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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第四章 帰り道には気をつけてください

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第32話 被害は確認されていません

 スラムの清掃は、一日で終わるような仕事ではなかった。


 溝に溜まった泥は、掬っても掬っても下から滲み出てくる。板塀の隙間に押し込まれたごみは、表から見える分だけ取っても意味がない。奥に詰まったものを崩せば、また別の場所に流れる。


 誰もやらなければ、すぐに苦情になる。

 やっても、すぐ元に戻る。


 そういう種類の仕事だ。


 レンは二日続けて同じ区画に入っていた。


 朝に入り、昼を跨ぎ、夕方に一度引き上げる。翌日また来て、前日崩した分の流れを整え直す。完全にきれいにするのではなく、“詰まらない状態”を維持する。


 それが今回の依頼の範囲だった。


「そこ、流れ逆になってるぞ」


 通りがかった住人が言う。


「分かってる」


 レンは短く返し、棒で泥を崩す。水がゆっくりと動き出し、溝の奥へ吸い込まれていく。


 完全に止まっていたわけではない。

 だが、この“少しだけ滞る”状態が積み重なると、別の場所で詰まる。


 街のどこでも同じだ。


 小さな違和感は、放っておくと形になる。


 ふと、朝の話を思い出す。


 帰りにやられる。

 軽い被害。

 誰もはっきり覚えていない。


「……似てるな」


 口に出してから、レンは首を振った。


 同じではない。

 だが、感触は近い。


 どこかが少しずつズレて、気づいたときには“起きている”。


 それが二日目の夕方には、はっきりした形にはなっていなかった。


   ◇


 その翌日、レンはギルドへ戻った。


 帳場の前は、いつもと同じくらいの混み方だ。大声で揉める者もいなければ、妙に静まり返っているわけでもない。


 変わらない。


 少なくとも表面は。


「清掃、終わりました」


 レンが言うと、リーネは書類に目を落としたまま頷いた。


「確認します」


 紙を一枚めくり、印を押す。


「問題ありません」


「そっちは片付いた」


 レンは続ける。


「帰り道の方は?」


 リーネの手が一瞬だけ止まった。


「報告は上がっていません」


 すぐにいつもの調子で答える。


「被害は確認されていません」


 前と同じ言い方だ。


 だが、レンはそれをそのまま受け取らなかった。


「増えてる」


 短く言う。


 リーネは顔を上げない。


「そう感じる根拠は?」


「話が揃ってる」


 レンは帳場の端を軽く指で叩いた。


「帰りだけ。単独。軽い被害。全部同じだ」


 リーネは紙を揃えながら、少しだけ間を置いた。


「依頼にはなっていません」


 それだけ言う。


 否定ではない。

 だが、肯定もしない。


 線だけが引かれる。


 レンはそれ以上言わなかった。


 言っても意味がないと分かっている。


   ◇


 昼過ぎ、ギルドの片隅でロッドの姿を見つけた。


 包帯は巻いているが、普通に立っている。槍も持っているし、歩き方にも大きな乱れはない。


「動けるようになったのか」


 レンが声をかけると、ロッドは少し肩をすくめた。


「まあな。転んだだけだ」


「転ばされた、だろ」


「どっちでもいい」


 不機嫌そうに言う。


 だが、強がりというほどでもない。


「覚えてるか」


「何を」


「どこでやられたか」


 ロッドは少し考えた。


「……帰り道だな」


「それは聞いた」


「じゃあそれでいいだろ」


「場所は」


「細かいとこまでは覚えてない」


 顔をしかめる。


「気づいたら視界が揺れてて、そのまま転んだ。で、起きたら少し軽くなってた」


「軽く?」


「荷だよ。全部じゃない。一部だけ抜かれてた」


 レンはそこで頷いた。


「全部持っていかれなかったのか」


「そんな暇なかったんだろ」


 ロッドは吐き捨てるように言う。


「一発やって、拾える分だけ拾って、逃げたって感じだ」


「顔は」


「見てない」


「一人か」


「たぶん」


 全部が曖昧だ。


 だが、“帰り道で軽くやられて、少しだけ抜かれる”という形だけは、妙に綺麗に残る。


「他にもいる」


 レンが言うと、ロッドは鼻を鳴らした。


「らしいな」


「聞いたか」


「さっきな。俺みたいなのが何人かいるって」


「同じか」


「さあな」


 ロッドは肩を回した。


「どうでもいい。次から気をつける」


「気をつけて済むならいいな」


「済ませるしかないだろ」


 それで話は終わった。


 ロッドは槍を担いで、掲示板の方へ向かっていく。依頼を選ぶつもりらしい。


 “帰りにやられる”ことと、“ダンジョンに入る”ことは、別の話として処理されている。


 それもまた自然だった。


   ◇


 夕方、レンは再び帰り道を歩いていた。


 昨日と同じ道。

 同じ時間帯。

 同じように人が流れている。


 ただ一つ違うのは、見る側が意識しているかどうかだ。


 レンは歩幅を少しだけ変えた。


 重い荷を持つふりをする。

 視線を前に固定し、周囲への注意を落とす。

 “帰っている人間”の動きに合わせる。


 曲がり角に差しかかる。


 昨日触った荷箱は、少しだけ位置が変わったままだ。灯りも、角度が半歩分ずれている。


 それだけで、通り方が微妙に変わる。


 壁際を擦るように歩く者が減り、中央寄りに流れる。


 その分、壁側の死角は少しだけ浅くなる。


「……やりにくいな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 狙う側なら、という意味だ。


 レンはそこで立ち止まらず、そのまま通り抜けた。


 背後に気配はない。

 追ってくる者もいない。


 だが、それで“何もない”とは思わなかった。


 ここにいる。


 見えていないだけで。


 狙っている側は、確実に存在する。


   ◇


 夜、地下へ戻る。


 水の音は変わらない。

 昼に触った場所も、特に乱れてはいない。


 レンは壁にもたれ、今日の動きを思い返した。


 ロッドの証言。

 他の冒険者の話。

 帰り道の導線。


 点は揃っている。


 線にはなっていないが、偶然で片づけるには整いすぎている。


「……狙ってるな」


 小さく言う。


 断定ではない。

 だが、それに近い。


 帰りにだけ現れる。

 軽くやって、少しだけ抜く。

 顔も見せず、痕跡も残さない。


 狩り方としては、無駄がない。


「でも」


 レンは目を閉じた。


「依頼にはならない」


 リーネの言葉が、そのまま当てはまる。


 誰も死んでいない。

 大した被害でもない。

 証拠もない。


 だから、誰も動かない。


 動く必要がない、と判断されている。


「……そうか」


 レンはゆっくり息を吐いた。


 だが、そういうものほど、放っておくと形になる。


 スラムの溝と同じだ。

 少しの滞りが、別の場所で詰まる。


 帰り道の曲がり角が、頭に浮かぶ。


 あそこは、まだ“詰まって”いない。


 だが、このままなら、いずれ形になる。


 レンは壁から背を離した。


「明日、もう一度見るか」


 誰に言うでもなく呟く。


 まだ仕事ではない。

 依頼にもなっていない。


 だが、完全に無関係とも思えなかった。


 地下の水音は、変わらず静かに流れている。

 その音の中で、帰り道のわずかな歪みだけが、はっきりと残っていた。

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