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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第六章 書けない依頼

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第44話 名乗らない依頼人

 名乗らない者は、客ではない。


 ギルドでは、そう扱う。


 依頼人は名を書く。

 冒険者は名札を見せる。

 商人は屋号を出す。

 苦情を言う者でさえ、最後にはどこの誰かを尋ねられる。


 名前がなければ、責任を置く場所がない。


 責任を置けないものは、帳面に載せられない。


 だから、リーネは受付台の前に立った老人へ、いつも通りに言った。


「ご依頼でしたら、お名前をお願いします」


 老人は、薄い布を頭から被っていた。


 旅人にしては荷が少ない。町の者にしては、歩き方に迷いがある。手には古い布袋を持っている。袋は小さいが、老人はそれを重そうに抱えていた。


「名は、いい」


 老人は低い声で言った。


「名乗れない場合、正式な依頼としては受け付けられません」


「依頼じゃない」


「では、ご相談ですか」


「相談でもない」


 老人は布袋を受付台に置いた。


 乾いた音がした。

 金属か、硬い木片がいくつか入っている音だった。


「持っていると困る」


 それだけ言って、老人は手を引いた。


 リーネは袋に触れなかった。


「お預かりできません」


「中を見れば分かる」


「お名前を」


「いらん」


「では、受け取れません」


 老人はリーネを見た。顔の半分は布の影に隠れていた。目だけが濁っている。年寄りの濁りではなく、眠れていない者の色だった。


「ギルドなら、困るだろう」


 その言葉に、リーネは少しだけ眉を動かした。


「どういう意味ですか」


 老人は答えなかった。


 受付の奥から、マスターが出てきた。


「名乗らんものは客じゃない」


 老人の肩が、わずかに揺れた。


「置いていくだけだ」


「置いていくなら、忘れ物として町の詰所へ出す」


「それは困る」


「お前が困るのか」


 老人は黙った。


 マスターは袋を見た。


「レン」


 呼ばれて、裏口の方からレンが来た。手には空の木箱を持っている。途中で足を止め、受付台の袋を見た。


「どうした」


「匂うか」


 リーネはマスターを見た。


「マスター」


「開ける前に分かることもある」


 レンは袋に近づいた。触れずに、少しだけ顔を傾ける。


「古い油。湿った紙。金属」


「誰の袋だ」


「この人のではない」


 老人が息を詰めた。


 レンは続けた。


「結び目が逆だ。手も違う」


 リーネは老人の手を見た。指は曲がり、節が大きい。袋の口を縛っている紐は、強く、均一に締められている。老人の手では難しそうだった。


「誰に頼まれましたか」


 リーネが聞く。


 老人は答えない。


「名前は言えませんか」


「知らん」


「では、どこで受け取りましたか」


「……拾った」


「どこで」


「古い倉庫の裏だ」


「どこの倉庫ですか」


 老人は視線を逸らした。


 答えたくないのではない。

 答えると、自分の名も近くに置かれる。そういう顔だった。


 リーネは袋を見た。


 開ければ、何かが始まる。

 開けなければ、袋は袋のままだ。


 マスターが言った。


「開けろ」


「受け取るのですか」


「受け取らん。見るだけだ」


「見たものは、どう扱いますか」


「見てから決める」


 リーネは布を一枚取り、袋の口をほどいた。


 中に入っていたのは、小さな札だった。


 木ではなく、薄い金属。四角く、角に穴が開いている。荷物に紐で結びつける検査札だ。表面には古い番号と、かすれた検査印が刻まれている。


 一枚ではない。


 五枚。


 どれも錆びていた。だが、番号は読める。


 リーネは一枚を拾い上げ、息を止めた。


 ギルドの搬入記録で使う番号形式に似ている。


 ただし、今のものではない。少なくとも数年前。もっと古いかもしれない。


「検査札ですね」


「ああ」


 マスターの声が低くなった。


「古いな」


「ギルドのものですか」


「似てるだけだ」


「確認します」


 リーネは奥の棚から古い搬入帳を出した。革紐が固く、開くと埃が立つ。受付番号ではなく、荷物の搬入確認に使っていた帳面だ。


 今は形式が変わっている。

 だが昔は、検査札の番号を帳面に控えていた。


 リーネは番号を追った。


 一枚目。該当なし。

 二枚目。近い番号がある。

 三枚目。欠番。

 四枚目。記載はあるが、品名が薄く削れている。

 五枚目。


 そこで手が止まった。


 品名欄が、空いている。


 搬入済みの印だけが押されている。検査者名もある。だが品名がない。量もない。


 受け入れた形だけが残っている。


 リーネは帳面から顔を上げた。


「これは、処理済みになっています」


「なら終わってる」


 マスターが言った。


「しかし、品名がありません」


「昔の帳面だ。雑なこともある」


「検査札が残っています。処理済みなら、札は回収か廃棄されているはずです」


「漏れたんだろう」


「五枚もですか」


 マスターは答えなかった。


 老人は袋を置いたまま、じっとしている。逃げる気配はない。けれど、ここにいたい顔でもない。


「この札が町の詰所に出れば、どうなりますか」


 リーネが聞いた。


 マスターは古い帳面を見た。


「面倒になる」


「ギルドに関係しますか」


「昔の搬入が掘られる」


「不正ですか」


「分からん」


「分からないものを、終わったことにはできません」


「終わらせろとは言ってない」


 マスターは検査札を指で叩いた。


「だが、今さら全部を掘ると、関係ない奴が潰れる」


 老人の肩がまた動いた。


 リーネはそれを見た。


「関係ない方がいるんですか」


 老人は答えない。


 レンが言った。


「持たされた」


 老人の目がレンを見る。


「捨てろと言われた。捨てられなかった」


 老人はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく言った。


「倉庫の掃除を頼まれた。古い棚を壊せと。中からそれが出た。捨てろと言われたが、番号があった。札があるものは、どこかの荷だろう」


「誰に言われましたか」


「言えん」


「なぜですか」


「孫が働いてる」


 それだけで、リーネは少し分かった。


 老人自身の問題ではない。

 雇い主か、その周辺の誰かが、この札を消したがっている。老人が名を出せば、老人ではなく、近い誰かに不都合が戻る。


 だから、ギルドに置きに来た。


 依頼ではない。

 だが、処理してほしい。


 リーネは古い搬入帳を見た。


 検査札が残っている。

 品名がない。

 搬入済みの印がある。


 これは、書けない汚れだ。


「正式には、受け取れません」


 リーネは言った。


 老人の顔が沈む。


「ですが、古い搬入記録の照合はできます」


 マスターが少しだけ目を細めた。


「照合か」


「はい。ギルド内の古い帳面に不備が見つかりました。検査札の廃棄漏れも確認されました。内部処理として扱えます」


「依頼人は」


「いません」


「報酬は」


「ありません」


「札は」


「証拠ではなく、廃棄漏れ品として預かります」


 リーネは老人を見た。


「あなたから受け取るのではありません。ギルドの古い不備を、こちらで見つけたことにします」


 老人は、しばらく何も言わなかった。


 それから、小さく頭を下げた。


「助かる」


「助けたわけではありません」


 リーネは言った。


「名前をお聞きしていませんから」


 老人は、少しだけ笑ったように見えた。


 老人が去ったあと、受付には五枚の検査札と、古い搬入帳が残った。


 リーネは番号を一つずつ照合していった。

 消えかけたインク。削られた品名。押し直されたような印。

 どれも、小さな不自然だった。


 大きな不正ではない。

 だが、きれいでもない。


「マスター」


「何だ」


「これは、誰かが意図的に流しています」


「誰か、な」


「昨日の紙と同じです。正式には頼めないものだけが、ギルドへ来ています」


「来るようにした覚えはない」


「ですが、来ています」


 マスターは返事をしなかった。


 レンは検査札を見ていた。


「レンさん」


「どうした」


「この袋を持ってきた老人は、本当の依頼人ではないんですよね」


「たぶんな」


「では、本当の依頼人は誰ですか」


「袋の匂いは、倉庫に近い」


「どこの倉庫ですか」


「革と乾物。古い油。川沿い」


「商人組合の倉庫でしょうか」


「似ている」


 リーネはペンを止めた。


「確認に行きますか」


「仕事か」


 レンが聞いた。


 リーネは一瞬、答えに詰まった。


 商人組合の倉庫を調べる理由はない。

 老人は名乗っていない。

 検査札はギルド内の廃棄漏れとして処理する。

 それで帳面は閉じられる。


 だが、閉じれば、流した者はまた流す。


 マスターが言った。


「行くなら、搬入経路の確認だ」


「ギルドのですか」


「昔の札が出た。今の経路に混じらんか見る。書けるだろ」


「……書けます」


 リーネは帳面に新しい欄を作った。


 古い検査札照合。

 搬入経路確認。

 担当、レン。

 目的、廃棄漏れ品の再流入防止。


 レンはそれを見て、短く頷いた。


「見てくる」


 川沿いの倉庫は、昼でも暗かった。


 乾物の匂い。革の匂い。古い油。湿った麻袋。

 袋についていたものと同じだった。


 レンは表からは入らない。倉庫の横を歩き、裏に回る。木の壁の下に、古い棚板が積まれていた。壊された棚だ。釘穴の跡が新しい。


 その横に、札を束ねていた紐の切れ端が落ちている。


 誰かがここで札を見つけた。

 老人に渡した。

 捨てさせようとした。


 レンは倉庫の隙間から中を見た。


 若い男が二人、古い箱を運んでいる。奥には帳面を持った女が一人いた。商人ではない。書く側の人間だ。


 女は箱の番号を見て、紙に印をつけている。だが一つだけ、印をつけずに横へ除けた。


 古い番号の箱。


 まだある。


 レンは倉庫の壁を軽く叩いた。


 中の男が振り向く。


「誰だ」


 レンは答えず、棚板の陰から古い検査札の紐を拾い上げた。


 女がこちらを見た。


 目が合う。


 怯えはなかった。

 ただ、知られた、という顔をした。


 レンはそれ以上近づかなかった。


 仕事は、見たところまでで足りる。


 夕方、ギルドに戻ると、リーネがまだ帳面を開いていた。


「どうでしたか」


「倉庫に、まだある」


「検査札がですか」


「古い番号の箱」


「持ち出せますか」


「盗みになる」


「では、報告ですか」


「たぶんな」


 リーネはマスターを見た。


 マスターは腕を組んでいた。


「商人組合に、古い検査札の廃棄漏れがあったと照会を出す」


「ギルド名でですか」


「ギルド名でだ。こっちの札もあるからな」


「大事になりますか」


「小事では済まんかもしれん」


「それでも出しますか」


 マスターは、少しだけ間を置いた。


「こっちへ捨てに来る流れは止める」


 リーネは頷いた。


 帳面には、こう残った。


 古い検査札五枚、廃棄漏れとして確認。

 過去の搬入記録と番号照合中。

 商人組合倉庫に類似番号の箱あり。

 再流入防止のため、組合へ照会。


 老人の名はない。

 袋を持たせた者の名もない。

 倉庫で目が合った女の名もない。


 だが、札は消えない。


 消さずに、置き直す。


 リーネは最後に確認印を押した。


「これで、隠したことにはなりません」


 マスターは言った。


「片づけたことにもならんな」


「はい」


「面倒が残るぞ」


「残した方がいい面倒もあります」


 マスターは少しだけ笑った。


「言うようになったな」


 リーネは返事をしなかった。


 夜、レンは裏口の掃除箱を見た。


 昨日見つけた紙は、まだ底にあった。開いていない。

 その上に、新しい紙はない。


 今日は、袋だった。


 紙ではなく、袋。

 名ではなく、札。

 依頼ではなく、不備。


 形を変えて来ている。


 背後でリーネが言った。


「レンさん」


「どうした」


「今日のものは、仕事になったんでしょうか」


 レンは少し考えた。


「なった」


「では、最初から仕事だったんでしょうか」


「違う」


「何だったんでしょう」


 レンは掃除箱から目を離した。


「捨てたかったもの」


 リーネは黙った。


 捨てたかったもの。

 誰かが自分の帳面から消したくて、別の場所へ置いたもの。


 それを拾えば、ギルドの仕事になる。

 拾わなければ、どこかで腐る。


「一度拾うと、次も来る」


 マスターの声が奥から聞こえた。


 リーネは帳面を抱え直した。


「では、次は拾わない方がいいのでしょうか」


「ものによる」


 マスターは短く言った。


「全部拾ったら、回らん」


 レンは裏口の鍵を閉めた。


 紙は、まだ箱の底にある。


 開いていないものは、仕事ではない。

 けれど、開かなくても、そこにある。


 リーネはそのことを、帳面には書かなかった。

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