第33話 確認されていません
噂が三つ重なると、さすがに偶然とは言いにくくなる。
朝のギルドは、いつも通りに騒がしかった。帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が低く息を吐き、どこかで圧力計の針が小さく鳴る。濡れた外套の匂いと、煤と油の匂いが混ざっていた。
変わらない朝だった。
ただ、その中に混じる話が、昨日までよりはっきりしている。
「お前んとこでもあったのか」
掲示板の前で、若い冒険者がそんなことを言った。
「俺じゃない。組んでるやつだ」
もう一人が肩をすくめる。
「帰りにやられたって。大したもんは取られてないらしいが」
レンは依頼札を見ているふりをしたまま、少しだけ耳を傾けた。
「また帰りか」
「また、だな」
「何なんだろうな、あれ」
「さあな。最近、運の悪いやつが続いてるだけじゃないか」
言い方は軽い。
深刻な事件として扱っている空気ではない。
だが、軽く済ませるには回数が多い。
ロッドの件があってから数日しか経っていない。その間に、似た話がもう二つ増えている。
レンは掲示板から離れ、帳場へ向かった。
◇
「報告は?」
リーネは顔を上げなかった。
「ありません」
「また増えた」
「噂は」
紙を一枚めくる。
「増えていますね」
認めはする。
だが、それだけだ。
「それでも?」
「確認されていません」
いつもの答えだった。
被害者本人が来ていない。
来ても、顔も見ていない、場所も曖昧、取られた物も中途半端。
結果として、帳場の上では“何かあったらしい”以上にならない。
レンは紙束の端を指で軽く叩いた。
「増えてるなら、いずれ形になる」
「なるかもしれません」
リーネは頷く。
「ですが、現時点では依頼になっていません」
線は引かれたままだ。
レンはそれ以上言わなかった。
リーネが間違っているわけではない。
動ける材料がない以上、帳場ではそう言うしかない。
ただ、その正しさの外側で、もう形になりかけているものがある。
それだけは、はっきりしていた。
◇
昼前、ギルドの隅でロッドを見つけた。
包帯は減っていたが、まだ腕の動きは少し鈍い。槍を抱えたまま、依頼札の前でうろうろしている。
「もう出るのか」
声をかけると、ロッドは渋い顔をした。
「寝てても金にならん」
「場所、思い出したか」
「どこでやられたかって話か」
ロッドは顔をしかめる。
「細かいとこまではな。帰り道だったのは間違いない」
「一人だったか」
「そうだったと思う」
曖昧だ。
やはりそこはぼやける。
「他にもいる」
レンが言うと、ロッドは鼻を鳴らした。
「らしいな」
「同じやり方だ」
「だったら何だ」
「狙われてる」
ロッドは視線を外した。
「気をつけるさ」
そう言う顔は、もう半分忘れかけている顔だった。帰りに軽くやられた、という出来事を、次の依頼を受けるまでの面倒として処理している。
たぶん、他の連中もそうだろう。
大怪我ではない。
命も落としていない。
だから、次に進む。
そういうところを狙う相手なのだと、レンは思った。
◇
その日の夕方、レンは帰還路へ出た。
囮になる。
思いつきではない。
あのまま話を拾っているだけでは、帳場と同じ場所から一歩も動けない。被害者の曖昧な話が一つずつ増えるだけだ。
なら、自分で“帰りの人間”になって歩くしかない。
荷袋に石を入れ、片手で持つ。
重さはほどほどにした。重すぎれば歩き方が不自然になる。
視線を少し落とす。
周囲を見ない。
肩の力を抜く。
ダンジョン帰りの冒険者が、街に戻ってきたときの動きに寄せる。
酒場裏へ抜ける細道に入る。
煉瓦壁の張り出し。
灯りの切れ目。
荷箱が一つ積まれた角。
前にも見た場所だ。
歩く。
曲がる。
抜ける。
何も起きない。
そのままギルドの正面まで戻り、レンは扉脇の影で立ち止まった。
「……違うか」
小さく呟く。
場所を外したのか、時間を外したのか。あるいは今日はただ、相手がいないのか。
分からない。
初日は、それだけだった。
◇
二日目、レンは時間をずらした。
昨日より少し遅い。帰還の流れがばらけ始める時間帯だ。連れ立っていた冒険者たちが一人ずつ別れていき、単独の影が増える。
同じ荷袋。
同じ歩幅。
同じように、気の抜けた帰り道を演じる。
昨日とは別の帰還路を選ぶ。
大通りから一本入った、工房の裏手へ抜ける道。昼間は職人が出入りするが、夕方になると急に静かになる場所だ。
そこでも何も起きない。
だが、歩きながら気づくことはあった。
冒険者たちは、どの道を通っても似た動きをする。
街へ入る。
知った匂いを嗅ぐ。
知った建物が見える。
その時点で、もう半分帰っている。
視線が固定される。
足の運びが一定になる。
周囲を見る回数が減る。
場所がどうこうではない。
“帰ってきた人間”の状態そのものに、隙ができている。
レンは細道を抜けた先で立ち止まり、振り返らずに息を吐いた。
「……場所じゃないな」
昨日より、一歩進んだ。
◇
三日目は、あえて帰りを外した。
昼に同じ道を歩く。
荷袋も持たない。
ただ通る。
当然、何も起きない。
そのあと、別の位置から帰還者の流れを見た。
横から見るとよく分かる。
ダンジョン帰りの冒険者は、疲れ方も歩き方も違う。だが、街へ入ってからの“緩み”だけは似る。誰もが、同じようなところで力を抜く。
広い道へ出た瞬間。
ギルドの屋根が見えた瞬間。
酒場の灯りが見えた瞬間。
安心が先に来る。
その一拍の遅れが、たぶん狙い目になる。
レンは壁にもたれ、流れを見たまま考えた。
犯人は待ち伏せているのではない。
少なくとも、同じ一点に張りついて獲物を待つやり方ではない。
もっと流れに沿っている。
帰ってくる人間の動きそのものを読んで、その中で一番崩れる瞬間だけを拾っている。
「……人を見てるな」
そう呟いたとき、ようやく形が見えた気がした。
◇
四日目。
レンは条件を揃えた。
時間は遅め。
単独。
荷袋あり。
街へ戻る直前の疲労を作るため、わざと遠回りもした。
歩き出す。
今日は少し重く感じるくらいまで荷袋を持たせている。腕が下がり、肩が落ちる。視線も自然に前へ固定される。
曲がり角。
灯りの切れ目。
知った通りへ出る直前の一拍。
その瞬間。
背後に、かすかな気配が走った。
風ではない。
だが、人と断言するには薄い。
レンはそこで振り返らない。
振り返れば、向こうも消えるだけだ。
そのまま歩く。
歩幅を変えず、荷も持ち替えず、抜ける。
ギルドの灯りが見える位置まで戻ってから、ようやく息を吐いた。
「……いたな」
今度は確信だった。
見たわけではない。
触れたわけでもない。
だが、あの一瞬だけ、確かに狙われる側の条件が揃っていた。
◇
夜、ギルドへ戻る。
帳場はもう落ち着いている。昼の混雑は去り、紙の音だけがやけに近い。
「やり方は見えた」
レンが言うと、リーネは紙束の端を揃えたまま答えた。
「そうですか」
「場所じゃない」
「ええ」
「帰り道を狙ってるんじゃない」
レンは続ける。
「帰りの人間を狙ってる」
その時だけ、リーネの手が止まった。
ほんの一瞬。
だが、ちゃんと聞いている止まり方だった。
「報告しますか」
「しても動かないだろ」
「確認されていませんので」
いつもの言い方だ。
だが今日は、その言葉の意味が昨日までと違って聞こえた。
証拠がないから動かない。
動かないから、証拠も増えない。
きれいに閉じた輪だ。
レンは小さく息を吐いた。
「だろうな」
それで会話は終わる。
◇
地下へ戻ると、水の音は変わらず一定だった。
地上のざわめきが切れ、湿った空気が近くなる。石と鉄の匂い。自分の戻る場所の匂いだ。
レンは壁にもたれ、目を閉じた。
四日。
歩いて、外して、見て、合わせた。
ようやく、相手の狩り方が見えた。
場所に頼らない。
人の緩みだけを拾う。
軽くやって、少しだけ抜く。
無駄がない。
だから、騒ぎにならない。
「……効率がいい」
そういう狩りだ。
だから、捕まらない。
レンは目を開けた。
「捕まえるのは難しくない」
条件は分かった。
どこで狙われるかも、いつ緩むかも分かった。
だが。
「このままだと、捕まらない」
それもはっきりしている。
向こうは、人の流れに乗っている。
こちらは、ただそれを追って見つけただけだ。
見つけるのと、狩るのは違う。
「……もう一つ必要だな」
小さく呟く。
狩るための条件ではない。
狩らせるための形でもない。
狩りに来た相手が、逃げられない形。
それを作らなければ、この先へは進まない。
水の音は変わらず静かだった。
だが、レンの頭の中では、地上の帰還路だけがまだ歪んだまま残っていた。




