第35話 そこで待っていた
最初は、うまくいっていた。
この街はやりやすい。
そう思ったのが始まりだった。
ダンジョン帰りの冒険者は多い。疲れている。気が抜ける。荷もある。護衛も薄い。条件が揃っている。
軽くやる。少し抜く。深追いはしない。
それで十分だった。
騒ぎにもならない。追われもしない。
だから居ついた。
だが――数日前から、妙にやりにくくなった。
はっきりした理由はない。
ただ、流れが噛み合わない。
いつもなら隙ができる位置で、視線が通る。壁際に寄れば抜けられたはずの場所で、妙に足が止まる。人の動きが、わずかにずれている。
「……なんだ?」
小さく呟く。
誰かが対策しているのか。
そう考えたが、証拠はない。見張りがいるわけでもない。巡回が増えた様子もない。
ただ、やりにくい。
それだけだ。
だが、こういう“匂い”はある。
狩る側の感覚。
危ない場所の気配。
本能が、少しだけ引く。
それでも。
足は止まらなかった。
まだ稼げていない。
この街は当たりだと思った。だから張った。ここで引けば、無駄になる。
「……もう少しだ」
自分に言い聞かせる。
危ない匂いはしていた。
だが、それよりも、“まだ足りない”という感覚の方が強かった。
だから、その日も待った。
◇
夕方。
帰還の流れがばらける時間。
単独の影が増える。
目を走らせる。
荷の重さ。歩幅。視線。
いつものように“帰りの人間”を探す。
そして、一人見つけた。
荷袋を片手に、肩を落とし、前だけを見て歩いている。
隙はある。
いつも通りだ。
ただ――少しだけ、違和感があった。
道だ。
壁際が妙に使いにくい。灯りが妙に邪魔をする。抜けるはずの角度で、わずかに動きが止まる。
「……気のせいか」
小さく吐く。
考えすぎだ。
これまでもやってきた。
同じことをやればいい。
距離を詰める。
足音を消す。
背後に入る。
呼吸を合わせる。
そして――振り下ろす。
◇
こん棒が、後頭部に落ちた。
鈍い音。
確かな手応え。
これで終わりのはずだった。
だが。
倒れない。
足が止まらない。
歩き続けている。
「……は?」
思わず声が漏れる。
殴った。
確かに当てた。
なのに、崩れない。
目が、勝手にそこを見る。
頭部。
殴った箇所が、凹んでいる。
潰れたように沈んでいる。
そして――それが、戻っていく。
ゆっくりと。
押し戻されるように。
何もなかったかのように。
「……軽いな」
前を向いたまま、そいつが言った。
声は、普通だった。
痛みも、怒りもない。
ただ、評価するような響き。
背筋に、冷たいものが走る。
「な……」
言葉が出ない。
理解が追いつかない。
こん棒を握る手が震える。
反射的に、それを捨てた。
腰のナイフを抜く。
距離を詰める。
考える前に、体が動く。
通るはずの一撃を選ぶ。
◇
刃が、脇腹に入る。
深く。
確かな感触。
これなら倒れる。
そう思った。
「……それか」
だが、そいつは立っていた。
刺さったままのナイフを、気にも留めない。
血も、ほとんど出ない。
手応えと現実が、ずれている。
「なんで……」
声が崩れる。
ナイフを引き抜く。
もう一度。
喉へ。
顔へ。
肩へ。
何度も振る。
布が裂ける。
肉を切る音。
それだけが増えていく。
だが。
倒れない。
避けない。
ただ、見ている。
まっすぐに。
「それじゃ、軽い」
静かな声。
「やるなら、もっと確実にやれ」
そこで、完全に崩れた。
◇
「な、なんだお前……!」
後ずさる。
ナイフが震える。
逃げる。
そう思った。
だが、足が止まる。
壁が近い。
道が狭い。
抜けられない。
いつもなら抜けられるはずの位置で、体が引っかかる。
「……なんで」
初めて気づく。
道が違う。
流れが違う。
自分の動きが、読まれている。
その瞬間。
目の前の男が、一歩前に出た。
◇
「帰りを狙ってるんだろ」
普通の声だった。
「気が抜けたところをやる」
一歩。
距離が詰まる。
「軽くやって、少しだけ抜く」
背が壁に当たる。
逃げ場がない。
「効率はいい」
頷く。
「だから、捕まらない」
一拍。
「……ここまではな」
◇
動きは一瞬だった。
足が払われる。
重心がずれる。
逃げようとした方向を、半歩外される。
それだけで崩れる。
地面が近づく。
ナイフが手から離れる。
拾えない。
腕を押さえられる。
動けない。
◇
「終わりだ」
静かな声。
見上げる。
そこにいるのは、人の形をした何かだった。
刺しても倒れない。
殴っても崩れない。
ただ、そこにいる。
「やめ……」
声は途中で消えた。
◇
処理は、静かに終わった。
音もなく。
跡もなく。
何も残らない。
◇
翌日。
「……最近、なくなったな」
「何が」
「帰りのやつ」
「ああ」
肩をすくめる。
「飽きたんだろ」
「かもな」
それで終わる。
◇
「報告はありません」
リーネは言う。
いつも通りに。
何も変わらない声で。
レンは頷いた。
「そうか」
◇
地下。
水の音が静かに響く。
レンは壁にもたれ、目を閉じた。
終わった。
依頼にはならない。
報告もされない。
だが、問題は消えた。
「……帰り道か」
小さく呟く。
戻る場所がある。
だから、気が緩む。
それは、悪いことではない。
ただ――
「……まあいい」
短く言う。
ここは、自分の場所だ。
地下の水音は変わらない。
何も知らず、何も変わらず。
ただ一つだけ、確かに消えていた。




