第42話 優等生の仕事
月末の帳面は、厚くなる。
一日の帳面なら、まだ紙の上で追える。
誰が来て、何を受けて、何を終えたか。報酬はいくらで、備品は何を使い、何が壊れたか。
だが月末になると、それらは数字になる。
依頼件数。
完了件数。
未処理件数。
苦情件数。
備品の損耗。
治療薬の使用量。
修繕費。
事故報告。
数字は、余計な事情を削る。
だからリーネは、数字を信用していた。
言い訳も、記憶違いも、都合のいい沈黙も、数字の前では弱くなる。
そう思っていた。
その朝、リーネは帳面を二冊並べていた。
今月分と、先月分。
受付台の奥では、まだ人の出入りは少ない。冒険者たちは掲示板の前で依頼札を眺め、厨房では湯が沸く音がしている。マスターは奥の机で、古い羽ペンの先を削っていた。
レンは、床のささくれを削っていた。
いつも通りだった。
リーネは今月分の集計を終え、先月分と見比べた。
依頼件数は、ほぼ同じ。
冒険者の出入りも大きく変わらない。
町からの依頼も、天候も、特別な差はない。
なのに、事故報告が減っていた。
未処理依頼も少ない。
備品の破損も減っている。
苦情票も減っている。
リーネは一つずつ確認した。
間違いではない。
むしろ、この数日は不自然なくらい整っている。
空欄の依頼は、ギルド内点検として処理された。
戻らなかった荷札は、破損再発行で閉じられた。
薬草の不足は、古い薬草の廃棄になった。
職人街の文句は、清掃協力になった。
地下から来た工具は、錆びた備品の廃棄になった。
どれも、問題ではない。
帳面上は。
リーネは別の紙を出した。
職員の勤務表。
レンの出勤日を、今月分の帳面に重ねる。
目で追うだけで、分かってしまった。
レンがいる日は、問題が少ない。
正しく言えば、問題として残るものが少ない。
依頼の失敗が減る。
冒険者の怪我が大事にならない。
備品の破損が事前に補修される。
苦情が苦情になる前に、別の名前で片づく。
しかし、レン本人の作業記録は多くない。
床補修。
水瓶補充。
倉庫整理。
掲示板修理。
備品確認。
どれも雑務だ。
優秀ではある。
だが、数字に出るほどの影響がある仕事には見えない。
リーネは、ペンを置いた。
「マスター」
「何だ」
「今月の集計ですが」
「赤字か」
「いいえ。むしろ、安定しています」
「ならいい」
「ですが、不自然です」
マスターは羽ペンを削る手を止めなかった。
「安定して不自然なら、いいことだろう」
「良くはありません」
「悪いのか」
「悪いと断定できないところが問題です」
マスターはそこで少しだけ笑った。
「帳面らしい言い方だな」
リーネは集計紙を持って、奥の机へ向かった。
「レンさんの出勤日と、事故や未処理の減少に偏りがあります」
「優等生だからな」
軽い言い方だった。
だが、リーネは笑えなかった。
「優等生とは、記録された仕事を正確にこなす者のことではありませんか」
「そうだな」
「では、記録されていない損害を減らす者は、何と呼ぶべきですか」
マスターは羽ペンを置いた。
視線だけが、受付横にいるレンへ向く。
レンは床を削っていた。
会話を聞いているのか、聞いていないのか分からない。
「便利なやつだ」
マスターは言った。
「それは、褒め言葉ですか」
「場合による」
「危険でもあります」
「それも場合による」
リーネは集計紙を見下ろした。
「帳面に載らない仕事が増えています」
「載せたら仕事になる」
「載せなければ、誰の責任にもなりません」
「だから回ることもある」
「だから壊れることもあります」
マスターは答えなかった。
その沈黙は、否定ではなかった。
昼前、ギルドに一人の男が来た。
年は三十前後。冒険者ではない。商人でも職人でもない。革の鞄を持ち、上着の襟元に小さな金属札をつけている。王都の大きな役人ではないが、町の組合や支所を回る下級監査の者が、似た札をつけている。
男は受付台の前に立ち、丁寧に頭を下げた。
「ギルド支所の月末記録を確認に参りました。監査補佐のエルクと申します」
リーネはすぐに帳面を整えた。
「予定は明日だったはずですが」
「職人街の巡回が早く終わりまして。ご迷惑でしたか」
「いいえ。準備はできています」
そう答えたものの、背中に薄い緊張が走った。
今月の帳面は、整っている。
整いすぎている。
マスターが奥から出てきた。
「早いな」
「ええ。今月は、町の方も大きな報告が少なくて」
エルクは笑顔で言った。
「こちらのギルドも、ずいぶん安定しているようですね」
リーネは帳面を開いた。
依頼受付。完了報告。未処理一覧。備品台帳。薬品記録。苦情票。
必要なものを順に並べる。
エルクは慣れた手つきで確認していった。
遅くはない。
だが、細かい。
空欄には必ず目を止める。訂正印の多い箇所には理由を聞く。廃棄処理があれば、品目と確認者を確認する。
リーネは答えた。
「ギルド内点検です」
「荷札破損による再発行です」
「古い薬草の廃棄です」
「職人街周辺の清掃協力です」
「錆びた工具の廃棄です」
説明はできる。
どれも帳面に書かれている。
確認印もある。
処理済みの欄も埋まっている。
ただ、説明するたびに、最初の出来事から少しずつ遠ざかっていく気がした。
エルクは薬草の欄で手を止めた。
「廃棄が多いですね」
「品質低下がありました」
「使用ではなく?」
「廃棄です」
「治療記録は増えていない」
「はい」
エルクは頷き、次に備品台帳を見た。
「登録番号のない工具を廃棄していますね」
「備品庫整理中に発見されたものです」
「出所不明品ですか」
「古いものです。使用に適さないため廃棄しました」
「なるほど」
男は紙に小さく何かを書いた。
リーネは、その筆先を見た。
何を書いたのかは分からない。
だが、見られた、という感覚だけが残った。
その時、受付の外で小さな騒ぎが起きた。
新人冒険者が依頼札を取り合い、片方が長椅子に足を引っかけた。椅子が倒れかける。
倒れなかった。
レンが、いつの間にか椅子の後ろにいた。片手で背を押さえ、もう片方の手で床に落ちた依頼札を拾っている。
「気をつけろ」
「お、おう」
新人は照れたように笑い、依頼札を受け取った。
何も起きなかった。
事故ではない。
報告もいらない。
エルクがその様子を見ていた。
「彼は職員ですか」
「雑務担当です」
リーネが答えた。
「よく動きますね」
「はい」
「記録は少ない」
エルクは帳面に目を戻した。
リーネは答えられなかった。
マスターが言った。
「優等生なんでな」
「なるほど」
エルクは穏やかに笑った。
「優等生がいるギルドは、帳面がきれいになります」
それは褒め言葉に聞こえた。
だが、続きは違った。
「ただ、きれいすぎる帳面は、たまに困ります」
マスターの目が細くなる。
「どういう意味だ」
「汚れがどこへ行ったのか、分からなくなりますので」
リーネの手が、帳面の端で止まった。
エルクは責めているわけではない。声も穏やかだ。
それでも、言葉は鋭かった。
「今月、正式な苦情は少ない。事故報告も少ない。未処理も少ない。良いことです。ただ、その割に、内部処理と雑務が多い」
「ギルドは雑務が多い場所だ」
マスターが言う。
「ええ。ですが、こちらは雑務が、問題の前に置かれているように見えます」
「問題が起きる前に片づけるのは、悪いことか」
「悪くありません」
エルクは帳面を閉じた。
「ただ、仕事が多いギルドですね。帳面に載らない仕事まで、しているように見える」
受付の音が、少し遠くなった気がした。
リーネは、何も言えなかった。
マスターは笑わなかった。
「見えるだけなら、問題はないな」
「はい。見えるだけです」
エルクはそう言って、確認欄に署名した。
大きな不備はなかった。
監査は通った。
帳面は守られた。
それなのに、リーネの中には何かが残った。
夕方、エルクは帰っていった。
最後にレンの方を一度見たが、声はかけなかった。レンも見返さなかった。ただ、床の削りかすを集めていた。
ギルドはいつも通り閉まり始めた。
依頼札は戻され、長椅子は壁際に寄せられ、厨房の火は落とされた。マスターは監査補佐の署名を確認し、帳面に革紐をかけた。
「問題なしだ」
マスターは言った。
リーネは頷いた。
「はい。問題なしです」
「その顔で言うな」
「すみません」
「謝る顔でもない」
リーネは帳面の上に手を置いた。
「帳面に載らない仕事、という言葉が気になります」
「気にするな」
「無理です」
「なら、気にしすぎるな」
リーネは少しだけ目を伏せた。
「マスターは、知っているんですか」
「何を」
「帳面に載らない仕事を、誰がしているのか」
マスターは、しばらく答えなかった。
奥の方で、レンが水桶を持ち上げる音がした。
「全部知ろうとすると、回らん」
「それは、知らないという意味ですか」
「知っていても、書けないことはある」
それだけだった。
夜になった。
リーネは一人で帳面を見直した。
監査補佐の署名。
問題なしの印。
内部処理の欄。
雑務の記録。
どれも正しい。
ただ、月の終わりの余白が、いつもより白く見えた。
そこに、何かを書ける気がした。
帳面に載らない仕事をしている誰かがいる。
そう書けば、どうなるのか。
誰か、とは誰か。
仕事、とは何か。
載らないものを、なぜ帳面に書けるのか。
リーネはペンを取った。
書かないまま、止まった。
背後で足音がした。
レンだった。
「まだいるのか」
「月末ですから」
「そうか」
「レンさん」
「どうした」
「レンさんは、どうしてそんなに先に片づけられるんですか」
レンは少し考えたように見えた。
「見ればわかる」
「普通は、見てもわかりません」
「……そうか」
いつもの言葉だった。
けれど今日は、リーネの中で引っかかる場所が違った。
見ればわかる。
レンは何を見ているのか。
帳面ではない。
依頼札でもない。
人の動き、物のズレ、地下の湿気、床の傷、誰かがまだ困る前の形。
それを見て、先に片づける。
だから、問題は起きない。
起きなかった問題は、帳面に載らない。
それは優秀なのか。
それとも、危ういのか。
「今日、監査の方が言っていました」
リーネは言った。
「帳面に載らない仕事までしているように見える、と」
レンは表情を変えなかった。
「見えるだけだ」
「本当に?」
「帳面にはない」
「それは、ないという意味ではありません」
レンは黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
リーネはペンを置いた。
「私は、帳面に書けるものしか守れません」
「そうだな」
「でも、帳面に書けないものが増えています」
「増やしたくはない」
「では、なぜ」
レンは受付の奥、地下へ続く廊下の方を見た。
「居るために」
第41話で聞いた言葉だった。
居るためのこと。
仕事ではない。
報酬でもない。
命令でもない。
それでも、ギルドを守っている。
リーネは、少しだけ息を吸った。
「それは、いつか仕事になりますか」
「ならない方がいい」
「なったら?」
レンは答えるまでに、長く間を置いた。
「困る」
「誰がですか」
「たぶん、全員」
リーネは笑わなかった。
その答えも、もう何度か聞いている。
そして、そのたびに少しずつ意味が重くなっている。
閉店後のギルドは静かだった。
マスターは奥で監査書類をしまっている。レンは床の削りかすを小さな袋に入れ、倉庫へ運んでいく。
リーネは帳面を閉じる前に、月末の備考欄を見た。
何も書かないこともできる。
問題なし、と書くこともできる。
監査済み、と書けば、それで済む。
けれど、手が動いた。
リーネは小さく、備考欄の端に余白を残した。
文字ではない。
印でもない。
ただ、いつもなら詰めて書くところを、少しだけ空けた。
それは帳面には何の意味も持たない。
だが、リーネには必要だった。
全部を埋めてしまえば、本当になかったことになる。
マスターがそれを見た。
「そこ、空いてるぞ」
「はい」
「書き忘れか」
「いいえ」
「なら何だ」
リーネは帳面を閉じた。
「余白です」
マスターは少し黙り、それから小さく息を吐いた。
「そうか」
レンが倉庫から戻ってきた。
リーネは帳面に革紐をかけ、棚にしまう。
今月のギルドは、問題なし。
監査も通った。
苦情も少ない。
事故も少ない。
未処理も少ない。
優秀な月だった。
優等生の仕事だった。
けれど、リーネはもう、その言葉を前と同じ意味では受け取れなかった。
帳面に載らない仕事をしている誰かがいる。
その誰かの近くには、いつもレンがいる。
その誰かを、マスターは見逃している。
そして自分は、それをまだ書けない。
リーネは明かりを落とした。
暗くなった受付台の上で、帳面の金具だけが少し光った。
問題はない。
ただ、余白が残った。




