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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第四章 帰り道には気をつけてください

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第36話 何もありませんでしたが


 朝のギルドは、静かに騒がしかった。


 帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざっている。圧力計の針が小さく震え、どこかでバルブがひとつ閉まる。


 いつも通りだ。


 少なくとも、見える範囲では。


「……最近、静かだな」


 依頼札の前で、冒険者の一人がそんなことを言った。


「何がだ」


「帰りのやつだよ」


「ああ」


 返した方も、すぐ思い当たったらしい。


「そういや聞かんな」


「なくなったよな」


「飽きたんじゃないか」


「だと助かるけどな」


 そこで会話は終わる。

 深く考える者はいない。


 誰がやったのか。

 なぜ止まったのか。

 どうして急になくなったのか。


 そのあたりへ話が伸びる気配はなかった。


 被害が軽かったからだ。

 そして、止まったならそれでいいと思える程度の不便だったからだ。


 レンは掲示板の前で依頼札を見ながら、その会話を聞いていた。

 視線は紙に向けたまま、耳だけで拾う。


 違和感は消えた。

 噂も薄れた。

 街はすぐに元へ戻る。


「……そんなものか」


 小さく呟く。


 誰にも聞こえない程度の声だった。


   ◇


 帳場では、リーネが紙束を揃えていた。


 被害報告。

 巡回報告。

 依頼処理の控え。

 終わった案件の締め。


 手はいつも通り速い。

 だが、今日に限っては一枚だけ、指が止まる紙があった。


 帰還路での軽被害。

 報告未満。

 聞き取り不十分。

 記録外。


 帳面には載らない。

 だが、噂だけは残っていた。


 それが、急になくなった。


「……おかしいですね」


 誰に言うでもなく、リーネは呟いた。


 おかしい。

 だが、記録はない。


 おかしい。

 だが、確認はされていない。


 帳場で扱うには、その“だが”が多すぎる。


 リーネは指先で一枚の紙の端を揃えた。

 それから、同じ紙束をもう一度見直す。


 増え方も不自然だった。

 消え方も、不自然だった。


 最初は単発の噂。

 次に、似た話が二つ三つ。

 被害の程度は軽く、本人が来ないことも多かった。


 そのせいで、正式な記録にならない。


 そして、帳場が掴めないうちに消える。


 まるで最初から、帳面の外側でだけ起きていたみたいに。


「……確認されていません」


 リーネは自分に言い聞かせるように、小さく言った。


 その一言で、思考を止める。


 止めるしかない。

 仕事の上では。


 そこで、レンが帳場の脇を通った。


「最近、静かですね」


 リーネが言う。


 自然な調子を装ってはいたが、少しだけ試す響きがあった。


「そうだな」


 レンは短く答える。


「偶然、でしょうか」


 今度は、少しだけ間を置いて。


 レンは足を止めたが、振り返らなかった。


「だろうな」


 それだけだった。


 肯定でも否定でもない。


 だが、その答え方は、妙に落ち着きすぎていた。


 リーネはそれ以上聞かなかった。

 聞ける立場ではない。

 聞いても、答えが返るとも思っていない。


 だから、紙を揃え直す。


「報告はありません」


 帳場の言葉で、話を閉じる。


「そうか」


 レンも、そこで切った。


   ◇


 昼過ぎ、ギルドの前を通る冒険者たちの動きは、少しだけ慎重になっていた。


 大きく変わったわけではない。

 腰の武器を確かめる回数が一つ増え、帰り際に周囲を見る目が半拍だけ長くなる。そんな程度の違いだ。


 人は、怖い目を見たことをすぐ忘れる。

 だが、身体は少しだけ覚えている。


 それくらいの変化だった。


 レンはその様子を横目で見た。


 街は元へ戻る。

 だが、完全に同じには戻らない。


 ほんの少しだけ、癖が残る。


 地下の流れと同じだ。

 一度手を入れた場所は、同じ形には戻らない。


   ◇


 その日の午後、レンは依頼をひとつ片づけた。


 古い配管の継ぎ目からの蒸気漏れ。

 大した案件ではない。

 だが放っておくと面倒になる種類の不具合だ。


 壁際へしゃがみ込み、レンは手袋越しに継ぎ目へ触れた。

 熱はあるが、まだ浅い。

 締め直しと補修で足りる。


 こういう仕事をしていると、街は壊れる前に音を出しているのだと分かる。

 人も、機械も、流れも同じだった。


 少しずつズレる。

 気づいた時には形になる。


 今回の件も、たぶんそうだった。

 たまたま見て、たまたま止めた。

 記録に残るほどではないまま。


 依頼を終えてギルドへ戻ると、帳場の空気は変わっていなかった。


 リーネは紙を処理し、ヨナスは控えを運び、保守員が報告票を置いていく。


 何もなかった日の顔だ。


 それが、この街の強さでもあり、鈍さでもあるのだろうとレンは思った。


   ◇


 夕方、地下へ戻る。


 湿った空気と石の匂いが迎える。

 地上の煤と人の声が切れ、水の音だけが近づく。


 地下は変わらない。


 いや、正確には少しずつ変わっている。

 だがその変化は、自分しか知らない種類のものだ。


 レンは部屋へ入る前に、第三枝路の流れを確かめた。

 水位は安定している。

 東側へ抜ける響きも穏やかだ。


 壁際の寝具に手を入れ、少しだけ位置を直す。

 積んである雑材を寄せ、水桶の置き場所も変える。


 生活の手つきだった。


 以前のレンなら、ただ潜む場所で十分だった。

 今は少し違う。


 戻ってくる場所として、整えている。


「……静かだな」


 ぽつりと呟く。


 地上も。

 地下も。


 悪くない。


 そう思ったとき、階段の上から足音がした。


 普段の依頼人の足音ではない。

 迷いなく降りてくる、重めの足だ。


「レン」


 声がした。


 マスターだった。


「何だ」


「茶でも付き合え」


 言い方は軽い。

 だが、断る余地は薄い。


 レンは一拍だけ間を置き、それから頷いた。


   ◇


 マスターの部屋は、今日も書類の砦だった。


 机の端に積まれた報告書。

 脇で唸る小型ボイラー。

 開きかけの引き出しと、使い込まれたインク壺。


 奥の棚には茶器があり、二つ分の湯気が上がっている。


 扉が閉まると、外の音が少し遠くなった。


「座れ」


 マスターが言う。


 レンは向かいの椅子へ腰を下ろした。


「珍しいな」


「たまには上司らしいこともする」


「茶を出すのがか」


「話を聞くのがだ」


 そう言って、マスターは湯気の立つカップをひとつ寄越した。


 香りは強くない。

 だが、安い茶ではない。


「で」


 マスターがカップを持ったまま言う。


「どんな奴だったんだ?」


 レンは茶に口をつけるふりをして、少しだけ視線を上げた。


 予想していなかったわけではない。

 むしろ、どこかで来ると思っていた問いだった。


「何のことかわかりませんが」


 レンは言う。


「タダじゃ話せませんよ」


 半分冗談のつもりだった。


 マスターは眉一つ動かさず、引き出しを開ける。


 中から金貨を一枚取り出し、机の上へ置いた。


 乾いた音がした。


「立場上、いろいろ報告しなきゃいけなくてな」


 それだけ言う。


「これで話してくれ」


 レンは金貨を見た。


 本気だ。


 冗談ではなく、ちゃんと“聞いたこと”にするための金だ。


 つまり、マスターもまた線を引いている。


 依頼ではない。

 報告もない。

 だが、知らないままにもできない。


 その中間で、金貨一枚分だけ正式にする。


「……面倒だな」


 レンが言うと、マスターは肩をすくめた。


「仕事だ」


「そっちのか」


「そっちのだ」


 レンはため息をついた。


 逃げられないと分かるようなため息だった。


「……はあ」


 それから、カップを置く。


「まず、やり方は——」


 そこで言葉を切る。


 マスターは何も急かさなかった。


 湯気だけが、二人のあいだでゆっくり揺れていた。


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