第27話 誰がやったのですか
噂というものは、帳面より遅く、蒸気より早く回る。
朝のギルドはいつも通りに騒がしかった。帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざる。どこかで圧力計の針が鳴り、遠くでバルブがひとつ閉まる。
変わらないようでいて、変わっていることもある。
「東の昇降機、昨日も軽かったんだと」
資材台の脇で、下働きの男がそう言った。
「記録は?」
「ない」
「じゃあ誰か触ってる」
「誰が」
その問いに、すぐ答えは出ない。
答えが出ないまま、それでも話だけは進む。記録がない。依頼も出ていない。それなのに壊れかけていたものが少しずつ使いやすくなっている。人間はそういう時、原因を探すより先に“誰か”を置きたがる。
レンは掲示板の前で依頼札を見ているふりをしながら、その会話を聞いていた。
見る必要はない。
誰がどういう顔で話しているかは、声の調子で分かる。
半分は面白がっている。
半分は気味悪がっている。
どちらに転んでも面倒だ、とレンは思った。
「走らないでください」
帳場の向こうから声が飛ぶ。
レンはまだ一歩も動いていない。
「まだ走ってません」
「走る前三歩くらいの顔をしていました」
リーネはいつものように紙を揃えながら言った。監査の後で少しだけ硬くなった帳場も、最近はようやく前の形へ戻りつつある。だが、前とまったく同じではない。確認の目が一枚分だけ増えたままだ。
「何かありましたか」
レンが聞く。
「大したことではありません」
リーネは一拍置いてから続ける。
「ただ、誰かが勝手に保守しているのでは、という噂が少し」
「噂ですか」
「ええ。記録がない作業が続くと、人は勝手に原因を作りますので」
それを言うときの声は事務的だった。
だが、“勝手に”の部分だけ少し強い。
「困りますか」
「困るかどうかは、内容によります」
リーネは紙束を揃え直した。
「ただ、勝手に直っている、という話は、たいてい誰かが詳しく知りたがる方向へ進みます」
それはつまり、見に来る人間が出るということだった。
レンは小さく頷いた。
「気をつけます」
「そうしてください」
リーネはそこまで言ってから、ようやく少しだけ顔を上げた。
「本当に、少しは」
珍しく念を押すような言い方だった。
◇
ギルドには、あまり目立たない若手がいる。
受付でもない。正規の保守員でもない。雑用と記録補助のあいだみたいな仕事をしている、痩せた男だった。年はレンより少し上か、同じくらいか。名前はヨナスと言ったはずだが、普段はほとんど呼ばれない。大抵は「そこの君」か「補助」か「これ持っていってくれ」だ。
目立たない理由は簡単で、自分から前へ出ないからだ。
だが、出ない人間が見ていないとは限らない。
そのヨナスが、東側の搬入口で立ち止まっていた。
レンは上の保守路からそれを見ていた。
ヨナスは昇降機の脇でしゃがみ、歯車に触れはしないまま、足元の石と補助鎖の位置を見ている。まるで、どうしてここだけ使いやすくなったのかを、物そのものではなく“周囲の形”から読もうとしているみたいだった。
保守員が通りかかる。
「何してる」
「いえ」
ヨナスは立ち上がった。
「昨日より動きが軽いと聞いたので、少し見ていただけです」
「分かるのか?」
「分かりません」
あっさり言う。
「でも、分からないなら分からないなりに見ておこうかと」
保守員は呆れた顔で行ってしまった。
ヨナスはその背を見送り、また足元へ視線を落とす。
面倒そうだな、とレンは思った。
こういう人間はいる。
確信もないのに、違和感だけを拾って溜めていく人間だ。
リーネやイルゼのように“仕事として見る”のとは少し違う。気になるから見る。納得できないから、もう一度見る。そういう見方をする人間のほうが、時々しつこい。
◇
地下へ降りる。
東側の昇降機は今日も機嫌が良かった。第三枝路から逃がした圧と、補助弁の開きがようやく馴染み、動きは軽いまま不自然さだけが薄れている。こうなれば、ただの“古い機械の調子の良い日”で済む。
済むはずだった。
昇降機の脇へ行くと、木箱の位置が少しずれていた。
レンは立ち止まる。
子供が使っただけなら、こういうずれ方はしない。
瓶を置いて、水を受けて、降りていくだけなら、箱は前へ出る。
だが今のずれ方は、横だ。誰かが乗ったのではなく、脇から覗こうとして足をかけたようなずれ方だった。
箱の端に、細い泥の跡がある。
大人の靴。
だが保守員の底ではない。もっと軽い。硬い仕事靴でもない。
「……ヨナスか」
断定はできない。
だが、今朝の見方からするとあの男が一番ありそうだった。
レンは箱を戻しながら、周囲を見た。
漏水受け。
補助鎖。
板で自然に塞いだ危険箇所。
まだ大丈夫だ。
だが、こういう“少し覗いた跡”が何度も増えると、遅かれ早かれ誰かが気づく。
完全に消すべきか、と一瞬考える。
木箱を片付け、漏水受けを外し、子供たちが使えないように戻す。そうすればこの場所はまた“誰も来ない危ない空間”になる。
だがそれは、良くない。
あの子供たちは別の場所を探す。
もっと危ないところへ行くかもしれない。
それに、せっかく作った安全な導線を消すのは、何かが違う気がした。
レンは箱を戻しただけで終えた。
完全には消さない。
ただ、“ここに人がいる証拠”にならない範囲に留める。
最近そういう判断が増えてきた、と自分でも思う。
◇
昼前、帳場では別の話が始まっていた。
「東だけじゃないんです」
保守員が二人、リーネの前で困った顔をしている。
「今度は第四区画の留め具が軽くなってる」
「軽いのばかりですね」
リーネの声は平坦だ。
「重くなったならともかく」
「いや、軽いのも困るんですよ。昨日まで固かったものが、今日は軽い。で、触った記録はない」
「同じ話ですね」
「同じ話です」
そこでヨナスが、少し離れた場所から口を挟んだ。
「それ、同じ人じゃないですか」
帳場の空気が一拍止まる。
誰もが思っていたことを、誰も口にしていなかったのだ。
それを口に出す人間は、たいてい少し嫌われる。
リーネは顔を上げた。
「根拠は」
「ありません」
ヨナスは言った。
「でも、別々の場所で、別々に、記録のない改善が起きているなら、たまたまよりは同じ人の方が自然です」
「自然、ですか」
「少なくとも、同じ癖を感じます」
癖。
レンは壁際からその言葉を聞いた。
そこまで見ているのか、と少しだけ感心した。
同時に、やはり面倒だと思う。
保守員の一人が言う。
「癖なんて分かるのか、お前」
「分かるというほどではないです。ただ、手を入れた人が“ちゃんと壊さない方”の人だな、とは」
「ちゃんと壊さない方」
もう一人の保守員が怪訝な顔をした。
「雑に直したなら、別のところが変になるはずです。でもそうなってない。だから、どこかを軽くするときに、別のところも見てる」
言いながら、ヨナスは少しだけ楽しそうだった。
謎解きでもしているみたいに。
「……誰がやったんでしょうね」
その言葉は、独り言のように落ちた。
リーネはすぐに返事をしなかった。
少し考えるように紙をめくり、それから言う。
「記録がない以上、こちらで言えることはありません」
「ですよね」
「ですが」
そこで一拍置く。
「勝手に追いかけないでください」
言い方が少しだけ強かった。
「危険箇所もありますので」
ヨナスは肩をすくめる。
「分かってますよ。別に犯人探しをするつもりじゃないです」
その顔は、“今のところは”とついていそうな顔だった。
◇
午後、レンはあえて一つだけ痕跡を残した。
残したと言っても、誰でも見つけられるものではない。第四区画の古い留め具、その下にある摩耗の方向だけを変えずに残したのだ。軽くしたなら普通はこうは削れない、と思える人間が見れば、同じ手が入っていると分かる程度の痕跡だった。
なぜそんなことをしたのか、レン自身もはっきり説明はできない。
完全に消しきることはできる。
今までだってそうしてきた。
だが最近、全部をゼロに戻すのは少し違う気がしていた。
街の中に、何もない場所はない。
使われる場所には癖がつく。
なら、“誰かがやっている”という噂だけが先に広がるのも、たぶん自然なのだ。
ただし、誰かまでは辿らせない。
その線だけは守る。
第四区画を出るとき、遠くで足音がした。
ヨナスだ。
なぜ分かったのかと言えば、足音が迷っていたからだ。保守員の足音は目的地へまっすぐ行く。ヨナスの足音は、気になる場所で一歩分だけ遅れる。
レンは壁と配管のあいだへ身体を滑らせた。
ヨナスが現れる。
手には板も工具もない。仕事のついでに来たふりをしているが、実際には“見に来た”だけだ。
留め具の前でしゃがみ、摩耗を見た。
「……やっぱり」
小さく言う。
嬉しそうでも、怖そうでもない。
ただ、繋がった時の顔だ。
東の昇降機。
第四区画の留め具。
記録にない軽さ。
それが頭の中で一本になったのだろう。
ヨナスは周囲を見る。
上。
横。
壁。
配管の裏。
だが、見つけられない。
「いるんだよな」
誰に言うでもなく呟く。
レンは動かない。
配管の影で、呼吸だけを薄くする。
ヨナスはそれ以上踏み込まなかった。
探すより、考える方へ戻る人間らしい。
立ち上がり、何度か振り返りながら去っていく。
レンはしばらくそのまま待った。
◇
夕方、帳場の前でヨナスはまたリーネに話しかけていた。
「第四もでした」
「何がですか」
「軽くなってたやつです。同じ癖です」
リーネは紙を揃えながら、視線を上げない。
「癖、ね」
「ありますよ。完全には消してない」
そこまで言って、ヨナスは少しだけ声を潜めた。
「たぶん、消しきれないんじゃなくて、消しきってない」
レンは少し離れた場所から、その言葉を聞いた。
当たっている。
だが全部ではない。
リーネはそこでようやく顔を上げた。
「どうしてそう思うんですか」
「分からないですけど」
ヨナスは言う。
「仕事の仕方って、人によって残るじゃないですか。帳票の揃え方とか、工具の戻し方とか」
「つまり、手癖だと」
「はい」
リーネは少しだけ黙った。
それから、紙を一枚抜いてヨナスへ渡す。
「これ、倉庫へ」
「話、終わりですか」
「終わりです」
「でも」
「誰がやったかを考えるのは、あなたの仕事ではありません」
ぴしゃりと言う。
「それに、気づいているからといって、見ていいものばかりではないので」
ヨナスは口を閉じた。
返事はしなかったが、不満そうでもない。たぶん“止められた”こと自体は理解しているのだろう。
「……分かりました」
紙を受け取り、倉庫へ向かう。
去り際、一度だけ地下へ続く方を見た。
露骨ではない。
だが、もう完全に疑い始めている人間の目だった。
◇
夜、地下へ戻ると、水の音は変わらず静かだった。
東側も、第四区画も、今日は問題ない。子供たちが使ったあとも危ない音はしていないし、昇降機も無理なく回っている。地下のあちこちに、少しずつ“使われる形”が増えていた。
レンは部屋の入口に立ったまま、壁へ手を当てた。
冷たい石の向こうに、街の小さな動きがある。
水を汲む子供。
軽くなった留め具。
気づき始める若手。
紙を揃えながら何も言わない受付。
全部が、まだ小さい。
だが、小さいまま積もっていくものもある。
レンは部屋へ入る前に、一度だけ振り返った。
誰にも見えていない。
だが、見ようとする人間は出てきた。
これからは、ただ直すだけでは足りないのかもしれない。
そう思いながらも、水の音は静かで、部屋は少し前より落ち着いていた。
広がっているのは場所だけではない。
たぶん、仕事の方もだ。
そのことを、レンはまだうまく言葉にできなかった。




