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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第二章 異常はありません

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外伝 記録には残りませんが

 監査が終わったあとも、街の音はいつも通りだった。


 煉瓦の壁に夕方の煤が沈み、工場の高い煙突からは、昼より少し重い煙が流れていく。石畳の上では荷車が軋み、遠くで誰かが鍋の蓋を鳴らし、通りの角では新聞売りが最後の声を張っていた。


 ギルドの扉が閉まる音だけが、そのいつも通りの中で、少しだけ静かだった。


 イルゼは振り返らなかった。


 振り返る理由はない。

 報告は終えた。

 確認も終えた。

 記録上、異常はなかった。


 それで十分だ。少なくとも、仕事としては。


 地上の空気は、地下より乾いている。

 湿った石と鉄の匂いが薄れ、代わりに煤と焼き油の匂いが混じる。イルゼは外套の襟を少しだけ直し、そのまま大通りへ向かって歩いた。


 数歩進んだところで、後ろから声がした。


「帰るんでしょ」


 イルゼは足を止める。


 声だけで分かった。


 振り返ると、そこにリーネがいた。仕事着のままだ。帳場の向こうにいるときと同じ姿勢の良さなのに、外へ出ただけで少しだけ輪郭が柔らかく見える。


「はい」


 イルゼは答えた。


「業務は終了しましたので」


「まだその言い方するのね」


 リーネは呆れたようにも、懐かしむようにも聞こえる声で言った。だが笑ってはいない。笑ってしまうほど近い関係では、もうないのだろう。


「仕事中でしたので」


「もう終わったでしょ」


「終わったからと言って、急に雑にはなれません」


「昔からそうだった」


 リーネは小さく息を吐いた。

 それからイルゼの横へ並ぶ。追いついてきたのに、それ以上距離を詰めない。肩が触れない程度の間を空ける。昔の友人というにはよそよそしく、他人というには自然すぎる間隔だった。


「駅まで?」


「ええ」


「じゃあ途中まで一緒」


 イルゼは断らなかった。


 断る理由も、別になかった。


   ◇


 二人で歩く。

 だが、最初のしばらくはほとんど何も話さなかった。


 街の音が会話の代わりをする。荷車の軋み、靴音、蒸気の吐息。こうして並んでいると、逆に何を話せばいいのか分からなくなる。研修所の帰り道なら、もっと軽い話もできたはずだ。帳票の書き方だとか、指導役の癖だとか、食堂の煮込みが薄いとか。今となっては、どれも遠い。


 先に口を開いたのはリーネだった。


「あなた、ちゃんと食べてる?」


 イルゼは少しだけ目を瞬いた。


「藪から棒ですね」


「同期に聞くことなんて、そんなものでしょ」


「食べています」


「ほんとに?」


「必要量は」


「そういう答え方するの、変わってない」


 今度は、ほんの少しだけリーネが笑った。

 イルゼは笑わない。


「あなたは」


 イルゼが言う。


「前より手際が良くなりましたね」


「褒めてる?」


「事実を述べています」


「じゃあ褒めてるんじゃないの」


「評価はしていません」


「そこまで言うなら、もう褒めてるでいいでしょ」


 リーネは肩をすくめた。

 その仕草は昔からこうだったのだろうと思わせる自然さがあった。


 通りの角を曲がる。

 工場帰りの人波が少しだけ濃くなった。


 イルゼはその流れを避けるように歩幅を変える。人にぶつからないようにではない。ぶつかると歩く順路が乱れるからだ。リーネはその歩き方を横目で見て、小さく言った。


「あなた、ほんとに上へ行ったのね」


「上、ですか」


「中央監査局。私たちの研修組で、あそこまで行ったの、あなたくらいでしょ」


「配属の問題です」


「それだけじゃないでしょ」


 イルゼは答えなかった。

 リーネも、追い打ちはかけない。


 少し歩いてから、今度はイルゼが言った。


「あなたは残ったのですね」


「残ったっていうか、残ってるっていうか」


「現場に」


「ええ。そっちの方が向いてるから」


 リーネは空を見上げた。煤けた夕方の空だ。綺麗ではないが、見慣れた空でもある。


「帳面は大事よ。でも、帳面だけ見てると分からないこともあるから」


「ありますね」


「言うんだ、そういうこと」


「監査官ですので」


「だから嫌なのよ、その答え方」


 そう言いながらも、リーネの声に本気の棘はなかった。


   ◇


 駅へ向かう道の途中、小さな橋がある。下を流れているのは運河というには狭く、排水路というには広い水路だった。夕方の光を濁して流れるその水を、イルゼは足を止めて少し見た。


 リーネが横で言う。


「何か気になる?」


「水は流れに癖が出ますので」


「仕事、終わったって言ってたじゃない」


「見てしまうだけです」


「それ、終わってないって言うのよ」


 イルゼは水面から目を上げる。


「あなたも帳場を離れても人の並びを見ています」


 リーネは少しだけ黙り、それから「それはまあ」と認めた。


 橋を渡る。

 駅の灯りが少しだけ見えてくる。


 そこで、リーネが不意に声の調子を変えた。


「……気づいてたでしょ」


 イルゼは何も言わない。


「何のことか、とは言わないでね」


 イルゼは歩みを止めなかった。

 だが、返事までは少し間があった。


「ええ」


 短く答える。


「気づいていました」


 リーネは前を見たまま、ほんの小さく息を吐く。


「やっぱり」


「気づいていることと、記録できることは別です」


 イルゼの声は変わらない。

 冷たいわけではない。いつも通り、余計な温度がないだけだ。


「証明できないものは、記録に載せられません」


「分かってる」


 リーネは言う。


「でも、分かることはあるでしょ」


 今度はイルゼが黙る番だった。


 橋を渡り切るまで、返事はなかった。人ひとり分の沈黙が、二人のあいだに落ちる。重すぎないが、無視もできない沈黙だ。


 ようやくイルゼが言った。


「……あります」


 それだけだった。


 だが、その一言で十分だった。


 リーネは横目でイルゼを見る。

 イルゼは前を向いたままだ。だが、さっきまでより少しだけ歩調が遅い。考えてから言ったのだと分かる遅さだった。


「じゃあ、どうして」


「どうしても何もありません」


 イルゼは言う。


「私は見たものを、そのまま記録します。再現できないものは“再現できない”と書くしかない」


「融通きかない」


「そのつもりで仕事をしています」


「知ってる」


 リーネは肩をすくめた。


「昔から、あなたはそうだった。訓練所でも、規則集に載ってない運用は全部止めようとした」


「規則集に載っていない運用は、事故の入口です」


「でも現場は、それだけじゃ回らないこともあるのよ」


「それも知っています」


 イルゼは言った。


「知っているから厄介なのです」


 リーネは目を細めた。


「知ってるんだ」


「ええ」


「じゃあ、なおさら融通きかないじゃない」


「知っていて曲げると、基準が曖昧になりますので」


「もう、本当にそういうところ」


 リーネは笑いそうになって、笑いきれなかった。

 怒っているわけでもない。呆れているのとも少し違う。昔から変わらない友人を見て、懐かしさと面倒くささが同時に来たような顔だった。


   ◇


 駅前の灯りが近くなる。


 人通りも少し増え、汽車の時刻を知らせる鐘が遠くでひとつ鳴った。


「次、どこ?」


 リーネが聞く。


「北区の倉庫街です」


「また面倒そうなところ」


「面倒でない監査は、たいてい意味がありません」


「はいはい」


 そこでリーネは、少しだけ真顔になった。


「ねえ、イルゼ」


「何でしょう」


「今日、あなたが見たもの」


 イルゼは答えない。

 答えを待たずに、リーネが続ける。


「記録には残らなくても、覚えてはいるんでしょ」


 イルゼは駅の灯りを見る。

 それから、ややあって言った。


「ええ」


「なら、もう十分よ」


「そうは思いません」


「あなたはね」


 リーネは息を吐いた。


「でも私は、そういうの、嫌いじゃない」


 イルゼはその言葉の意味をすぐには返さなかった。


 好き嫌いで仕事を動かす話ではない。

 そんなことは二人とも分かっている。


 けれど、それでもリーネは今、仕事の話だけをしているわけではなかった。


「あなたは」


 イルゼが静かに言う。


「現場に残ってよかったのかもしれませんね」


「あなたは上に行ってよかったの?」


「さあ」


 少しだけ間があって、イルゼは続けた。


「向いていたのだと思います」


「そういうの、自分で言うんだ」


「事実を述べただけです」


「はいはい」


 今度こそ、リーネは少し笑った。

 それを見て、イルゼの口元もほんのわずかだけ緩んだように見えた。たぶん気のせいではないが、本人は認めないだろう程度の小さな変化だった。


   ◇


 駅の手前で、二人は足を止めた。


 ここから先はイルゼが行く。

 リーネは戻る。


 そういう分かれ方だ。


「じゃあね」


 リーネが言う。


「次に来るときは、もう少し融通覚えてきて」


「難しい注文ですね」


「昔からそう言ってる」


「昔から難しい注文でした」


 リーネは小さく息を漏らした。


「元気で」


「あなたも」


 一拍。


「リーネ」


 その名前を、イルゼがもう一度呼ぶ。


 リーネは少しだけ目を見開いた。今度は業務中ではない。だから、その呼ばれ方には昔の響きが混ざっている。


「何」


「……異常はありません」


 イルゼは言った。


 事務的な文句だ。

 監査官の言葉だ。


 だが、今ここで言うには、少しだけ違う意味を持っていた。


 リーネはそれを理解したらしく、肩をすくめて笑った。


「記録上は、でしょ」


 イルゼは答えない。

 それが答えだった。


 そのまま駅の方へ歩き出す。


 リーネはしばらくその背中を見ていたが、やがて振り返り、ギルドへ戻る方の道を取った。


   ◇


 帰り道の途中で、リーネは一度だけ足を止めた。


 ギルドの方角を見る。

 建物の下には、もう夜が溜まり始めている。


 地下までは見えない。

 見えるはずもない。


 それでも、あそこにはもう戻っているのだろうと思った。記録に残らない誰かが、記録に残らないまま、また水の音のする場所へ。


 リーネは何も言わず、また歩き出した。


 帳場には明日も紙が積まれる。

 確認も必要だ。

 順路を守らせ、待たせ、書類を揃えなければならない。


 やることは変わらない。


 ただ、記録には残らないことが、確かにある。


 それを知っている人間が、街のどこかに二人いる。

 そして、たぶんもう一人いる。


 その程度で十分だと、リーネは思った。

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