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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第五章 帳面にない仕事

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第42話 優等生の仕事

 月末の帳面は、厚くなる。


 一日の帳面なら、まだ紙の上で追える。

 誰が来て、何を受けて、何を終えたか。報酬はいくらで、備品は何を使い、何が壊れたか。


 だが月末になると、それらは数字になる。


 依頼件数。

 完了件数。

 未処理件数。

 苦情件数。

 備品の損耗。

 治療薬の使用量。

 修繕費。

 事故報告。


 数字は、余計な事情を削る。


 だからリーネは、数字を信用していた。


 言い訳も、記憶違いも、都合のいい沈黙も、数字の前では弱くなる。

 そう思っていた。


 その朝、リーネは帳面を二冊並べていた。


 今月分と、先月分。


 受付台の奥では、まだ人の出入りは少ない。冒険者たちは掲示板の前で依頼札を眺め、厨房では湯が沸く音がしている。マスターは奥の机で、古い羽ペンの先を削っていた。


 レンは、床のささくれを削っていた。


 いつも通りだった。


 リーネは今月分の集計を終え、先月分と見比べた。


 依頼件数は、ほぼ同じ。

 冒険者の出入りも大きく変わらない。

 町からの依頼も、天候も、特別な差はない。


 なのに、事故報告が減っていた。


 未処理依頼も少ない。

 備品の破損も減っている。

 苦情票も減っている。


 リーネは一つずつ確認した。


 間違いではない。


 むしろ、この数日は不自然なくらい整っている。


 空欄の依頼は、ギルド内点検として処理された。

 戻らなかった荷札は、破損再発行で閉じられた。

 薬草の不足は、古い薬草の廃棄になった。

 職人街の文句は、清掃協力になった。

 地下から来た工具は、錆びた備品の廃棄になった。


 どれも、問題ではない。


 帳面上は。


 リーネは別の紙を出した。


 職員の勤務表。

 レンの出勤日を、今月分の帳面に重ねる。


 目で追うだけで、分かってしまった。


 レンがいる日は、問題が少ない。


 正しく言えば、問題として残るものが少ない。


 依頼の失敗が減る。

 冒険者の怪我が大事にならない。

 備品の破損が事前に補修される。

 苦情が苦情になる前に、別の名前で片づく。


 しかし、レン本人の作業記録は多くない。


 床補修。

 水瓶補充。

 倉庫整理。

 掲示板修理。

 備品確認。


 どれも雑務だ。


 優秀ではある。

 だが、数字に出るほどの影響がある仕事には見えない。


 リーネは、ペンを置いた。


「マスター」


「何だ」


「今月の集計ですが」


「赤字か」


「いいえ。むしろ、安定しています」


「ならいい」


「ですが、不自然です」


 マスターは羽ペンを削る手を止めなかった。


「安定して不自然なら、いいことだろう」


「良くはありません」


「悪いのか」


「悪いと断定できないところが問題です」


 マスターはそこで少しだけ笑った。


「帳面らしい言い方だな」


 リーネは集計紙を持って、奥の机へ向かった。


「レンさんの出勤日と、事故や未処理の減少に偏りがあります」


「優等生だからな」


 軽い言い方だった。


 だが、リーネは笑えなかった。


「優等生とは、記録された仕事を正確にこなす者のことではありませんか」


「そうだな」


「では、記録されていない損害を減らす者は、何と呼ぶべきですか」


 マスターは羽ペンを置いた。


 視線だけが、受付横にいるレンへ向く。


 レンは床を削っていた。

 会話を聞いているのか、聞いていないのか分からない。


「便利なやつだ」


 マスターは言った。


「それは、褒め言葉ですか」


「場合による」


「危険でもあります」


「それも場合による」


 リーネは集計紙を見下ろした。


「帳面に載らない仕事が増えています」


「載せたら仕事になる」


「載せなければ、誰の責任にもなりません」


「だから回ることもある」


「だから壊れることもあります」


 マスターは答えなかった。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 昼前、ギルドに一人の男が来た。


 年は三十前後。冒険者ではない。商人でも職人でもない。革の鞄を持ち、上着の襟元に小さな金属札をつけている。王都の大きな役人ではないが、町の組合や支所を回る下級監査の者が、似た札をつけている。


 男は受付台の前に立ち、丁寧に頭を下げた。


「ギルド支所の月末記録を確認に参りました。監査補佐のエルクと申します」


 リーネはすぐに帳面を整えた。


「予定は明日だったはずですが」


「職人街の巡回が早く終わりまして。ご迷惑でしたか」


「いいえ。準備はできています」


 そう答えたものの、背中に薄い緊張が走った。


 今月の帳面は、整っている。


 整いすぎている。


 マスターが奥から出てきた。


「早いな」


「ええ。今月は、町の方も大きな報告が少なくて」


 エルクは笑顔で言った。


「こちらのギルドも、ずいぶん安定しているようですね」


 リーネは帳面を開いた。


 依頼受付。完了報告。未処理一覧。備品台帳。薬品記録。苦情票。

 必要なものを順に並べる。


 エルクは慣れた手つきで確認していった。


 遅くはない。

 だが、細かい。


 空欄には必ず目を止める。訂正印の多い箇所には理由を聞く。廃棄処理があれば、品目と確認者を確認する。


 リーネは答えた。


「ギルド内点検です」

「荷札破損による再発行です」

「古い薬草の廃棄です」

「職人街周辺の清掃協力です」

「錆びた工具の廃棄です」


 説明はできる。


 どれも帳面に書かれている。

 確認印もある。

 処理済みの欄も埋まっている。


 ただ、説明するたびに、最初の出来事から少しずつ遠ざかっていく気がした。


 エルクは薬草の欄で手を止めた。


「廃棄が多いですね」


「品質低下がありました」


「使用ではなく?」


「廃棄です」


「治療記録は増えていない」


「はい」


 エルクは頷き、次に備品台帳を見た。


「登録番号のない工具を廃棄していますね」


「備品庫整理中に発見されたものです」


「出所不明品ですか」


「古いものです。使用に適さないため廃棄しました」


「なるほど」


 男は紙に小さく何かを書いた。


 リーネは、その筆先を見た。


 何を書いたのかは分からない。

 だが、見られた、という感覚だけが残った。


 その時、受付の外で小さな騒ぎが起きた。


 新人冒険者が依頼札を取り合い、片方が長椅子に足を引っかけた。椅子が倒れかける。


 倒れなかった。


 レンが、いつの間にか椅子の後ろにいた。片手で背を押さえ、もう片方の手で床に落ちた依頼札を拾っている。


「気をつけろ」


「お、おう」


 新人は照れたように笑い、依頼札を受け取った。


 何も起きなかった。


 事故ではない。

 報告もいらない。


 エルクがその様子を見ていた。


「彼は職員ですか」


「雑務担当です」


 リーネが答えた。


「よく動きますね」


「はい」


「記録は少ない」


 エルクは帳面に目を戻した。


 リーネは答えられなかった。


 マスターが言った。


「優等生なんでな」


「なるほど」


 エルクは穏やかに笑った。


「優等生がいるギルドは、帳面がきれいになります」


 それは褒め言葉に聞こえた。


 だが、続きは違った。


「ただ、きれいすぎる帳面は、たまに困ります」


 マスターの目が細くなる。


「どういう意味だ」


「汚れがどこへ行ったのか、分からなくなりますので」


 リーネの手が、帳面の端で止まった。


 エルクは責めているわけではない。声も穏やかだ。

 それでも、言葉は鋭かった。


「今月、正式な苦情は少ない。事故報告も少ない。未処理も少ない。良いことです。ただ、その割に、内部処理と雑務が多い」


「ギルドは雑務が多い場所だ」


 マスターが言う。


「ええ。ですが、こちらは雑務が、問題の前に置かれているように見えます」


「問題が起きる前に片づけるのは、悪いことか」


「悪くありません」


 エルクは帳面を閉じた。


「ただ、仕事が多いギルドですね。帳面に載らない仕事まで、しているように見える」


 受付の音が、少し遠くなった気がした。


 リーネは、何も言えなかった。


 マスターは笑わなかった。


「見えるだけなら、問題はないな」


「はい。見えるだけです」


 エルクはそう言って、確認欄に署名した。


 大きな不備はなかった。


 監査は通った。

 帳面は守られた。


 それなのに、リーネの中には何かが残った。


 夕方、エルクは帰っていった。


 最後にレンの方を一度見たが、声はかけなかった。レンも見返さなかった。ただ、床の削りかすを集めていた。


 ギルドはいつも通り閉まり始めた。


 依頼札は戻され、長椅子は壁際に寄せられ、厨房の火は落とされた。マスターは監査補佐の署名を確認し、帳面に革紐をかけた。


「問題なしだ」


 マスターは言った。


 リーネは頷いた。


「はい。問題なしです」


「その顔で言うな」


「すみません」


「謝る顔でもない」


 リーネは帳面の上に手を置いた。


「帳面に載らない仕事、という言葉が気になります」


「気にするな」


「無理です」


「なら、気にしすぎるな」


 リーネは少しだけ目を伏せた。


「マスターは、知っているんですか」


「何を」


「帳面に載らない仕事を、誰がしているのか」


 マスターは、しばらく答えなかった。


 奥の方で、レンが水桶を持ち上げる音がした。


「全部知ろうとすると、回らん」


「それは、知らないという意味ですか」


「知っていても、書けないことはある」


 それだけだった。


 夜になった。


 リーネは一人で帳面を見直した。


 監査補佐の署名。

 問題なしの印。

 内部処理の欄。

 雑務の記録。


 どれも正しい。


 ただ、月の終わりの余白が、いつもより白く見えた。


 そこに、何かを書ける気がした。


 帳面に載らない仕事をしている誰かがいる。


 そう書けば、どうなるのか。


 誰か、とは誰か。

 仕事、とは何か。

 載らないものを、なぜ帳面に書けるのか。


 リーネはペンを取った。


 書かないまま、止まった。


 背後で足音がした。


 レンだった。


「まだいるのか」


「月末ですから」


「そうか」


「レンさん」


「どうした」


「レンさんは、どうしてそんなに先に片づけられるんですか」


 レンは少し考えたように見えた。


「見ればわかる」


「普通は、見てもわかりません」


「……そうか」


 いつもの言葉だった。


 けれど今日は、リーネの中で引っかかる場所が違った。


 見ればわかる。


 レンは何を見ているのか。

 帳面ではない。

 依頼札でもない。

 人の動き、物のズレ、地下の湿気、床の傷、誰かがまだ困る前の形。


 それを見て、先に片づける。


 だから、問題は起きない。

 起きなかった問題は、帳面に載らない。


 それは優秀なのか。


 それとも、危ういのか。


「今日、監査の方が言っていました」


 リーネは言った。


「帳面に載らない仕事までしているように見える、と」


 レンは表情を変えなかった。


「見えるだけだ」


「本当に?」


「帳面にはない」


「それは、ないという意味ではありません」


 レンは黙った。


 その沈黙は、否定ではなかった。


 リーネはペンを置いた。


「私は、帳面に書けるものしか守れません」


「そうだな」


「でも、帳面に書けないものが増えています」


「増やしたくはない」


「では、なぜ」


 レンは受付の奥、地下へ続く廊下の方を見た。


「居るために」


 第41話で聞いた言葉だった。


 居るためのこと。


 仕事ではない。

 報酬でもない。

 命令でもない。


 それでも、ギルドを守っている。


 リーネは、少しだけ息を吸った。


「それは、いつか仕事になりますか」


「ならない方がいい」


「なったら?」


 レンは答えるまでに、長く間を置いた。


「困る」


「誰がですか」


「たぶん、全員」


 リーネは笑わなかった。


 その答えも、もう何度か聞いている。


 そして、そのたびに少しずつ意味が重くなっている。


 閉店後のギルドは静かだった。


 マスターは奥で監査書類をしまっている。レンは床の削りかすを小さな袋に入れ、倉庫へ運んでいく。


 リーネは帳面を閉じる前に、月末の備考欄を見た。


 何も書かないこともできる。

 問題なし、と書くこともできる。

 監査済み、と書けば、それで済む。


 けれど、手が動いた。


 リーネは小さく、備考欄の端に余白を残した。


 文字ではない。

 印でもない。

 ただ、いつもなら詰めて書くところを、少しだけ空けた。


 それは帳面には何の意味も持たない。


 だが、リーネには必要だった。


 全部を埋めてしまえば、本当になかったことになる。


 マスターがそれを見た。


「そこ、空いてるぞ」


「はい」


「書き忘れか」


「いいえ」


「なら何だ」


 リーネは帳面を閉じた。


「余白です」


 マスターは少し黙り、それから小さく息を吐いた。


「そうか」


 レンが倉庫から戻ってきた。


 リーネは帳面に革紐をかけ、棚にしまう。


 今月のギルドは、問題なし。

 監査も通った。

 苦情も少ない。

 事故も少ない。

 未処理も少ない。


 優秀な月だった。


 優等生の仕事だった。


 けれど、リーネはもう、その言葉を前と同じ意味では受け取れなかった。


 帳面に載らない仕事をしている誰かがいる。


 その誰かの近くには、いつもレンがいる。

 その誰かを、マスターは見逃している。

 そして自分は、それをまだ書けない。


 リーネは明かりを落とした。


 暗くなった受付台の上で、帳面の金具だけが少し光った。


 問題はない。


 ただ、余白が残った。

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