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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第三章 それは依頼にありませんが

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第27話 誰がやったのですか

 噂というものは、帳面より遅く、蒸気より早く回る。


 朝のギルドはいつも通りに騒がしかった。帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざる。どこかで圧力計の針が鳴り、遠くでバルブがひとつ閉まる。


 変わらないようでいて、変わっていることもある。


「東の昇降機、昨日も軽かったんだと」


 資材台の脇で、下働きの男がそう言った。


「記録は?」


「ない」


「じゃあ誰か触ってる」


「誰が」


 その問いに、すぐ答えは出ない。


 答えが出ないまま、それでも話だけは進む。記録がない。依頼も出ていない。それなのに壊れかけていたものが少しずつ使いやすくなっている。人間はそういう時、原因を探すより先に“誰か”を置きたがる。


 レンは掲示板の前で依頼札を見ているふりをしながら、その会話を聞いていた。


 見る必要はない。

 誰がどういう顔で話しているかは、声の調子で分かる。


 半分は面白がっている。

 半分は気味悪がっている。


 どちらに転んでも面倒だ、とレンは思った。


「走らないでください」


 帳場の向こうから声が飛ぶ。


 レンはまだ一歩も動いていない。


「まだ走ってません」


「走る前三歩くらいの顔をしていました」


 リーネはいつものように紙を揃えながら言った。監査の後で少しだけ硬くなった帳場も、最近はようやく前の形へ戻りつつある。だが、前とまったく同じではない。確認の目が一枚分だけ増えたままだ。


「何かありましたか」


 レンが聞く。


「大したことではありません」


 リーネは一拍置いてから続ける。


「ただ、誰かが勝手に保守しているのでは、という噂が少し」


「噂ですか」


「ええ。記録がない作業が続くと、人は勝手に原因を作りますので」


 それを言うときの声は事務的だった。

 だが、“勝手に”の部分だけ少し強い。


「困りますか」


「困るかどうかは、内容によります」


 リーネは紙束を揃え直した。


「ただ、勝手に直っている、という話は、たいてい誰かが詳しく知りたがる方向へ進みます」


 それはつまり、見に来る人間が出るということだった。


 レンは小さく頷いた。


「気をつけます」


「そうしてください」


 リーネはそこまで言ってから、ようやく少しだけ顔を上げた。


「本当に、少しは」


 珍しく念を押すような言い方だった。


   ◇


 ギルドには、あまり目立たない若手がいる。


 受付でもない。正規の保守員でもない。雑用と記録補助のあいだみたいな仕事をしている、痩せた男だった。年はレンより少し上か、同じくらいか。名前はヨナスと言ったはずだが、普段はほとんど呼ばれない。大抵は「そこの君」か「補助」か「これ持っていってくれ」だ。


 目立たない理由は簡単で、自分から前へ出ないからだ。

 だが、出ない人間が見ていないとは限らない。


 そのヨナスが、東側の搬入口で立ち止まっていた。


 レンは上の保守路からそれを見ていた。


 ヨナスは昇降機の脇でしゃがみ、歯車に触れはしないまま、足元の石と補助鎖の位置を見ている。まるで、どうしてここだけ使いやすくなったのかを、物そのものではなく“周囲の形”から読もうとしているみたいだった。


 保守員が通りかかる。


「何してる」


「いえ」


 ヨナスは立ち上がった。


「昨日より動きが軽いと聞いたので、少し見ていただけです」


「分かるのか?」


「分かりません」


 あっさり言う。


「でも、分からないなら分からないなりに見ておこうかと」


 保守員は呆れた顔で行ってしまった。

 ヨナスはその背を見送り、また足元へ視線を落とす。


 面倒そうだな、とレンは思った。


 こういう人間はいる。

 確信もないのに、違和感だけを拾って溜めていく人間だ。


 リーネやイルゼのように“仕事として見る”のとは少し違う。気になるから見る。納得できないから、もう一度見る。そういう見方をする人間のほうが、時々しつこい。


   ◇


 地下へ降りる。


 東側の昇降機は今日も機嫌が良かった。第三枝路から逃がした圧と、補助弁の開きがようやく馴染み、動きは軽いまま不自然さだけが薄れている。こうなれば、ただの“古い機械の調子の良い日”で済む。


 済むはずだった。


 昇降機の脇へ行くと、木箱の位置が少しずれていた。


 レンは立ち止まる。


 子供が使っただけなら、こういうずれ方はしない。

 瓶を置いて、水を受けて、降りていくだけなら、箱は前へ出る。

 だが今のずれ方は、横だ。誰かが乗ったのではなく、脇から覗こうとして足をかけたようなずれ方だった。


 箱の端に、細い泥の跡がある。


 大人の靴。

 だが保守員の底ではない。もっと軽い。硬い仕事靴でもない。


「……ヨナスか」


 断定はできない。

 だが、今朝の見方からするとあの男が一番ありそうだった。


 レンは箱を戻しながら、周囲を見た。


 漏水受け。

 補助鎖。

 板で自然に塞いだ危険箇所。


 まだ大丈夫だ。

 だが、こういう“少し覗いた跡”が何度も増えると、遅かれ早かれ誰かが気づく。


 完全に消すべきか、と一瞬考える。


 木箱を片付け、漏水受けを外し、子供たちが使えないように戻す。そうすればこの場所はまた“誰も来ない危ない空間”になる。


 だがそれは、良くない。


 あの子供たちは別の場所を探す。

 もっと危ないところへ行くかもしれない。

 それに、せっかく作った安全な導線を消すのは、何かが違う気がした。


 レンは箱を戻しただけで終えた。

 完全には消さない。


 ただ、“ここに人がいる証拠”にならない範囲に留める。


 最近そういう判断が増えてきた、と自分でも思う。


   ◇


 昼前、帳場では別の話が始まっていた。


「東だけじゃないんです」


 保守員が二人、リーネの前で困った顔をしている。


「今度は第四区画の留め具が軽くなってる」


「軽いのばかりですね」


 リーネの声は平坦だ。


「重くなったならともかく」


「いや、軽いのも困るんですよ。昨日まで固かったものが、今日は軽い。で、触った記録はない」


「同じ話ですね」


「同じ話です」


 そこでヨナスが、少し離れた場所から口を挟んだ。


「それ、同じ人じゃないですか」


 帳場の空気が一拍止まる。


 誰もが思っていたことを、誰も口にしていなかったのだ。

 それを口に出す人間は、たいてい少し嫌われる。


 リーネは顔を上げた。


「根拠は」


「ありません」


 ヨナスは言った。


「でも、別々の場所で、別々に、記録のない改善が起きているなら、たまたまよりは同じ人の方が自然です」


「自然、ですか」


「少なくとも、同じ癖を感じます」


 癖。


 レンは壁際からその言葉を聞いた。


 そこまで見ているのか、と少しだけ感心した。

 同時に、やはり面倒だと思う。


 保守員の一人が言う。


「癖なんて分かるのか、お前」


「分かるというほどではないです。ただ、手を入れた人が“ちゃんと壊さない方”の人だな、とは」


「ちゃんと壊さない方」


 もう一人の保守員が怪訝な顔をした。


「雑に直したなら、別のところが変になるはずです。でもそうなってない。だから、どこかを軽くするときに、別のところも見てる」


 言いながら、ヨナスは少しだけ楽しそうだった。

 謎解きでもしているみたいに。


「……誰がやったんでしょうね」


 その言葉は、独り言のように落ちた。


 リーネはすぐに返事をしなかった。

 少し考えるように紙をめくり、それから言う。


「記録がない以上、こちらで言えることはありません」


「ですよね」


「ですが」


 そこで一拍置く。


「勝手に追いかけないでください」


 言い方が少しだけ強かった。


「危険箇所もありますので」


 ヨナスは肩をすくめる。


「分かってますよ。別に犯人探しをするつもりじゃないです」


 その顔は、“今のところは”とついていそうな顔だった。


   ◇


 午後、レンはあえて一つだけ痕跡を残した。


 残したと言っても、誰でも見つけられるものではない。第四区画の古い留め具、その下にある摩耗の方向だけを変えずに残したのだ。軽くしたなら普通はこうは削れない、と思える人間が見れば、同じ手が入っていると分かる程度の痕跡だった。


 なぜそんなことをしたのか、レン自身もはっきり説明はできない。


 完全に消しきることはできる。

 今までだってそうしてきた。


 だが最近、全部をゼロに戻すのは少し違う気がしていた。


 街の中に、何もない場所はない。

 使われる場所には癖がつく。

 なら、“誰かがやっている”という噂だけが先に広がるのも、たぶん自然なのだ。


 ただし、誰かまでは辿らせない。


 その線だけは守る。


 第四区画を出るとき、遠くで足音がした。


 ヨナスだ。


 なぜ分かったのかと言えば、足音が迷っていたからだ。保守員の足音は目的地へまっすぐ行く。ヨナスの足音は、気になる場所で一歩分だけ遅れる。


 レンは壁と配管のあいだへ身体を滑らせた。


 ヨナスが現れる。


 手には板も工具もない。仕事のついでに来たふりをしているが、実際には“見に来た”だけだ。


 留め具の前でしゃがみ、摩耗を見た。


「……やっぱり」


 小さく言う。


 嬉しそうでも、怖そうでもない。

 ただ、繋がった時の顔だ。


 東の昇降機。

 第四区画の留め具。

 記録にない軽さ。


 それが頭の中で一本になったのだろう。


 ヨナスは周囲を見る。

 上。

 横。

 壁。

 配管の裏。


 だが、見つけられない。


「いるんだよな」


 誰に言うでもなく呟く。


 レンは動かない。


 配管の影で、呼吸だけを薄くする。


 ヨナスはそれ以上踏み込まなかった。

 探すより、考える方へ戻る人間らしい。


 立ち上がり、何度か振り返りながら去っていく。


 レンはしばらくそのまま待った。


   ◇


 夕方、帳場の前でヨナスはまたリーネに話しかけていた。


「第四もでした」


「何がですか」


「軽くなってたやつです。同じ癖です」


 リーネは紙を揃えながら、視線を上げない。


「癖、ね」


「ありますよ。完全には消してない」


 そこまで言って、ヨナスは少しだけ声を潜めた。


「たぶん、消しきれないんじゃなくて、消しきってない」


 レンは少し離れた場所から、その言葉を聞いた。


 当たっている。

 だが全部ではない。


 リーネはそこでようやく顔を上げた。


「どうしてそう思うんですか」


「分からないですけど」


 ヨナスは言う。


「仕事の仕方って、人によって残るじゃないですか。帳票の揃え方とか、工具の戻し方とか」


「つまり、手癖だと」


「はい」


 リーネは少しだけ黙った。


 それから、紙を一枚抜いてヨナスへ渡す。


「これ、倉庫へ」


「話、終わりですか」


「終わりです」


「でも」


「誰がやったかを考えるのは、あなたの仕事ではありません」


 ぴしゃりと言う。


「それに、気づいているからといって、見ていいものばかりではないので」


 ヨナスは口を閉じた。


 返事はしなかったが、不満そうでもない。たぶん“止められた”こと自体は理解しているのだろう。


「……分かりました」


 紙を受け取り、倉庫へ向かう。


 去り際、一度だけ地下へ続く方を見た。


 露骨ではない。

 だが、もう完全に疑い始めている人間の目だった。


   ◇


 夜、地下へ戻ると、水の音は変わらず静かだった。


 東側も、第四区画も、今日は問題ない。子供たちが使ったあとも危ない音はしていないし、昇降機も無理なく回っている。地下のあちこちに、少しずつ“使われる形”が増えていた。


 レンは部屋の入口に立ったまま、壁へ手を当てた。


 冷たい石の向こうに、街の小さな動きがある。

 水を汲む子供。

 軽くなった留め具。

 気づき始める若手。

 紙を揃えながら何も言わない受付。


 全部が、まだ小さい。


 だが、小さいまま積もっていくものもある。


 レンは部屋へ入る前に、一度だけ振り返った。


 誰にも見えていない。

 だが、見ようとする人間は出てきた。


 これからは、ただ直すだけでは足りないのかもしれない。


 そう思いながらも、水の音は静かで、部屋は少し前より落ち着いていた。


 広がっているのは場所だけではない。

 たぶん、仕事の方もだ。


 そのことを、レンはまだうまく言葉にできなかった。

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