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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第三章 それは依頼にありませんが

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32/51

外伝 記録には残らないが

 ヨナスは、帳面の端を揃えるのがそれほど得意ではなかった。


 できないわけではない。

 やれと言われればやる。

 だが、リーネのように、紙の角だけで棚の上の空気まで整えるような真似はできない。


 だから帳場に立っていても、自分が向いているのは紙そのものより、その周囲で起きている小さな違和感のほうだと、前から何となく思っていた。


 紙は嘘をつく。

 いや、正確には、人が嘘をつく。

 紙はただ、それを綺麗に並べるだけだ。


 朝のギルドはいつも通りに動いていた。


 羽根ペンが紙をひっかく。

 蒸気管が白く息を吐く。

 どこかでバルブが閉まり、遠くで荷車が軋む。


 第29話の騒ぎから数日経って、帳場の空気はすっかり元に戻ったように見える。保守員たちもいつもの顔に戻り、報告票も「異常なし」が増えた。


 だが、ヨナスにとっては、元に戻りすぎていることのほうが気になった。


 あの日、地下のあちこちで不具合が同時に出た。

 第三枝路。東搬入口。第四区画。旧保守路。

 しかも、ただ悪くなったのではなく、絡み合うように揺れた。


 それが、最後には一斉に落ち着いた。


 巡回記録だけで説明できる収まり方ではなかった。

 誰かが、全体を見て触っていなければ、ああはならない。


 ヨナスは帳場の隅で控えを綴じながら、何度目かのその結論に戻った。


 誰かがやっている。


 それも、一箇所を直す保守員の仕事ではない。

 地下全体を、地下の都合で見ている何かだ。


「ヨナス」


 呼ばれて、顔を上げる。


 リーネが書類を差し出していた。


「これ、倉庫へ」


「はい」


 受け取る。


 それだけのやり取りだ。

 それなのに、ヨナスは紙を受け取るついでに、少しだけ声を潜めた。


「昨日、東見てきました」


 リーネは顔を上げない。


「そう」


「木箱の位置、また変わってました」


「業務に必要な報告?」


「いいえ」


「なら後にしてください」


 いつも通りの返しだった。

 だが、完全に無関係として切っているわけでもない。後にしろ、ということは、今ではなければ話していいということだ。


 ヨナスは倉庫へ向かった。


   ◇


 仕事がひと段落したのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 帳場の紙が一度途切れ、保守員たちも巡回へ散っている。蒸気の音だけが妙に近く聞こえる時間だ。


 ヨナスはその隙に、裏手へ回った。


 誰かに止められたわけではない。

 止められていないからこそ、余計に後ろめたい。


 地下へ降りる。


 階段の三段目は少し削れていて、踊り場の右に水が溜まりやすい。前にも何度か入ったことはある。だが、いつもは仕事のついでだった。今日は違う。見たいから来た。


 その時点で、もう少し業務から外れている。


 湿った空気が喉の奥へ入る。石と鉄と古い水の匂いが混ざっている。

 薄暗い通路を進みながら、ヨナスは自然と足を遅くした。


 前にも感じたことだが、この地下は場所によって空気の置かれ方が違う。ただ古いだけの区画と、最近まで人が使っていた気配のある区画。その差が、視覚より先に皮膚へ来る。


 第三枝路を過ぎ、東側へ曲がる。


 木箱がある。


 前に見た位置とは少し違う。

 だが、ただ動かされたのではなく、“使うために置かれている”位置だと分かる置き方だった。


 受け皿へ届く。

 その向こうの危ない場所には行きにくい。

 大人には少し使いにくいが、子供なら足が届く。


「……偶然じゃないよな」


 小さく呟く。


 誰もいない。

 返事もない。


 ヨナスは木箱に手を置き、重さだけを確かめた。動かそうと思えば動かせる。だが、わざわざ動かす必要がない位置にある。そういう置き方だ。


 板の向こうを見る。

 前よりも“入るな”の形が強くなっている。だが鍵も札もない。人が自然と行かなくなる形にしてあるだけだ。


 この地下を作った誰かは、命令するのではなく、形で決める。


 そこまで分かったとき、ヨナスは少しぞくりとした。


 便利だから整えたのではない。

 使われることまで見込んで、危ない方へ行かないようにしている。


「ここ、誰かが守ってる」


 思わず口に出る。


 その瞬間、水音が少しだけ変わった。


 すぐそばではない。

 だが遠すぎもしない。


 気配、と言っていいのかは分からない。風が通っただけかもしれないし、排水の落ち方が変わっただけかもしれない。けれど、今の一瞬だけは、地下全体が自分の言葉を聞いたように感じた。


 ヨナスは振り返った。


 配管の影。

 壁と壁の狭い隙間。

 保守路の曲がり角。


 誰もいない。

 見える位置には。


 一歩、踏み出しかける。


 だがそこで止まった。


 ここから先は、自分の仕事ではない。


 そう思ったからではない。

 そう思わされたからでもない。


 ただ、今一歩入れば、今まで“分からないまま保たれていたもの”の形が変わってしまう気がした。


 見ることはできるかもしれない。

 追うことも、たぶん。


 だが、見たら最後、今までみたいに曖昧なままではいられない。帳場で受け流せなくなる。リーネも、保守員も、自分も。


「……これ以上は、仕事じゃないか」


 小さく言う。


 誰に聞かせるでもなく。


 それでようやく、ヨナスは一歩引いた。


   ◇


 地上へ戻ると、帳場ではリーネが紙を綴じていた。


 昼の端境期で、誰もいない時間だ。

 こういう時だけ、帳場は少しだけ机に近い顔をする。


 ヨナスは少し離れた位置で立ち止まった。


「リーネさん」


「何」


 顔は上げない。


「見てきました」


「どこを」


「地下です」


 指が一瞬止まる。

 ほんの少し。


「業務で?」


「半分くらいは」


「半分しかないなら、残りの半分は余計です」


 いつもの言い方だった。

 だが、追い返す気配は弱い。


 ヨナスは思い切って言った。


「知ってますよね」


 そこで初めて、リーネが顔を上げた。


 表情はいつも通りだった。

 だが、目だけが少し静かになる。


「何のことかしら」


 それもいつもの返しだ。


 ヨナスは頷いた。


「そう言うと思いました」


「では聞かないでください」


「でも、たぶん、同じものを見てます」


 リーネは何も言わない。


 帳場の上に、紙の匂いと蒸気の匂いが重なる。

 少し長い沈黙だった。


 ヨナスは続けた。


「誰かがやってる。直してる、というより……守ってる」


 言葉にしてみると、しっくり来た。


「管理してるんじゃなくて、守ってる感じでした」


 リーネは小さく息を吐いた。


 それから、ゆっくり紙を揃え直す。


「見ない方がいいやつですよね」


 ヨナスが言う。


 今度はリーネが、すぐには否定しなかった。


「ええ」


 短く答える。


 それだけで十分だった。


 ヨナスは笑わなかったし、驚かなかった。

 むしろ、妙に落ち着いた。


 やはりそうなのだ。

 地下には、見えないままの方がいい何かがある。


「報告は」


「されていません」


 リーネは言う。


「これからも」


「されない」


 そこまで言ってから、少しだけ言い方を変えた。


「少なくとも、私からは」


 ヨナスは頷く。


「分かりました」


「本当に?」


「見に行くな、とは言われてないです」


「そういうところです」


 リーネは呆れたように言った。

 だが、その声音は完全に拒絶ではなかった。


 ヨナスは少しだけ肩をすくめる。


「でも、踏み込みません」


「どうして」


 リーネが珍しく聞き返した。


 ヨナスは少し考えた。


 帳面にないから、ではない。

 怒られそうだから、でもない。


「……壊れそうだったからです」


 正直に言う。


「見たら壊れる、というほど大袈裟じゃないですけど。でも、ああいうのって、知らないやつが土足で入ったら駄目なんだろうなって」


 リーネはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。


 笑うのでも、責めるのでもない。

 ようやく通じた相手を見る目だった。


「そう」


 それだけ言う。


 だが、その一言で十分だった。


   ◇


 夕方、ヨナスは倉庫への書類を運びながら、一度だけ地下へ続く扉の方を見た。


 見ても、何も見えない。

 当たり前だ。


 そこに誰かがいるかもしれない。

 いないかもしれない。


 ただ、いないはずの仕事が確かに残っていて、見えないまま街のどこかを保っている。そのことだけは、もう疑いようがなかった。


 帳面には書けない。

 書かれていない。

 でも、ある。


 そういうものは、案外多いのかもしれないとヨナスは思った。表に出る仕事より、出ない仕事の方が、街を壊さずに回していることだってあるのだろう。


 倉庫へ紙を届け、戻る。


 帳場の前を通ると、リーネがいつものように紙を揃えていた。


「ヨナス」


「はい」


「今日の分、綴じて」


「了解です」


 紙束を受け取り、綴じ紐を通す。

 慣れた手つきではないが、もうだいぶ早くはなった。


 リーネがふいに言った。


「記録には残りませんね」


 ヨナスは手を止めないまま答える。


「残りません」


「困る?」


「いいえ」


 少しだけ考えてから、続ける。


「残らなくても、あるものはあるので」


 リーネは何も言わなかった。

 ただ、紙の端を揃え直した。


   ◇


 夜、ギルドの外へ出ると、街の空気は昼より冷えていた。


 工場の煙はまだ流れている。石畳は湿り、遠くで水の音がする。地下から聞こえるはずのない距離なのに、ヨナスには今日、その音が妙に近く感じられた。


 見えないものがある。

 見えてしまうと困るものがある。

 そして、見えないまま守られているものもある。


 ヨナスは一度だけギルドの建物を振り返った。


 何も見えない。

 ただ、いつもの煉瓦の壁と、灯りの残る窓があるだけだ。


 それでも、あの下に確かに仕事があるのだと、今は知っている。


 記録には残らないが、確かにそこにある仕事だった。

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