第40話 苦情のない苦情
苦情には、紙がいる。
誰が、いつ、どこで、何に困ったのか。
それを書いてもらわなければ、ギルドは動けない。
口で言われただけの困りごとは、噂と大して変わらない。
噂を全部拾えば、帳面は一日で埋まる。
だからリーネは、受付に立った男へ紙を差し出した。
「こちらに、ご記入ください」
男は紙を見て、露骨に顔をしかめた。
「書くほどのことじゃねえんだ」
「では、正式な苦情としては扱えません」
「だから、そういう話じゃねえって言ってるだろ」
男は職人街の革細工師だった。名前はバルド。腕はいいが、声が大きい。ギルドにもたびたび修理道具の革紐を納めている。
今日は納品ではなかった。
朝から受付台に肘をつき、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
「昨日の夜から、裏路地に鼠が増えた」
「鼠ですか」
「ただの鼠じゃねえ。でかいやつだ。排水溝の蓋を押し上げるぐらいのが、三匹も四匹も出てきた」
「害獣処理の依頼でしたら、こちらの用紙に」
「だから、依頼じゃねえ」
バルドは紙を押し返した。
「誰かが先に、別の場所で追い立てたんだよ。うちの裏に逃げてきたんだ。ギルドの奴だろ」
「確認します。どなたか、ギルド関係者を見ましたか」
「見てねえ」
「では、なぜギルドだと」
「そういうことをするのは、だいたいギルドだ」
リーネは一度、目を伏せた。
理屈としては弱い。
だが、町の人間は理屈だけで動かない。
冒険者が何かを退治する。
その結果、別の場所で何かが起こる。
すると、人々はギルドのせいだと考える。
完全に間違いとも言えない。
「少なくとも、害獣処理の依頼記録は昨日ありません」
「じゃあ、誰かが勝手にやったんだろ」
「ギルドとしては、記録のない作業については確認できません」
「便利な言い方だな」
バルドの声が少し大きくなった。
受付の近くにいた冒険者たちが、ちらりとこちらを見る。
揉め事になる前に、マスターが奥から出てきた。
「朝からよく通る声だな、バルド」
「おう、マスター。こっちは商売前から鼠退治だ。革紐をかじられたら、あんたのとこの修理代も上がるぞ」
「それは困る」
「だったら何とかしろ」
「依頼か」
「違う」
「苦情か」
「それも違う」
「じゃあ何だ」
バルドは少し黙った。
「……文句だ」
マスターは頷いた。
「文句なら聞いた」
「聞くだけかよ」
「紙がないからな」
リーネは、少しだけ息を吐いた。
マスターの言い方は乱暴だが、規則としては正しい。
苦情票がなければ、ギルドは正式に動けない。依頼票がなければ、報酬も出せない。作業記録も残せない。
バルドは舌打ちした。
「じゃあ、紙は出さねえ。だが、様子ぐらい見に来い。裏路地で子どもが噛まれたら、さすがに紙どころじゃ済まねえぞ」
それだけ言うと、男は受付台を指で叩き、出ていった。
扉が閉まる。
リーネは手元の白紙を見た。
依頼でもない。
苦情でもない。
だが、困りごとは確かに来た。
帳面には、何も書けない。
「マスター」
「書くな」
「しかし」
「苦情じゃない。依頼でもない。なら、まだ仕事じゃない」
その言葉に、リーネはわずかに反応した。
まだ仕事じゃない。
地下の水路でレンが言った言葉と、同じだった。
マスターは横目でリーネを見た。
「何だ」
「いえ」
「レン」
呼ばれたレンは、掲示板の古い依頼札を並べ直していた。顔だけを上げる。
「職人街の裏路地を見てこい」
「……そうか」
「ギルドの用事じゃない。散歩だ」
「わかった」
レンは依頼札を一枚だけ直してから、裏口へ向かった。
リーネはその背中を見ていた。
「記録は」
「ない」
マスターは言った。
「散歩だからな」
職人街の裏路地は、昼でも薄暗い。
軒先から革が吊るされ、染料の匂いと油の匂いが混ざっている。狭い道の端には排水溝があり、ところどころ蓋が浮いていた。
リーネは正式な調査ではなく、納品確認という名目で外に出た。手には革紐の受領書がある。仕事ではある。少なくとも、帳面に書ける用事だった。
そのついでに、裏路地を見る。
そういうことになっている。
レンは先に来ていた。
バルドの店の裏で、排水溝の蓋を見下ろしている。しゃがむでもなく、触るでもなく、ただ見ていた。
「レンさん」
「どうした」
「散歩ですか」
「たぶんな」
「私は納品確認です」
「そうか」
リーネは少しだけ顔をしかめた。
「鼠は見ましたか」
「見てない」
「では、痕跡は」
「ある」
レンは排水溝の脇を指した。
泥の上に、細い足跡がいくつも重なっている。鼠にしては大きい。犬にしては爪が深い。水の中と乾いた地面を行き来した跡だった。
それが、路地の奥からこちらへ向かっている。
「どこから来たのでしょう」
「下」
「地下水路ですか」
「たぶんな」
「なぜ急に出てきたのでしょう」
レンは排水溝の奥を見た。
「押された」
「誰に」
「水」
短い答えだった。
だが、リーネにも少し分かった。
地下水路のどこかで流れが変わった。
棲んでいたものが追い出された。
行き場をなくし、職人街の裏路地へ出た。
ならば、これは自然発生した問題ではない。
何かが、前にあった。
「水路で、何か作業をしましたか」
リーネは聞いた。
レンはすぐには答えなかった。
「板を直した」
「先日の水路確認ですか」
「そうだな」
「その時に、流れが変わった?」
「少し」
「その結果、害獣がこちらへ来たんですか」
「全部ではない」
全部ではない。
それは、否定ではなかった。
リーネは息を詰めた。
帳面には、地下水路確認と書かれている。
腐った板を直し、危険を避けた。
それは正しい仕事だった。
だが、その小さな処理が別の場所に影響を出した。
その影響は、帳面にない。
帳面にないから、苦情にもならない。
苦情にならないから、仕事にもならない。
けれど、職人街には鼠が出た。
「戻せますか」
リーネが言うと、レンは路地の奥を見た。
「殺すのか」
「害獣です」
「殺すと、臭う」
「では、追い払う?」
「追うと、また出る」
「では、どうするんですか」
「居場所を戻す」
リーネは返事をしなかった。
レンは排水溝の蓋を一つ持ち上げた。音は小さかった。中から湿った空気が上がる。
奥で、何かが動いた。
リーネは一歩下がった。
「危険では」
「噛まれる」
「それは危険です」
「噛まれなければいい」
レンは、持ってきていた小袋を取り出した。中には乾いた魚の骨と、厨房で出る野菜くずが入っている。
それを排水溝の中へ落とすのかと思ったが、違った。
レンは路地の奥ではなく、職人街の外れ、使われなくなった空き倉庫の方へ、少しずつ置いていった。餌を撒くというより、道を作っているようだった。
「それで移動しますか」
「腹が減っていれば」
「減っていなければ」
「待つ」
リーネは、排水溝の暗がりを見た。
細い音がする。爪が石を掻く音。水を踏む音。
やがて、一匹が顔を出した。
鼠というには大きい。胴は猫ほどあり、背中の毛が濡れて貼りついている。目は小さく、鼻先だけが忙しく動いていた。
リーネは声を出しそうになり、飲み込んだ。
レンは動かない。
害獣は餌の匂いを拾い、蓋の隙間から外へ出た。次にもう一匹。その後ろに、小さいものが二匹。
親と子だった。
リーネは、少しだけ表情を変えた。
害獣は、餌を追って路地の奥へ進む。職人街の店とは反対側。空き倉庫の方角だ。レンは間隔を見て餌を追加し、進路を変えないようにしている。
作業としては単純だった。
だが、妙に静かだった。
追い立てるでも、殴るでも、火を使うでもない。
ただ、相手が動く場所を先に作る。
リーネはそれを見ながら、薬草のことを思い出した。
使ったことは書かない。
だが、減ったことは残る。
今回も同じだ。
害獣を殺した記録はない。
退治の依頼もない。
それでも、害獣は移動する。
しばらくして、バルドが裏口から顔を出した。
「おい、何してる」
リーネは受領書を見せた。
「納品確認のついでです」
「ついでで、うちの裏の化け鼠を連れてってくれるのか」
「正式な作業ではありません」
「便利なついでだな」
バルドは鼻を鳴らしたが、怒ってはいなかった。
空き倉庫の方へ害獣が消えると、レンは排水溝の蓋を戻した。浮いていた蓋の下に小石を噛ませ、少しだけ隙間を変える。水の流れが、路地の方へ上がりにくくなる角度だった。
「これで終わりか」
バルドが聞いた。
「たぶんな」
「たぶんかよ」
「また出たら、蓋を閉めるな」
「閉めるな?」
「逃げ道がなくなる」
バルドは理解したのかしていないのか、顎を掻いた。
「まあ、助かった。ギルドに礼を言えばいいのか」
リーネはすぐに答えた。
「正式な依頼ではありませんので」
「じゃあ、文句の続きも言えねえな」
バルドは笑った。
「今度、革紐を少し安くしとく」
「それは記録が必要です」
「面倒だな、お前ら」
リーネは否定しなかった。
夕方、ギルドに戻ると、マスターは帳面を開いて待っていた。
「どうだった」
「職人街の納品確認は完了しました」
「それだけか」
「はい」
リーネは答えた。
だが、それだけではなかった。
排水溝から害獣が出ていた。
レンが餌で誘導した。
空き倉庫側へ移した。
水路の蓋の角度を変えた。
書くべきことはある。
だが、書ける仕事がない。
マスターは、帳面の空いている欄を指で叩いた。
「職人街周辺の清掃協力。内部処理でつけろ」
「清掃、ですか」
「魚の骨と野菜くずを片づけたんだろ」
「置いたんです」
「最後にはなくなった」
「害獣が食べました」
「なら、片づいた」
リーネは目を閉じたくなった。
間違ってはいない。
間違ってはいないから、余計に困る。
「苦情ではないんですね」
「苦情票がない」
「害獣処理でもない」
「依頼票がない」
「では、清掃協力」
「そうだ」
マスターは確認印を手に取った。
「帳面は、そういう形なら受け取る」
リーネは、ゆっくりとペンを動かした。
職人街周辺、清掃協力。
納品確認に伴う周辺確認。
異常なし。
備考、排水溝周辺の整理。
異常なし。
そこを書いた時、手が止まった。
異常はあった。
だが、今はない。
今ないものを、異常として書くべきなのか。
リーネは少し迷い、結局そのままにした。
マスターが印を押す。
赤い印が、今日も帳面に沈んだ。
閉店前、バルドがもう一度ギルドへ来た。
今度は怒鳴らなかった。革紐の束を一つ、受付台に置く。
「余りだ。修理に使え」
「納品ですか」
「礼だ」
「礼品の受け取りは、記録が必要です」
「じゃあ、納品でいい」
「代金は」
「次の修理代から引いとけ」
リーネが困っていると、マスターが奥から言った。
「消耗品補充で受けとけ」
「また、ですか」
「まただ」
バルドは何がおかしいのか笑い、手を振って帰っていった。
リーネは革紐の束を見た。
苦情は、清掃協力になった。
害獣処理は、排水溝周辺の整理になった。
礼は、消耗品補充になった。
帳面は整っている。
だが、最初に来たものとは、全部名前が変わっていた。
夜、リーネは受付台の明かりを落とした。
レンは裏口近くで手を洗っていた。水が黒く濁り、桶の底に細かな泥が沈んでいる。
「レンさん」
「どうした」
「今日の件は、清掃協力になりました」
「そうか」
「実際には、害獣の誘導です」
「噛まれなかった」
「それは結果です」
「なら、よかった」
リーネは少し黙った。
「レンさんは、問題を小さくするのが上手いですね」
「大きいと困る」
「誰がですか」
「たぶん、全員」
前にも聞いた答えだった。
リーネは、帳面の方を見た。
閉じた帳面の中で、今日の出来事はもう清掃協力になっている。
「でも、小さくした問題は、どこに行くんでしょうか」
レンは手を拭いた。
「残るものは残る」
「どこに」
「隅」
それだけ言って、レンは桶を持ち上げた。
リーネは返事をしなかった。
帳面の隅。
路地の隅。
地下の隅。
誰かの記憶の隅。
記録にはならない場所に、少しずつ何かが溜まっている。
そう思った。
リーネは帳面をしまい、鍵をかけた。
今日の苦情は、存在しない。
今日の依頼も、存在しない。
あるのは清掃協力と、革紐の補充だけ。
問題はない。
ただ、職人街の裏路地には、明日から少しだけ鼠が減る。
それを誰の仕事と呼ぶのか、リーネにはまだ分からなかった。




