第28話 それは許可されていません
便利な場所は、長く秘密ではいられない。
朝のギルドで、保守員の一人が帳場へ戻ってきたとき、リーネは顔を上げる前から少し嫌そうな気配を出していた。
「今度は何ですか」
紙を揃えたまま聞く。
「故障じゃないんですけど」
保守員はそう前置きした。
「最近、地下の使われ方が妙なんですよ」
レンは掲示板の前で依頼札を見ているふりをしながら、その声を聞いた。
「妙、とは」
リーネが聞く。
「人が入ってる気配が増えてます。第三枝路の先とか、東の搬入口下とか。物の位置が変わるんです」
「保守員ではなく?」
「じゃないと思います。雑なんですよ。動かし方が」
その言い方で、レンは少しだけ目を細めた。
雑なのはその通りだった。
木箱が横へずれている。
足場に泥が増える。
古い棚の上に、誰かが勝手に空き瓶を置いていく。
使うだけならまだいい。
使い方が雑になると、そこから事故になる。
「記録は」
「つけるほどでは……」
「つけるほどではないが、気になる」
「はい」
リーネは一拍だけ黙った。
「正式な保守依頼にはなりませんね」
「でしょうねえ」
「被害が出ていませんので」
正しい。
そして、正しいままでは足りない。
レンはそのまま掲示板から離れ、帳場の脇を通る。
「人が増えてるんですか」
何でもない調子で聞く。
保守員が肩をすくめる。
「気配だけならな。別に集会してるわけじゃない。だが、前は子供一人分くらいの使われ方だったのが、最近は大人も混じってる感じがする」
「感じ、ですか」
「そりゃ見てないからな」
保守員は言った。
「でも、同じ場所の同じ木箱が、毎日違うずれ方するんだぞ。あれは一人じゃない」
レンはそれ以上聞かなかった。
十分だった。
地下へ降りる理由としては。
◇
地下の空気はいつも通りだった。
湿っていて、冷たく、石と鉄と古い水の匂いがする。
変わらないようでいて、入った瞬間に分かる違いもある。
人の気配が増えていた。
目に見えるものではない。
足音も、今はない。
だが、空気の置かれ方が変わっている。
第三枝路へ向かう途中、壁際の埃が薄くなっている場所が増えていた。誰かがそこを手で支えたか、肩を擦らせたか。通路の角には乾いた泥が二種類残っている。子供の軽い靴と、もっと大きい、底の硬い靴だ。
「……増えたな」
声に出すと、少しだけ苛立ちが混じった。
自分でも珍しいと思う。
ここは元々、自分の居場所として与えられた場所だった。
監査のために一度手放したような形にはなったが、それでも地下はレンの領分だったはずだ。
そこへ人が入る。
しかも勝手に。
しかも、使いやすいところだけ使って、危ないところには気づかない。
面倒というより、落ち着かなかった。
東側の搬入口下へ着く。
やはり木箱の位置がずれている。
しかも今日は、木箱が一つ増えていた。どこか別の場所から勝手に持ってきたらしい、片足の欠けた小箱だ。受け皿の近くへ寄せてあり、二人並んで水を汲みやすい位置になっている。
さらに、その奥。
危険を避けるために立てかけておいた板が、半分倒されていた。
誰かが邪魔だと思って動かしたのだ。
レンはしばらくその場に立っていた。
ここを便利にしたのは自分だ。
だが便利になったものは、使われる。
それ自体は別に間違っていない。
問題は、使う側がこの場所の都合を何も知らないことだった。
水は欲しい時だけ取ればいいわけではない。
足場は立てればいいわけではない。
補助鎖は手を掛けても平気なものと、掛けてはいけないものがある。
そういう細かな違いが、ここではそのまま事故になる。
レンはまず倒れた板を戻した。
だが元の位置へ戻すだけでは足りない。
邪魔だからどかされるなら、邪魔ではなく“通れない形”にしなければ意味がない。
板の片側を、古い配管の受けに噛ませる。人が軽く押した程度では動かず、保守員が本気で外そうとすれば外れる程度の噛ませ方だ。露骨に塞がない。だが、気軽には動かせない。
次に、増えた小箱を見た。
これも厄介だった。
使いやすい位置にある。だから人が寄る。寄れば危ない。
レンはそれを持ち上げ、少し離れた壁際へ運んだ。
そして代わりに、元から使っていた木箱の位置を調整する。箱ひとつで足りるように、受け皿の角度を少し変え、瓶が置きやすいように縁を石片で均す。
一つだけ使える。
それ以外は使いにくい。
言葉ではなく、形で制限する。
それが一番、余計な反発を生まない。
◇
その日の昼前、レンはもう一度東側へ戻った。
気配があったからだ。
子供たちではない。
足音が重い。
配管の影へ入る。
現れたのは、スラムの大人だった。男が一人。痩せてはいるが、子供よりずっと遠慮がない。片手に桶、もう片方に古い針金束を持っている。
男は受け皿の前でしゃがむと、水を汲む前に板の向こうを見た。
危ない位置。
そこに何か使えるものがあるか確かめている顔だった。
そして、針金束を差し込んだ。
「……やめろ」
今度は、ほんの小さく声が出た。
男には聞こえていない。
だがレン自身には十分だった。
針金が補助歯へ届く。
たまたま引っかかれば、動きが変わる。
レンは影から出るより先に、手近のバルブへ触れた。
ほんの少しだけ流れを変える。
水音が一段強くなる。
男がそちらを見る。
その隙に、レンは配管の裏を抜けて位置を変え、針金束の根元を軽く弾いた。
「あっ」
男の手から針金が落ちる。
転がって、受け皿の下へ入る。
男は舌打ちし、屈み込んだ。だがそこは手を入れにくい位置だ。無理に取ろうとすると、今度は体勢が悪い。
そのあいだにレンは受け皿の位置をわずかにずらした。
水が男の桶へ素直に入るようになる。
男は針金を取るのを諦めたらしく、桶が満ちるのを待った。
「……最初からこうならなあ」
ぼやきながら去っていく。
レンは影から出た。
針金を拾う。
危ない位置へ届く道具は、そのまま自分の中へ取り込んだ。錆びた金属の味が少しだけ残る。
「勝手に増えるなよ」
誰に言うでもなく呟く。
地下は返事をしない。
水の音だけが残る。
◇
午後、ヨナスが地下へ降りてきた。
今度は仕事のついででも何でもない顔だった。
最初から“見に来た”顔だ。
レンは第三枝路の脇でその気配を拾った。
急がない。
だが躊躇もしない。
見たい場所が決まっている歩き方だった。
東側へ来る。
木箱を見る。
板を見る。
受け皿を見る。
昨日より整理されていることに、すぐ気づいた顔をした。
「……誰か、管理してるのか」
小さく呟く。
その言い方に、レンは少しだけ目を細めた。
調整している、ではない。
管理している。
そこまで来たか、と思う。
ヨナスはしゃがみ込み、木箱に手を置いた。
持ち上げはしない。重さを見るだけだ。
板の噛ませ方も見る。
板の向こうが危ないとまでは分からなくても、「ここから先は行かない方がいい」と形で示されていることは理解したらしい。
「勝手に整ってるんじゃないな」
独り言のように言う。
「整えられてる」
レンは動かなかった。
ヨナスは周囲を見回した。
前より露骨だ。配管の影、壁と壁の隙間、保守路の暗がり。誰かがいそうな場所を、一応ひと通り見る。
だが、見つからない。
見つからないまま、ヨナスは立ち上がった。
その顔には、半分だけ確信がある。
証拠はない。
だが、もう“ただの偶然”だとは思っていない顔だった。
◇
地上に戻ると、帳場の前でヨナスがリーネに話していた。
「東、整理されてました」
「何がですか」
「使う場所と使わない場所が、分かるように」
リーネは視線を紙へ落としたまま、答える。
「保守員がやったのでは」
「だったら記録があるでしょう」
「ないんですね」
「ないです」
ヨナスは少しだけ前のめりになる。
「これ、直してるんじゃなくて、使い方を決めてる人がいますよ」
リーネの指が止まる。
帳場の空気が一拍だけ沈んだ。
「使い方、ですか」
「はい。危ないところは自然に入れなくして、使うところだけ残してる」
ヨナスは言う。
「子供でも触れる場所は安全で、危なそうなところほど入りにくい。偶然じゃないです」
その言葉は、かなり正確だった。
リーネは紙束を揃え直し、ようやく顔を上げた。
「よく見ていますね」
「見てますから」
「それは感心しません」
「してない顔ですね」
ヨナスは苦笑する。
だが、そこで引かない。
「誰なんですか」
とうとう聞いた。
リーネは一瞬だけ無言になった。
それから、淡々と答える。
「許可のない利用は認められていません」
「地下を使ってる人の話じゃなくて」
「同じ話です」
リーネの声が少しだけ硬くなる。
「許可されていないものを、こちらから認めるわけにはいきません」
ヨナスは黙る。
そこで完全に止められたわけではない。
だが、“それ以上は踏み込むな”という線は伝わったらしい。
「……分かりました」
言葉の上では、という顔で下がる。
レンは壁際からそのやり取りを聞いていた。
リーネは名前を出さない。
出さないで、線だけを引く。
許可されていません。
その一言は、地下を勝手に使う者にも、見ようとしすぎる者にも同じように向けられている気がした。
◇
夕方、東側にはまた子供たちが来た。
昨日の二人だ。
今日は瓶の数が一つ多い。
「前より使いにくい」
一人が言う。
「箱が一つ減ってる」
「でも、ここなら届く」
もう一人が答える。
それで終わる。
不満はある。
だが、使える場所が残っているなら、そちらを使う。
人はそういうものだ。
子供たちは木箱ひとつで順番に水を受け、終わるとすぐ帰っていく。無駄に奥へ行こうとはしない。危ない板の向こうも気にしない。
十分だった。
全部を締め出す必要はない。
使える場所だけ残せば、それで足りる。
レンは配管の影からその様子を見ていた。
便利にするだけでは駄目なのだろう。
便利になった場所には人が集まる。
集まった人は、こちらの都合を知らない。
なら、都合ごと形にしておくしかない。
初めて、自分がこの地下を“管理している”のだと、少しだけ実感した。
◇
夜、自分の部屋へ戻ると、水の音は少しだけ狭くなっていた。
流れそのものは安定している。
だが、人の使う場所を絞ったぶん、音の散り方が変わっている。
レンは入口で立ち止まり、耳を澄ませた。
東側の木箱。
第三枝路の逃がし。
危険な板の向こう側。
見ようとするヨナス。
何も言わないリーネ。
地下は前よりずっと、人の都合に触れ始めていた。
居場所が広がっているのか、仕事が増えているのか、自分でももう区別がつかない。
ただ、前より一つだけはっきりしていることがある。
放っておけば、ここは崩れる。
誰かが使うなら、誰かが決めなければならない。
どこまで来てよくて、どこから先は駄目なのか。
レンは壁へ手を当てた。
冷たい石の向こうに、水の細い流れがある。街の都合と地下の都合が、そこを通って行き来している。
「……面倒だな」
口に出すと、少しだけ本音だった。
だが、その面倒を放り出したいとは、もうあまり思わなかった。




