第31話 その件は依頼になっていません
今朝のギルドは、いつもより少しだけ騒がしかった。
忙しい、というほどではない。
帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐き、どこかで圧力計の針が小さく鳴る。煉瓦壁ににじんだ煤と灯りの黄が、濡れた外套の匂いと混ざっている。
変わらない朝だ。
ただ、人の声だけが少し多い。
「……昨日、あいつやられた」
掲示板の前で、冒険者の一人がそんなことを言った。
レンは依頼札に目を落としたまま、少しだけ耳を傾ける。
「あいつって誰だよ」
「ロッドだよ。昨日の帰り」
「ああ、あの槍のか」
「そう。今は寝てる」
言い方が妙に軽かった。
笑い話ではない。だが、本気で騒ぐほどでもない。そんな半端な重さがある。
別の冒険者が眉をひそめる。
「寝てるって、どのくらいやられたんだ」
「さあな。殴られたらしい」
「相手は?」
「見てないって」
「どこで?」
「それもよく分からん。帰り道のどっか」
話が曖昧だった。
被害者本人がいない。
今は治療中らしい。
だから、細かいところが全部ぼやけている。
分かっているのは、帰りにやられた、という一点だけだった。
「最近、こういうの前にもなかったか」
別の声が言う。
「ああ、あったな」
「でも大したことないんだろ?」
「大したことない、で済ませるにはちょっと面倒なんだよな」
そう言いながらも、誰も本気で受付へ詰め寄るわけではない。
怒っているのとも少し違う。帰還後の疲れと、朝の機嫌の悪さが混ざった程度の不満だった。
帳場の向こうから声が飛ぶ。
「順路をお守りください」
よく通る声だ。
「相談の前に、報告票を先にお願いします」
リーネだった。
紙束を揃えたまま、顔もほとんど上げない。
だが冒険者たちは、その声で少しだけ列へ戻る。
「なあ、こういうのって依頼になるのか」
さっき話していた冒険者が、ようやく受付へ向けてそう言った。
リーネは差し出された紙を受け取り、ざっと目を通す。
「正式な被害報告にはなりません」
あっさりと言う。
「本人が来ていないこと、被害内容が曖昧なこと、相手の特徴も場所も不明なこと。今の段階では報告未満です」
「未満って」
「未満です」
ぴしゃりと返す。
「治療が終わって本人が来れば、改めて話は聞きます」
冒険者は不満そうな顔をした。
だが、反論の材料もないらしい。
「まあ、そうかもしれんけど」
「その件は依頼になっていません」
事務的な声だった。
だが、言い切り方が妙に綺麗で、余計に反論しづらい。
レンは掲示板から離れた。
今の話だけなら、珍しくもない。酔っ払いが殴られた、帰りに財布を抜かれた、そんな話は街にいくらでもある。
ただ、一つだけ引っかかる。
帰り。
そこだけが、妙にはっきりしていた。
◇
帳場の脇を通るとき、リーネが名前を呼んだ。
「レンさん」
「何だ」
立ち止まる。
リーネは一枚の紙を抜いて、こちらへ差し出した。
「依頼にはなっていませんが、帰り道で面倒なことがあるようです」
何でもない口調だった。
注意喚起というより、帳面の余白に書き足す程度の重さだ。
レンは紙を受け取らず、先にそちらを見た。
「……帰りか」
「はい」
リーネは頷き、そこで間を置かずに次の紙を差し出す。
「あとこちらも」
レンは今度は受け取った。
「スラム清掃、未処理です」
「……そっちもか」
「そっちもです」
表情一つ変えずに言う。
「放置されると苦情になりますので」
「帰り道で殴られる方より先か」
「優先順位はこちらで決めています」
レンは少しだけ目を細めた。
リーネは気にしない。
「あなたなら大丈夫でしょうし」
「雑だな」
「依頼の振り分けですので」
それで終わりだった。
事件未満の話と、スラムの掃除。
帳場の上では、その二つはほとんど同じ重さで並んでいる。
レンは紙を折って懐へ入れた。
「分かった」
「お願いします」
リーネはもう次の書類を見ている。
その横顔はいつも通りだった。
だが、“気をつけてくださいね”と言ったあとに、容赦なく掃除を振るところまで含めて、たぶん気をつけてはいるのだろうとレンは思った。
◇
午前の仕事はスラム側だった。
排水溝の泥上げ。
崩れた板塀の脇に溜まったごみの片付け。
誰がやるでもなく、誰かがやらなければ苦情になる類いの仕事だ。
正式な依頼は正式な依頼として、きちんと面倒だった。
スラムの路地は相変わらず狭い。
湿った石畳、片側へ傾いた柵、煮滓と濡れた布の匂い。
掃いてもすぐまた汚れる。そういう場所だ。
レンは黙々と片づけながら、朝の話を思い出していた。
被害者本人はいない。
相手も見ていない。
どこでやられたかも曖昧。
それなのに、帰りだけは皆はっきり言う。
帰還後というのは、人が一番気を抜く時だ。
荷を持ち、疲れて、気持ちだけ先に帰っている。
その状態なら、軽く殴られるだけでも足を取られるし、小銭や素材の一部くらいなら抜かれても気づくのが遅れる。
「……楽な獲物だな」
小さく呟く。
狙う側に立てば、という話だ。
レンはごみをまとめ、排水の流れを確かめてから路地を出た。
依頼自体は終わっている。だが、そのままギルドへ戻る気にはならなかった。
帰り道を見ておきたい。
◇
ダンジョン帰りの冒険者が使う道はいくつかある。
正面通りをまっすぐ戻る者もいれば、裏路地を抜けて酒場の前へ出る者もいる。荷が多ければ広い道を選ぶし、少なければ近道も使う。
レンは何本かの道を見て回った。
どこも、見た目には特に危険ではない。
人通りもある。
灯りも完全には切れない。
だが、歩いていると分かる場所がある。
気が抜ける場所だ。
ギルドの屋根が見える角。
路地の先に見慣れた看板が出る位置。
明るい通りへ戻る直前の、半歩だけ安心する場所。
人はそういうところで、肩の力を抜く。
荷の持ち方も少し崩れる。
足の置き方も浅くなる。
周囲を見る回数が減る。
レンはある曲がり角で立ち止まった。
煉瓦壁の張り出しと、灯りの切れ目がちょうど重なる場所だ。正面から見れば何でもない。だが、壁側に一人立てば、外からは見えにくい。通る方も、曲がる瞬間に視線が一度だけ外へ向く。
「ここか」
断定ではない。
だが、こういう場所だろうと思う。
レンは周囲を見た。
荷箱が一つ、妙な位置に積まれている。
灯りの角度が少し悪い。
通る者が自然に壁際へ寄る導線になっている。
大げさなことをする必要はない。
荷箱を少しだけ動かす。
通る幅を変える。
灯りの角度を半歩分だけ直す。
やったと言われても困るし、やっていないと言っても通る程度の変更だ。
それで本当に変わるかは分からない。
だが、変えずに帰るのも落ち着かなかった。
◇
夕方、ギルドへ戻ると、朝の冒険者がまだいた。
依頼帰りではなく、たぶん知り合いの見舞い帰りだろう。顔が少し疲れている。
「ロッド、もう動けるらしい」
仲間にそう言っていた。
「大したことなかったんだろ」
「まあ、殴られて転んだだけらしい」
「荷は?」
「少し減った」
「じゃあやっぱり抜かれてるな」
話はそこで終わる。
怒鳴り込むほどでもなく、笑い飛ばせるほどでもない。
リーネはその会話を聞いていたはずだが、何も挟まなかった。
帳場で紙を揃え、印を押し、次の依頼票をさばいている。
報告はない。
依頼にもならない。
だから、今日も帳場の上では何も起きていないのと同じだ。
レンはその横を通り過ぎた。
「清掃は終わりました」
リーネが短く言う。
「見れば分かる」
「そうですか」
一拍。
「帰り道の方は」
そこまで言って、リーネは言葉を切った。
紙へ視線を落としたまま、続きは言わない。
レンも答えない。
帳場の向こうでは、羽根ペンが乾いた音を立てていた。
◇
夜、地下へ戻る。
湿った空気と、水の音が迎える。
昼の地上のざわめきが切れ、代わりに石と鉄の匂いが近くなる。
部屋の入口で立ち止まり、レンは少しだけ耳を澄ませた。
今日、自分が動かしたのはほんの少しだ。
荷箱を寄せて、灯りを触って、通り方を半歩分変えただけ。
解決でも何でもない。
仕事にすらなっていない。
ただ、“帰り”が気になった。
人は帰る時に弱くなる。
それはたぶん、自分も同じだ。
戻る場所があるからこそ、そこに近づいた時に緩む。
レンは壁に手を当てた。
冷たい石の向こうで、水が変わらず流れている。
「……依頼にはならない、か」
リーネの言葉を思い出す。
その通りだ。
朝の話だけでは、誰も動かない。
だが、動かないままで済むとも、あまり思えなかった。
今日のところは、それだけだった。
違和感だけを持ち帰る。
地下の静かな空気の中で、それがかえってはっきりする。
レンは部屋へ入り、板を引いた。
水の音は変わらず、街の方は見えない。
それでも、帰り道の曲がり角だけが、妙にはっきり頭に残っていた。




