第32話 被害は確認されていません
スラムの清掃は、一日で終わるような仕事ではなかった。
溝に溜まった泥は、掬っても掬っても下から滲み出てくる。板塀の隙間に押し込まれたごみは、表から見える分だけ取っても意味がない。奥に詰まったものを崩せば、また別の場所に流れる。
誰もやらなければ、すぐに苦情になる。
やっても、すぐ元に戻る。
そういう種類の仕事だ。
レンは二日続けて同じ区画に入っていた。
朝に入り、昼を跨ぎ、夕方に一度引き上げる。翌日また来て、前日崩した分の流れを整え直す。完全にきれいにするのではなく、“詰まらない状態”を維持する。
それが今回の依頼の範囲だった。
「そこ、流れ逆になってるぞ」
通りがかった住人が言う。
「分かってる」
レンは短く返し、棒で泥を崩す。水がゆっくりと動き出し、溝の奥へ吸い込まれていく。
完全に止まっていたわけではない。
だが、この“少しだけ滞る”状態が積み重なると、別の場所で詰まる。
街のどこでも同じだ。
小さな違和感は、放っておくと形になる。
ふと、朝の話を思い出す。
帰りにやられる。
軽い被害。
誰もはっきり覚えていない。
「……似てるな」
口に出してから、レンは首を振った。
同じではない。
だが、感触は近い。
どこかが少しずつズレて、気づいたときには“起きている”。
それが二日目の夕方には、はっきりした形にはなっていなかった。
◇
その翌日、レンはギルドへ戻った。
帳場の前は、いつもと同じくらいの混み方だ。大声で揉める者もいなければ、妙に静まり返っているわけでもない。
変わらない。
少なくとも表面は。
「清掃、終わりました」
レンが言うと、リーネは書類に目を落としたまま頷いた。
「確認します」
紙を一枚めくり、印を押す。
「問題ありません」
「そっちは片付いた」
レンは続ける。
「帰り道の方は?」
リーネの手が一瞬だけ止まった。
「報告は上がっていません」
すぐにいつもの調子で答える。
「被害は確認されていません」
前と同じ言い方だ。
だが、レンはそれをそのまま受け取らなかった。
「増えてる」
短く言う。
リーネは顔を上げない。
「そう感じる根拠は?」
「話が揃ってる」
レンは帳場の端を軽く指で叩いた。
「帰りだけ。単独。軽い被害。全部同じだ」
リーネは紙を揃えながら、少しだけ間を置いた。
「依頼にはなっていません」
それだけ言う。
否定ではない。
だが、肯定もしない。
線だけが引かれる。
レンはそれ以上言わなかった。
言っても意味がないと分かっている。
◇
昼過ぎ、ギルドの片隅でロッドの姿を見つけた。
包帯は巻いているが、普通に立っている。槍も持っているし、歩き方にも大きな乱れはない。
「動けるようになったのか」
レンが声をかけると、ロッドは少し肩をすくめた。
「まあな。転んだだけだ」
「転ばされた、だろ」
「どっちでもいい」
不機嫌そうに言う。
だが、強がりというほどでもない。
「覚えてるか」
「何を」
「どこでやられたか」
ロッドは少し考えた。
「……帰り道だな」
「それは聞いた」
「じゃあそれでいいだろ」
「場所は」
「細かいとこまでは覚えてない」
顔をしかめる。
「気づいたら視界が揺れてて、そのまま転んだ。で、起きたら少し軽くなってた」
「軽く?」
「荷だよ。全部じゃない。一部だけ抜かれてた」
レンはそこで頷いた。
「全部持っていかれなかったのか」
「そんな暇なかったんだろ」
ロッドは吐き捨てるように言う。
「一発やって、拾える分だけ拾って、逃げたって感じだ」
「顔は」
「見てない」
「一人か」
「たぶん」
全部が曖昧だ。
だが、“帰り道で軽くやられて、少しだけ抜かれる”という形だけは、妙に綺麗に残る。
「他にもいる」
レンが言うと、ロッドは鼻を鳴らした。
「らしいな」
「聞いたか」
「さっきな。俺みたいなのが何人かいるって」
「同じか」
「さあな」
ロッドは肩を回した。
「どうでもいい。次から気をつける」
「気をつけて済むならいいな」
「済ませるしかないだろ」
それで話は終わった。
ロッドは槍を担いで、掲示板の方へ向かっていく。依頼を選ぶつもりらしい。
“帰りにやられる”ことと、“ダンジョンに入る”ことは、別の話として処理されている。
それもまた自然だった。
◇
夕方、レンは再び帰り道を歩いていた。
昨日と同じ道。
同じ時間帯。
同じように人が流れている。
ただ一つ違うのは、見る側が意識しているかどうかだ。
レンは歩幅を少しだけ変えた。
重い荷を持つふりをする。
視線を前に固定し、周囲への注意を落とす。
“帰っている人間”の動きに合わせる。
曲がり角に差しかかる。
昨日触った荷箱は、少しだけ位置が変わったままだ。灯りも、角度が半歩分ずれている。
それだけで、通り方が微妙に変わる。
壁際を擦るように歩く者が減り、中央寄りに流れる。
その分、壁側の死角は少しだけ浅くなる。
「……やりにくいな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
狙う側なら、という意味だ。
レンはそこで立ち止まらず、そのまま通り抜けた。
背後に気配はない。
追ってくる者もいない。
だが、それで“何もない”とは思わなかった。
ここにいる。
見えていないだけで。
狙っている側は、確実に存在する。
◇
夜、地下へ戻る。
水の音は変わらない。
昼に触った場所も、特に乱れてはいない。
レンは壁にもたれ、今日の動きを思い返した。
ロッドの証言。
他の冒険者の話。
帰り道の導線。
点は揃っている。
線にはなっていないが、偶然で片づけるには整いすぎている。
「……狙ってるな」
小さく言う。
断定ではない。
だが、それに近い。
帰りにだけ現れる。
軽くやって、少しだけ抜く。
顔も見せず、痕跡も残さない。
狩り方としては、無駄がない。
「でも」
レンは目を閉じた。
「依頼にはならない」
リーネの言葉が、そのまま当てはまる。
誰も死んでいない。
大した被害でもない。
証拠もない。
だから、誰も動かない。
動く必要がない、と判断されている。
「……そうか」
レンはゆっくり息を吐いた。
だが、そういうものほど、放っておくと形になる。
スラムの溝と同じだ。
少しの滞りが、別の場所で詰まる。
帰り道の曲がり角が、頭に浮かぶ。
あそこは、まだ“詰まって”いない。
だが、このままなら、いずれ形になる。
レンは壁から背を離した。
「明日、もう一度見るか」
誰に言うでもなく呟く。
まだ仕事ではない。
依頼にもなっていない。
だが、完全に無関係とも思えなかった。
地下の水音は、変わらず静かに流れている。
その音の中で、帰り道のわずかな歪みだけが、はっきりと残っていた。




