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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第五章 帳面にない仕事

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第40話 苦情のない苦情

 苦情には、紙がいる。


 誰が、いつ、どこで、何に困ったのか。

 それを書いてもらわなければ、ギルドは動けない。


 口で言われただけの困りごとは、噂と大して変わらない。

 噂を全部拾えば、帳面は一日で埋まる。


 だからリーネは、受付に立った男へ紙を差し出した。


「こちらに、ご記入ください」


 男は紙を見て、露骨に顔をしかめた。


「書くほどのことじゃねえんだ」


「では、正式な苦情としては扱えません」


「だから、そういう話じゃねえって言ってるだろ」


 男は職人街の革細工師だった。名前はバルド。腕はいいが、声が大きい。ギルドにもたびたび修理道具の革紐を納めている。


 今日は納品ではなかった。


 朝から受付台に肘をつき、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。


「昨日の夜から、裏路地に鼠が増えた」


「鼠ですか」


「ただの鼠じゃねえ。でかいやつだ。排水溝の蓋を押し上げるぐらいのが、三匹も四匹も出てきた」


「害獣処理の依頼でしたら、こちらの用紙に」


「だから、依頼じゃねえ」


 バルドは紙を押し返した。


「誰かが先に、別の場所で追い立てたんだよ。うちの裏に逃げてきたんだ。ギルドの奴だろ」


「確認します。どなたか、ギルド関係者を見ましたか」


「見てねえ」


「では、なぜギルドだと」


「そういうことをするのは、だいたいギルドだ」


 リーネは一度、目を伏せた。


 理屈としては弱い。

 だが、町の人間は理屈だけで動かない。


 冒険者が何かを退治する。

 その結果、別の場所で何かが起こる。

 すると、人々はギルドのせいだと考える。


 完全に間違いとも言えない。


「少なくとも、害獣処理の依頼記録は昨日ありません」


「じゃあ、誰かが勝手にやったんだろ」


「ギルドとしては、記録のない作業については確認できません」


「便利な言い方だな」


 バルドの声が少し大きくなった。


 受付の近くにいた冒険者たちが、ちらりとこちらを見る。

 揉め事になる前に、マスターが奥から出てきた。


「朝からよく通る声だな、バルド」


「おう、マスター。こっちは商売前から鼠退治だ。革紐をかじられたら、あんたのとこの修理代も上がるぞ」


「それは困る」


「だったら何とかしろ」


「依頼か」


「違う」


「苦情か」


「それも違う」


「じゃあ何だ」


 バルドは少し黙った。


「……文句だ」


 マスターは頷いた。


「文句なら聞いた」


「聞くだけかよ」


「紙がないからな」


 リーネは、少しだけ息を吐いた。


 マスターの言い方は乱暴だが、規則としては正しい。

 苦情票がなければ、ギルドは正式に動けない。依頼票がなければ、報酬も出せない。作業記録も残せない。


 バルドは舌打ちした。


「じゃあ、紙は出さねえ。だが、様子ぐらい見に来い。裏路地で子どもが噛まれたら、さすがに紙どころじゃ済まねえぞ」


 それだけ言うと、男は受付台を指で叩き、出ていった。


 扉が閉まる。


 リーネは手元の白紙を見た。


 依頼でもない。

 苦情でもない。

 だが、困りごとは確かに来た。


 帳面には、何も書けない。


「マスター」


「書くな」


「しかし」


「苦情じゃない。依頼でもない。なら、まだ仕事じゃない」


 その言葉に、リーネはわずかに反応した。


 まだ仕事じゃない。


 地下の水路でレンが言った言葉と、同じだった。


 マスターは横目でリーネを見た。


「何だ」


「いえ」


「レン」


 呼ばれたレンは、掲示板の古い依頼札を並べ直していた。顔だけを上げる。


「職人街の裏路地を見てこい」


「……そうか」


「ギルドの用事じゃない。散歩だ」


「わかった」


 レンは依頼札を一枚だけ直してから、裏口へ向かった。


 リーネはその背中を見ていた。


「記録は」


「ない」


 マスターは言った。


「散歩だからな」


 職人街の裏路地は、昼でも薄暗い。


 軒先から革が吊るされ、染料の匂いと油の匂いが混ざっている。狭い道の端には排水溝があり、ところどころ蓋が浮いていた。


 リーネは正式な調査ではなく、納品確認という名目で外に出た。手には革紐の受領書がある。仕事ではある。少なくとも、帳面に書ける用事だった。


 そのついでに、裏路地を見る。


 そういうことになっている。


 レンは先に来ていた。


 バルドの店の裏で、排水溝の蓋を見下ろしている。しゃがむでもなく、触るでもなく、ただ見ていた。


「レンさん」


「どうした」


「散歩ですか」


「たぶんな」


「私は納品確認です」


「そうか」


 リーネは少しだけ顔をしかめた。


「鼠は見ましたか」


「見てない」


「では、痕跡は」


「ある」


 レンは排水溝の脇を指した。


 泥の上に、細い足跡がいくつも重なっている。鼠にしては大きい。犬にしては爪が深い。水の中と乾いた地面を行き来した跡だった。


 それが、路地の奥からこちらへ向かっている。


「どこから来たのでしょう」


「下」


「地下水路ですか」


「たぶんな」


「なぜ急に出てきたのでしょう」


 レンは排水溝の奥を見た。


「押された」


「誰に」


「水」


 短い答えだった。


 だが、リーネにも少し分かった。


 地下水路のどこかで流れが変わった。

 棲んでいたものが追い出された。

 行き場をなくし、職人街の裏路地へ出た。


 ならば、これは自然発生した問題ではない。


 何かが、前にあった。


「水路で、何か作業をしましたか」


 リーネは聞いた。


 レンはすぐには答えなかった。


「板を直した」


「先日の水路確認ですか」


「そうだな」


「その時に、流れが変わった?」


「少し」


「その結果、害獣がこちらへ来たんですか」


「全部ではない」


 全部ではない。


 それは、否定ではなかった。


 リーネは息を詰めた。


 帳面には、地下水路確認と書かれている。

 腐った板を直し、危険を避けた。

 それは正しい仕事だった。


 だが、その小さな処理が別の場所に影響を出した。


 その影響は、帳面にない。

 帳面にないから、苦情にもならない。

 苦情にならないから、仕事にもならない。


 けれど、職人街には鼠が出た。


「戻せますか」


 リーネが言うと、レンは路地の奥を見た。


「殺すのか」


「害獣です」


「殺すと、臭う」


「では、追い払う?」


「追うと、また出る」


「では、どうするんですか」


「居場所を戻す」


 リーネは返事をしなかった。


 レンは排水溝の蓋を一つ持ち上げた。音は小さかった。中から湿った空気が上がる。


 奥で、何かが動いた。


 リーネは一歩下がった。


「危険では」


「噛まれる」


「それは危険です」


「噛まれなければいい」


 レンは、持ってきていた小袋を取り出した。中には乾いた魚の骨と、厨房で出る野菜くずが入っている。


 それを排水溝の中へ落とすのかと思ったが、違った。


 レンは路地の奥ではなく、職人街の外れ、使われなくなった空き倉庫の方へ、少しずつ置いていった。餌を撒くというより、道を作っているようだった。


「それで移動しますか」


「腹が減っていれば」


「減っていなければ」


「待つ」


 リーネは、排水溝の暗がりを見た。


 細い音がする。爪が石を掻く音。水を踏む音。

 やがて、一匹が顔を出した。


 鼠というには大きい。胴は猫ほどあり、背中の毛が濡れて貼りついている。目は小さく、鼻先だけが忙しく動いていた。


 リーネは声を出しそうになり、飲み込んだ。


 レンは動かない。


 害獣は餌の匂いを拾い、蓋の隙間から外へ出た。次にもう一匹。その後ろに、小さいものが二匹。


 親と子だった。


 リーネは、少しだけ表情を変えた。


 害獣は、餌を追って路地の奥へ進む。職人街の店とは反対側。空き倉庫の方角だ。レンは間隔を見て餌を追加し、進路を変えないようにしている。


 作業としては単純だった。


 だが、妙に静かだった。


 追い立てるでも、殴るでも、火を使うでもない。

 ただ、相手が動く場所を先に作る。


 リーネはそれを見ながら、薬草のことを思い出した。


 使ったことは書かない。

 だが、減ったことは残る。


 今回も同じだ。


 害獣を殺した記録はない。

 退治の依頼もない。

 それでも、害獣は移動する。


 しばらくして、バルドが裏口から顔を出した。


「おい、何してる」


 リーネは受領書を見せた。


「納品確認のついでです」


「ついでで、うちの裏の化け鼠を連れてってくれるのか」


「正式な作業ではありません」


「便利なついでだな」


 バルドは鼻を鳴らしたが、怒ってはいなかった。


 空き倉庫の方へ害獣が消えると、レンは排水溝の蓋を戻した。浮いていた蓋の下に小石を噛ませ、少しだけ隙間を変える。水の流れが、路地の方へ上がりにくくなる角度だった。


「これで終わりか」


 バルドが聞いた。


「たぶんな」


「たぶんかよ」


「また出たら、蓋を閉めるな」


「閉めるな?」


「逃げ道がなくなる」


 バルドは理解したのかしていないのか、顎を掻いた。


「まあ、助かった。ギルドに礼を言えばいいのか」


 リーネはすぐに答えた。


「正式な依頼ではありませんので」


「じゃあ、文句の続きも言えねえな」


 バルドは笑った。


「今度、革紐を少し安くしとく」


「それは記録が必要です」


「面倒だな、お前ら」


 リーネは否定しなかった。


 夕方、ギルドに戻ると、マスターは帳面を開いて待っていた。


「どうだった」


「職人街の納品確認は完了しました」


「それだけか」


「はい」


 リーネは答えた。


 だが、それだけではなかった。


 排水溝から害獣が出ていた。

 レンが餌で誘導した。

 空き倉庫側へ移した。

 水路の蓋の角度を変えた。


 書くべきことはある。

 だが、書ける仕事がない。


 マスターは、帳面の空いている欄を指で叩いた。


「職人街周辺の清掃協力。内部処理でつけろ」


「清掃、ですか」


「魚の骨と野菜くずを片づけたんだろ」


「置いたんです」


「最後にはなくなった」


「害獣が食べました」


「なら、片づいた」


 リーネは目を閉じたくなった。


 間違ってはいない。

 間違ってはいないから、余計に困る。


「苦情ではないんですね」


「苦情票がない」


「害獣処理でもない」


「依頼票がない」


「では、清掃協力」


「そうだ」


 マスターは確認印を手に取った。


「帳面は、そういう形なら受け取る」


 リーネは、ゆっくりとペンを動かした。


 職人街周辺、清掃協力。

 納品確認に伴う周辺確認。

 異常なし。

 備考、排水溝周辺の整理。


 異常なし。


 そこを書いた時、手が止まった。


 異常はあった。

 だが、今はない。


 今ないものを、異常として書くべきなのか。


 リーネは少し迷い、結局そのままにした。


 マスターが印を押す。


 赤い印が、今日も帳面に沈んだ。


 閉店前、バルドがもう一度ギルドへ来た。


 今度は怒鳴らなかった。革紐の束を一つ、受付台に置く。


「余りだ。修理に使え」


「納品ですか」


「礼だ」


「礼品の受け取りは、記録が必要です」


「じゃあ、納品でいい」


「代金は」


「次の修理代から引いとけ」


 リーネが困っていると、マスターが奥から言った。


「消耗品補充で受けとけ」


「また、ですか」


「まただ」


 バルドは何がおかしいのか笑い、手を振って帰っていった。


 リーネは革紐の束を見た。


 苦情は、清掃協力になった。

 害獣処理は、排水溝周辺の整理になった。

 礼は、消耗品補充になった。


 帳面は整っている。


 だが、最初に来たものとは、全部名前が変わっていた。


 夜、リーネは受付台の明かりを落とした。


 レンは裏口近くで手を洗っていた。水が黒く濁り、桶の底に細かな泥が沈んでいる。


「レンさん」


「どうした」


「今日の件は、清掃協力になりました」


「そうか」


「実際には、害獣の誘導です」


「噛まれなかった」


「それは結果です」


「なら、よかった」


 リーネは少し黙った。


「レンさんは、問題を小さくするのが上手いですね」


「大きいと困る」


「誰がですか」


「たぶん、全員」


 前にも聞いた答えだった。


 リーネは、帳面の方を見た。

 閉じた帳面の中で、今日の出来事はもう清掃協力になっている。


「でも、小さくした問題は、どこに行くんでしょうか」


 レンは手を拭いた。


「残るものは残る」


「どこに」


「隅」


 それだけ言って、レンは桶を持ち上げた。


 リーネは返事をしなかった。


 帳面の隅。

 路地の隅。

 地下の隅。

 誰かの記憶の隅。


 記録にはならない場所に、少しずつ何かが溜まっている。


 そう思った。


 リーネは帳面をしまい、鍵をかけた。


 今日の苦情は、存在しない。

 今日の依頼も、存在しない。

 あるのは清掃協力と、革紐の補充だけ。


 問題はない。


 ただ、職人街の裏路地には、明日から少しだけ鼠が減る。


 それを誰の仕事と呼ぶのか、リーネにはまだ分からなかった。

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