外伝 記録には残らないが
ヨナスは、帳面の端を揃えるのがそれほど得意ではなかった。
できないわけではない。
やれと言われればやる。
だが、リーネのように、紙の角だけで棚の上の空気まで整えるような真似はできない。
だから帳場に立っていても、自分が向いているのは紙そのものより、その周囲で起きている小さな違和感のほうだと、前から何となく思っていた。
紙は嘘をつく。
いや、正確には、人が嘘をつく。
紙はただ、それを綺麗に並べるだけだ。
朝のギルドはいつも通りに動いていた。
羽根ペンが紙をひっかく。
蒸気管が白く息を吐く。
どこかでバルブが閉まり、遠くで荷車が軋む。
第29話の騒ぎから数日経って、帳場の空気はすっかり元に戻ったように見える。保守員たちもいつもの顔に戻り、報告票も「異常なし」が増えた。
だが、ヨナスにとっては、元に戻りすぎていることのほうが気になった。
あの日、地下のあちこちで不具合が同時に出た。
第三枝路。東搬入口。第四区画。旧保守路。
しかも、ただ悪くなったのではなく、絡み合うように揺れた。
それが、最後には一斉に落ち着いた。
巡回記録だけで説明できる収まり方ではなかった。
誰かが、全体を見て触っていなければ、ああはならない。
ヨナスは帳場の隅で控えを綴じながら、何度目かのその結論に戻った。
誰かがやっている。
それも、一箇所を直す保守員の仕事ではない。
地下全体を、地下の都合で見ている何かだ。
「ヨナス」
呼ばれて、顔を上げる。
リーネが書類を差し出していた。
「これ、倉庫へ」
「はい」
受け取る。
それだけのやり取りだ。
それなのに、ヨナスは紙を受け取るついでに、少しだけ声を潜めた。
「昨日、東見てきました」
リーネは顔を上げない。
「そう」
「木箱の位置、また変わってました」
「業務に必要な報告?」
「いいえ」
「なら後にしてください」
いつも通りの返しだった。
だが、完全に無関係として切っているわけでもない。後にしろ、ということは、今ではなければ話していいということだ。
ヨナスは倉庫へ向かった。
◇
仕事がひと段落したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
帳場の紙が一度途切れ、保守員たちも巡回へ散っている。蒸気の音だけが妙に近く聞こえる時間だ。
ヨナスはその隙に、裏手へ回った。
誰かに止められたわけではない。
止められていないからこそ、余計に後ろめたい。
地下へ降りる。
階段の三段目は少し削れていて、踊り場の右に水が溜まりやすい。前にも何度か入ったことはある。だが、いつもは仕事のついでだった。今日は違う。見たいから来た。
その時点で、もう少し業務から外れている。
湿った空気が喉の奥へ入る。石と鉄と古い水の匂いが混ざっている。
薄暗い通路を進みながら、ヨナスは自然と足を遅くした。
前にも感じたことだが、この地下は場所によって空気の置かれ方が違う。ただ古いだけの区画と、最近まで人が使っていた気配のある区画。その差が、視覚より先に皮膚へ来る。
第三枝路を過ぎ、東側へ曲がる。
木箱がある。
前に見た位置とは少し違う。
だが、ただ動かされたのではなく、“使うために置かれている”位置だと分かる置き方だった。
受け皿へ届く。
その向こうの危ない場所には行きにくい。
大人には少し使いにくいが、子供なら足が届く。
「……偶然じゃないよな」
小さく呟く。
誰もいない。
返事もない。
ヨナスは木箱に手を置き、重さだけを確かめた。動かそうと思えば動かせる。だが、わざわざ動かす必要がない位置にある。そういう置き方だ。
板の向こうを見る。
前よりも“入るな”の形が強くなっている。だが鍵も札もない。人が自然と行かなくなる形にしてあるだけだ。
この地下を作った誰かは、命令するのではなく、形で決める。
そこまで分かったとき、ヨナスは少しぞくりとした。
便利だから整えたのではない。
使われることまで見込んで、危ない方へ行かないようにしている。
「ここ、誰かが守ってる」
思わず口に出る。
その瞬間、水音が少しだけ変わった。
すぐそばではない。
だが遠すぎもしない。
気配、と言っていいのかは分からない。風が通っただけかもしれないし、排水の落ち方が変わっただけかもしれない。けれど、今の一瞬だけは、地下全体が自分の言葉を聞いたように感じた。
ヨナスは振り返った。
配管の影。
壁と壁の狭い隙間。
保守路の曲がり角。
誰もいない。
見える位置には。
一歩、踏み出しかける。
だがそこで止まった。
ここから先は、自分の仕事ではない。
そう思ったからではない。
そう思わされたからでもない。
ただ、今一歩入れば、今まで“分からないまま保たれていたもの”の形が変わってしまう気がした。
見ることはできるかもしれない。
追うことも、たぶん。
だが、見たら最後、今までみたいに曖昧なままではいられない。帳場で受け流せなくなる。リーネも、保守員も、自分も。
「……これ以上は、仕事じゃないか」
小さく言う。
誰に聞かせるでもなく。
それでようやく、ヨナスは一歩引いた。
◇
地上へ戻ると、帳場ではリーネが紙を綴じていた。
昼の端境期で、誰もいない時間だ。
こういう時だけ、帳場は少しだけ机に近い顔をする。
ヨナスは少し離れた位置で立ち止まった。
「リーネさん」
「何」
顔は上げない。
「見てきました」
「どこを」
「地下です」
指が一瞬止まる。
ほんの少し。
「業務で?」
「半分くらいは」
「半分しかないなら、残りの半分は余計です」
いつもの言い方だった。
だが、追い返す気配は弱い。
ヨナスは思い切って言った。
「知ってますよね」
そこで初めて、リーネが顔を上げた。
表情はいつも通りだった。
だが、目だけが少し静かになる。
「何のことかしら」
それもいつもの返しだ。
ヨナスは頷いた。
「そう言うと思いました」
「では聞かないでください」
「でも、たぶん、同じものを見てます」
リーネは何も言わない。
帳場の上に、紙の匂いと蒸気の匂いが重なる。
少し長い沈黙だった。
ヨナスは続けた。
「誰かがやってる。直してる、というより……守ってる」
言葉にしてみると、しっくり来た。
「管理してるんじゃなくて、守ってる感じでした」
リーネは小さく息を吐いた。
それから、ゆっくり紙を揃え直す。
「見ない方がいいやつですよね」
ヨナスが言う。
今度はリーネが、すぐには否定しなかった。
「ええ」
短く答える。
それだけで十分だった。
ヨナスは笑わなかったし、驚かなかった。
むしろ、妙に落ち着いた。
やはりそうなのだ。
地下には、見えないままの方がいい何かがある。
「報告は」
「されていません」
リーネは言う。
「これからも」
「されない」
そこまで言ってから、少しだけ言い方を変えた。
「少なくとも、私からは」
ヨナスは頷く。
「分かりました」
「本当に?」
「見に行くな、とは言われてないです」
「そういうところです」
リーネは呆れたように言った。
だが、その声音は完全に拒絶ではなかった。
ヨナスは少しだけ肩をすくめる。
「でも、踏み込みません」
「どうして」
リーネが珍しく聞き返した。
ヨナスは少し考えた。
帳面にないから、ではない。
怒られそうだから、でもない。
「……壊れそうだったからです」
正直に言う。
「見たら壊れる、というほど大袈裟じゃないですけど。でも、ああいうのって、知らないやつが土足で入ったら駄目なんだろうなって」
リーネはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
笑うのでも、責めるのでもない。
ようやく通じた相手を見る目だった。
「そう」
それだけ言う。
だが、その一言で十分だった。
◇
夕方、ヨナスは倉庫への書類を運びながら、一度だけ地下へ続く扉の方を見た。
見ても、何も見えない。
当たり前だ。
そこに誰かがいるかもしれない。
いないかもしれない。
ただ、いないはずの仕事が確かに残っていて、見えないまま街のどこかを保っている。そのことだけは、もう疑いようがなかった。
帳面には書けない。
書かれていない。
でも、ある。
そういうものは、案外多いのかもしれないとヨナスは思った。表に出る仕事より、出ない仕事の方が、街を壊さずに回していることだってあるのだろう。
倉庫へ紙を届け、戻る。
帳場の前を通ると、リーネがいつものように紙を揃えていた。
「ヨナス」
「はい」
「今日の分、綴じて」
「了解です」
紙束を受け取り、綴じ紐を通す。
慣れた手つきではないが、もうだいぶ早くはなった。
リーネがふいに言った。
「記録には残りませんね」
ヨナスは手を止めないまま答える。
「残りません」
「困る?」
「いいえ」
少しだけ考えてから、続ける。
「残らなくても、あるものはあるので」
リーネは何も言わなかった。
ただ、紙の端を揃え直した。
◇
夜、ギルドの外へ出ると、街の空気は昼より冷えていた。
工場の煙はまだ流れている。石畳は湿り、遠くで水の音がする。地下から聞こえるはずのない距離なのに、ヨナスには今日、その音が妙に近く感じられた。
見えないものがある。
見えてしまうと困るものがある。
そして、見えないまま守られているものもある。
ヨナスは一度だけギルドの建物を振り返った。
何も見えない。
ただ、いつもの煉瓦の壁と、灯りの残る窓があるだけだ。
それでも、あの下に確かに仕事があるのだと、今は知っている。
記録には残らないが、確かにそこにある仕事だった。




