表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第五章 帳面にない仕事

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

41/51

第38話 戻らない荷札


 完了した仕事には、印が押される。


 依頼人が確認し、担当者が戻り、報酬が支払われる。必要なら備考欄に一言を添える。遅延、破損、代理受領。そういった面倒な言葉も、最後には紙の上に収まる。


 収まったものは、終わったものになる。


 リーネは、そう教わっていた。


 だから、朝の帳面を見た時、最初は見間違いだと思った。


 荷運びの依頼だった。


 東門近くの乾物商から、ギルドを経由して南通りの宿屋へ木箱を三つ運ぶだけの仕事。昨日の昼過ぎに受け付け、夕方には完了印が押されている。依頼人の受領印もある。報酬も支払い済み。担当した冒険者の署名も、少し雑だが確かにあった。


 終わっている。


 だが、荷札の返却欄だけが空いていた。


 リーネは指先で、その小さな空欄を押さえた。


 荷札は、荷物に結びつける木片だ。依頼番号と行き先を刻み、受領時に外して戻す。荷札が戻れば、荷物は届いたと確認できる。逆に、荷札が戻らなければ、帳面上では荷物がまだどこかにあることになる。


 しかし、依頼は完了していた。


 荷物は届いている。

 報酬も支払われている。

 なのに、荷札だけが戻っていない。


「……また」


 リーネは言いかけて、口を閉じた。


 また、というほどのことではない。単なる返却忘れかもしれない。担当の冒険者が荷札を外し忘れたまま、宿屋に置いてきた可能性もある。


 ただ、昨日から続いている。


 空欄の依頼。

 倉庫の薬草。

 水瓶。

 地下の埃。

 そして、戻らない荷札。


 ひとつひとつは小さい。

 けれど、小さいものほど、帳面の隅に残る。


 リーネは奥の机に向かった。


 マスターは朝食代わりの硬いパンを割っていた。片方を口に運びかけたところで、リーネを見た。


「今度は何だ」


「昨日の荷運び依頼です。完了していますが、荷札だけ返却されていません」


「宿屋に忘れたんだろう」


「確認します」


「しろ」


 それだけだった。


 マスターはパンを噛み、帳面には目を向けなかった。


 リーネは受付台へ戻り、担当した冒険者を呼んだ。昨日の荷運びをしたのは、片耳に小さな銀輪をつけた若い男だった。名はトルカ。軽い仕事ばかり選ぶことで知られているが、遅刻と失敗は少ない。


「荷札?」


 トルカは首を傾げた。


「戻しましたよ」


「返却欄が空いています」


「じゃあ、誰か受け取り忘れたんじゃないですかね」


「誰に渡しましたか」


「ええと……受付に」


「私ではありません」


「じゃあ、奥の誰かに」


「誰ですか」


 トルカは目を逸らした。


「いや、昨日は混んでたんで」


 嘘をついているようには見えなかった。だが、覚えていない者は、覚えていないことを隠すために曖昧な言葉を使う。


 リーネは宿屋にも人をやった。


 昼前には返事が来た。荷物は確かに届いている。木箱三つ、破損なし。受領印も宿屋の主人が押したものだった。荷札は荷物についたままだったかと尋ねると、主人は「外して渡したと思う」と答えたらしい。


 思う。


 その言葉ほど、帳面に書きにくいものはない。


 リーネが報告をまとめていると、レンが横を通った。両手に空の木箱を抱えている。倉庫から出してきたものだろう。


「レンさん」


「どうした」


「この依頼、覚えていますか」


 リーネは荷運びの欄を見せた。


 レンは帳面を見た。目の動きは短い。依頼名、番号、荷物の数、行き先。それだけを拾ったようだった。


「荷札が戻っていません」


「そうか」


「昨日、この荷物を見ましたか」


「見た」


「どこで」


「裏口」


「その時、荷札は」


 レンは少し黙った。


「濡れていた」


 リーネは眉を寄せた。


「濡れていた?」


「端だけ」


「雨は降っていません」


「そうだな」


「では、どこで濡れたのでしょう」


「乾けば分からない」


 それは答えではなかった。


 ただ、リーネの中で小さく引っかかった。


 濡れた荷札。

 昨日の荷物。

 戻っていない返却欄。


「レンさんは、荷札を見たんですね」


「見た」


「今、どこにあると思いますか」


「戻さない方がいい」


 リーネの手が止まった。


「どういう意味ですか」


「戻すと、戻る」


「荷札がですか」


「荷物が」


 レンはそれだけ言って、木箱を抱え直した。


 リーネはしばらく、その背を見ていた。


 午後になって、荷札は見つかった。


 見つけたのは厨房の娘だった。裏口の脇に置かれていた古い桶の底に、泥のついた木片が沈んでいたという。


 リーネは布で包まれたそれを受け取った。


 確かに荷札だった。


 依頼番号は、昨日の荷運びのもの。南通りの宿屋の名も刻まれている。端が黒ずみ、表面には細かな泥が入り込んでいた。


 ただの泥ではない。


 地下の水路で見る、あの重い泥に似ていた。乾くと粉にならず、薄く膜を張るように残る。


 リーネは荷札を机に置いた。


 戻せば、帳面は整う。


 返却欄に印を押し、完了した仕事として閉じられる。何も難しいことはない。


 けれど、レンは言った。


 戻さない方がいい。


 リーネは奥へ行き、マスターに荷札を見せた。


 マスターは木片をつまみ上げ、表と裏を見た。


「戻ったな」


「はい」


「なら、押しとけ」


「この泥は地下のものではありませんか」


「裏口にも泥はある」


「昨日は乾いていました」


「なら、水をこぼしたんだろう」


 リーネは黙った。


 マスターは荷札を置いた。


「帳面を閉じたいなら、戻ったことにすればいい」


「閉じない方がいい場合はありますか」


 マスターは、そこで初めてリーネを見た。


「閉じない仕事は、残るぞ」


「はい」


「残った仕事は、誰かが見る」


「はい」


「見たやつが、触る」


 それ以上は言わなかった。


 リーネは荷札を持って受付へ戻った。


 その途中で、裏口の方から小さな声が聞こえた。


「これ、昨日の箱と同じ印じゃねえか?」


 トルカだった。


 倉庫の隅に置かれていた古い木箱を覗き込んでいる。荷運びに使った箱とは違う。古く、角が欠け、蓋の隙間に黒い布が挟まっていた。


 だが、側面に刻まれた商家の印は、昨日の乾物商のものとよく似ていた。


「触らないでください」


 リーネが言うより早く、トルカが蓋に手をかけた。


 その瞬間、横から伸びた手が箱を押さえた。


 レンだった。


「開けるな」


「なんだよ。似てるだけかもしれないだろ」


「似てるなら、なおさら開けるな」


「意味分かんねえよ」


 トルカが手を引く。レンは箱から手を離さなかった。


 リーネは箱の側面を見た。


 印は似ている。だが、線が一本多い。乾物商の印ではない。古いものを、後から似せて刻んだように見える。


「レンさん。この箱は」


「空だ」


「開けていないのに?」


「音がない」


 リーネは息を止めた。


 箱の中が空なら、それはただの古い備品かもしれない。

 だが、空の箱がここにある理由は別だった。


 荷札が戻れば、帳面上で荷物は完了する。

 完了した荷物と同じ印を持つ空箱が見つかれば、それは何になるのか。


 誤配送。

 未確認荷物。

 紛失物。

 また、新しい仕事になる。


 レンは箱を持ち上げた。


「これは廃棄だ」


「備品登録がありません」


「なら、備品じゃない」


「では、何ですか」


「置いてあったものだ」


 レンはそう言って、箱を倉庫の奥へ運んだ。


 リーネは追わなかった。


 追えば、見なければならなくなる気がした。


 夕方、荷札の処理は「破損による再発行」として記録された。


 戻ってきた荷札は、そのまま返却済みにしなかった。泥と欠けがあるため、正式な荷札としては使えない。よって、昨日の依頼については受領印を優先し、荷札は破損扱い。新しい札を発行し、古いものは廃棄。


 帳面上は、それで整った。


 荷物は届いた。

 荷札は破損した。

 再発行された。

 古い札は廃棄された。


 どこにも、地下の泥は出てこない。

 どこにも、空箱のことは書かれない。


 リーネは記録を終え、ペンを置いた。


 マスターが確認印を押す。


「これで終わりだ」


「はい」


「不満か」


「いいえ」


「なら、その顔をやめろ」


 リーネは自分の頬に手を当てた。


 どんな顔をしていたのか、自分では分からなかった。


 少し離れたところで、トルカがレンに礼を言っていた。


「いや、まあ、助かったってことでいいのか? 変な箱だったし」


「触らなかった」


「だから助かったってこと?」


「たぶんな」


 トルカは納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。聞いても返ってこないと分かったのだろう。


 夜になり、ギルドの扉が閉まった。


 リーネは最後に、荷札の廃棄箱を確認した。


 そこに、泥のついた古い荷札はなかった。


 代わりに、新しい荷札が一枚、割られて入っていた。再発行後に不要になったものだ。帳面と合っている。何も間違っていない。


 では、あの泥のついた荷札はどこへ行ったのか。


 廊下の奥から、レンが戻ってきた。


 手には何も持っていない。袖口だけが、少し湿っていた。


「レンさん」


「どうした」


「あの荷札は、戻さない方がよかったんですか」


 レンはリーネを見た。


「戻しただろう」


「帳面には」


「なら、戻った」


「本物は?」


 レンは答えなかった。


 沈黙が、答えのように残った。


 リーネは廃棄箱の中をもう一度見た。割られた新しい荷札。整った記録。完了印。


 終わった仕事の形だけが、きれいに残っている。


「レンさんは、帳面に詳しいんですね」


「見ているだけだ」


「普通は、見ているだけでは分かりません」


「……そうか」


 レンはそう言って、地下へ続く廊下の方へ歩いていった。


 リーネは帳面を閉じた。


 荷運びの依頼は完了している。

 荷札も処理済み。

 未返却はない。

 異常もない。


 ただ、欄外に小さく、泥、と書きそうになった。


 リーネはペン先を止めた。


 書けば、仕事になる。


 仕事になれば、誰かが見る。


 見た者は、触る。


 リーネはその言葉を思い出し、何も書かずに帳面を閉じた。


 閉じた帳面の上に、確認印の赤だけが残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ