第39話 数の合わない薬草
薬草は、束で数える。
一束、二束、三束。
乾燥具合や葉の大きさで多少の差は出るが、帳面に書く時は束だ。細かく数えすぎると、かえって仕事が回らなくなる。だからギルドでは、薬草棚の左から順に十束ずつ紐でまとめ、出した分だけ帳面に線を引く。
単純な決まりだった。
単純なものほど、合わなくなった時に目立つ。
朝の点検で、リーネは薬草棚の前に立っていた。
「……三束」
帳面の残数より、棚の薬草が三束少ない。
昨日の使用記録は二束。
補充はなし。
廃棄もなし。
けれど棚には、三束分の空きがある。
リーネは一度、数え直した。
十、二十、三十。
それから残りを束ごとに数える。
やはり三束足りない。
薬草は高価なものではない。だが、治療用の備品だ。勝手に使えば記録がいる。怪我人が出たなら、治療記録も残る。
リーネは帳面を閉じ、治療係の老婆を呼んだ。
「昨日、薬草を追加で使いましたか」
老婆は棚を見て、細い眉を上げた。
「使った分は書いたよ」
「二束ですね」
「ああ。切り傷と打ち身。いつものやつだ」
「他に、記録し忘れは」
「ないとは言い切れないねえ」
老婆は悪びれずに言った。
「忙しかったですか」
「いつも忙しいよ」
「三束分です」
「三束も忘れたなら、もう引退だね」
冗談のようで、冗談だけではなかった。
リーネは棚の隅を見た。薬草の細かな葉が、床に少し落ちている。誰かが慌てて持ち出したというより、静かに抜き取った後に見えた。
扉の錠に傷はない。
窓も閉まっている。
棚の鍵は、治療係とマスター、それから受付の予備鍵だけ。
普通なら、内部の誰かが使ったことになる。
普通なら。
受付に戻ると、下級冒険者たちが朝の依頼を選んでいた。声は大きい。言い合いも多い。けれど今日は、いつもより少しだけ動きが鈍かった。
昨日、地下の荷降ろし場で転んだという少年が、左腕を軽く回している。
「痛くないのか」
隣の冒険者が聞く。
「昨日は腫れてたんだけどな。朝になったら引いてた」
「治療受けたのか」
「いや。寝た」
「寝ただけでそんな治るかよ」
「知らねえよ」
別の冒険者が、首筋の包帯を押さえながら笑った。
「俺もだ。昨日の夜、包帯が汚れてたはずなんだが、朝見たら替わってた」
「自分で替えたんだろ」
「覚えてねえ」
「飲んでたんじゃねえの」
笑い声が起きる。
リーネは、その会話を聞いていた。
治療記録はない。
薬草は三束減っている。
軽い怪我が、知らないうちに手当てされている。
仕事ではない。
少なくとも、帳面にはそうなる。
レンは受付の横で、折れかけた掲示板の留め具を直していた。釘を打つ音がしない。外して、合わせて、押し込むだけで留め具が収まっていく。
「レンさん」
「どうした」
「昨日、薬草棚を開けましたか」
「開けてない」
「薬草を使いましたか」
「触った」
リーネは息を止めた。
「どこで」
「床」
「床?」
「落ちていた」
「薬草棚の床ですか」
「違う」
「では、どこに」
「地下」
レンは留め具を押さえたまま答えた。
嘘ではない。
だが、足りないところだけが残る。
「地下に薬草が落ちていたんですか」
「少し」
「それをどうしましたか」
「拾った」
「戻しましたか」
「戻さなかった」
「なぜです」
レンは手を止めた。
掲示板がわずかに揺れ、すぐに止まる。
「汚れていた」
「捨てたんですか」
「使えた」
リーネは黙った。
使えた。
それは、誰かに使ったということだ。
「誰に」
レンは答えなかった。
受付の外では、さっきの少年が腕を回しながら、今日の依頼札を眺めている。首筋に包帯を巻いた冒険者は、荷運びの札を取った。
どちらも、普通に動いている。
普通に動けるようになっている。
昼前、地下で小さな騒ぎが起きた。
新人冒険者が一人、古い貯蔵庫の入口近くで倒れたという。倒れたと言っても、すぐに起き上がった。原因は、踏み板が沈んだことによる転倒。大きな怪我はない。
マスターは舌打ちし、リーネに記録を持ってこさせた。
「立入禁止の札、まだ見えるよな」
「見えます」
「なら、入った方が悪い」
「ですが、怪我人が出ています」
「出てない」
「倒れたと」
「歩いて戻った。怪我人じゃない」
リーネは反論しかけて、やめた。
帳面上、怪我人にするには治療記録がいる。治療記録を作るには、どこで怪我をしたかを書く必要がある。すると、立入禁止区域に入ったことが残る。
残れば、処分になる。
軽い怪我なら、記録しない方が丸く収まる。
そういう判断は、分かる。
分かるから、気持ちが悪い。
その日の夕方、薬草の不足はまだ処理されていなかった。
リーネは棚の前に立ち、帳面を開いたまま考えていた。
紛失。
盗難。
使用記録漏れ。
廃棄。
どれも、正しくない。
だが、正しい言葉がない。
背後で足音がした。
レンだった。
手には、古い布袋を持っている。中には乾いた薬草の屑が入っていた。三束分には足りない。だが、何かを包んで運んだ後の残りには見えた。
「それは」
「落ちていた」
「また地下ですか」
「たぶんな」
「レンさん」
リーネの声が、少し強くなった。
「薬草は、備品です。使ったなら記録が必要です」
「そうだな」
「誰かを治療したなら、その記録も必要です」
「そうだな」
「では、書きます。誰に使いましたか」
レンは布袋を棚の端に置いた。
「書かない方がいい」
「それは、レンさんが決めることではありません」
「書くと、増える」
「何がですか」
「仕事」
短い言葉だった。
リーネは帳面を握る手に力を入れた。
書けば、仕事になる。
昨日、そう思った。
見た者が触る。マスターもそう言った。
薬草を使ったと書けば、誰に、どこで、なぜ使ったかが必要になる。
地下で倒れた者がいたと書けば、立入禁止の管理不備になる。
怪我を隠した者がいたと書けば、処分になる。
処分が出れば、また別の記録が増える。
そして、その記録は誰かを助けるとは限らない。
「では、なかったことにするんですか」
「違う」
「何が違うんですか」
「減っている」
レンは薬草棚を見た。
「なかったことにはならない」
リーネは、言葉を失った。
確かに薬草は減っている。
助けたことを記録しなくても、使ったものだけは残る。
痕跡は消えない。
ただ、名前がない。
マスターが奥から出てきた。
「古い薬草の廃棄で処理しろ」
リーネは振り向いた。
「ですが、古い薬草は棚の右端に分けてあります。今回減っているのは通常分です」
「混ざってたんだろう」
「混ざっていません」
「混ざっていたことにする」
マスターは、いつもの調子で言った。
「治療係にもそう伝えますか」
「伝えなくていい。俺が確認する」
「実際には、誰かに使われています」
「誰かが助かったなら、いいだろう」
「帳面が合いません」
「合わせるんだよ」
強い声ではなかった。
けれど、そこには線があった。
これ以上は踏み込むな、という線。
リーネは帳面を見た。
古い薬草の廃棄。
品質低下のため三束処理。
確認者、マスター。
作業者、レン。
書けば、整う。
整うが、別のものが消える。
誰かが助けられたこと。
地下で何かが起きたこと。
レンがそこにいたこと。
リーネは、ゆっくりペンを取った。
日が落ちる頃、薬草の在庫は帳面と合った。
古い薬草三束を廃棄。
代わりに補充予定を明日へ繰り上げる。
治療係は「ああ、そういうことにするのかい」とだけ言い、それ以上聞かなかった。
下級冒険者たちは、いつも通り帰っていった。
左腕を痛めていた少年は、出口のところでレンを見つけると、少し迷ってから頭を下げた。
「昨日、誰かに助けられた気がするんだよな」
レンは何も言わなかった。
「いや、あんたじゃないならいいんだけど」
「歩けるか」
「ああ」
「ならいい」
少年は変な顔をしたが、最後には笑って出ていった。
リーネはそれを受付の内側から見ていた。
礼は、帳面に載らない。
治療も載らない。
助かった理由も載らない。
それでも、人の態度は少し変わる。
閉店後、リーネは薬草棚の鍵をかけた。
レンは水桶を運び、床に落ちた葉を拾っていた。一枚一枚、丁寧に。
「レンさん」
「どうした」
「薬草を使った相手を、どうして書かせなかったんですか」
「困る」
「誰がですか」
「たぶん、全員」
リーネは返事をしなかった。
全員。
助けられた冒険者。
立入禁止を管理するギルド。
記録をつける受付。
確認印を押すマスター。
そして、使った本人。
「レンさんは、そういうことをよく考えるんですか」
「見ればわかる」
「普通は、そこまで見ません」
「……そうか」
いつもの返事だった。
けれどリーネには、少し違って聞こえた。
レンは何かを隠している。
そう思うには、まだ早い。
だが、レンの周りでは、記録されないまま片づくものが多すぎる。
リーネは帳面を閉じた。
薬草の数は合っている。
廃棄記録もある。
確認印もある。
問題はない。
ただ、帳面に載らない親切というものがあるのだとしたら。
それは、規則の外にある。
規則の外にあるものは、守れない。
そして、裁けない。
リーネは棚の鍵を握ったまま、小さく息を吐いた。
「気のせい、でしょうか」
レンは床に落ちた最後の葉を拾い、布袋に入れた。
「たぶんな」
その答えだけが、また帳面に残らなかった。




