外伝 余計なもの
レンの言葉は、もともと少なかった。
受付で呼ばれれば、振り向いて「どうした」と言う。
頼まれれば、「分かった」と言う。
礼を言われれば、「いえ」と返す。
短い。
けれど、雑ではない。
リーネは、そう思っていた。
水瓶が重ければ、レンは黙って持つ。
棚の上に手が届かなければ、横から箱を差し出す。
冒険者が怪我を隠していれば、治療係の方を一度見る。
余計なことは言わない。
だが、相手を乱暴には扱わない。
だから、その朝の一言は、妙に引っかかった。
厨房の娘が、水瓶を両手で抱えていた。昨日より大きい瓶だ。中身は半分ほどだが、それでも重い。足元には濡れた布が落ちていて、少し滑りやすくなっている。
レンは通りかかり、瓶に手を添えた。
「ありがとうございます、レンさん」
娘がほっとしたように笑う。
レンは瓶を持ち上げた。
「落とす」
娘の顔が、ほんの少し固まった。
責められたわけではない。
そう分かっていても、そう聞こえる言い方だった。
リーネは受付台の内側で、帳面を開く手を止めた。
以前なら。
以前のレンなら、たぶんこう言った。
重いので。
持ちます。
床が濡れています。
短くても、相手の方に言葉が向いていた。
今の言葉は、事実だけだった。
落とす。
それだけ。
厨房の娘は曖昧に笑い、道を空けた。レンは水瓶を置き、濡れた布を拾って脇に寄せた。
やっていることは、いつもと同じだった。
言葉だけが、少し違う。
レン自身も、それに気づいていた。
落とす。
口から出た言葉を、内側で一度なぞる。
間違いではない。
あのままなら落としていた。落とせば瓶が割れ、水が流れ、厨房の床が使えなくなる。朝の食事が遅れ、受付前で冒険者が苛立つ。
だから、止めた。
問題はない。
そう判断しかけて、止まる。
言い方が足りなかった。
足りない、という感覚があった。
それは、前にはなかった。
レンは水瓶から手を離し、厨房を出た。
廊下の途中で、若い職員が棚を動かそうとしていた。片側の脚が浮き、今にも中の書類箱が滑り落ちそうになっている。
レンは近づいた。
どけ。
言葉が、先に浮かんだ。
レンは口を閉じた。
職員が振り向く。
「あ、レンさん。これ、少しだけ押さえてもらえますか」
「……代わる」
「え?」
「重い。代わる」
言い直した。
職員は少し驚いたようにしてから、手を離した。
「助かります」
レンは棚を持ち上げ、壁との隙間に噛んでいた木片を外した。棚はまっすぐに戻る。書類箱も落ちなかった。
仕事は終わった。
けれど、内側に残った言葉は消えない。
どけ。
遅い。
邪魔だ。
それらは、使える言葉だった。
短く、速い。状況だけを動かすには向いている。
だが、ここでは余計だった。
レンは手に残った木屑を払った。
木屑の匂いがした。
湿った木。古い酒場の床。踏まれた革袋。逃げる時、右の出口は塞がれていた。左に男が二人。奥の窓は細い。金は懐ではなく、靴底に――。
そこまで浮かんで、レンは瞬きをした。
自分の記憶ではない。
知っている。
けれど、知らない。
酒場の名前も、男の顔も、金を隠した靴の重さも、レンのものではない。
それでも、体の内側に残っている。
余計なもの。
レンはそう判断した。
受付の方で、声が上がった。
「だから、昨日の報告は出したって言ってるだろ」
下級冒険者の男が、リーネの前で両手を広げていた。依頼は町外れの柵修理。報酬は小さいが、完了報告がなければ支払えない。
リーネは帳面を確認している。
「報告札が戻っていません」
「渡したよ。そこの箱に入れた」
「昨日の報告箱には入っていませんでした」
「じゃあ誰かがなくしたんだろ」
男の声は大きい。
だが、足は出口の方を向いている。
レンはそれを見た。
嘘をつく時、人間は逃げ道を残す。
そう思った。
それは、自分の考えではない。
自分の中に混じった男の考えだった。
使える。
レンは受付へ歩いた。
「袋」
男が振り向く。
「あ?」
「腰の袋」
「何だよ」
「出せ」
受付前が少し静かになった。
リーネが顔を上げる。
「レンさん」
以前なら、レンはまずリーネに確認した。
「見てもいいですか」
「確認します」
そんな言葉を挟んでいた。
今は違う。
出せ。
ただ、それだけだった。
男の顔が硬くなる。
「なんでお前に――」
「中にある」
レンは言った。
男の手が、腰の袋を押さえた。
答えだった。
リーネはその動きを見て、静かに言う。
「確認します。報告札が入っているなら、今出してください」
男はしばらく黙り、舌打ちして袋から折れた報告札を出した。
「忘れてただけだ」
「破損しています」
「柵の下敷きになった」
「では、破損理由を記録します」
「面倒だな」
「必要です」
リーネは淡々と処理した。
報告札破損。
完了確認は現地再確認。
報酬支払いは保留。
男は不満そうだったが、それ以上騒がずに出ていった。
問題は大きくならなかった。
レンは受付台の横に立ったまま、男の背中を見ていた。
逃げるなら右。
右手で袋を隠す。
言い訳は三つ。なくした、渡した、知らない。
全部、先に見えた。
便利だった。
だが、口に出した言葉はよくなかった。
リーネが帳面を書き終え、こちらを見た。
「レンさん」
「どうした」
「今日は少し……急いでいますか」
急いでいる。
その問いは違う。
レンはそう思った。
急いではいない。
削れている。
言葉の端が、削れている。
人に向けるための薄い布のようなものが、一枚なくなっている。
「たぶんな」
そう答えてから、違うと思った。
リーネは黙ってレンを見ている。
責めてはいない。
確かめている。
以前から、そうだった。
リーネはレンを怒鳴らない。決めつけない。帳面を見るように、言葉の前後を見る。だからレンも、リーネには短くても形を整えて返していた。
どうした。
分かりました。
確認します。
大丈夫です。
それが、今日は崩れている。
「急いでは、いない」
レンは言い直した。
リーネの表情が少し変わった。
「そうですか」
「言葉が、足りなかった」
リーネはペンを置いた。
その言葉自体が、レンにしては珍しかった。
「……何かありましたか」
「ある」
レンは答えた。
だが、続きは出さなかった。
ある。
余計なものがある。
自分ではない記憶がある。
役に立つが、混じる。
混じると、言葉が削れる。
どれも、帳面には書けない。
「言えないことですか」
リーネが聞く。
「言わない方がいい」
「困るからですか」
「たぶんな」
リーネはそれ以上聞かなかった。
聞けば、仕事になる。
そう判断したのかもしれない。
夕方まで、レンはいつも通り働いた。
壊れかけた椅子を直した。
水瓶を満たした。
依頼札の端を揃えた。
倉庫の紐を替えた。
動きは変わらない。
ただ、言葉だけを選び直した。
「触るな」
そう出そうになった時は、
「危ない」
と言った。
「遅い」
そう思った時は、
「持つ」
と言った。
「邪魔だ」
そう浮かんだ時は、
「通ります」
と言った。
ひとつずつ、戻す。
戻すという言い方が正しいのかは分からない。
ただ、その方がギルドは静かだった。
厨房の娘は、夕方にもう一度水瓶を運ぼうとしていた。レンが横から持つと、少しだけ身構えた。
レンは瓶を受け取り、床を見た。
「濡れています」
「あ、はい」
「持ちます」
娘は、今度は普通に笑った。
「ありがとうございます」
「いえ」
その返事は、前から使っていたものだった。
レンはそれを確認した。
夜、ギルドが閉まったあと、レンは地下にいた。
水路の脇に座り、手を洗う。
指の間に残った木屑と泥が流れていく。
暗い水面に、音が落ちる。
落とす。
どけ。
出せ。
逃げるな。
黙れ。
余計な言葉が浮かぶ。
重いので。
代わります。
危ないです。
確認します。
いえ。
前から使っていた言葉も浮かぶ。
どちらも、今は中にある。
レンは水面を見た。
余計なものは、捨てられない。
捨て方がない。
吸収したものは、形を変えて残る。
役に立つ部分もある。嘘が見える。逃げ道が分かる。悪意の匂いに気づくのが早くなる。
居場所を守るには、使える。
だが、ギルドの中でそのまま使うと、壊れるものがある。
厨房の娘の沈黙。
職員の戸惑い。
リーネの視線。
それらは、敵ではない。
レンは手を水から上げた。
「余計だ」
声は地下に落ち、すぐに消えた。
余計なもの。
だが、使えるもの。
なら、しまう。
必要な時だけ出す。
そう決めた。
上へ戻ると、マスターが裏口の前にいた。
明かりは落としている。けれど、マスターは待っていたようだった。
「終わったか」
「だいたいな」
「今日は言葉が尖ってたな」
レンは黙った。
マスターは腕を組んだまま、レンを見る。
「何かあったか」
「余計なものがある」
「捨てられるのか」
「たぶんな」
「なら捨てろ」
マスターは短く言った。
「捨てられないなら、しまっとけ。ここで出すな」
ここ。
ギルド。
地上。
受付。
厨房。
長椅子。
帳面のある場所。
レンは頷いた。
「分かった」
「報告は」
いつもの問いだった。
レンは少しだけ間を置いた。
報告することはある。
言葉が削れている。
記憶が混じっている。
使えるが、危うい。
しまう必要がある。
だが、それは帳面に載せるものではない。
「ない」
マスターはそれ以上聞かなかった。
奥で、リーネが帳面をしまう音がした。
レンは受付の方を見た。
明日も水瓶は重い。
棚はずれる。
冒険者は嘘をつく。
誰かが怪我を隠す。
帳面に載らない仕事は、また出る。
それでも、ここにいるなら、言葉は選ぶ必要がある。
レンはそう判断した。
居るために。
翌朝、厨房の娘が水瓶の前で困っていた。
レンは横に立ち、瓶に手を添えた。
「持ちます」
娘は少し驚き、それから笑った。
「お願いします」
「はい」
短い。
けれど、雑ではない。
リーネは受付台の内側で、そのやり取りを見ていた。
帳面には何も書かない。
ただ、昨日より少しだけ、レンの声が戻ったように聞こえた。




