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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第三章 それは依頼にありませんが

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第26話 記録にない作業です

 古い設備というものは、壊れる前に一度だけ機嫌が良くなることがある。


 朝のギルドで、保守員の一人がそう言った。


「嫌な言い方ですね」


 受付の向こうで、リーネが書類を揃えながら答える。


「壊れる前触れってことだ」


「でしたら、なおさら嫌な言い方です」


 声はいつも通りだった。

 だが監査が終わって数日経っても、帳場の整い方は少しだけ過剰なままだ。紙束の端が揃い、控えの向きが揃い、返事の間が短い。戻ったように見えて、まだ戻りきっていない。


 レンは帳場の脇を通りながら、その会話だけを拾った。


「何が機嫌いいんですか」


 何でもない調子で聞く。


 保守員が顔を上げた。まだ若い男だ。監査の頃から何度か帳場へ困り顔で戻ってきていた。


「東側の古い昇降機だよ」


「物資搬入用の?」


「そう。それが昨日まで、引っかかるみたいに重かったんだが、今朝は妙に軽い」


 保守員は首をひねっている。


「軽いなら良いのでは」


 レンが言うと、男はますます困った顔をした。


「良くないんだよ。昨日まで重かったものが、記録もないのに急に軽くなるのは気味が悪い」


 それはもっともだった。


 壊れていると分かれば直せる。

 直ったと分かれば記録が残る。

 だが、その途中が抜けて結果だけ変わると、人は急に落ち着かなくなる。


 リーネが帳票を一枚引き抜いた。


「修理記録は」


「ないです」


「点検記録は」


「昨日の夕方までならあります。異常あり、経過観察」


「今朝は?」


「動いた」


 保守員は即答した。


「それが問題でして」


 リーネは一拍だけ黙り、紙へ目を落とした。


「……正式な保守依頼にはなりませんね」


「ですよねえ」


「現時点で動いているので」


 正しい。

 そして面倒だ。


 レンはそのまま通り過ぎようとして、少しだけ足を止めた。


「どこの系統ですか」


「東搬入口の下。第三枝路の先だ」


 レンは何も言わずに頷いた。


 第三枝路。

 昨日、自分が流れをいじった系統に近い。


 その程度の偶然は、別に珍しくない。

 だが、珍しくないからこそ、気にしたほうがいい。


   ◇


 地下へ降りると、音が少しだけ違った。


 水ではない。

 金属だ。


 細い軋みが、一定ではない間隔で混じっている。昇降機の巻上げ部が、軽くなったぶん別のところへ負荷を逃がしている音だった。


 レンは東側の搬入口下へ向かう。


 第三枝路から古い補助通路を抜け、低い梁の下をくぐる。ここは人間が荷を持って通るには窮屈だが、見回るだけなら問題ない。蒸気管の熱で壁がほんのり温かく、そのぶん床石は乾いている。


 昇降機の真下に着くと、原因はすぐに分かった。


「……そっちか」


 小さく呟く。


 巻上げ用の補助歯車に、水圧逃がしの流れが半端に噛んでいた。


 本来、昇降機と排水は別系統だ。

 だが古い施設では、後から増設した管や補助弁が“ついで”で繋がっていることがある。昨日、第三枝路の流れを安定させるために逃がした圧が、死んでいたはずの補助弁を押して、東側の巻上げの負荷をほんの少しだけ軽くしていた。


 結果として動きは良くなった。

 だが、良くなり方が不自然だ。


 このままにしておけば、今度は逆側が噛む。

 軽い日と重い日が揺れれば、いつか誰かが無理に回す。そうなれば歯を欠く。


 レンはしゃがみ込み、補助弁の位置を見た。


 古い。

 だがまだ生きている。


 動かすだけなら簡単だ。

 ただ、ここでもやることは同じだった。


 直すのではない。

 『自然にそうなっている形へずらす。』


 そのとき、奥の細い通路で何かが鳴った。


 乾いた足音。

 軽い。

 保守員ではない。


 レンはすぐに配管の影へ身を寄せた。


 足音の主は、子供だった。


 十にも届かないくらいの、小さな影。痩せていて、袖の余った上着を着ている。手には古い瓶を抱えていた。地下へ入る格好ではないし、ギルドの関係者にも見えない。


 スラム側だ、とレンは思った。


 子供は慣れた様子で細い通路を抜け、排水脇のちょっとした広がりへ出る。そこで瓶を置き、上を見上げた。


 漏水受けから落ちる細い水滴が、古い受け皿に溜まっている。飲み水には向かない。だが洗い物や掃除には使える程度の水だ。


 子供はその瓶へ、慎重に水を受け始めた。


 そこで終わればよかったのだが、終わらなかった。


 瓶が半分ほど溜まったところで、子供は背伸びをして、昇降機の補助鎖に手をかけた。ちょうど手近な位置にあるものへ、体を支えるつもりで。


「……やめろ」


 思わず声が出かけたが、レンは飲み込んだ。


 鎖は今、微妙な位置に負荷が分散している。

 子供一人の重さでも、掛かり方が悪ければ補助歯がずれる。


 子供は知らない。


 知らないまま、さらに片足を浮かせた。


 レンは影から出た。


 速くはない。

 だが、間に合う位置だけを最短で踏む。


 子供が何かに気づくより先に、鎖の下へ手を入れ、その張りをずらす。もう片方の手で、壁際に転がっていた古い木箱を滑らせた。


 子供の足が、その箱に乗る。


「……あ」


 初めて声が漏れた。


 レンはもう影へ戻りかけている。


 子供は周囲を見回した。

 だが、見える位置には誰もいない。あるのは、さっきまでなかったはずの木箱だけだ。


「……なんだよ」


 小さく呟き、それでもその箱に乗って、水の瓶を満たした。


 レンは配管の影から、その様子を見ていた。


 危ない。

 そして、これが一人では済まない気配がした。


   ◇


 子供が去ったあと、レンは木箱を元に戻さなかった。


 むしろ、位置を少し調整した。


 昇降機の補助鎖へ手をかけなくても、漏水受けへ届くように。足を乗せたときに滑らない角度へ。ついでに、危ない補助歯の前には自然に近づきにくいよう、古い板を一枚立てかけておく。


 露骨な封鎖はしない。

 そんなことをすれば、逆に触られる。


 人は、行きやすい方へ行く。

 なら、行ってもいい方だけを残せばいい。


 それから昇降機の補助弁へ戻る。


 今度は、子供に触られても大丈夫な形にしなければならない。昨日のように流れだけを整えるのでは足りない。

人間が使う前提で、不具合が起きにくい状態へ持っていく。


 レンは補助弁の開きをほんの少しだけ変えた。第三枝路の逃がしをそのまま活かしつつ、昇降機へ抜ける圧が一箇所に噛まないよう、間に古い受け槽を挟む。水が一度浅く溜まり、そこから落ちるように流れを変える。


 そうすれば揺れが丸くなる。

 完全に元通りではない。

 だが、昨日より自然に軽い状態へ近づく。


 ついでに、巻上げ部の足元へ散っていた砂を均し、誰かが不用意に踏み込んでも滑りにくくする。さっき子供が持っていった程度の水なら、ここまでやれば事故にはならない。


 作業を終えて、レンは少し離れて見た。


 使いやすくなっている。

 そして危なくなくなっている。


 直した、というより。

 『触られることを前提に整えた。』


 それはもう、修理とは少し違う仕事だった。


   ◇


 昼過ぎ、帳場へ戻ると、朝の保守員がまた首をひねっていた。


「どうだ」


 同僚に聞かれ、男は腕を組む。


「やっぱり動きがいい」


「壊れる前触れじゃないのか」


「だったらもっと嫌だろ」


 二人とも真顔だった。


 リーネが紙から目を上げずに言う。


「記録は」


「ないです」


「点検票には?」


「異常ありから、様子見に戻すしかないですね」


 保守員は納得していない顔だ。


「いやでも、昨日まで重かったんですよ?」


「今日は?」


「軽いです」


「でしたら、今日は軽いのでしょう」


 正しい。

 そして腹が立つ種類の正しさだった。


 保守員はうう、と唸る。


「そうなんですけど」


「記録にない作業です」


 リーネは淡々と言う。


「ですので、こちらで言えるのは“現時点で正常”までです」


 レンはその横を通り抜けた。


 帳場の向こうから、リーネが一瞬だけ視線をよこした気がした。

 だが、何も言わない。


 言わないで済ませる気配だけがあった。


   ◇


 夕方、東側の地下へ戻ると、朝の子供がまた来ていた。


 今度は一人ではない。

 もう一人、小さな影がいる。瓶も二つだ。


「ここ、前より使いやすい」


「ほんとだ。届く」


 二人とも、あっさり木箱へ乗り、受け皿の水を瓶へ移していく。補助鎖には触れない。危ない板の向こう側にも行かない。


 そういう風に整えたのだから当然だ。


 レンは少し離れた影で、その様子を見る。


 見つからない。

 見つかる必要もない。


 子供たちは水を汲み終えると、そのまま細い通路を戻っていく。去り際に、一人が振り返って木箱を見た。


「昨日、こんなのあったっけ」


「知らない」


「まあいいや」


 それで終わる。


 理由が分からなくても、使えればそれでいい。

 子供というのはそういうところがある。


 レンはしばらくその場に立っていた。


 人に知られないまま、人に使われる。

 それは少し厄介で、少し都合がよくて、思っていたより居心地の悪い話だった。


 だが、悪くはないのかもしれない、とも思う。


   ◇


 その夜、自分の部屋へ戻ると、水の音はいつもより少し丸かった。


 第三枝路の逃がしと、東側昇降機の負荷が、ようやく馴染んだのだろう。部屋の奥へ落ちる水の響きが半拍だけ柔らかい。


 レンは入口で立ち止まり、耳を澄ませた。


 街の誰かは、今日もあの水場を使ったはずだ。

 あの子供たちも、また来るだろう。

 昇降機も、しばらくは機嫌よく動く。


 帳面には載らない。

 感謝もされない。

 依頼にすらなっていない。


 それでも、街のどこかで“使えるようになっている”ものが増えていく。


 レンは壁際へ手を当てた。

 石は冷たいままだったが、その向こうの流れは安定していた。


 少しずつ広がっていくのだろう、とふと思った。


 部屋そのものではなく。

 ここでやっている仕事のほうが。

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