表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第五章 帳面にない仕事

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/51

第37話 空欄の依頼

 朝のギルドは、いつも通りだった。


 入口の扉は、夜明けと同時に開けられている。床には昨日の泥が薄く残り、受付前の長椅子には、早く来すぎた冒険者が二人、壁にもたれて眠っていた。厨房からは湯の匂いがして、裏口の方では空き瓶を並べる音がする。


 いつも通り。


 そう言えるだけのものが、きちんと揃っていた。


 リーネは受付台の内側に入り、昨日分の帳面を開いた。


 依頼の完了印。報酬の支払い。備品の貸し出し。未達の報告。保留の処理。


 数字は合っている。

 少なくとも、最初に見た限りでは。


 だから、三枚目をめくったところで手が止まった。


 受付番号だけがあった。


 依頼名は空欄。依頼人も空欄。報酬額も空欄。担当者の名もない。

 ただ、左端に受付済みの印だけが押されていた。


 リーネは瞬きをした。


 印は本物だった。紙の繊維に沈み込んだ赤いインクの滲み方も、受付台に置いてある印と同じ。誰かが後から真似たようには見えない。


 けれど、内容がない。


 空白のまま、依頼だけが受け付けられている。


「……書き損じ?」


 小さく呟いて、前後の番号を見る。


 前の番号は、東門近くの荷運び。完了済み。

 次の番号は、薬草採取の同行依頼。受付済み。昼前に出発予定。


 番号は飛んでいない。重複もしていない。


 ならば、この空欄の一件も、帳面の上では存在することになる。


 存在してしまう。


 リーネは帳面を持ち上げ、奥の机にいるマスターの方へ歩いた。


 マスターは木箱の上に置いた茶を片手に、昨日の売上札を数えていた。片目だけを上げて、リーネを見る。


「どうした」


「確認をお願いします」


 リーネは帳面を開いたまま差し出した。


 マスターの視線が、受付番号の上で止まる。

 ほんの一呼吸だけ、手が動かなかった。


「書き損じだろう」


「依頼名、依頼人、報酬額、担当者、すべて空欄です」


「ああ」


「ですが、受付印があります」


「なら、書き損じではないな」


 リーネは返事に詰まった。


 マスターは茶を置き、帳面の端を指で軽く叩いた。


「保留にしとけ」


「内容不明の依頼を、ですか」


「内容がないなら、今は誰にも渡せん」


「削除は」


「できんだろう」


 その通りだった。


 帳面に記された仕事は、消せない。

 間違いなら訂正印を押し、取り消しなら理由を添える。だが、これは間違いとも取り消しとも言い切れない。


 ただ、空欄なのだ。


「分かりました」


 リーネは帳面を閉じかけて、もう一度その欄を見た。


 赤い印だけが、妙に新しく見えた。


 午前のギルドは、それからも普通に回った。


 荷運びの冒険者が遅刻し、薬草採取の依頼人が予定より早く来て、厨房の娘が水瓶を倒しかけた。受付では二件の報酬支払いがあり、マスターは一度だけ怒鳴り、レンは壊れた椅子の脚を黙って直していた。


 何も起きていない。


 そう言うには、少しだけ物がずれていた。


 倉庫の薬草束が一つ足りなかった。


 使った記録はない。盗まれたと言うには、入口の錠に傷がない。古い束を捨てた記録もない。


 厨房の水瓶は、朝に満たしたはずなのに半分になっていた。


 料理に使った量ではない。床も濡れていない。


 地下へ続く廊下の隅では、埃が途中で切れていた。


 人が歩いた跡ではない。もっと細く、床板の縁に沿って何かが通ったような跡だった。


 どれも、帳面に書くほどではない。


 リーネはそう判断した。

 判断したあとで、そのこと自体に引っかかった。


 帳面に書くほどではないものが、朝から続いている。


 受付に戻ると、レンが棚に戻す茶碗を持って立っていた。


「レンさん」


「どうした」


「昨日の夜、地下にいましたか」


「いた」


「何か見ましたか」


「暗かった」


 リーネは、少しだけ眉を寄せた。


「そういう意味ではありません」


「そうか」


「地下で、何か変わったことは」


「湿っていた」


「いつもです」


「なら、変わってない」


 嘘ではない。


 嘘ではないのだろう。

 けれど、聞いたことには答えていない。


 レンは茶碗を棚に置いた。音はほとんどしなかった。指先の動きが妙に静かで、リーネはそれを見ていた。


 その時、受付の方から若い声がした。


「なあ、この依頼、誰も受けてないのか?」


 リーネが振り向くと、朝から長椅子で寝ていた新人冒険者の一人が、帳面の写しを覗き込んでいた。


 空欄の依頼。


 保留札を置く前に、受付台の端に開いたままになっていた。


「触らないでください」


「いや、内容書いてないけど受付済みなんだろ。簡単なやつじゃないのか」


「内容が確認できないため、現在保留中です」


「保留ってことは、未処理だろ」


「そうですが、担当をつけられません」


「じゃあ俺が見るだけ見てくる」


 リーネはすぐに帳面を閉じた。


「できません」


「なんでだよ」


「依頼内容がないからです」


「でも仕事なんだろ?」


 言葉が、そこで止まった。


 帳面に載ったものは仕事。

 受付印があるなら、依頼は成立している。


 内容がないだけで。


 新人冒険者は、勝ったような顔をした。


「ほらな」


 リーネは答えられなかった。


 規則の上では、止める理由が薄い。危険があるなら止められる。依頼人が不明なら確認できる。報酬が不明なら保留にもできる。

 だが、空欄の依頼を空欄であるという理由だけで拒む規定はない。


 マスターが奥から声をかけた。


「レン」


 レンは顔を上げた。


「地下の水路、見てこい」


「……そうか」


 それだけ言って、レンは裏口へ向かった。


 新人冒険者が笑った。


「なんだ、雑用かよ。なら俺も――」


「お前は座ってろ」


 マスターの声は低かった。


 新人は不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。

 リーネは帳面を抱えたまま、奥へ行くレンの背を見た。


 地下の扉が閉まる音は、いつもより少し重かった。


 レンは水路の脇を歩いていた。


 地下は薄暗い。湿気が石の壁に染みつき、天井から落ちる水滴が、一定ではない音を立てる。人間なら足を止めて耳を澄ませる場所だが、レンは止まらなかった。


 床の端に、封蝋の欠片が落ちていた。


 赤ではない。茶色に濁った古い色。ギルドで使うものではない。


 レンは拾い上げ、匂いを確かめた。


 紙。湿気。古い木箱。

 それから、帳面のインク。


 少し奥で、木のきしむ音がした。


 新人冒険者だった。マスターに止められたはずの男が、裏の荷降ろし口から回ってきたらしい。片手に短剣を持ち、腰の袋を揺らしながら、水路の細い足場を歩いている。


「おい、あんた。こっちに何かあるのか」


 レンは答えなかった。


「依頼なんだろ? 先に見つけた方が――」


 新人が足を出した先の板は、内側が腐っていた。見た目だけなら分からない。乗れば割れる。下は浅い水路ではない。古い排水穴へ落ちる。


 レンは近くの荷箱を足で押した。


 箱が倒れ、乾いた音を立てて通路を塞いだ。新人は驚いて足を止める。


「危ねえだろ!」


「戻れ」


「依頼中だぞ」


「違う」


「何が違うんだよ」


 レンは腐った板を見た。


「それは、まだ仕事じゃない」


 新人は意味が分からないという顔をした。


 分からなくていい。

 レンはそういう顔をしていた。


 上へ戻った時、レンは空の水瓶を抱えていた。


 受付台では、リーネが帳面とにらみ合っている。マスターは裏の机で、別の書類に印を押していた。


「地下の水路確認。倉庫整理。厨房の水瓶補充」


 マスターが言った。


「三つ、雑務でつけとけ」


 リーネは顔を上げた。


「今朝の空欄の依頼は」


「雑務が三つ出た。それで埋まるだろう」


「埋まる、とは」


「空いてるところに、入れればいい」


 リーネは帳面を見た。


 空欄の依頼は、確かにそのままでは残せない。

 だが、今日発生した雑務三件を同じ番号の枝番として処理すれば、受付済みの印は無駄にならない。依頼名は「ギルド内点検」。依頼人は「内部処理」。報酬はなし。担当は、職員扱い。


 帳面上は整う。


 整ってしまう。


「レンさん」


 リーネは言った。


「地下で何かありましたか」


「板が腐っていた」


「それだけですか」


「それだけなら、直せる」


「それだけではないなら?」


 レンは少し黙った。


「直せないこともある」


 リーネは、帳面の空欄を見た。


 そこに文字を書けば、空欄ではなくなる。

 だが、最初からそういう仕事だったことになる。


 リーネはペンを持った。


 ギルド内点検。

 倉庫整理。

 水路確認。

 厨房備品補充。


 ひとつひとつ、整った言葉に変えていく。


 書き終えた時、朝に見た空白はどこにもなかった。


 夕方、ギルドはいつも通りに閉まり始めた。


 新人冒険者は、足場の悪い地下に勝手に入ったことでマスターに怒られ、しばらく床掃除を命じられていた。本人は不満そうだったが、落ちかけた板のことは誰にも話さなかった。


 薬草束の不足は、古い束の整理に混ぜて処理された。

 水瓶は満たされた。

 地下廊下の埃は、掃除された。


 問題はない。


 リーネは帳面を閉じる前に、朝の番号をもう一度探した。


 そこには、ギルド内点検の記録がある。

 受付印もある。マスターの確認印もある。処理済みの印も押されている。


 空欄の依頼は、なかった。


 リーネは奥の机へ向かった。


「マスター。今朝の空欄の依頼ですが」


 マスターは顔を上げなかった。


「そんなもの、あったか?」


「……帳面には、ありません」


「なら、なかったんだろう」


 その言い方は、いつもと変わらなかった。


 リーネは反論できなかった。

 帳面にはない。

 なら、仕事としては存在しない。


 裏口の方から、レンが戻ってきた。空になった水瓶を抱えている。袖口が少し濡れていたが、本人は気にしていない。


「レンさん」


「どうした」


「いえ」


 リーネは一度、帳面を見た。


 きれいに埋まった行。

 何もなかったことになった空白。

 そこに残った、自分の記憶だけ。


「……気のせいでしょうか」


 レンは少しだけ間を置いた。


「たぶんな」


 リーネは、帳面を閉じた。


 閉じた音は、いつもより薄く聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ