第38話 戻らない荷札
完了した仕事には、印が押される。
依頼人が確認し、担当者が戻り、報酬が支払われる。必要なら備考欄に一言を添える。遅延、破損、代理受領。そういった面倒な言葉も、最後には紙の上に収まる。
収まったものは、終わったものになる。
リーネは、そう教わっていた。
だから、朝の帳面を見た時、最初は見間違いだと思った。
荷運びの依頼だった。
東門近くの乾物商から、ギルドを経由して南通りの宿屋へ木箱を三つ運ぶだけの仕事。昨日の昼過ぎに受け付け、夕方には完了印が押されている。依頼人の受領印もある。報酬も支払い済み。担当した冒険者の署名も、少し雑だが確かにあった。
終わっている。
だが、荷札の返却欄だけが空いていた。
リーネは指先で、その小さな空欄を押さえた。
荷札は、荷物に結びつける木片だ。依頼番号と行き先を刻み、受領時に外して戻す。荷札が戻れば、荷物は届いたと確認できる。逆に、荷札が戻らなければ、帳面上では荷物がまだどこかにあることになる。
しかし、依頼は完了していた。
荷物は届いている。
報酬も支払われている。
なのに、荷札だけが戻っていない。
「……また」
リーネは言いかけて、口を閉じた。
また、というほどのことではない。単なる返却忘れかもしれない。担当の冒険者が荷札を外し忘れたまま、宿屋に置いてきた可能性もある。
ただ、昨日から続いている。
空欄の依頼。
倉庫の薬草。
水瓶。
地下の埃。
そして、戻らない荷札。
ひとつひとつは小さい。
けれど、小さいものほど、帳面の隅に残る。
リーネは奥の机に向かった。
マスターは朝食代わりの硬いパンを割っていた。片方を口に運びかけたところで、リーネを見た。
「今度は何だ」
「昨日の荷運び依頼です。完了していますが、荷札だけ返却されていません」
「宿屋に忘れたんだろう」
「確認します」
「しろ」
それだけだった。
マスターはパンを噛み、帳面には目を向けなかった。
リーネは受付台へ戻り、担当した冒険者を呼んだ。昨日の荷運びをしたのは、片耳に小さな銀輪をつけた若い男だった。名はトルカ。軽い仕事ばかり選ぶことで知られているが、遅刻と失敗は少ない。
「荷札?」
トルカは首を傾げた。
「戻しましたよ」
「返却欄が空いています」
「じゃあ、誰か受け取り忘れたんじゃないですかね」
「誰に渡しましたか」
「ええと……受付に」
「私ではありません」
「じゃあ、奥の誰かに」
「誰ですか」
トルカは目を逸らした。
「いや、昨日は混んでたんで」
嘘をついているようには見えなかった。だが、覚えていない者は、覚えていないことを隠すために曖昧な言葉を使う。
リーネは宿屋にも人をやった。
昼前には返事が来た。荷物は確かに届いている。木箱三つ、破損なし。受領印も宿屋の主人が押したものだった。荷札は荷物についたままだったかと尋ねると、主人は「外して渡したと思う」と答えたらしい。
思う。
その言葉ほど、帳面に書きにくいものはない。
リーネが報告をまとめていると、レンが横を通った。両手に空の木箱を抱えている。倉庫から出してきたものだろう。
「レンさん」
「どうした」
「この依頼、覚えていますか」
リーネは荷運びの欄を見せた。
レンは帳面を見た。目の動きは短い。依頼名、番号、荷物の数、行き先。それだけを拾ったようだった。
「荷札が戻っていません」
「そうか」
「昨日、この荷物を見ましたか」
「見た」
「どこで」
「裏口」
「その時、荷札は」
レンは少し黙った。
「濡れていた」
リーネは眉を寄せた。
「濡れていた?」
「端だけ」
「雨は降っていません」
「そうだな」
「では、どこで濡れたのでしょう」
「乾けば分からない」
それは答えではなかった。
ただ、リーネの中で小さく引っかかった。
濡れた荷札。
昨日の荷物。
戻っていない返却欄。
「レンさんは、荷札を見たんですね」
「見た」
「今、どこにあると思いますか」
「戻さない方がいい」
リーネの手が止まった。
「どういう意味ですか」
「戻すと、戻る」
「荷札がですか」
「荷物が」
レンはそれだけ言って、木箱を抱え直した。
リーネはしばらく、その背を見ていた。
午後になって、荷札は見つかった。
見つけたのは厨房の娘だった。裏口の脇に置かれていた古い桶の底に、泥のついた木片が沈んでいたという。
リーネは布で包まれたそれを受け取った。
確かに荷札だった。
依頼番号は、昨日の荷運びのもの。南通りの宿屋の名も刻まれている。端が黒ずみ、表面には細かな泥が入り込んでいた。
ただの泥ではない。
地下の水路で見る、あの重い泥に似ていた。乾くと粉にならず、薄く膜を張るように残る。
リーネは荷札を机に置いた。
戻せば、帳面は整う。
返却欄に印を押し、完了した仕事として閉じられる。何も難しいことはない。
けれど、レンは言った。
戻さない方がいい。
リーネは奥へ行き、マスターに荷札を見せた。
マスターは木片をつまみ上げ、表と裏を見た。
「戻ったな」
「はい」
「なら、押しとけ」
「この泥は地下のものではありませんか」
「裏口にも泥はある」
「昨日は乾いていました」
「なら、水をこぼしたんだろう」
リーネは黙った。
マスターは荷札を置いた。
「帳面を閉じたいなら、戻ったことにすればいい」
「閉じない方がいい場合はありますか」
マスターは、そこで初めてリーネを見た。
「閉じない仕事は、残るぞ」
「はい」
「残った仕事は、誰かが見る」
「はい」
「見たやつが、触る」
それ以上は言わなかった。
リーネは荷札を持って受付へ戻った。
その途中で、裏口の方から小さな声が聞こえた。
「これ、昨日の箱と同じ印じゃねえか?」
トルカだった。
倉庫の隅に置かれていた古い木箱を覗き込んでいる。荷運びに使った箱とは違う。古く、角が欠け、蓋の隙間に黒い布が挟まっていた。
だが、側面に刻まれた商家の印は、昨日の乾物商のものとよく似ていた。
「触らないでください」
リーネが言うより早く、トルカが蓋に手をかけた。
その瞬間、横から伸びた手が箱を押さえた。
レンだった。
「開けるな」
「なんだよ。似てるだけかもしれないだろ」
「似てるなら、なおさら開けるな」
「意味分かんねえよ」
トルカが手を引く。レンは箱から手を離さなかった。
リーネは箱の側面を見た。
印は似ている。だが、線が一本多い。乾物商の印ではない。古いものを、後から似せて刻んだように見える。
「レンさん。この箱は」
「空だ」
「開けていないのに?」
「音がない」
リーネは息を止めた。
箱の中が空なら、それはただの古い備品かもしれない。
だが、空の箱がここにある理由は別だった。
荷札が戻れば、帳面上で荷物は完了する。
完了した荷物と同じ印を持つ空箱が見つかれば、それは何になるのか。
誤配送。
未確認荷物。
紛失物。
また、新しい仕事になる。
レンは箱を持ち上げた。
「これは廃棄だ」
「備品登録がありません」
「なら、備品じゃない」
「では、何ですか」
「置いてあったものだ」
レンはそう言って、箱を倉庫の奥へ運んだ。
リーネは追わなかった。
追えば、見なければならなくなる気がした。
夕方、荷札の処理は「破損による再発行」として記録された。
戻ってきた荷札は、そのまま返却済みにしなかった。泥と欠けがあるため、正式な荷札としては使えない。よって、昨日の依頼については受領印を優先し、荷札は破損扱い。新しい札を発行し、古いものは廃棄。
帳面上は、それで整った。
荷物は届いた。
荷札は破損した。
再発行された。
古い札は廃棄された。
どこにも、地下の泥は出てこない。
どこにも、空箱のことは書かれない。
リーネは記録を終え、ペンを置いた。
マスターが確認印を押す。
「これで終わりだ」
「はい」
「不満か」
「いいえ」
「なら、その顔をやめろ」
リーネは自分の頬に手を当てた。
どんな顔をしていたのか、自分では分からなかった。
少し離れたところで、トルカがレンに礼を言っていた。
「いや、まあ、助かったってことでいいのか? 変な箱だったし」
「触らなかった」
「だから助かったってこと?」
「たぶんな」
トルカは納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。聞いても返ってこないと分かったのだろう。
夜になり、ギルドの扉が閉まった。
リーネは最後に、荷札の廃棄箱を確認した。
そこに、泥のついた古い荷札はなかった。
代わりに、新しい荷札が一枚、割られて入っていた。再発行後に不要になったものだ。帳面と合っている。何も間違っていない。
では、あの泥のついた荷札はどこへ行ったのか。
廊下の奥から、レンが戻ってきた。
手には何も持っていない。袖口だけが、少し湿っていた。
「レンさん」
「どうした」
「あの荷札は、戻さない方がよかったんですか」
レンはリーネを見た。
「戻しただろう」
「帳面には」
「なら、戻った」
「本物は?」
レンは答えなかった。
沈黙が、答えのように残った。
リーネは廃棄箱の中をもう一度見た。割られた新しい荷札。整った記録。完了印。
終わった仕事の形だけが、きれいに残っている。
「レンさんは、帳面に詳しいんですね」
「見ているだけだ」
「普通は、見ているだけでは分かりません」
「……そうか」
レンはそう言って、地下へ続く廊下の方へ歩いていった。
リーネは帳面を閉じた。
荷運びの依頼は完了している。
荷札も処理済み。
未返却はない。
異常もない。
ただ、欄外に小さく、泥、と書きそうになった。
リーネはペン先を止めた。
書けば、仕事になる。
仕事になれば、誰かが見る。
見た者は、触る。
リーネはその言葉を思い出し、何も書かずに帳面を閉じた。
閉じた帳面の上に、確認印の赤だけが残っていた。




