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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第四章 帰り道には気をつけてください

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外伝 帳面の外側

 帳場には、載るものと載らないものがある。


 リーネがそれを実感として理解したのは、この席に慣れてきた頃だった。


 依頼は紙になる。

 報告は紙になる。

 被害は整理され、確認されて、初めて帳面に載る。


 逆に言えば、そこまで至らないものは、扱えない。


 噂。

 断片。

 曖昧な違和感。


 それらは、存在していても、帳場の上には乗らない。


 乗らないものは、仕事にならない。


 それが原則だった。


 だが。


「……最近、静かですね」


 朝の帳場で、リーネは小さく呟いた。


 ギルドはいつも通りに騒がしい。羽根ペンの音、蒸気の吐息、依頼札の前でのやり取り。すべてがいつも通りだ。


 その中から、一つだけ話題が消えていた。


 帰り道で軽く襲われる、という噂。


 殴られた。

 荷が減った。

 犯人は見ていない。


 曖昧な話だった。


 だから帳面には載らなかった。


 だが、確かに増えていた。


 それが、急に消えた。


 リーネは紙束を揃える手を止めないまま、わずかに思考を巡らせる。


 増え方も、消え方も、揃いすぎている。


「……おかしいですね」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 だが、その違和感を帳面に載せることはできない。


   ◇


「考え込んでる顔だな」


 低い声に顔を上げると、マスターが立っていた。


「出ていましたか」


「出ている」


 短いが否定はしない。


「帳場に立つなら隠せ」


「努力します」


「努力で済めばいいがな」


 マスターは書類を置いた。


「で、何だ」


 リーネは一瞬迷い、それから口を開く。


「帰還路の件ですが」


「何もなかった」


 即答だった。


 あまりにも早い答え。


「まだ内容を――」


「分かる」


 遮られる。


 リーネは一度息を整えた。


「増え方が不自然でした」


「そうだな」


「消え方も、不自然です」


「そうだな」


「ですが、報告はありません」


「ない」


「確認もされていません」


「されていない」


 同じ言葉が重なる。


 それで終わる話のはずだった。


「それで、終わりですか」


 リーネは少しだけ踏み込んだ。


 マスターはリーネを見た。


「帳場としてはな」


 その一言が重い。


「……帳場としては、ですか」


「そうだ」


 マスターはカップを傾けた。


「全部拾おうとするな」


 静かな声だった。


「全部拾ったら、この街は回らん」


 リーネは言葉を返せなかった。


「見逃しているのではありませんか」


 それでも、聞く。


 マスターは首を振った。


「違う」


「では」


「拾わないだけだ」


 その言い方は、はっきりしていた。


「見えているものをなかったことにするのが見逃しだ。拾わないのは、仕事にしないことだ」


「……同じように聞こえます」


「違う」


 短く断言される。


「全部を帳面に載せたら、処理する側が持たない」


 リーネは黙った。


 理屈は分かる。


 だが、それだけでは整理しきれない何かが残る。


   ◇


 昼前、レンが帳場の前を通った。


「レンさん」


 呼びかけると、足が止まる。


「どうした」


 振り返った顔は、いつも通りだった。


「最近、静かですね」


「……そうだな」


 少しだけ間があった。


「偶然、でしょうか」


 リーネは聞く。


 探るつもりはなかった。だが、結果としてそうなっているのは分かっていた。


 レンは少しだけ視線を外した。


「たぶんな」


 短い答え。


 否定も肯定もない。


「そうですか」


「そうだろ」


 それ以上は続かない。


 だが、リーネの目は一瞬だけレンの袖口に向いた。


 補修された布。

 新しい糸。


 以前にはなかった跡。


 何かがあったことだけは、分かる。


 だが、それ以上は分からない。


「報告はありません」


 リーネは言った。


 帳場の言葉で。


「……そうか」


 レンは小さく頷く。


 そのまま歩き去る。


 その背を見送りながら、リーネは思う。


 この人は、何かを知っている。


 あるいは、関わっている。


 だが、それを確かめる術はない。


 そして――確かめるべきかどうかも、分からない。


   ◇


 午後、帳場は変わらず回る。


 依頼は処理され、紙は流れていく。


 リーネは手を動かしながら考えていた。


 帳面に載らない出来事。

 だが確かに存在するもの。


 それをどう扱うべきか。


 答えは出ない。


 だが、ひとつだけ分かることがある。


 “何かがあって、何もなくなった”


 その結果だけが残っている。


   ◇


 夕方、マスターの部屋に呼ばれた。


 扉を開けると、レンがいた。


 机を挟んで、向かいに座っている。


 マスターは書類を一枚差し出した。


「これを処理しろ」


 リーネは受け取る。


 そこには、帰還路の環境整備について書かれていた。


 灯りの角度。

 荷物の配置。

 巡回の注意点。


 事件の記録ではない。


 だが、確実に“何かがあった後”の紙だった。


「これは」


「何もなかった後の対策だ」


 マスターが言う。


 リーネは紙を見つめる。


 過去は書かれていない。

 だが、未来の形だけが残っている。


 帳面に載せられる形に整えられている。


 リーネはレンを見る。


 レンは何も言わない。


 ただ、静かに茶を置いた。


「……承知しました」


 リーネは言った。


 それが、帳場の答えだった。


   ◇


 夜。


 帳場に一人残り、紙を処理する。


 事件は記録されない。

 だが、対策は残る。


 それが、この街のやり方なのだろう。


「……ずるいですね」


 小さく呟く。


 すべてを知らないわけではない。

 だが、すべてを知ることもできない。


 そして、知る必要もない。


 リーネは帳面を閉じた。


「……確認されていません」


 いつもの言葉。


 だが、少しだけ意味が変わっていた。


 知らないのではない。

 載せないだけだ。


 帳面の外側にあるものは、確かに存在する。


 だが、それをここに持ち込まない。


 それで街が回るなら。


 それで問題がないなら。


 リーネは灯りを落とした。


 暗くなった帳場に、整えられた紙束だけが残る。


 何もなかった一日だった。


 そして、確かに何かがあった一日でもあった。


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