外伝 記録には残りませんが
監査が終わったあとも、街の音はいつも通りだった。
煉瓦の壁に夕方の煤が沈み、工場の高い煙突からは、昼より少し重い煙が流れていく。石畳の上では荷車が軋み、遠くで誰かが鍋の蓋を鳴らし、通りの角では新聞売りが最後の声を張っていた。
ギルドの扉が閉まる音だけが、そのいつも通りの中で、少しだけ静かだった。
イルゼは振り返らなかった。
振り返る理由はない。
報告は終えた。
確認も終えた。
記録上、異常はなかった。
それで十分だ。少なくとも、仕事としては。
地上の空気は、地下より乾いている。
湿った石と鉄の匂いが薄れ、代わりに煤と焼き油の匂いが混じる。イルゼは外套の襟を少しだけ直し、そのまま大通りへ向かって歩いた。
数歩進んだところで、後ろから声がした。
「帰るんでしょ」
イルゼは足を止める。
声だけで分かった。
振り返ると、そこにリーネがいた。仕事着のままだ。帳場の向こうにいるときと同じ姿勢の良さなのに、外へ出ただけで少しだけ輪郭が柔らかく見える。
「はい」
イルゼは答えた。
「業務は終了しましたので」
「まだその言い方するのね」
リーネは呆れたようにも、懐かしむようにも聞こえる声で言った。だが笑ってはいない。笑ってしまうほど近い関係では、もうないのだろう。
「仕事中でしたので」
「もう終わったでしょ」
「終わったからと言って、急に雑にはなれません」
「昔からそうだった」
リーネは小さく息を吐いた。
それからイルゼの横へ並ぶ。追いついてきたのに、それ以上距離を詰めない。肩が触れない程度の間を空ける。昔の友人というにはよそよそしく、他人というには自然すぎる間隔だった。
「駅まで?」
「ええ」
「じゃあ途中まで一緒」
イルゼは断らなかった。
断る理由も、別になかった。
◇
二人で歩く。
だが、最初のしばらくはほとんど何も話さなかった。
街の音が会話の代わりをする。荷車の軋み、靴音、蒸気の吐息。こうして並んでいると、逆に何を話せばいいのか分からなくなる。研修所の帰り道なら、もっと軽い話もできたはずだ。帳票の書き方だとか、指導役の癖だとか、食堂の煮込みが薄いとか。今となっては、どれも遠い。
先に口を開いたのはリーネだった。
「あなた、ちゃんと食べてる?」
イルゼは少しだけ目を瞬いた。
「藪から棒ですね」
「同期に聞くことなんて、そんなものでしょ」
「食べています」
「ほんとに?」
「必要量は」
「そういう答え方するの、変わってない」
今度は、ほんの少しだけリーネが笑った。
イルゼは笑わない。
「あなたは」
イルゼが言う。
「前より手際が良くなりましたね」
「褒めてる?」
「事実を述べています」
「じゃあ褒めてるんじゃないの」
「評価はしていません」
「そこまで言うなら、もう褒めてるでいいでしょ」
リーネは肩をすくめた。
その仕草は昔からこうだったのだろうと思わせる自然さがあった。
通りの角を曲がる。
工場帰りの人波が少しだけ濃くなった。
イルゼはその流れを避けるように歩幅を変える。人にぶつからないようにではない。ぶつかると歩く順路が乱れるからだ。リーネはその歩き方を横目で見て、小さく言った。
「あなた、ほんとに上へ行ったのね」
「上、ですか」
「中央監査局。私たちの研修組で、あそこまで行ったの、あなたくらいでしょ」
「配属の問題です」
「それだけじゃないでしょ」
イルゼは答えなかった。
リーネも、追い打ちはかけない。
少し歩いてから、今度はイルゼが言った。
「あなたは残ったのですね」
「残ったっていうか、残ってるっていうか」
「現場に」
「ええ。そっちの方が向いてるから」
リーネは空を見上げた。煤けた夕方の空だ。綺麗ではないが、見慣れた空でもある。
「帳面は大事よ。でも、帳面だけ見てると分からないこともあるから」
「ありますね」
「言うんだ、そういうこと」
「監査官ですので」
「だから嫌なのよ、その答え方」
そう言いながらも、リーネの声に本気の棘はなかった。
◇
駅へ向かう道の途中、小さな橋がある。下を流れているのは運河というには狭く、排水路というには広い水路だった。夕方の光を濁して流れるその水を、イルゼは足を止めて少し見た。
リーネが横で言う。
「何か気になる?」
「水は流れに癖が出ますので」
「仕事、終わったって言ってたじゃない」
「見てしまうだけです」
「それ、終わってないって言うのよ」
イルゼは水面から目を上げる。
「あなたも帳場を離れても人の並びを見ています」
リーネは少しだけ黙り、それから「それはまあ」と認めた。
橋を渡る。
駅の灯りが少しだけ見えてくる。
そこで、リーネが不意に声の調子を変えた。
「……気づいてたでしょ」
イルゼは何も言わない。
「何のことか、とは言わないでね」
イルゼは歩みを止めなかった。
だが、返事までは少し間があった。
「ええ」
短く答える。
「気づいていました」
リーネは前を見たまま、ほんの小さく息を吐く。
「やっぱり」
「気づいていることと、記録できることは別です」
イルゼの声は変わらない。
冷たいわけではない。いつも通り、余計な温度がないだけだ。
「証明できないものは、記録に載せられません」
「分かってる」
リーネは言う。
「でも、分かることはあるでしょ」
今度はイルゼが黙る番だった。
橋を渡り切るまで、返事はなかった。人ひとり分の沈黙が、二人のあいだに落ちる。重すぎないが、無視もできない沈黙だ。
ようやくイルゼが言った。
「……あります」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
リーネは横目でイルゼを見る。
イルゼは前を向いたままだ。だが、さっきまでより少しだけ歩調が遅い。考えてから言ったのだと分かる遅さだった。
「じゃあ、どうして」
「どうしても何もありません」
イルゼは言う。
「私は見たものを、そのまま記録します。再現できないものは“再現できない”と書くしかない」
「融通きかない」
「そのつもりで仕事をしています」
「知ってる」
リーネは肩をすくめた。
「昔から、あなたはそうだった。訓練所でも、規則集に載ってない運用は全部止めようとした」
「規則集に載っていない運用は、事故の入口です」
「でも現場は、それだけじゃ回らないこともあるのよ」
「それも知っています」
イルゼは言った。
「知っているから厄介なのです」
リーネは目を細めた。
「知ってるんだ」
「ええ」
「じゃあ、なおさら融通きかないじゃない」
「知っていて曲げると、基準が曖昧になりますので」
「もう、本当にそういうところ」
リーネは笑いそうになって、笑いきれなかった。
怒っているわけでもない。呆れているのとも少し違う。昔から変わらない友人を見て、懐かしさと面倒くささが同時に来たような顔だった。
◇
駅前の灯りが近くなる。
人通りも少し増え、汽車の時刻を知らせる鐘が遠くでひとつ鳴った。
「次、どこ?」
リーネが聞く。
「北区の倉庫街です」
「また面倒そうなところ」
「面倒でない監査は、たいてい意味がありません」
「はいはい」
そこでリーネは、少しだけ真顔になった。
「ねえ、イルゼ」
「何でしょう」
「今日、あなたが見たもの」
イルゼは答えない。
答えを待たずに、リーネが続ける。
「記録には残らなくても、覚えてはいるんでしょ」
イルゼは駅の灯りを見る。
それから、ややあって言った。
「ええ」
「なら、もう十分よ」
「そうは思いません」
「あなたはね」
リーネは息を吐いた。
「でも私は、そういうの、嫌いじゃない」
イルゼはその言葉の意味をすぐには返さなかった。
好き嫌いで仕事を動かす話ではない。
そんなことは二人とも分かっている。
けれど、それでもリーネは今、仕事の話だけをしているわけではなかった。
「あなたは」
イルゼが静かに言う。
「現場に残ってよかったのかもしれませんね」
「あなたは上に行ってよかったの?」
「さあ」
少しだけ間があって、イルゼは続けた。
「向いていたのだと思います」
「そういうの、自分で言うんだ」
「事実を述べただけです」
「はいはい」
今度こそ、リーネは少し笑った。
それを見て、イルゼの口元もほんのわずかだけ緩んだように見えた。たぶん気のせいではないが、本人は認めないだろう程度の小さな変化だった。
◇
駅の手前で、二人は足を止めた。
ここから先はイルゼが行く。
リーネは戻る。
そういう分かれ方だ。
「じゃあね」
リーネが言う。
「次に来るときは、もう少し融通覚えてきて」
「難しい注文ですね」
「昔からそう言ってる」
「昔から難しい注文でした」
リーネは小さく息を漏らした。
「元気で」
「あなたも」
一拍。
「リーネ」
その名前を、イルゼがもう一度呼ぶ。
リーネは少しだけ目を見開いた。今度は業務中ではない。だから、その呼ばれ方には昔の響きが混ざっている。
「何」
「……異常はありません」
イルゼは言った。
事務的な文句だ。
監査官の言葉だ。
だが、今ここで言うには、少しだけ違う意味を持っていた。
リーネはそれを理解したらしく、肩をすくめて笑った。
「記録上は、でしょ」
イルゼは答えない。
それが答えだった。
そのまま駅の方へ歩き出す。
リーネはしばらくその背中を見ていたが、やがて振り返り、ギルドへ戻る方の道を取った。
◇
帰り道の途中で、リーネは一度だけ足を止めた。
ギルドの方角を見る。
建物の下には、もう夜が溜まり始めている。
地下までは見えない。
見えるはずもない。
それでも、あそこにはもう戻っているのだろうと思った。記録に残らない誰かが、記録に残らないまま、また水の音のする場所へ。
リーネは何も言わず、また歩き出した。
帳場には明日も紙が積まれる。
確認も必要だ。
順路を守らせ、待たせ、書類を揃えなければならない。
やることは変わらない。
ただ、記録には残らないことが、確かにある。
それを知っている人間が、街のどこかに二人いる。
そして、たぶんもう一人いる。
その程度で十分だと、リーネは思った。




