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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第四章 帰り道には気をつけてください

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第31話 その件は依頼になっていません

 今朝のギルドは、いつもより少しだけ騒がしかった。


 忙しい、というほどではない。

 帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐き、どこかで圧力計の針が小さく鳴る。煉瓦壁ににじんだ煤と灯りの黄が、濡れた外套の匂いと混ざっている。


 変わらない朝だ。


 ただ、人の声だけが少し多い。


「……昨日、あいつやられた」


 掲示板の前で、冒険者の一人がそんなことを言った。


 レンは依頼札に目を落としたまま、少しだけ耳を傾ける。


「あいつって誰だよ」


「ロッドだよ。昨日の帰り」


「ああ、あの槍のか」


「そう。今は寝てる」


 言い方が妙に軽かった。

 笑い話ではない。だが、本気で騒ぐほどでもない。そんな半端な重さがある。


 別の冒険者が眉をひそめる。


「寝てるって、どのくらいやられたんだ」


「さあな。殴られたらしい」


「相手は?」


「見てないって」


「どこで?」


「それもよく分からん。帰り道のどっか」


 話が曖昧だった。


 被害者本人がいない。

 今は治療中らしい。

 だから、細かいところが全部ぼやけている。


 分かっているのは、帰りにやられた、という一点だけだった。


「最近、こういうの前にもなかったか」


 別の声が言う。


「ああ、あったな」


「でも大したことないんだろ?」


「大したことない、で済ませるにはちょっと面倒なんだよな」


 そう言いながらも、誰も本気で受付へ詰め寄るわけではない。

 怒っているのとも少し違う。帰還後の疲れと、朝の機嫌の悪さが混ざった程度の不満だった。


 帳場の向こうから声が飛ぶ。


「順路をお守りください」


 よく通る声だ。


「相談の前に、報告票を先にお願いします」


 リーネだった。


 紙束を揃えたまま、顔もほとんど上げない。

 だが冒険者たちは、その声で少しだけ列へ戻る。


「なあ、こういうのって依頼になるのか」


 さっき話していた冒険者が、ようやく受付へ向けてそう言った。


 リーネは差し出された紙を受け取り、ざっと目を通す。


「正式な被害報告にはなりません」


 あっさりと言う。


「本人が来ていないこと、被害内容が曖昧なこと、相手の特徴も場所も不明なこと。今の段階では報告未満です」


「未満って」


「未満です」


 ぴしゃりと返す。


「治療が終わって本人が来れば、改めて話は聞きます」


 冒険者は不満そうな顔をした。

 だが、反論の材料もないらしい。


「まあ、そうかもしれんけど」


「その件は依頼になっていません」


 事務的な声だった。

 だが、言い切り方が妙に綺麗で、余計に反論しづらい。


 レンは掲示板から離れた。


 今の話だけなら、珍しくもない。酔っ払いが殴られた、帰りに財布を抜かれた、そんな話は街にいくらでもある。


 ただ、一つだけ引っかかる。


 帰り。


 そこだけが、妙にはっきりしていた。


   ◇


 帳場の脇を通るとき、リーネが名前を呼んだ。


「レンさん」


「何だ」


 立ち止まる。


 リーネは一枚の紙を抜いて、こちらへ差し出した。


「依頼にはなっていませんが、帰り道で面倒なことがあるようです」


 何でもない口調だった。

 注意喚起というより、帳面の余白に書き足す程度の重さだ。


 レンは紙を受け取らず、先にそちらを見た。


「……帰りか」


「はい」


 リーネは頷き、そこで間を置かずに次の紙を差し出す。


「あとこちらも」


 レンは今度は受け取った。


「スラム清掃、未処理です」


「……そっちもか」


「そっちもです」


 表情一つ変えずに言う。


「放置されると苦情になりますので」


「帰り道で殴られる方より先か」


「優先順位はこちらで決めています」


 レンは少しだけ目を細めた。


 リーネは気にしない。


「あなたなら大丈夫でしょうし」


「雑だな」


「依頼の振り分けですので」


 それで終わりだった。


 事件未満の話と、スラムの掃除。

 帳場の上では、その二つはほとんど同じ重さで並んでいる。


 レンは紙を折って懐へ入れた。


「分かった」


「お願いします」


 リーネはもう次の書類を見ている。


 その横顔はいつも通りだった。

 だが、“気をつけてくださいね”と言ったあとに、容赦なく掃除を振るところまで含めて、たぶん気をつけてはいるのだろうとレンは思った。


   ◇


 午前の仕事はスラム側だった。


 排水溝の泥上げ。

 崩れた板塀の脇に溜まったごみの片付け。

 誰がやるでもなく、誰かがやらなければ苦情になる類いの仕事だ。


 正式な依頼は正式な依頼として、きちんと面倒だった。


 スラムの路地は相変わらず狭い。

 湿った石畳、片側へ傾いた柵、煮滓と濡れた布の匂い。

 掃いてもすぐまた汚れる。そういう場所だ。


 レンは黙々と片づけながら、朝の話を思い出していた。


 被害者本人はいない。

 相手も見ていない。

 どこでやられたかも曖昧。


 それなのに、帰りだけは皆はっきり言う。


 帰還後というのは、人が一番気を抜く時だ。

 荷を持ち、疲れて、気持ちだけ先に帰っている。

 その状態なら、軽く殴られるだけでも足を取られるし、小銭や素材の一部くらいなら抜かれても気づくのが遅れる。


「……楽な獲物だな」


 小さく呟く。


 狙う側に立てば、という話だ。


 レンはごみをまとめ、排水の流れを確かめてから路地を出た。

 依頼自体は終わっている。だが、そのままギルドへ戻る気にはならなかった。


 帰り道を見ておきたい。


   ◇


 ダンジョン帰りの冒険者が使う道はいくつかある。

 正面通りをまっすぐ戻る者もいれば、裏路地を抜けて酒場の前へ出る者もいる。荷が多ければ広い道を選ぶし、少なければ近道も使う。


 レンは何本かの道を見て回った。


 どこも、見た目には特に危険ではない。

 人通りもある。

 灯りも完全には切れない。


 だが、歩いていると分かる場所がある。


 気が抜ける場所だ。


 ギルドの屋根が見える角。

 路地の先に見慣れた看板が出る位置。

 明るい通りへ戻る直前の、半歩だけ安心する場所。


 人はそういうところで、肩の力を抜く。


 荷の持ち方も少し崩れる。

 足の置き方も浅くなる。

 周囲を見る回数が減る。


 レンはある曲がり角で立ち止まった。


 煉瓦壁の張り出しと、灯りの切れ目がちょうど重なる場所だ。正面から見れば何でもない。だが、壁側に一人立てば、外からは見えにくい。通る方も、曲がる瞬間に視線が一度だけ外へ向く。


「ここか」


 断定ではない。

 だが、こういう場所だろうと思う。


 レンは周囲を見た。


 荷箱が一つ、妙な位置に積まれている。

 灯りの角度が少し悪い。

 通る者が自然に壁際へ寄る導線になっている。


 大げさなことをする必要はない。


 荷箱を少しだけ動かす。

 通る幅を変える。

 灯りの角度を半歩分だけ直す。


 やったと言われても困るし、やっていないと言っても通る程度の変更だ。


 それで本当に変わるかは分からない。

 だが、変えずに帰るのも落ち着かなかった。


   ◇


 夕方、ギルドへ戻ると、朝の冒険者がまだいた。


 依頼帰りではなく、たぶん知り合いの見舞い帰りだろう。顔が少し疲れている。


「ロッド、もう動けるらしい」


 仲間にそう言っていた。


「大したことなかったんだろ」


「まあ、殴られて転んだだけらしい」


「荷は?」


「少し減った」


「じゃあやっぱり抜かれてるな」


 話はそこで終わる。

 怒鳴り込むほどでもなく、笑い飛ばせるほどでもない。


 リーネはその会話を聞いていたはずだが、何も挟まなかった。

 帳場で紙を揃え、印を押し、次の依頼票をさばいている。


 報告はない。

 依頼にもならない。

 だから、今日も帳場の上では何も起きていないのと同じだ。


 レンはその横を通り過ぎた。


「清掃は終わりました」


 リーネが短く言う。


「見れば分かる」


「そうですか」


 一拍。


「帰り道の方は」


 そこまで言って、リーネは言葉を切った。

 紙へ視線を落としたまま、続きは言わない。


 レンも答えない。


 帳場の向こうでは、羽根ペンが乾いた音を立てていた。


   ◇


 夜、地下へ戻る。


 湿った空気と、水の音が迎える。

 昼の地上のざわめきが切れ、代わりに石と鉄の匂いが近くなる。


 部屋の入口で立ち止まり、レンは少しだけ耳を澄ませた。


 今日、自分が動かしたのはほんの少しだ。

 荷箱を寄せて、灯りを触って、通り方を半歩分変えただけ。


 解決でも何でもない。

 仕事にすらなっていない。


 ただ、“帰り”が気になった。


 人は帰る時に弱くなる。

 それはたぶん、自分も同じだ。


 戻る場所があるからこそ、そこに近づいた時に緩む。


 レンは壁に手を当てた。

 冷たい石の向こうで、水が変わらず流れている。


「……依頼にはならない、か」


 リーネの言葉を思い出す。


 その通りだ。

 朝の話だけでは、誰も動かない。


 だが、動かないままで済むとも、あまり思えなかった。


 今日のところは、それだけだった。


 違和感だけを持ち帰る。

 地下の静かな空気の中で、それがかえってはっきりする。


 レンは部屋へ入り、板を引いた。

 水の音は変わらず、街の方は見えない。


 それでも、帰り道の曲がり角だけが、妙にはっきり頭に残っていた。

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