第34話 帰り道を整える
四日かけて見えたのは、犯人の顔ではなかった。
狙い方だ。
帰り道を狙っているわけではない。
帰ってくる人間を狙っている。
街に戻り、肩の力が落ち、荷の持ち方が緩む。その一拍だけを拾って、軽くやって、少しだけ抜く。大きくは取らない。深手も負わせない。だから騒ぎにならない。
無駄のないやり方だった。
そして、無駄がないからこそ、捕まらない。
◇
朝のギルドは、今日もいつも通りに忙しかった。
帳場では羽根ペンが紙を擦り、蒸気管が低く息を吐く。濡れた外套の匂いに、煤と油の匂いが混ざる。依頼札が剥がされ、別の札が貼られ、受付前では順番待ちの列が少しずつ入れ替わっていく。
変わらない。
だが、その“変わらなさ”の中に、同じ話が溶け込んでいる。
「また帰りだってさ」
「今度は誰だ」
「知らん。軽くやられたらしい」
「最近多いな」
言いながらも、声の調子は軽い。
笑っているわけではないが、怒ってもいない。
被害が軽いからだ。
そして、誰も犯人を見ていないからだ。
レンは掲示板の前で依頼札を見ているふりをしながら、その会話を聞いた。
慣れてきている。
良くない形で。
最初は“変な話”だったものが、今は“またか”で済まされ始めている。人間は慣れる。被害が小さいほど早く慣れる。
「……形になる前に止めるか」
誰に聞かせるでもなく呟き、レンは帳場へ向かった。
◇
「報告は?」
リーネは顔を上げなかった。
「ありません」
レンは少し黙ってから言った。
「増えてる」
「噂は」
紙を一枚めくる。
「増えていますね」
昨日までと同じ答えだ。
ただ、今日はその先を聞く必要があった。
「それでも何もしないのか」
リーネの手が、ほんのわずかに止まる。
珍しい聞き方だったのだろう。
レン自身も、そう思った。
「何もしていないわけではありません」
ややあって、リーネが言う。
「報告が上がれば整理します。被害者本人が来れば記録します。必要なら巡回にも回します」
「でも、今はやらない」
「確認されていませんので」
そこでようやく、彼女は少しだけ顔を上げた。
「レンさん」
「何だ」
「帳場が扱うのは、帳場に来たものです」
事務的な言い方だった。
だが、その中に別の意味が混じっている。
「来ていないものまで拾い始めたら、何でも仕事になります」
「じゃあ、これは仕事にならない」
「今のところは」
線を引くように言う。
それで終わってもよかった。
だが、今日はもう一歩聞いた。
「仕事にならないなら」
レンは紙束の端を軽く叩いた。
「誰が動いても構わないのか」
リーネはすぐには答えなかった。
紙を揃え、控えを右へ寄せ、それから静かに言う。
「ギルドは報告を受けていません」
一拍。
「受けていない以上、把握していません」
さらに一拍。
「把握していないことに対して、こちらから何か言うことはありません」
それが答えだった。
肯定ではない。
命令でもない。
だが、“見えていない以上は止めない”という線は、はっきりと引かれた。
レンは少しだけ目を細めた。
「……黙認か」
「そういう言い方はしません」
リーネはすぐに切り返した。
「帳場は、記録のあることしか扱いません」
それだけ言って、また紙へ視線を戻す。
だがレンには十分だった。
ギルドは動かない。
動けない。
そして、動かない以上、見えていないことには口を出さない。
つまり、表で扱わない代わりに、裏で何が起きても聞かないということだ。
便利な線だ、とレンは思った。
同時に、少しだけ危うい線でもある。
◇
帳場を離れたところで、低い声がかかった。
「何を企んでる」
マスターだった。
いつものように書類の束を片手にしている。顔はしかめているが、本気で止める顔ではない。
「企んでない」
「じゃあ考えてる顔か」
「そっちだ」
マスターは鼻で笑った。
「軽い被害だ。放っときゃそのうち街を移る」
「その前に次が出る」
「出るだろうな」
あっさり認める。
「だったら止めるか」
レンが言うと、マスターは肩をすくめた。
「好きにしろ」
そこで終わらず、少しだけ視線を細める。
「ただし、こっちは何も聞いてない」
「……聞いてない」
「報告も上がってない。依頼にもなってない。帳場も動いてない」
つまり、とレンは理解した。
リーネが帳場の言葉で引いた線を、マスターは現場の言葉でなぞっている。
ギルドは知らない。
知らないから、責任も取らない。
責任を取らない以上、結果だけが静かに片づいていれば、それでいい。
「面倒な街だな」
レンが言うと、マスターは少しだけ口の端を上げた。
「住みにくいか?」
妙な聞き方だった。
レンは一瞬だけ黙り、それから答えた。
「住めないほどじゃない」
「なら働け」
それで話は終わる。
止めない。
押し出しもしない。
だが、行くなら勝手に行けという温度だけがあった。
◇
夕方、レンは帰還路へ出た。
今日は見るだけではない。
狩場を作る。
犯人は人の流れに乗っている。なら、こちらは流れそのものを触る。
荷箱が一つ、通りの端に積まれていた。中身は半端で、誰かが仮置きしたままらしい。レンは周囲を一度見てから、その荷箱をほんの半歩だけ動かす。
わずかだ。
だが、人が壁際をすり抜ける幅が消える。自然と中央へ寄る。
次に灯り。
支柱に掛かったガス灯は、角度が微妙に悪い。壁際へ濃い影を落とし、曲がり角の内側だけが見えにくい。
レンは支柱の留め具を軽く緩め、灯りの向きを半歩分だけ変えた。明るくはならない。だが、影の落ち方が変わる。死角が浅くなる。
さらに、壁際に立てかけられていた板切れを拾い、曲がり角の内側へ置く。意味もなく置かれた廃材に見える位置だ。だが、それがあるだけで、壁にぴたりと寄る動きが一度だけ止まる。
「……これで一つ」
小さく呟く。
大きな変化はない。
誰も気づかない。
だが、狙う側にとっては十分にうるさい変化だ。
◇
二日目。
別の帰還路を触る。
工房の裏手へ抜ける細道。ここは逃げ道が多い。脇の路地、壊れた柵、積まれた樽の陰。襲うには便利だが、追うには厄介な場所だった。
レンはまず樽の位置を変えた。
横並びを縦並びに。そうするだけで、抜ける角度が変わる。
次に、路地口に積まれた石灰袋を一つだけ移す。倒れかけたように見える形にしておけば、人はその脇を大きく回る。大きく回れば、視線が通る。
最後に、壁の水桶を半歩だけ前へ出した。蹴れば音が鳴る位置だ。
「……逃げるなら、そっちだろ」
呟く。
逃げ道を消すのではない。
逃げる先を限る。
そうすれば、狩る側は選べなくなる。
◇
三日目、レンは再び囮になった。
荷袋に重さを入れ、片手で持つ。
肩を落とす。
視線を前に固定する。
四日かけて掴んだ“帰りの人間”の動きそのままだ。
曲がり角に入る。
灯りが続く。
荷箱が壁際を塞ぐ。
中央へ流される。
やりにくいはずだ。
そう思った通り、気配はあったのに踏み込んでこなかった。背後で一瞬だけ迷う気配。それだけ残して消える。
レンはそのまま歩いた。
振り返らない。
今はまだ、それでいい。
「……やりにくいだろ」
誰に聞かせるでもなく言う。
少しずつ詰まっている。
形になってきている。
◇
四日目。
レンはもう一度、同じ場所を見直した。
人の流れは変わったか。
荷箱は不自然ではないか。
灯りの角度は戻されていないか。
細かいところを直しながら、改めて思う。
これは仕事に近い。
だが、依頼ではない。
街の誰かに頼まれたわけでも、帳面に載るわけでもない。
結果だけが残って、理由は残らない。
地下でやってきたことに、少し似ていた。
違うのは、今回の相手が人間だということくらいだ。
◇
夜、ギルドへ戻る。
帳場の前はもう落ち着いていて、紙の音がよく聞こえる。
「どうでした」
リーネが、視線は紙に落としたまま言った。
珍しい聞き方だった。
「想定外を作った」
レンが答えると、リーネの指が一瞬止まる。
「そうですか」
「やりにくくなった」
「誰が」
「確認されてない相手が」
レンが言うと、リーネは小さく息を吐いたようだった。
笑ったわけではない。
だが、その返しは少しだけ遅かった。
「でしたら」
一拍。
「こちらとしては、何も申し上げることはありません」
帳場の言葉で言えば、それが精一杯なのだろう。
レンは頷いた。
十分だ。
◇
地下へ戻る。
水の音は変わらず静かだった。
レンは壁にもたれ、目を閉じる。
仕込みは終わった。
大きくは変えていない。
だが、逃げ道は減った。
視線は通る。
流れは狭まった。
狩る側は、もう今までのようには動けない。
「……次だな」
小さく言う。
ここまでは準備だ。
次は処理になる。
依頼ではない。
報告もされない。
ギルドは見ない。
だから、終わらせるなら静かに終わらせるしかない。
レンは壁から背を離した。
「食うなら、一度でいい」
ぽつりと落ちた言葉は、水音に混じってすぐ薄れた。
地下は何も答えない。
ただ、戻る場所として、いつも通りそこにあった。




