第43話 裏口の紙
依頼票には、決まった形がある。
依頼人の名。
内容。
場所。
報酬。
期限。
危険の有無。
どれかが空いていれば、受付では止める。足りないものを聞き、曖昧なものを直し、必要なら受け付けない。
仕事にするためには、形がいる。
だからリーネは、裏口で見つかった紙を見た時、すぐに言った。
「これは依頼ではありません」
朝のギルドは、まだ開いたばかりだった。
表の扉ではなく、裏口の方でレンが木箱を動かしていた。厨房へ運ぶ薪と、昨日洗った空き瓶を分けていたらしい。その木箱の下に、紙が一枚挟まっていた。
依頼票ではない。
古い包み紙を破ったような、薄い灰色の紙だった。四つに折られている。表には何も書かれていない。中を開くと、町外れの水場らしい簡単な略図があった。
線は雑だった。
道。
小川。
古い水門。
荷車が通る橋。
その横に、短く一言だけ。
困る。
リーネは紙を机に置いた。
マスターは茶を飲みながら、それを斜めに見た。
「紙切れだな」
「はい。依頼人の名もありません。報酬もありません。依頼内容もありません」
「じゃあ紙切れだ」
「ですが、場所は示されています」
「落書きかもしれん」
「落書きにしては、裏口の木箱の下に挟まっています」
マスターは茶を置いた。
「風で飛んできたんだろ」
「裏口の木箱の下に、ですか」
「器用な風もある」
リーネは返事をしなかった。
レンは受付の横に立っていた。紙ではなく、紙についていた泥を見ている。
「レンさん」
「どうした」
「見覚えはありますか」
「場所は知っている」
「町外れの水場ですか」
「たぶんな」
「紙を置いた人は」
レンは少しだけ黙った。
「急いでいた」
「なぜ分かるんですか」
「折り目がずれている」
リーネは紙を見た。
確かに、四つ折りの端が少し合っていない。だが、それだけで急いでいたと分かるものなのかは判断できなかった。
リーネは口を開きかけた。
置いた者の足跡。紙の泥。折り目の癖。
聞けば、レンは何かを答えるかもしれない。
だが、その答えを帳面に置く場所はなかった。
リーネは紙を伏せた。
「……そうですか」
それ以上は聞かなかった。
マスターは紙をつまみ上げ、くしゃりと丸めかけた。
「捨てるぞ」
「待ってください」
リーネは思わず止めた。
「何だ」
「捨てる前に、控えだけ取ります」
「依頼じゃないんだろ」
「依頼ではありません」
「なら控えもいらん」
「ですが、後で関係する可能性があります」
マスターは嫌そうな顔をした。
「関係させるな」
リーネは紙をもう一度見た。
困る。
誰が困るのか。
何に困るのか。
なぜ正式に言わないのか。
どれも書かれていない。
だから、仕事ではない。
リーネはそう判断した。
昼前、その判断は揺れた。
町外れの水場を通る荷運び依頼が遅れた。荷車の車輪が泥にはまったという。
次に、薬草採取へ向かった冒険者が戻ってきた。いつもの道が水でぬかるんでおり、遠回りをしたため採取量が減ったと言う。
さらに、革職人の使いが来て、川沿いで干していた皮の一部が濡れたと文句を言った。正式な苦情票は出さない。ただ「水が変なんだよ」とだけ言って帰った。
リーネは帳面を見た。
三件とも、町外れの水場に関係している。
朝の紙に描かれていた場所だった。
マスターは帳面を閉じた。
「レン」
「どうした」
「町外れを見てこい」
「散歩か」
「経路確認だ」
リーネが顔を上げる。
「正式な依頼ですか」
「荷運びの遅延が出た。ギルドの経路確認なら書ける」
「水場の確認ではなく?」
「それは誰も頼んでない」
言い方は雑だが、筋は通っていた。
朝の紙は依頼ではない。
だが、荷運びが遅れた。
なら、荷運び経路の確認はギルドの仕事にできる。
リーネは帳面に記録した。
町外れ経路確認。
目的、荷運び遅延対策。
担当、レン。
同行、必要なし。
「一人で大丈夫ですか」
リーネが聞くと、レンは短く答えた。
「見てくる」
リーネは一瞬だけ顔を上げたが、言い直しは求めなかった。
命令を受けた返事ではない。
それでも、拒んだ言葉でもなかった。
「お願いします」
「はい」
レンは裏口から出た。
町外れの水場は、ギルドから歩いて半刻ほどの場所にある。
小川が二つに分かれ、一方が畑へ、一方が古い水門を通って荷車道の脇へ流れている。普段なら、道の脇の溝に水が流れ、足元は少し湿っている程度だ。
今日は違った。
水門の板が斜めに浮き、流れが道側へ寄っている。荷車の轍には泥水が溜まり、橋の手前だけが深くぬかるんでいた。
レンは水門に近づいた。
板は壊れている。
古くて折れたのではない。無理に持ち上げようとして、片側の留め具が外れている。木の割れ方が新しい。
周囲には足跡があった。
二人分。
一人は重い靴。足幅が広く、荷運びか土木の者。
もう一人は軽い靴。こちらは水門に近づいていない。少し離れた場所から見ていた。
指示を出す者と、作業する者。
レンはそう判断した。
水門のそばに、短い木杭が落ちていた。折れている。補修用ではない。無理に差し込んで、板を止めようとしたものだ。
誰かが壊した。
直そうとした。
直せなかった。
それを報告しなかった。
レンは水面を見た。
水は低い方へ流れる。
塞がれれば溢れる。
道があればそこへ行く。
紙より、分かりやすい。
後ろから声がした。
「あんた、ギルドの人か」
振り向くと、若い男が立っていた。荷運びの服を着ている。袖口が濡れ、右手の甲に木のささくれで擦ったような傷があった。
「そうだ」
レンが答えると、男は慌てて両手を振った。
「いや、俺は何も知らねえよ。俺がやったんじゃない」
聞く前に、言った。
レンは男の手を見た。
水門の板を持ち上げた手だ。
だが、壊すためではない。戻そうとして傷をつけている。
「やったのか」
レンが言うと、男の顔が青くなった。
「違う。違うんだ。上の人に言われて、少しだけ流れを変えろって。畑の方に水が行きすぎて、荷車道が乾きすぎると埃が立つからって。それで、ちょっと板を上げたら、留め具が外れて」
「報告は」
「できるわけないだろ」
男は声を落とした。
「俺が勝手にやったことにされる。指示した人は知らないって言う。水門を壊したなんてことになったら、弁償だ。俺の給金じゃ無理だ」
レンは水門を見た。
男は続けた。
「紙を置いたのは俺じゃない」
レンは男を見た。
「知ってるのか」
「……知ってるっていうか。誰かが何とかしてくれればって、みんな思ってる」
「誰か」
「ギルドとか」
男はそれ以上言わなかった。
レンは、朝の紙を思い出した。
困る。
それだけなら、誰の名も汚れない。
誰も頼んでいない。
誰も壊していない。
ただ、水だけが道へ流れる。
レンは水門の留め具に手をかけた。
「直すのか?」
男が聞いた。
「戻す」
「戻るのか」
「流れは」
「水門は?」
「壊れている」
男は唇を噛んだ。
「じゃあ結局、報告しなきゃならないのか」
「たぶんな」
「俺、終わりだ」
「全部は、落ちない」
「何が」
「責任」
男は意味が分からない顔をした。
レンも、詳しくは言わなかった。
板を完全に修理することはできない。道具もない。
だが、水の流れを畑側へ戻すだけならできる。
レンは折れた木杭を外し、近くの石を動かした。流れの角度を少し変える。板の下に噛んでいた泥を取り、外れた留め具を仮に押さえる。
水が音を変えた。
道側へ溢れていた流れが、ゆっくり元の溝へ戻っていく。
荷車道の泥はすぐには乾かない。
だが、これ以上悪くはならない。
「これでいいのか」
男が聞いた。
「よくはない」
「じゃあ」
「悪くなりにくい」
レンはそう言って、手についた泥を払った。
夕方、レンが戻ると、リーネは帳面を開いて待っていた。
「どうでしたか」
「水門が壊れていた」
「壊れていた?」
「流れが道へ寄っていた」
「原因は」
レンは少し黙った。
「触った者がいた」
「誰ですか」
「書くと、一人になる」
リーネの手が止まった。
マスターが奥から声をかける。
「どういう意味だ」
「指示した者がいる。触った者もいる。置いた者もいる」
「紙か」
「たぶんな」
「全部書けるか」
「書けない」
リーネは帳面を見た。
町外れ経路確認。
荷運び遅延対策。
水場周辺の安全確認。
そこまでなら書ける。
だが、水門を誰が壊したかを書くには、証言がいる。指示した者の名もいる。責任の所在もいる。
それを書けば、最も弱い立場の者だけが残る可能性がある。
書かなければ、なかったことになる。
どちらも正しくない。
「水門の正式な修理は、町の管轄ですね」
リーネは言った。
「そうだな」
マスターが答える。
「では、ギルドとしては荷運び経路の状態を町へ報告します。水門の破損は、経路異常として添えます」
「誰が壊したかは」
「書けません。確認していませんから」
「指示したやつは」
「書けません。聞いていませんから」
マスターは少しだけ笑った。
「帳面らしい逃げ方だな」
「逃げではありません」
リーネはペンを取った。
「書けることを書きます」
帳面には、こう残った。
町外れ経路確認。
荷車道にぬかるみあり。
水門板の破損により水流が一部変化。
町管理側へ修理確認を依頼。
ギルド依頼への影響あり。経路変更を一時指示。
誰が壊したかは、書かない。
誰が困ったかも、書かない。
裏口の紙のことも、書かない。
だが、水門が壊れていることは残る。
リーネは最後に確認印を押した。
「これで仕事です」
レンは帳面を見た。
「紙は」
「依頼ではありません」
「そうだな」
「ですが、仕事になりました」
レンは少しだけ間を置いた。
「……そうか」
夜、ギルドの裏口を閉める前に、レンは木箱を戻した。
朝、紙が挟まっていた場所を見る。
何もない。
そう思った時、掃除箱の底に、折られた紙が一枚あるのが見えた。
同じ折り方だった。
レンは拾わなかった。
しばらく見てから、箱の蓋を閉じた。
背後でリーネが言った。
「レンさん」
「どうした」
「今、何かありましたか」
レンは少しだけ考えた。
紙はある。
だが、まだ開いていない。
開けば、何かが始まる。
「まだ、仕事じゃない」
リーネは黙った。
リーネは、その言葉を知っていた。
まだ仕事ではないものほど、後から帳面の隅に来る。
そういう顔を、レンはしていた。
レンは裏口の鍵を閉めた。
帳面には、町外れ経路確認の記録だけが残った。
裏口の紙は、どこにも載らない。
それでも、次の紙はもう来ていた。




