冒険者ではない。革の胸当ても、剣もない。代わりに、荷運び人がよく使う太い腰帯を巻いている。


 右足首が腫れていた。


 靴は脱がれていない。脱げないのだろう。足の甲まで熱を持っている。顔色は悪いが、意識はある。


 レンは近づいた。


「動けるか」


 男は顔を上げた。


「……転んだだけだ」


 答えになっていない。


 レンは足首を見た。

 靴底に、黒い粉がついている。普通の泥ではない。乾くと金属の匂いが残る粉だった。


 腰帯には、荷紐が食い込んだ跡がある。肩口にも赤い線が残っていた。重いものを長く担がされた跡だ。


 転んだだけではない。


「中へ」


 レンが言うと、男は首を振った。


「いい。少し休めば行く」


「歩けない」


「歩ける」


 男は立とうとして、すぐに顔を歪めた。


 レンは男の腕を取った。


「入る」


「やめろ。騒ぎにするな」


「騒げない」


 レンはそう言って、男を支えた。


 男は軽くなかった。荷運び人の体だった。だが、力が入っていない。片足を引きずるようにして、裏口からギルドの中へ入る。


 厨房の娘が驚いて振り向いた。


「レンさん、その人」


「怪我」


 短かった。

 だが、言い捨てではなかった。


「治療係を」


「はい」


 娘が奥へ走る。


 リーネは受付台から裏へ来た。帳面を持っている。朝の記録を始めたばかりだったらしい。


「どうしました」


「裏にいた」


「冒険者ですか」


「違う」


 リーネは男を見る。


 男はすぐに言った。


「転んだだけだ。勝手に休んでただけで、ギルドには関係ない」


「お名前をお願いします」


「いらない」


「治療を受けるなら、記録が必要です」


「いらないって言ってるだろ」


 男の声は荒かったが、弱かった。


 治療係の老婆が来て、男の足を見るなり舌打ちした。


「これは歩く足じゃないね」


「大げさだ」


「黙ってな。腫れが上がってる。靴を切るよ」


「やめろ、靴代が」


「足代より安い」


 老婆は容赦なく靴紐を切った。男は顔を歪めたが、文句を飲み込んだ。


 リーネは帳面を開く。


「お名前を」


 男は答えない。


「名前がなければ、治療記録を作れません」


「作るな」


「作らなければ、薬草も包帯も使えません」


「じゃあ使うな」


 老婆が男の額を指で弾いた。


「口だけ元気だね。だったら自分で帰りな」


 男は黙った。


 帰れないのだ。


 マスターが奥から出てきた。


「何だ」


「裏手で倒れていました」


 リーネが答える。


「本人は転んだだけだと言っていますが、足首を痛めています」


「名は」


「言いません」


 マスターは男を見る。


「言わないなら客じゃない」


「客じゃねえよ」


 男が吐き捨てる。


「なら何だ」


「通りがかっただけだ」


「裏口でか」


「……休んでただけだ」


 マスターは少しだけ目を細めた。


「レン」


「どうした」


「何を運んだ」


 男の肩が跳ねた。


 レンは男の腰帯を見た。


「重い箱」


「中身は」


「黒い粉。古い金具。油」


「登録品か」


「違う」


 男がレンを睨んだ。


「見てねえだろ」


「匂う」


「何なんだよ、お前」


 リーネは男の肩口の跡を見た。荷紐の跡は深い。正規の荷運びなら、荷札がある。行き先もある。運び主も記録される。


 だが、男は何も言わない。


 言えば、自分だけが残る。


「どこから運びましたか」


 リーネが聞く。


「知らない」


「誰に頼まれましたか」


「知らない」


「報酬は」


「もらってない」


 嘘ではないかもしれなかった。


 約束だけされ、怪我をした途端に捨てられた。そんな顔だった。


 老婆が足首に湿布を当てる。男は低く呻いた。


「折れてはいないね。ただ、しばらく荷は担げないよ」


「困る」


「困る足で歩くから悪くなる」


「働けなきゃ、飯が食えない」


 その言葉は、受付に落ちた。


 リーネは帳面を見た。


 治療記録を作るなら、名前がいる。

 名前を書けば、事情もいる。

 事情を書けば、登録外の荷運びが出てくる。

 登録外の荷運びが出れば、男は関係者になる。


 上にいる誰かは、知らないと言うだろう。

 男だけが残る。


「マスター」


「本人が言わないなら、書けん」


「ですが、このままでは」


「応急処置だ」


 マスターは言った。


「通行人が裏手で怪我をしていた。ギルド前の安全管理として応急処置。名前は不明。本人、名乗らず。そこまでなら書ける」


「治療費は」


「内部処理だ」


「薬草は」


「少量だろう」


 老婆が鼻を鳴らした。


「少量で済ませるよ。足が腫れたまま働きに出る馬鹿を止める分は、別料金だがね」


 男は顔を伏せた。


 リーネはペンを持った。


 通行人。

 名乗らず。

 裏手にて足首を負傷。

 応急処置。


 事実ではある。

 だが、全部ではない。


「レンさん」


「どうした」


「運ばされた荷物は、まだありますか」


「ある」


「どこに」


「近い」


 男が顔を上げた。


「やめろ。行くな」


「なぜですか」


 リーネが聞く。


 男は唇を噛んだ。


「あれに触ると、俺が運んだってことになる」


「もう、なっています」


「なってない。俺は知らない。転んだだけだ」


 それは、男に残された最後の薄い布だった。


 リーネはそれを剥がせなかった。


 レンは裏口へ向かった。


「見てくる」


「レンさん」


 リーネが呼ぶ。


「触れますか」


「触らない」


「では、何を」


「近づけない」


 レンはそう言って出ていった。


 裏通りは、朝の人通りが少なかった。


 ギルドの裏手から少し離れた荷置き場に、古い木箱が二つ置かれていた。表向きは廃材の箱に見える。だが、片方の角に黒い粉がついている。


 箱には荷札がない。


 留め具は古い。中から油と金属の匂いがする。壊れた道具か、検査を通していない部品か。少なくとも、普通の荷としては通せないものだった。


 箱の近くに、足跡が三つある。


 男のもの。

 もう一人、軽い靴。

 それから、荷車の轍。


 運ばせた者は、ここで男を捨てた。

 怪我をして動けなくなったから、箱だけを置いていった。

 あとで別の者に拾わせるつもりだったのかもしれない。


 レンは箱に触れなかった。


 近くの積み板を動かし、箱へ続く道を塞ぐ。荷車が入れないよう、片側の石をずらす。雨樋の下に落ちていた水を流し、黒い粉が残る地面を濡らした。


 足跡は薄くなる。

 だが、箱は見える。


 隠さない。

 近づけにくくする。


 しばらくして、軽い靴の男が来た。


 まだ若い。荷運び人ではない。商家の使いか、倉庫の下働き。周囲を見て、箱へ近づこうとしたが、積み板に邪魔されて足を止めた。


 レンは壁際に立っていた。


 男が気づいて、息を呑む。


「何してる」


 レンが聞く。


「いや、落とし物かと思って」


「荷札がない」


「だから、確認を」


「触るな」


 男の手が止まった。


 レンは一歩近づく。


「名を出すなら、触れ」


「は?」


「名を出さないなら、触るな」


 男の顔がこわばる。


 意味は伝わった。


 箱を持ち去るなら、自分の名が必要になる。

 名を出せない荷なら、触れない。


 男は舌打ちし、何も持たずに去っていった。


 レンは、箱を見た。


 仕事ではない。

 だが、近づけないようにはできた。


 ギルドに戻ると、男は治療を終えて長椅子に座っていた。足首には包帯が巻かれ、眉間には深い皺がある。


 リーネが帳面を書いている。


「荷物は」


 マスターが聞いた。


「残っている」


「持ち込んだか」


「触ってない」


「誰か来たか」


「来た」


「名は」


「出さなかった」


 マスターは頷いた。


「なら、町の詰所に通報だな。荷札のない放置物。危険物の可能性あり。ギルド裏手近辺の安全確認として」


 リーネはすぐに書いた。


 荷札なしの木箱二点。

 ギルド裏手近辺に放置。

 中身不明。危険物の可能性あり。

 町詰所へ確認依頼。


 男が顔を上げた。


「俺の名前は」


「書きません」


 リーネは言った。


「通行人への応急処置記録に、あなたの名前はありません。荷物の記録にも、あなたの名前はありません」


「なら、俺は関係ないのか」


「帳面上は」


 男は笑わなかった。


「帳面上だけか」


「はい」


 リーネはごまかさなかった。


「あなたが運ばされたことは、消えません。でも、今ここで名前を書けば、あなた一人のものになります」


 男はしばらく黙った。


「じゃあ、どうすりゃいい」


「足を治してください」


「そのあとで?」


 リーネは答えられなかった。


 そのあとでまた、同じ仕事を受けるかもしれない。

 断れないかもしれない。

 別の誰かが運ばされるかもしれない。


 マスターが言った。


「荷札のない荷は、もうこの辺じゃ拾われにくくなる」


「それだけか」


「それだけだ」


「少ないな」


「少なくても、ないよりはましだ」


 男は低く笑った。笑いというより、息が漏れたような音だった。


「変なギルドだな」


「よく言われる」


 マスターはそう言って、男に松葉杖代わりの古い棒を渡した。


「返せよ」


「金は」


「貸し出しだ。折ったら弁償」


「ひでえな」


「歩けるだけましだ」


 男は棒を受け取り、立ち上がった。足を引きずりながら、裏口ではなく表の扉へ向かう。


 リーネは少し驚いた。


「裏からでなくてよろしいのですか」


 男は振り向かなかった。


「表から出た方が、通りがかりっぽいだろ」


 そう言って、外へ出ていった。


 夕方、町の詰所から人が来た。


 荷札のない木箱は回収された。中身は古い金具と、黒く汚れた部品だったという。登録されていない工房の廃材かもしれない。詳しい確認は町側で行うことになった。


 ギルドの帳面には、追記だけが残った。


 放置物、町詰所へ引き渡し。

 ギルド業務への影響なし。

 通行安全確認済み。


 通行人の男の名は、最後まで空欄だった。


 リーネはその空欄を見た。


 空欄なのに、重い。


 夜、レンは裏口の掃除箱を見た。


 前に見つけた折り紙は、まだ底にある。開いていない。

 その脇に、小さな布切れが落ちていた。


 男の腰帯の布と同じ色だった。


 置いていったのか。落ちたのか。

 分からない。


 レンは拾い上げた。


 血はついていない。油の匂いだけが少しする。


 背後でリーネが言った。


「レンさん」


「どうした」


「今日の記録は、正しかったのでしょうか」


 レンは布切れを見た。


「書けることは、書いた」


「書けないことは?」


「残る」


「どこに」


 レンは少し黙った。


「足に」


 リーネは返事をしなかった。


 男の足首。

 荷紐の跡。

 名のない応急処置。

 荷札のない箱。


 書けないものは消えない。

 別の場所に残る。


「記録すれば、守れると思っていました」


 リーネは小さく言った。


 レンはリーネを見た。


「守ることもある」


「守れないこともありますね」


「たぶんな」


 リーネは帳面を抱え直した。


「では、書かない方がいいのでしょうか」


「違う」


「何が違うんですか」


「書く場所を、間違えない」


 リーネは顔を上げた。


 レンはそれ以上説明しなかった。


 説明しなくても、少しだけ分かった。


 男の名前を書く場所ではなかった。

 箱のことは書く場所だった。

 水門の時も、壊した者ではなく、壊れた水門を書く場所だった。

 検査札の時も、持ち込んだ老人ではなく、廃棄漏れを書く場所だった。


 書く場所を間違えると、弱い者だけが残る。


 リーネは、帳面の角を指で押さえた。


「難しいですね」


「そうだな」


「レンさんでも、難しいですか」


 レンは少しだけ考えた。


「帳面は、難しい」


 リーネは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、小さく息を吐いた。


「そうですね」


 裏口の鍵が閉まる音がした。


 今日の仕事は終わった。


 帳面には、通行人への応急処置と、放置物の確認だけが残った。


 置いていかれた怪我人の名は、どこにもない。


 それで守れたものがある。

 それでも、守れなかったものがある。


 リーネは最後に、治療係の薬草使用欄を確認した。


 薬草少量。

 包帯一巻。

 用途、応急処置。


 名前の欄は空いている。


 その空欄を、今日は埋めなかった。

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