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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第五章 帳面にない仕事

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外伝 余計なもの

 レンの言葉は、もともと少なかった。


 受付で呼ばれれば、振り向いて「どうした」と言う。

 頼まれれば、「分かった」と言う。

 礼を言われれば、「いえ」と返す。


 短い。

 けれど、雑ではない。


 リーネは、そう思っていた。


 水瓶が重ければ、レンは黙って持つ。

 棚の上に手が届かなければ、横から箱を差し出す。

 冒険者が怪我を隠していれば、治療係の方を一度見る。


 余計なことは言わない。

 だが、相手を乱暴には扱わない。


 だから、その朝の一言は、妙に引っかかった。


 厨房の娘が、水瓶を両手で抱えていた。昨日より大きい瓶だ。中身は半分ほどだが、それでも重い。足元には濡れた布が落ちていて、少し滑りやすくなっている。


 レンは通りかかり、瓶に手を添えた。


「ありがとうございます、レンさん」


 娘がほっとしたように笑う。


 レンは瓶を持ち上げた。


「落とす」


 娘の顔が、ほんの少し固まった。


 責められたわけではない。

 そう分かっていても、そう聞こえる言い方だった。


 リーネは受付台の内側で、帳面を開く手を止めた。


 以前なら。


 以前のレンなら、たぶんこう言った。


 重いので。

 持ちます。

 床が濡れています。


 短くても、相手の方に言葉が向いていた。


 今の言葉は、事実だけだった。


 落とす。


 それだけ。


 厨房の娘は曖昧に笑い、道を空けた。レンは水瓶を置き、濡れた布を拾って脇に寄せた。


 やっていることは、いつもと同じだった。


 言葉だけが、少し違う。


 レン自身も、それに気づいていた。


 落とす。


 口から出た言葉を、内側で一度なぞる。


 間違いではない。

 あのままなら落としていた。落とせば瓶が割れ、水が流れ、厨房の床が使えなくなる。朝の食事が遅れ、受付前で冒険者が苛立つ。


 だから、止めた。


 問題はない。


 そう判断しかけて、止まる。


 言い方が足りなかった。


 足りない、という感覚があった。

 それは、前にはなかった。


 レンは水瓶から手を離し、厨房を出た。


 廊下の途中で、若い職員が棚を動かそうとしていた。片側の脚が浮き、今にも中の書類箱が滑り落ちそうになっている。


 レンは近づいた。


 どけ。


 言葉が、先に浮かんだ。


 レンは口を閉じた。


 職員が振り向く。


「あ、レンさん。これ、少しだけ押さえてもらえますか」


「……代わる」


「え?」


「重い。代わる」


 言い直した。


 職員は少し驚いたようにしてから、手を離した。


「助かります」


 レンは棚を持ち上げ、壁との隙間に噛んでいた木片を外した。棚はまっすぐに戻る。書類箱も落ちなかった。


 仕事は終わった。


 けれど、内側に残った言葉は消えない。


 どけ。

 遅い。

 邪魔だ。


 それらは、使える言葉だった。

 短く、速い。状況だけを動かすには向いている。


 だが、ここでは余計だった。


 レンは手に残った木屑を払った。


 木屑の匂いがした。

 湿った木。古い酒場の床。踏まれた革袋。逃げる時、右の出口は塞がれていた。左に男が二人。奥の窓は細い。金は懐ではなく、靴底に――。


 そこまで浮かんで、レンは瞬きをした。


 自分の記憶ではない。


 知っている。

 けれど、知らない。


 酒場の名前も、男の顔も、金を隠した靴の重さも、レンのものではない。

 それでも、体の内側に残っている。


 余計なもの。


 レンはそう判断した。


 受付の方で、声が上がった。


「だから、昨日の報告は出したって言ってるだろ」


 下級冒険者の男が、リーネの前で両手を広げていた。依頼は町外れの柵修理。報酬は小さいが、完了報告がなければ支払えない。


 リーネは帳面を確認している。


「報告札が戻っていません」


「渡したよ。そこの箱に入れた」


「昨日の報告箱には入っていませんでした」


「じゃあ誰かがなくしたんだろ」


 男の声は大きい。

 だが、足は出口の方を向いている。


 レンはそれを見た。


 嘘をつく時、人間は逃げ道を残す。


 そう思った。


 それは、自分の考えではない。

 自分の中に混じった男の考えだった。


 使える。


 レンは受付へ歩いた。


「袋」


 男が振り向く。


「あ?」


「腰の袋」


「何だよ」


「出せ」


 受付前が少し静かになった。


 リーネが顔を上げる。


「レンさん」


 以前なら、レンはまずリーネに確認した。

 「見てもいいですか」

 「確認します」

 そんな言葉を挟んでいた。


 今は違う。


 出せ。


 ただ、それだけだった。


 男の顔が硬くなる。


「なんでお前に――」


「中にある」


 レンは言った。


 男の手が、腰の袋を押さえた。


 答えだった。


 リーネはその動きを見て、静かに言う。


「確認します。報告札が入っているなら、今出してください」


 男はしばらく黙り、舌打ちして袋から折れた報告札を出した。


「忘れてただけだ」


「破損しています」


「柵の下敷きになった」


「では、破損理由を記録します」


「面倒だな」


「必要です」


 リーネは淡々と処理した。


 報告札破損。

 完了確認は現地再確認。

 報酬支払いは保留。


 男は不満そうだったが、それ以上騒がずに出ていった。


 問題は大きくならなかった。


 レンは受付台の横に立ったまま、男の背中を見ていた。


 逃げるなら右。

 右手で袋を隠す。

 言い訳は三つ。なくした、渡した、知らない。


 全部、先に見えた。


 便利だった。


 だが、口に出した言葉はよくなかった。


 リーネが帳面を書き終え、こちらを見た。


「レンさん」


「どうした」


「今日は少し……急いでいますか」


 急いでいる。


 その問いは違う。

 レンはそう思った。


 急いではいない。


 削れている。


 言葉の端が、削れている。

 人に向けるための薄い布のようなものが、一枚なくなっている。


「たぶんな」


 そう答えてから、違うと思った。


 リーネは黙ってレンを見ている。


 責めてはいない。

 確かめている。


 以前から、そうだった。


 リーネはレンを怒鳴らない。決めつけない。帳面を見るように、言葉の前後を見る。だからレンも、リーネには短くても形を整えて返していた。


 どうした。

 分かりました。

 確認します。

 大丈夫です。


 それが、今日は崩れている。


「急いでは、いない」


 レンは言い直した。


 リーネの表情が少し変わった。


「そうですか」


「言葉が、足りなかった」


 リーネはペンを置いた。


 その言葉自体が、レンにしては珍しかった。


「……何かありましたか」


「ある」


 レンは答えた。


 だが、続きは出さなかった。


 ある。

 余計なものがある。

 自分ではない記憶がある。

 役に立つが、混じる。

 混じると、言葉が削れる。


 どれも、帳面には書けない。


「言えないことですか」


 リーネが聞く。


「言わない方がいい」


「困るからですか」


「たぶんな」


 リーネはそれ以上聞かなかった。


 聞けば、仕事になる。

 そう判断したのかもしれない。


 夕方まで、レンはいつも通り働いた。


 壊れかけた椅子を直した。

 水瓶を満たした。

 依頼札の端を揃えた。

 倉庫の紐を替えた。


 動きは変わらない。


 ただ、言葉だけを選び直した。


「触るな」


 そう出そうになった時は、


「危ない」


 と言った。


「遅い」


 そう思った時は、


「持つ」


 と言った。


「邪魔だ」


 そう浮かんだ時は、


「通ります」


 と言った。


 ひとつずつ、戻す。


 戻すという言い方が正しいのかは分からない。

 ただ、その方がギルドは静かだった。


 厨房の娘は、夕方にもう一度水瓶を運ぼうとしていた。レンが横から持つと、少しだけ身構えた。


 レンは瓶を受け取り、床を見た。


「濡れています」


「あ、はい」


「持ちます」


 娘は、今度は普通に笑った。


「ありがとうございます」


「いえ」


 その返事は、前から使っていたものだった。


 レンはそれを確認した。


 夜、ギルドが閉まったあと、レンは地下にいた。


 水路の脇に座り、手を洗う。

 指の間に残った木屑と泥が流れていく。


 暗い水面に、音が落ちる。


 落とす。

 どけ。

 出せ。

 逃げるな。

 黙れ。


 余計な言葉が浮かぶ。


 重いので。

 代わります。

 危ないです。

 確認します。

 いえ。


 前から使っていた言葉も浮かぶ。


 どちらも、今は中にある。


 レンは水面を見た。


 余計なものは、捨てられない。

 捨て方がない。


 吸収したものは、形を変えて残る。

 役に立つ部分もある。嘘が見える。逃げ道が分かる。悪意の匂いに気づくのが早くなる。


 居場所を守るには、使える。


 だが、ギルドの中でそのまま使うと、壊れるものがある。


 厨房の娘の沈黙。

 職員の戸惑い。

 リーネの視線。


 それらは、敵ではない。


 レンは手を水から上げた。


「余計だ」


 声は地下に落ち、すぐに消えた。


 余計なもの。

 だが、使えるもの。


 なら、しまう。

 必要な時だけ出す。


 そう決めた。


 上へ戻ると、マスターが裏口の前にいた。


 明かりは落としている。けれど、マスターは待っていたようだった。


「終わったか」


「だいたいな」


「今日は言葉が尖ってたな」


 レンは黙った。


 マスターは腕を組んだまま、レンを見る。


「何かあったか」


「余計なものがある」


「捨てられるのか」


「たぶんな」


「なら捨てろ」


 マスターは短く言った。


「捨てられないなら、しまっとけ。ここで出すな」


 ここ。


 ギルド。

 地上。

 受付。

 厨房。

 長椅子。

 帳面のある場所。


 レンは頷いた。


「分かった」


「報告は」


 いつもの問いだった。


 レンは少しだけ間を置いた。


 報告することはある。


 言葉が削れている。

 記憶が混じっている。

 使えるが、危うい。

 しまう必要がある。


 だが、それは帳面に載せるものではない。


「ない」


 マスターはそれ以上聞かなかった。


 奥で、リーネが帳面をしまう音がした。


 レンは受付の方を見た。


 明日も水瓶は重い。

 棚はずれる。

 冒険者は嘘をつく。

 誰かが怪我を隠す。

 帳面に載らない仕事は、また出る。


 それでも、ここにいるなら、言葉は選ぶ必要がある。


 レンはそう判断した。


 居るために。


 翌朝、厨房の娘が水瓶の前で困っていた。


 レンは横に立ち、瓶に手を添えた。


「持ちます」


 娘は少し驚き、それから笑った。


「お願いします」


「はい」


 短い。

 けれど、雑ではない。


 リーネは受付台の内側で、そのやり取りを見ていた。


 帳面には何も書かない。


 ただ、昨日より少しだけ、レンの声が戻ったように聞こえた。

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