第37話 空欄の依頼
朝のギルドは、いつも通りだった。
入口の扉は、夜明けと同時に開けられている。床には昨日の泥が薄く残り、受付前の長椅子には、早く来すぎた冒険者が二人、壁にもたれて眠っていた。厨房からは湯の匂いがして、裏口の方では空き瓶を並べる音がする。
いつも通り。
そう言えるだけのものが、きちんと揃っていた。
リーネは受付台の内側に入り、昨日分の帳面を開いた。
依頼の完了印。報酬の支払い。備品の貸し出し。未達の報告。保留の処理。
数字は合っている。
少なくとも、最初に見た限りでは。
だから、三枚目をめくったところで手が止まった。
受付番号だけがあった。
依頼名は空欄。依頼人も空欄。報酬額も空欄。担当者の名もない。
ただ、左端に受付済みの印だけが押されていた。
リーネは瞬きをした。
印は本物だった。紙の繊維に沈み込んだ赤いインクの滲み方も、受付台に置いてある印と同じ。誰かが後から真似たようには見えない。
けれど、内容がない。
空白のまま、依頼だけが受け付けられている。
「……書き損じ?」
小さく呟いて、前後の番号を見る。
前の番号は、東門近くの荷運び。完了済み。
次の番号は、薬草採取の同行依頼。受付済み。昼前に出発予定。
番号は飛んでいない。重複もしていない。
ならば、この空欄の一件も、帳面の上では存在することになる。
存在してしまう。
リーネは帳面を持ち上げ、奥の机にいるマスターの方へ歩いた。
マスターは木箱の上に置いた茶を片手に、昨日の売上札を数えていた。片目だけを上げて、リーネを見る。
「どうした」
「確認をお願いします」
リーネは帳面を開いたまま差し出した。
マスターの視線が、受付番号の上で止まる。
ほんの一呼吸だけ、手が動かなかった。
「書き損じだろう」
「依頼名、依頼人、報酬額、担当者、すべて空欄です」
「ああ」
「ですが、受付印があります」
「なら、書き損じではないな」
リーネは返事に詰まった。
マスターは茶を置き、帳面の端を指で軽く叩いた。
「保留にしとけ」
「内容不明の依頼を、ですか」
「内容がないなら、今は誰にも渡せん」
「削除は」
「できんだろう」
その通りだった。
帳面に記された仕事は、消せない。
間違いなら訂正印を押し、取り消しなら理由を添える。だが、これは間違いとも取り消しとも言い切れない。
ただ、空欄なのだ。
「分かりました」
リーネは帳面を閉じかけて、もう一度その欄を見た。
赤い印だけが、妙に新しく見えた。
午前のギルドは、それからも普通に回った。
荷運びの冒険者が遅刻し、薬草採取の依頼人が予定より早く来て、厨房の娘が水瓶を倒しかけた。受付では二件の報酬支払いがあり、マスターは一度だけ怒鳴り、レンは壊れた椅子の脚を黙って直していた。
何も起きていない。
そう言うには、少しだけ物がずれていた。
倉庫の薬草束が一つ足りなかった。
使った記録はない。盗まれたと言うには、入口の錠に傷がない。古い束を捨てた記録もない。
厨房の水瓶は、朝に満たしたはずなのに半分になっていた。
料理に使った量ではない。床も濡れていない。
地下へ続く廊下の隅では、埃が途中で切れていた。
人が歩いた跡ではない。もっと細く、床板の縁に沿って何かが通ったような跡だった。
どれも、帳面に書くほどではない。
リーネはそう判断した。
判断したあとで、そのこと自体に引っかかった。
帳面に書くほどではないものが、朝から続いている。
受付に戻ると、レンが棚に戻す茶碗を持って立っていた。
「レンさん」
「どうした」
「昨日の夜、地下にいましたか」
「いた」
「何か見ましたか」
「暗かった」
リーネは、少しだけ眉を寄せた。
「そういう意味ではありません」
「そうか」
「地下で、何か変わったことは」
「湿っていた」
「いつもです」
「なら、変わってない」
嘘ではない。
嘘ではないのだろう。
けれど、聞いたことには答えていない。
レンは茶碗を棚に置いた。音はほとんどしなかった。指先の動きが妙に静かで、リーネはそれを見ていた。
その時、受付の方から若い声がした。
「なあ、この依頼、誰も受けてないのか?」
リーネが振り向くと、朝から長椅子で寝ていた新人冒険者の一人が、帳面の写しを覗き込んでいた。
空欄の依頼。
保留札を置く前に、受付台の端に開いたままになっていた。
「触らないでください」
「いや、内容書いてないけど受付済みなんだろ。簡単なやつじゃないのか」
「内容が確認できないため、現在保留中です」
「保留ってことは、未処理だろ」
「そうですが、担当をつけられません」
「じゃあ俺が見るだけ見てくる」
リーネはすぐに帳面を閉じた。
「できません」
「なんでだよ」
「依頼内容がないからです」
「でも仕事なんだろ?」
言葉が、そこで止まった。
帳面に載ったものは仕事。
受付印があるなら、依頼は成立している。
内容がないだけで。
新人冒険者は、勝ったような顔をした。
「ほらな」
リーネは答えられなかった。
規則の上では、止める理由が薄い。危険があるなら止められる。依頼人が不明なら確認できる。報酬が不明なら保留にもできる。
だが、空欄の依頼を空欄であるという理由だけで拒む規定はない。
マスターが奥から声をかけた。
「レン」
レンは顔を上げた。
「地下の水路、見てこい」
「……そうか」
それだけ言って、レンは裏口へ向かった。
新人冒険者が笑った。
「なんだ、雑用かよ。なら俺も――」
「お前は座ってろ」
マスターの声は低かった。
新人は不満そうにしたが、それ以上は言わなかった。
リーネは帳面を抱えたまま、奥へ行くレンの背を見た。
地下の扉が閉まる音は、いつもより少し重かった。
レンは水路の脇を歩いていた。
地下は薄暗い。湿気が石の壁に染みつき、天井から落ちる水滴が、一定ではない音を立てる。人間なら足を止めて耳を澄ませる場所だが、レンは止まらなかった。
床の端に、封蝋の欠片が落ちていた。
赤ではない。茶色に濁った古い色。ギルドで使うものではない。
レンは拾い上げ、匂いを確かめた。
紙。湿気。古い木箱。
それから、帳面のインク。
少し奥で、木のきしむ音がした。
新人冒険者だった。マスターに止められたはずの男が、裏の荷降ろし口から回ってきたらしい。片手に短剣を持ち、腰の袋を揺らしながら、水路の細い足場を歩いている。
「おい、あんた。こっちに何かあるのか」
レンは答えなかった。
「依頼なんだろ? 先に見つけた方が――」
新人が足を出した先の板は、内側が腐っていた。見た目だけなら分からない。乗れば割れる。下は浅い水路ではない。古い排水穴へ落ちる。
レンは近くの荷箱を足で押した。
箱が倒れ、乾いた音を立てて通路を塞いだ。新人は驚いて足を止める。
「危ねえだろ!」
「戻れ」
「依頼中だぞ」
「違う」
「何が違うんだよ」
レンは腐った板を見た。
「それは、まだ仕事じゃない」
新人は意味が分からないという顔をした。
分からなくていい。
レンはそういう顔をしていた。
上へ戻った時、レンは空の水瓶を抱えていた。
受付台では、リーネが帳面とにらみ合っている。マスターは裏の机で、別の書類に印を押していた。
「地下の水路確認。倉庫整理。厨房の水瓶補充」
マスターが言った。
「三つ、雑務でつけとけ」
リーネは顔を上げた。
「今朝の空欄の依頼は」
「雑務が三つ出た。それで埋まるだろう」
「埋まる、とは」
「空いてるところに、入れればいい」
リーネは帳面を見た。
空欄の依頼は、確かにそのままでは残せない。
だが、今日発生した雑務三件を同じ番号の枝番として処理すれば、受付済みの印は無駄にならない。依頼名は「ギルド内点検」。依頼人は「内部処理」。報酬はなし。担当は、職員扱い。
帳面上は整う。
整ってしまう。
「レンさん」
リーネは言った。
「地下で何かありましたか」
「板が腐っていた」
「それだけですか」
「それだけなら、直せる」
「それだけではないなら?」
レンは少し黙った。
「直せないこともある」
リーネは、帳面の空欄を見た。
そこに文字を書けば、空欄ではなくなる。
だが、最初からそういう仕事だったことになる。
リーネはペンを持った。
ギルド内点検。
倉庫整理。
水路確認。
厨房備品補充。
ひとつひとつ、整った言葉に変えていく。
書き終えた時、朝に見た空白はどこにもなかった。
夕方、ギルドはいつも通りに閉まり始めた。
新人冒険者は、足場の悪い地下に勝手に入ったことでマスターに怒られ、しばらく床掃除を命じられていた。本人は不満そうだったが、落ちかけた板のことは誰にも話さなかった。
薬草束の不足は、古い束の整理に混ぜて処理された。
水瓶は満たされた。
地下廊下の埃は、掃除された。
問題はない。
リーネは帳面を閉じる前に、朝の番号をもう一度探した。
そこには、ギルド内点検の記録がある。
受付印もある。マスターの確認印もある。処理済みの印も押されている。
空欄の依頼は、なかった。
リーネは奥の机へ向かった。
「マスター。今朝の空欄の依頼ですが」
マスターは顔を上げなかった。
「そんなもの、あったか?」
「……帳面には、ありません」
「なら、なかったんだろう」
その言い方は、いつもと変わらなかった。
リーネは反論できなかった。
帳面にはない。
なら、仕事としては存在しない。
裏口の方から、レンが戻ってきた。空になった水瓶を抱えている。袖口が少し濡れていたが、本人は気にしていない。
「レンさん」
「どうした」
「いえ」
リーネは一度、帳面を見た。
きれいに埋まった行。
何もなかったことになった空白。
そこに残った、自分の記憶だけ。
「……気のせいでしょうか」
レンは少しだけ間を置いた。
「たぶんな」
リーネは、帳面を閉じた。
閉じた音は、いつもより薄く聞こえた。




