第44話 名乗らない依頼人
名乗らない者は、客ではない。
ギルドでは、そう扱う。
依頼人は名を書く。
冒険者は名札を見せる。
商人は屋号を出す。
苦情を言う者でさえ、最後にはどこの誰かを尋ねられる。
名前がなければ、責任を置く場所がない。
責任を置けないものは、帳面に載せられない。
だから、リーネは受付台の前に立った老人へ、いつも通りに言った。
「ご依頼でしたら、お名前をお願いします」
老人は、薄い布を頭から被っていた。
旅人にしては荷が少ない。町の者にしては、歩き方に迷いがある。手には古い布袋を持っている。袋は小さいが、老人はそれを重そうに抱えていた。
「名は、いい」
老人は低い声で言った。
「名乗れない場合、正式な依頼としては受け付けられません」
「依頼じゃない」
「では、ご相談ですか」
「相談でもない」
老人は布袋を受付台に置いた。
乾いた音がした。
金属か、硬い木片がいくつか入っている音だった。
「持っていると困る」
それだけ言って、老人は手を引いた。
リーネは袋に触れなかった。
「お預かりできません」
「中を見れば分かる」
「お名前を」
「いらん」
「では、受け取れません」
老人はリーネを見た。顔の半分は布の影に隠れていた。目だけが濁っている。年寄りの濁りではなく、眠れていない者の色だった。
「ギルドなら、困るだろう」
その言葉に、リーネは少しだけ眉を動かした。
「どういう意味ですか」
老人は答えなかった。
受付の奥から、マスターが出てきた。
「名乗らんものは客じゃない」
老人の肩が、わずかに揺れた。
「置いていくだけだ」
「置いていくなら、忘れ物として町の詰所へ出す」
「それは困る」
「お前が困るのか」
老人は黙った。
マスターは袋を見た。
「レン」
呼ばれて、裏口の方からレンが来た。手には空の木箱を持っている。途中で足を止め、受付台の袋を見た。
「どうした」
「匂うか」
リーネはマスターを見た。
「マスター」
「開ける前に分かることもある」
レンは袋に近づいた。触れずに、少しだけ顔を傾ける。
「古い油。湿った紙。金属」
「誰の袋だ」
「この人のではない」
老人が息を詰めた。
レンは続けた。
「結び目が逆だ。手も違う」
リーネは老人の手を見た。指は曲がり、節が大きい。袋の口を縛っている紐は、強く、均一に締められている。老人の手では難しそうだった。
「誰に頼まれましたか」
リーネが聞く。
老人は答えない。
「名前は言えませんか」
「知らん」
「では、どこで受け取りましたか」
「……拾った」
「どこで」
「古い倉庫の裏だ」
「どこの倉庫ですか」
老人は視線を逸らした。
答えたくないのではない。
答えると、自分の名も近くに置かれる。そういう顔だった。
リーネは袋を見た。
開ければ、何かが始まる。
開けなければ、袋は袋のままだ。
マスターが言った。
「開けろ」
「受け取るのですか」
「受け取らん。見るだけだ」
「見たものは、どう扱いますか」
「見てから決める」
リーネは布を一枚取り、袋の口をほどいた。
中に入っていたのは、小さな札だった。
木ではなく、薄い金属。四角く、角に穴が開いている。荷物に紐で結びつける検査札だ。表面には古い番号と、かすれた検査印が刻まれている。
一枚ではない。
五枚。
どれも錆びていた。だが、番号は読める。
リーネは一枚を拾い上げ、息を止めた。
ギルドの搬入記録で使う番号形式に似ている。
ただし、今のものではない。少なくとも数年前。もっと古いかもしれない。
「検査札ですね」
「ああ」
マスターの声が低くなった。
「古いな」
「ギルドのものですか」
「似てるだけだ」
「確認します」
リーネは奥の棚から古い搬入帳を出した。革紐が固く、開くと埃が立つ。受付番号ではなく、荷物の搬入確認に使っていた帳面だ。
今は形式が変わっている。
だが昔は、検査札の番号を帳面に控えていた。
リーネは番号を追った。
一枚目。該当なし。
二枚目。近い番号がある。
三枚目。欠番。
四枚目。記載はあるが、品名が薄く削れている。
五枚目。
そこで手が止まった。
品名欄が、空いている。
搬入済みの印だけが押されている。検査者名もある。だが品名がない。量もない。
受け入れた形だけが残っている。
リーネは帳面から顔を上げた。
「これは、処理済みになっています」
「なら終わってる」
マスターが言った。
「しかし、品名がありません」
「昔の帳面だ。雑なこともある」
「検査札が残っています。処理済みなら、札は回収か廃棄されているはずです」
「漏れたんだろう」
「五枚もですか」
マスターは答えなかった。
老人は袋を置いたまま、じっとしている。逃げる気配はない。けれど、ここにいたい顔でもない。
「この札が町の詰所に出れば、どうなりますか」
リーネが聞いた。
マスターは古い帳面を見た。
「面倒になる」
「ギルドに関係しますか」
「昔の搬入が掘られる」
「不正ですか」
「分からん」
「分からないものを、終わったことにはできません」
「終わらせろとは言ってない」
マスターは検査札を指で叩いた。
「だが、今さら全部を掘ると、関係ない奴が潰れる」
老人の肩がまた動いた。
リーネはそれを見た。
「関係ない方がいるんですか」
老人は答えない。
レンが言った。
「持たされた」
老人の目がレンを見る。
「捨てろと言われた。捨てられなかった」
老人はしばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「倉庫の掃除を頼まれた。古い棚を壊せと。中からそれが出た。捨てろと言われたが、番号があった。札があるものは、どこかの荷だろう」
「誰に言われましたか」
「言えん」
「なぜですか」
「孫が働いてる」
それだけで、リーネは少し分かった。
老人自身の問題ではない。
雇い主か、その周辺の誰かが、この札を消したがっている。老人が名を出せば、老人ではなく、近い誰かに不都合が戻る。
だから、ギルドに置きに来た。
依頼ではない。
だが、処理してほしい。
リーネは古い搬入帳を見た。
検査札が残っている。
品名がない。
搬入済みの印がある。
これは、書けない汚れだ。
「正式には、受け取れません」
リーネは言った。
老人の顔が沈む。
「ですが、古い搬入記録の照合はできます」
マスターが少しだけ目を細めた。
「照合か」
「はい。ギルド内の古い帳面に不備が見つかりました。検査札の廃棄漏れも確認されました。内部処理として扱えます」
「依頼人は」
「いません」
「報酬は」
「ありません」
「札は」
「証拠ではなく、廃棄漏れ品として預かります」
リーネは老人を見た。
「あなたから受け取るのではありません。ギルドの古い不備を、こちらで見つけたことにします」
老人は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく頭を下げた。
「助かる」
「助けたわけではありません」
リーネは言った。
「名前をお聞きしていませんから」
老人は、少しだけ笑ったように見えた。
老人が去ったあと、受付には五枚の検査札と、古い搬入帳が残った。
リーネは番号を一つずつ照合していった。
消えかけたインク。削られた品名。押し直されたような印。
どれも、小さな不自然だった。
大きな不正ではない。
だが、きれいでもない。
「マスター」
「何だ」
「これは、誰かが意図的に流しています」
「誰か、な」
「昨日の紙と同じです。正式には頼めないものだけが、ギルドへ来ています」
「来るようにした覚えはない」
「ですが、来ています」
マスターは返事をしなかった。
レンは検査札を見ていた。
「レンさん」
「どうした」
「この袋を持ってきた老人は、本当の依頼人ではないんですよね」
「たぶんな」
「では、本当の依頼人は誰ですか」
「袋の匂いは、倉庫に近い」
「どこの倉庫ですか」
「革と乾物。古い油。川沿い」
「商人組合の倉庫でしょうか」
「似ている」
リーネはペンを止めた。
「確認に行きますか」
「仕事か」
レンが聞いた。
リーネは一瞬、答えに詰まった。
商人組合の倉庫を調べる理由はない。
老人は名乗っていない。
検査札はギルド内の廃棄漏れとして処理する。
それで帳面は閉じられる。
だが、閉じれば、流した者はまた流す。
マスターが言った。
「行くなら、搬入経路の確認だ」
「ギルドのですか」
「昔の札が出た。今の経路に混じらんか見る。書けるだろ」
「……書けます」
リーネは帳面に新しい欄を作った。
古い検査札照合。
搬入経路確認。
担当、レン。
目的、廃棄漏れ品の再流入防止。
レンはそれを見て、短く頷いた。
「見てくる」
川沿いの倉庫は、昼でも暗かった。
乾物の匂い。革の匂い。古い油。湿った麻袋。
袋についていたものと同じだった。
レンは表からは入らない。倉庫の横を歩き、裏に回る。木の壁の下に、古い棚板が積まれていた。壊された棚だ。釘穴の跡が新しい。
その横に、札を束ねていた紐の切れ端が落ちている。
誰かがここで札を見つけた。
老人に渡した。
捨てさせようとした。
レンは倉庫の隙間から中を見た。
若い男が二人、古い箱を運んでいる。奥には帳面を持った女が一人いた。商人ではない。書く側の人間だ。
女は箱の番号を見て、紙に印をつけている。だが一つだけ、印をつけずに横へ除けた。
古い番号の箱。
まだある。
レンは倉庫の壁を軽く叩いた。
中の男が振り向く。
「誰だ」
レンは答えず、棚板の陰から古い検査札の紐を拾い上げた。
女がこちらを見た。
目が合う。
怯えはなかった。
ただ、知られた、という顔をした。
レンはそれ以上近づかなかった。
仕事は、見たところまでで足りる。
夕方、ギルドに戻ると、リーネがまだ帳面を開いていた。
「どうでしたか」
「倉庫に、まだある」
「検査札がですか」
「古い番号の箱」
「持ち出せますか」
「盗みになる」
「では、報告ですか」
「たぶんな」
リーネはマスターを見た。
マスターは腕を組んでいた。
「商人組合に、古い検査札の廃棄漏れがあったと照会を出す」
「ギルド名でですか」
「ギルド名でだ。こっちの札もあるからな」
「大事になりますか」
「小事では済まんかもしれん」
「それでも出しますか」
マスターは、少しだけ間を置いた。
「こっちへ捨てに来る流れは止める」
リーネは頷いた。
帳面には、こう残った。
古い検査札五枚、廃棄漏れとして確認。
過去の搬入記録と番号照合中。
商人組合倉庫に類似番号の箱あり。
再流入防止のため、組合へ照会。
老人の名はない。
袋を持たせた者の名もない。
倉庫で目が合った女の名もない。
だが、札は消えない。
消さずに、置き直す。
リーネは最後に確認印を押した。
「これで、隠したことにはなりません」
マスターは言った。
「片づけたことにもならんな」
「はい」
「面倒が残るぞ」
「残した方がいい面倒もあります」
マスターは少しだけ笑った。
「言うようになったな」
リーネは返事をしなかった。
夜、レンは裏口の掃除箱を見た。
昨日見つけた紙は、まだ底にあった。開いていない。
その上に、新しい紙はない。
今日は、袋だった。
紙ではなく、袋。
名ではなく、札。
依頼ではなく、不備。
形を変えて来ている。
背後でリーネが言った。
「レンさん」
「どうした」
「今日のものは、仕事になったんでしょうか」
レンは少し考えた。
「なった」
「では、最初から仕事だったんでしょうか」
「違う」
「何だったんでしょう」
レンは掃除箱から目を離した。
「捨てたかったもの」
リーネは黙った。
捨てたかったもの。
誰かが自分の帳面から消したくて、別の場所へ置いたもの。
それを拾えば、ギルドの仕事になる。
拾わなければ、どこかで腐る。
「一度拾うと、次も来る」
マスターの声が奥から聞こえた。
リーネは帳面を抱え直した。
「では、次は拾わない方がいいのでしょうか」
「ものによる」
マスターは短く言った。
「全部拾ったら、回らん」
レンは裏口の鍵を閉めた。
紙は、まだ箱の底にある。
開いていないものは、仕事ではない。
けれど、開かなくても、そこにある。
リーネはそのことを、帳面には書かなかった。




