第25話 その依頼は受理されていません
朝のギルドは、監査が終わっても朝のギルドだった。
帳場では羽根ペンが紙をひっかき、蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、濡れた外套の匂いと油の匂いが混ざっていた。圧力計の針が小さく震え、どこかでバルブがひとつ閉まる。
違うのは、確認の言葉が少しだけ増えたことくらいだ。
「順路をお守りください」
受付の向こうから、いつもの声が飛ぶ。
「あと、濡れた床にご注意ください」
レンは帳場の脇を通りながら、そちらを見なかった。
見なくても、誰が言ったか分かる。
リーネは書類を揃えていた。監査が終わってから、表向きはいつもの帳場へ戻っている。だが紙の並べ方が以前よりわずかに整い、確認の間が半拍だけ短くなった。本人は変わっていないつもりだろうが、少しは残る。
そのとき、保守員が一人、帳場へ戻ってきた。
顔に露骨な困り顔を貼りつけた、まだ若い男だ。手には濡れた手袋を持っている。
「またか」
リーネが書類から目を上げずに言う。
「またです」
保守員は答えた。
「詰まりじゃないんですが、流れが変なんです」
レンはそのまま歩きながら、少しだけ耳を傾けた。
「変、とは」
「揺らぐんですよ。落ち着いたと思ったら、またちょっとだけ水位が上がる。上がったかと思うと、今度は戻る」
「排水枝路?」
「第三と第四のあいだです。大した被害はないんですが、あれ、このままだとそのうちどこか噛むかもしれなくて」
リーネがようやく顔を上げる。
「記録は」
「つけました」
「異常として上げるほどでは?」
「そこまででもないんですが……」
保守員は言い淀んだ。
そこが、この手の話の一番面倒なところだった。
壊れているなら動ける。
壊れていないなら後回しにされる。
そのあいだにある“なんとなく変”は、たいてい仕事にならない。
リーネが言う。
「正式依頼にはなりませんね」
「ですよね……」
「被害が軽微で、再現性が曖昧で、緊急性も低い」
ひとつずつ、判を押すように言う。
「保守の巡回で経過観察です」
保守員は露骨に肩を落とした。
「経過観察してるあいだに悪くなったら?」
「悪くなった時点で正式に上げてください」
正しい。
正しいのだが、嬉しくはない答えだ。
レンはそのまま通り過ぎようとして、少しだけ足を止めた。
第三と第四のあいだ。
自分の部屋に近い。
「何か?」
リーネが視線だけで問う。
「いえ」
レンは首を振った。
「大したことではなさそうなので」
「そうですね」
リーネはもう次の紙を取っていた。
「その依頼は受理されていません」
その一言だけが、帳場の上にきれいに残った。
◇
地下へ降りると、いつもの湿った空気が迎えた。
地上の煤と油の匂いが切れ、代わりに石と鉄と古い水の匂いが近づく。階段の三段目が少しだけ削れていることも、踊り場の右側へ水が溜まりやすいことも、レンはもう身体で知っていた。
自分の部屋へ向かう前に、第三と第四のあいだへ寄る。
排水枝路は、見た目には大した異常がなかった。
水は流れている。
濁りもない。
床も沈んでいない。
だが、足を止めて聞けば分かる。
音が揺れていた。
一定の高さを保つはずの落ち口が、半拍ごとにわずかに変わる。詰まりの音ではない。上流で無理に吸われたときの、細い乱れ方だった。
レンはしゃがみ込む。
指先を濡れた石へ当て、流れの振動を拾う。
一定ではない。
だが完全な乱れでもない。
「……抜かれてるな」
小さく呟いた。
誰かが途中で水を引いている。
しかも素人だ。
正規の分岐ならこんな脈の打ち方はしない。もっと滑らかに減る。これは、細い管を無理に噛ませて、必要なときだけ吸っている揺れ方だ。
レンは水路沿いに歩く。
第三枝路から第四へ。そこからさらに古い補修壁の脇へ。煉瓦の目地が一箇所だけ新しい。とはいえ、最近工事した新しさではない。誰かが雑に埋め直した程度の粗い仕上げだ。
壁に手を当てる。
向こうに空洞がある。
ギルド側からではなく、街側から穴を通した音だった。
レンはそのまま壁沿いを追った。
古い保守余地の脇、使われていない小さな点検口、その先のさらに細い隙間。人が通るつもりで作られた場所ではない。だが、通れない場所でもない。
そこを抜ける。
石が背に触れ、配管が肩をかすめる。ほんの少し人の形を緩めれば足りる幅だった。
抜けた先は、スラム側の外れだった。
◇
地上へ出ると、空気の匂いが変わる。
同じ街でも、ギルド裏とスラムの裏では混ざるものが違う。煮滓、濡れた布、古い灰、安い酒、湿った木。人はいるが、見たいものだけ見て、それ以外は見ないふりをする。
レンは壁沿いを歩く。
水路の上に渡された板。崩れかけた樽。積まれた薪。その陰に、細い鉄管が走っていた。新しくはない。だが、街の正式な施工でもない。長さの合わない管を無理に継ぎ、漏れを布で巻いて止め、最後だけは妙に新しい蛇口をつけている。
その先には、共同炊事場にもなっていないような半端な水場があった。桶が二つ、割れた洗面鉢が一つ。朝の名残らしい濡れが残っている。
使われている。
それも一人ではない。
たぶん数世帯。
レンはしばらくその場を見ていた。
切るのは簡単だ。
ギルド側の流れを絞ってしまえばいい。壁の内側から封じることもできる。
だが、それをやればこの水場は死ぬ。
そして水を失った連中は、また別のところにもっと雑な穴を開けるだろう。
放置もできない。
このままだと、いずれ揺れが大きくなって、ギルド側の流れにも響く。自分の部屋に近い系統まで巻き込めば、生活どころではなくなる。
切るか、放置するか。
そのどちらでもない答えを考える。
「……面倒だな」
だが、それしかない。
◇
レンが地下へ戻ったのは昼前だった。
地上では正式依頼にならない。
帳面にも載らない。
なら、ここでやるしかない。
第三枝路の分岐へ戻り、レンは流れをもう一度見る。必要なのは、違法接続を消すことではない。あれがあっても全体が揺らがない状態にすることだ。
分岐の手前で圧を散らす。
余計な脈が出る前に、逃がしを作る。
レンは壁際の古い補助管へ手をかけた。本来は緊急時にだけ使う細い流し口だ。今は閉じられたまま死んでいる。これを少し生かす。完全に開けると目立つ。ほんの少しだけ、流れが吸われたときの揺れを逃がせる程度に。
バルブを動かす。
固い。
だが死んではいない。
半刻ほどかけて、ようやくわずかに動いた。
水音が変わる。
次に、違法接続へ向かう側の圧を均す。雑に吸われても一箇所へ負荷が集中しないよう、手前の石槽に薄い逃げを作る。流れの形を変え、水の機嫌を取る。
壊れたものを直しているわけではない。
不正を正しているわけでもない。
ただ、問題が起きないように、街の都合と地下の都合を擦り合わせているだけだ。
こういう仕事には名前がない。
終わった頃には、第三と第四のあいだの音はだいぶ落ち着いていた。完全に一定ではない。だが、あれなら保守員が首をひねる程度で済む。少なくとも、今日明日でどこかが噛むことはない。
レンは濡れた石へ手を当てたまま、流れを聞いた。
「……これでしばらくは保つ」
誰に言うでもなく呟く。
それで十分だった。
◇
午後、帳場の前で朝の保守員がまた足を止めた。
「どうだった」
同僚らしい男に聞かれ、保守員は首をひねる。
「直った、ってほどでもないんだが」
「だが?」
「落ち着いた」
妙に納得のいかない顔をしている。
「誰か触った記録は」
「ない」
「じゃあ気のせいか」
「気のせいで流れが戻るか?」
二人とも、そこで黙る。
リーネはそのやり取りを聞いていたはずだが、顔を上げなかった。
ただ、紙を一枚めくってから言う。
「記録、ないわよね」
「ありません」
保守員が答える。
「作業票も?」
「出してません。出すほどの故障じゃなかったので」
「そう」
リーネはペン先を紙へ戻した。
少しだけ間があく。
「なら、何も起きていないのと同じね」
事務的な声だ。
だが、その言い方は少しだけ妙だった。
何も起きていない、と断じるには、知っている響きが混じっている。
レンは帳場の脇を通り過ぎながら、そちらを見なかった。
◇
夕方、スラム側の水場では、女が一人、蛇口をひねっていた。
朝は頼りなかった流れが、今は少しだけ安定している。勢いが増したわけではない。だが、途切れにくい。桶の底を叩く水の音が、前より一定だ。
「今日、機嫌いいねえ」
女がぼやくように言う。
隣で待っていた子供が、分からないまま頷いた。
「また止まるかな」
「さあね。止まらないなら、それでいいだろ」
そう言って、誰も理由は考えない。
考えても仕方がないからだ。
水が出る。
それで足りる。
◇
地下へ戻ると、自分の部屋のあたりの流れも少しだけ静かになっていた。
第三枝路の脈が落ち着いた分、全体の響きが丸くなっている。大した違いではない。だが、ここで暮らすにはそういう小さな差のほうが大きい。
レンは部屋の入口で立ち止まり、水音を聞いた。
誰にも頼まれていない。
正式な依頼にもなっていない。
記録にも残らない。
それでも、やる必要のある仕事はある。
そういうものが、街には思っているより多いのかもしれない。
レンは壁際に手を置いた。
冷たい石が、静かにそのまま返ってくる。
これでしばらくは保つ。
自分の部屋も、あの水場も。
帳面には載らないが、流れには残る。
それでいい、と今は思えた。




