第41話 地下から来た道具
備品には、番号がある。
机、椅子、棚、工具、縄、油差し、替えの錠前。
高価なものだけではない。なくなれば困るものには番号を振り、帳面に書く。
番号があるものは、ギルドのものだ。
番号がないものは、誰のものでもない。
そういう扱いになる。
だから、リーネは朝の備品点検で、その道具を見つけた時、すぐに手を止めた。
備品庫の奥。古い縄束と、折れた椅子の脚を入れておく箱の間に、見慣れない工具が置かれていた。
長さは肘から先ほど。柄は黒ずみ、先端は鉤のように曲がっている。釘抜きにも見えるが、刃の角度が違う。金属部分には赤茶けた錆が浮き、柄の溝には乾いた泥のようなものが詰まっていた。
リーネは帳面をめくった。
大工道具。
補修具。
錠前外し。
荷ほどき用の鉤。
どこにも該当しない。
番号も刻まれていない。
「……また」
声に出してから、リーネは唇を閉じた。
また、ではない。
空欄の依頼。
戻らない荷札。
数の合わない薬草。
苦情のない苦情。
それらと、これが同じだと決まったわけではない。
けれど、帳面にないものが、帳面の中に入る場所へ置かれている。
それだけで十分に嫌だった。
リーネは布を手に巻き、工具を持ち上げた。
重い。
普通の補修道具より、ずっと重い。手にした瞬間、金属の冷たさが布越しにも伝わった。柄の部分には古い薬品のような匂いがある。酸っぱいような、湿った石を削ったような匂い。
その時、備品庫の入口から若い職員が顔を出した。
「リーネさん、それ使います?」
「触らないでください」
少し強い声になった。
職員は驚いて足を止める。
「棚の蝶番が固くて。先が曲がってるなら、ちょうどいいかなって」
「登録のない道具です。確認が済むまで触らないで」
「古いだけじゃないですか?」
「古いものほど、確認が必要です」
職員は不満そうに肩をすくめたが、引き下がった。
リーネは工具を布で包み、奥の机へ運んだ。
マスターは帳面ではなく、壁のひびを見ていた。見るだけで直るわけではないが、マスターは時々そういうことをする。
「マスター」
「今度は何だ」
「備品庫に、登録のない工具がありました」
リーネが布を開く。
マスターの顔が、ほんの少しだけ変わった。
表情ではない。
目の奥だけが、先に何かを知っていた。
「どこにあった」
「備品庫の奥です。縄束の横に」
「誰か触ったか」
「私が布越しに。ほかには触らせていません」
「そうか」
マスターは工具を指で押さえ、裏返した。
金属部分の根元に、細い刻みがあった。数字ではない。文字でもない。傷のように見えるが、等間隔に並んでいる。
「これは、備品ですか」
「違う」
「では、誰のものですか」
「昔のものだ」
「昔のギルドのものですか」
マスターは答えなかった。
それは、答えに近かった。
リーネは続けた。
「登録がありません」
「ああ」
「持ち込み記録もありません」
「ああ」
「備品庫にある以上、処理が必要です」
「廃棄でいい」
「危険物扱いにしますか」
「ただの錆びた工具だ」
「ただの工具には見えません」
「見え方で帳面は書けん」
リーネは黙った。
マスターは工具を布で包み直し、机の端に置いた。
「レンを呼べ」
その名が出るのを、リーネはどこかで予想していた。
予想していた自分に、少しだけ嫌な気持ちになる。
レンは裏口で水桶を洗っていた。呼ばれると、手を拭いて戻ってきた。
「どうした」
マスターは布を少し開いた。
「これ、見覚えは」
レンは工具を見た。
長く見たわけではない。
ただ、短く見て、すぐに目を戻した。
「ある」
リーネは息を止めた。
「どこで見ましたか」
「下」
「地下ですか」
「そうだ」
「なぜ地上の備品庫に?」
「戻った」
「戻った?」
レンは工具を見ずに言った。
「置き場が、ずれた」
意味が分からない。
だが、マスターは分かったように顎を引いた。
「扉か」
「たぶんな」
「どこの」
「古い方」
「まだ開くのか」
「少し」
リーネは二人を見た。
会話が短すぎる。
だが、足りない部分を互いに補っている。
帳面に書かれない言葉で、話が進んでいる。
「説明してください」
リーネは言った。
マスターはリーネを見た。
「古い地下区画に、使われなくなった道具置き場がある」
「ギルドの管理区画ですか」
「昔はな」
「今は?」
「使っていない」
「帳面にはありません」
「使っていないからな」
「使っていなくても、存在するなら管理が必要です」
マスターは面倒そうに息を吐いた。
「全部拾ったら、回らん」
その言葉は、何度も聞いた気がした。
だが、今日は少し違って聞こえた。
拾わなかったものが、地上に出てきている。
午前のうちに、問題は小さく起きた。
さきほどの若い職員が、別の工具で棚の蝶番を直そうとして指を切った。傷は浅い。だが、切った場所が悪く、血が止まるまで少しかかった。
治療係の老婆が包帯を巻きながら言った。
「変なものに触らなかっただけ、ましだね」
「変なもの?」
職員が聞く。
「古い地下の道具には、薬が染みてることがある。虫除けだったり、錆止めだったり、もっと別のものだったり」
「それ、危ないじゃないですか」
「だから触るなって言われただろ」
リーネは、その会話を聞いていた。
やはり危険物だ。
ただの錆びた工具ではない。
だが、危険物として記録すれば、どこから出たものかを書かなければならない。
どこから出たかを書けば、古い地下区画の存在が帳面に出る。
地下が、地上に上がってくる。
リーネは奥の机へ戻った。
布に包まれた工具は、もうそこになかった。
「マスター。工具は」
「レンが持っていった」
「どこへ」
「戻しに」
「地下へ、ですか」
「たぶんな」
「記録は」
「廃棄予定だ」
「戻すのに、廃棄ですか」
「地上では使わん」
リーネは言葉を失った。
廃棄とは、使わなくなったものを処分することだ。
地下へ戻すことではない。
だが、地上の備品庫から消えるという意味では、廃棄と同じなのかもしれない。
同じではない。
そう思うのに、帳面上では似た形になる。
午後、レンは地下から戻ってきた。
袖口に黒い汚れがついている。肩にも、細かな埃があった。手には何もない。
リーネは受付の内側から声をかけた。
「レンさん」
「どうした」
「工具は、戻したんですか」
「置いた」
「元の場所に?」
「近い場所に」
「元の場所ではないんですね」
「元の場所は、ない」
リーネは眉を寄せた。
「ない、とは」
「崩れていた」
「だから、地上に出てきた?」
「たぶんな」
「扉が壊れているんですか」
「隙間がある」
「直したんですか」
「少し」
少し。
レンの少しは、たいてい少しでは済まない。
「それは、正式な補修記録にできますか」
「しない方がいい」
「なぜです」
「扉があることになる」
「実際に、あるのでしょう」
「あると困る」
「誰がですか」
レンは少し黙った。
「たぶん、ここが」
リーネは、その答えを聞いて動けなくなった。
ここ。
ギルド。
地下。
レンの居場所。
どれを指したのか分からない。
分からないまま、どれも少しずつ当てはまる気がした。
夕方、マスターは帳面に確認印を押した。
内容は、備品庫整理。
古い工具一点、錆により廃棄。
棚の蝶番確認。
職員の軽傷、治療済み。
工具の番号はない。
出所もない。
地下区画の記述もない。
ただ、廃棄されたことだけが残る。
リーネは帳面を見て言った。
「登録されていないものを、廃棄として処理するのは不自然です」
「見つかったんだから、処理はいる」
「登録がない以上、備品ではありません」
「備品庫にあった」
「誰かの私物かもしれません」
「なら、名乗り出るだろう」
「名乗り出なければ?」
「廃棄だ」
マスターは淡々と言った。
正しいようで、正しくない。
だが、ギルドを回すには、それで足りる。
リーネは、もう一つ聞いた。
「マスターは、あの工具を知っていましたね」
マスターの手が止まる。
「古いものは、だいたい似てる」
「レンさんも知っていました」
「地下を掃除してるからな」
「お二人の間で、私の知らない管理区画があるのですか」
少しだけ、空気が重くなった。
マスターはリーネを見た。
「ない」
短い答えだった。
リーネはその言葉を、帳面に書けるか考えた。
書けない。
「ただ」
マスターは続けた。
「見ない方がいい場所はある」
それは、答えではない。
だが、否定でもなかった。
夜になり、ギルドは閉まった。
若い職員は、包帯を巻いた指を気にしながら帰っていった。大した怪我ではない。明日には文句を言いながら働くだろう。
リーネは備品庫に鍵をかけた。
棚の奥には、もう見慣れない工具はない。
縄束と椅子の脚だけがある。
帳面上も、何も残っていない。
古い工具一点、廃棄済み。
それで終わりだ。
廊下の奥から、レンが戻ってきた。水桶も布袋も持っていない。ただ、手の甲に細い傷がある。赤くはない。すでに塞がりかけていた。
「レンさん」
「どうした」
「地下には、まだ道具があるんですか」
「ある」
「帳面には、ありません」
「そうだな」
「では、それは誰のものですか」
レンは答えるまでに、少し間を置いた。
「残ったものだ」
「誰が残したんですか」
「たぶん、昔の人間」
「今のギルドが、管理しなくていいんですか」
「触らなければ」
「触らないで済みますか」
レンは、備品庫の扉を見た。
「済ませる」
その言葉は、約束のようには聞こえなかった。
処理する、という意味に近かった。
リーネは鍵を握りしめた。
「レンさんは、マスターに頼まれているんですか」
「何を」
「帳面にない場所を、見て回ることを」
レンは目を伏せた。
「必要なら」
「それは仕事ですか」
「違う」
「では、何ですか」
「居るためのことだ」
リーネは返事ができなかった。
居るためのこと。
それは仕事ではない。
だが、ギルドを守っている。
地下を塞ぎ、道具を戻し、危ないものを地上から消している。
帳面に載らない。
報酬もない。
命令にも見えない。
けれど、マスターは知っている。
レンも動いている。
そこには、言葉にされない了解がある。
リーネは帳面を抱え直した。
「私は、それをどう扱えばいいんでしょうか」
レンは少し考えたように見えた。
「触らない」
「それでいいんですか」
「噛まれない」
「害獣の話ではありません」
「同じだ」
レンはそう言って、地下へ続く廊下を見た。
リーネも同じ方を見る。
扉は閉まっている。
鍵も掛かっている。
帳面には、その先のことは何もない。
だが今日、そこから道具が来た。
明日も何かが来ないとは言えない。
リーネは小さく息を吐いた。
「気のせい、ではないですよね」
レンは、いつもより少しだけ遅れて答えた。
「たぶんな」
その答えは否定ではなかった。
リーネは備品庫の鍵をしまい、帳面を閉じた。
古い工具は廃棄された。
地下の扉は、少しだけ直された。
怪我人は軽傷で済んだ。
問題はない。
ただ、リーネは初めて思った。
帳面にない仕事をしているのは、レンだけではないのかもしれない。
それを許している人間がいる。
確認印を押す手は、いつも赤い。
その赤が、今日は少しだけ深く見えた。




