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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第三章 それは依頼にありませんが

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第25話 その依頼は受理されていません

 朝のギルドは、監査が終わっても朝のギルドだった。


 帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざっていた。圧力計の針が小さく震え、どこかでバルブがひとつ閉まる。


 違うのは、確認の言葉が少しだけ増えたことくらいだ。


「順路をお守りください」


 受付の向こうから、いつもの声が飛ぶ。


「あと、濡れた床にご注意ください」


 レンは帳場の脇を通りながら、そちらを見なかった。

 見なくても、誰が言ったか分かる。


 リーネは書類を揃えていた。監査が終わってから、表向きはいつもの帳場へ戻っている。だが紙の並べ方が以前よりわずかに整い、確認の間が半拍だけ短くなった。本人は変わっていないつもりだろうが、少しは残る。


 そのとき、保守員が一人、帳場へ戻ってきた。


 顔に露骨な困り顔を貼りつけた、まだ若い男だ。手には濡れた手袋を持っている。


「またか」


 リーネが書類から目を上げずに言う。


「またです」


 保守員は答えた。


「詰まりじゃないんですが、流れが変なんです」


 レンはそのまま歩きながら、少しだけ耳を傾けた。


「変、とは」


「揺らぐんですよ。落ち着いたと思ったら、またちょっとだけ水位が上がる。上がったかと思うと、今度は戻る」


「排水枝路?」


「第三と第四のあいだです。大した被害はないんですが、あれ、このままだとそのうちどこか噛むかもしれなくて」


 リーネがようやく顔を上げる。


「記録は」


「つけました」


「異常として上げるほどでは?」


「そこまででもないんですが……」


 保守員は言い淀んだ。

 そこが、この手の話の一番面倒なところだった。


 壊れているなら動ける。

 壊れていないなら後回しにされる。


 そのあいだにある“なんとなく変”は、たいてい仕事にならない。


 リーネが言う。


「正式依頼にはなりませんね」


「ですよね……」


「被害が軽微で、再現性が曖昧で、緊急性も低い」


 ひとつずつ、判を押すように言う。


「保守の巡回で経過観察です」


 保守員は露骨に肩を落とした。


「経過観察してるあいだに悪くなったら?」


「悪くなった時点で正式に上げてください」


 正しい。

 正しいのだが、嬉しくはない答えだ。


 レンはそのまま通り過ぎようとして、少しだけ足を止めた。


 第三と第四のあいだ。

 自分の部屋に近い。


「何か?」


 リーネが視線だけで問う。


「いえ」


 レンは首を振った。


「大したことではなさそうなので」


「そうですね」


 リーネはもう次の紙を取っていた。


「その依頼は受理されていません」


 その一言だけが、帳場の上にきれいに残った。


   ◇


 地下へ降りると、いつもの湿った空気が迎えた。


 地上の煤と油の匂いが切れ、代わりに石と鉄と古い水の匂いが近づく。階段の三段目が少しだけ削れていることも、踊り場の右側へ水が溜まりやすいことも、レンはもう身体で知っていた。


 自分の部屋へ向かう前に、第三と第四のあいだへ寄る。


 排水枝路は、見た目には大した異常がなかった。

 水は流れている。

 濁りもない。

 床も沈んでいない。


 だが、足を止めて聞けば分かる。


 音が揺れていた。


 一定の高さを保つはずの落ち口が、半拍ごとにわずかに変わる。詰まりの音ではない。上流で無理に吸われたときの、細い乱れ方だった。


 レンはしゃがみ込む。


 指先を濡れた石へ当て、流れの振動を拾う。

 一定ではない。

 だが完全な乱れでもない。


「……抜かれてるな」


 小さく呟いた。


 誰かが途中で水を引いている。

 しかも素人だ。


 正規の分岐ならこんな脈の打ち方はしない。もっと滑らかに減る。これは、細い管を無理に噛ませて、必要なときだけ吸っている揺れ方だ。


 レンは水路沿いに歩く。


 第三枝路から第四へ。そこからさらに古い補修壁の脇へ。煉瓦の目地が一箇所だけ新しい。とはいえ、最近工事した新しさではない。誰かが雑に埋め直した程度の粗い仕上げだ。


 壁に手を当てる。


 向こうに空洞がある。


 ギルド側からではなく、街側から穴を通した音だった。


 レンはそのまま壁沿いを追った。

 古い保守余地の脇、使われていない小さな点検口、その先のさらに細い隙間。人が通るつもりで作られた場所ではない。だが、通れない場所でもない。


 そこを抜ける。


 石が背に触れ、配管が肩をかすめる。ほんの少し人の形を緩めれば足りる幅だった。


 抜けた先は、スラム側の外れだった。


   ◇


 地上へ出ると、空気の匂いが変わる。


 同じ街でも、ギルド裏とスラムの裏では混ざるものが違う。煮滓、濡れた布、古い灰、安い酒、湿った木。人はいるが、見たいものだけ見て、それ以外は見ないふりをする。


 レンは壁沿いを歩く。


 水路の上に渡された板。崩れかけた樽。積まれた薪。その陰に、細い鉄管が走っていた。新しくはない。だが、街の正式な施工でもない。長さの合わない管を無理に継ぎ、漏れを布で巻いて止め、最後だけは妙に新しい蛇口をつけている。


 その先には、共同炊事場にもなっていないような半端な水場があった。桶が二つ、割れた洗面鉢が一つ。朝の名残らしい濡れが残っている。


 使われている。


 それも一人ではない。

 たぶん数世帯。


 レンはしばらくその場を見ていた。


 切るのは簡単だ。

 ギルド側の流れを絞ってしまえばいい。壁の内側から封じることもできる。


 だが、それをやればこの水場は死ぬ。

 そして水を失った連中は、また別のところにもっと雑な穴を開けるだろう。


 放置もできない。

 このままだと、いずれ揺れが大きくなって、ギルド側の流れにも響く。自分の部屋に近い系統まで巻き込めば、生活どころではなくなる。


 切るか、放置するか。


 そのどちらでもない答えを考える。


「……面倒だな」


 だが、それしかない。


   ◇


 レンが地下へ戻ったのは昼前だった。


 地上では正式依頼にならない。

 帳面にも載らない。

 なら、ここでやるしかない。


 第三枝路の分岐へ戻り、レンは流れをもう一度見る。必要なのは、違法接続を消すことではない。あれがあっても全体が揺らがない状態にすることだ。


 分岐の手前で圧を散らす。

 余計な脈が出る前に、逃がしを作る。


 レンは壁際の古い補助管へ手をかけた。本来は緊急時にだけ使う細い流し口だ。今は閉じられたまま死んでいる。これを少し生かす。完全に開けると目立つ。ほんの少しだけ、流れが吸われたときの揺れを逃がせる程度に。


 バルブを動かす。

 固い。

 だが死んではいない。


 半刻ほどかけて、ようやくわずかに動いた。

 水音が変わる。


 次に、違法接続へ向かう側の圧を均す。雑に吸われても一箇所へ負荷が集中しないよう、手前の石槽に薄い逃げを作る。流れの形を変え、水の機嫌を取る。


 壊れたものを直しているわけではない。

 不正を正しているわけでもない。

 ただ、問題が起きないように、街の都合と地下の都合を擦り合わせているだけだ。


 こういう仕事には名前がない。


 終わった頃には、第三と第四のあいだの音はだいぶ落ち着いていた。完全に一定ではない。だが、あれなら保守員が首をひねる程度で済む。少なくとも、今日明日でどこかが噛むことはない。


 レンは濡れた石へ手を当てたまま、流れを聞いた。


「……これでしばらくは保つ」


 誰に言うでもなく呟く。


 それで十分だった。


   ◇


 午後、帳場の前で朝の保守員がまた足を止めた。


「どうだった」


 同僚らしい男に聞かれ、保守員は首をひねる。


「直った、ってほどでもないんだが」


「だが?」


「落ち着いた」


 妙に納得のいかない顔をしている。


「誰か触った記録は」


「ない」


「じゃあ気のせいか」


「気のせいで流れが戻るか?」


 二人とも、そこで黙る。


 リーネはそのやり取りを聞いていたはずだが、顔を上げなかった。

 ただ、紙を一枚めくってから言う。


「記録、ないわよね」


「ありません」


 保守員が答える。


「作業票も?」


「出してません。出すほどの故障じゃなかったので」


「そう」


 リーネはペン先を紙へ戻した。


 少しだけ間があく。


「なら、何も起きていないのと同じね」


 事務的な声だ。

 だが、その言い方は少しだけ妙だった。


 何も起きていない、と断じるには、知っている響きが混じっている。


 レンは帳場の脇を通り過ぎながら、そちらを見なかった。


   ◇


 夕方、スラム側の水場では、女が一人、蛇口をひねっていた。


 朝は頼りなかった流れが、今は少しだけ安定している。勢いが増したわけではない。だが、途切れにくい。桶の底を叩く水の音が、前より一定だ。


「今日、機嫌いいねえ」


 女がぼやくように言う。


 隣で待っていた子供が、分からないまま頷いた。


「また止まるかな」


「さあね。止まらないなら、それでいいだろ」


 そう言って、誰も理由は考えない。

 考えても仕方がないからだ。


 水が出る。

 それで足りる。


   ◇


 地下へ戻ると、自分の部屋のあたりの流れも少しだけ静かになっていた。


 第三枝路の脈が落ち着いた分、全体の響きが丸くなっている。大した違いではない。だが、ここで暮らすにはそういう小さな差のほうが大きい。


 レンは部屋の入口で立ち止まり、水音を聞いた。


 誰にも頼まれていない。

 正式な依頼にもなっていない。

 記録にも残らない。


 それでも、やる必要のある仕事はある。


 そういうものが、街には思っているより多いのかもしれない。


 レンは壁際に手を置いた。

 冷たい石が、静かにそのまま返ってくる。


 これでしばらくは保つ。

 自分の部屋も、あの水場も。


 帳面には載らないが、流れには残る。

 それでいい、と今は思えた。

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