第20話 書類をご確認ください
スラムの朝は、ギルドより遅く始まる。
いや、正確には、ずっと起きてはいるのだろう。
ただ、朝になっても整わないだけだ。
煉瓦の割れ目に煤が溜まり、雨樋の下には昨日の水が残っている。細い路地には洗濯紐が渡され、軒先からは湿った布と煮滓の匂いが落ちてくる。どこかで咳がして、どこかで鍋の蓋が鳴る。人の気配はあるが、誰もよそ者をよく見ない。
見ないふりが、この辺りの礼儀だった。
レンは借りた部屋の扉を内側から閉め直した。
板の薄い扉だ。鍵もあるにはあるが、信用するには頼りない。窓は小さく、はめ込まれた硝子は一枚だけ角が欠けている。寝台は軋み、洗面台の縁は欠け、置かれている椅子は片足が少し短い。
まともとは言い難い。
だが、ここに人が出入りしていても不自然ではない。
それが今は大事だった。
レンは部屋の中を一度見回した。荷物は少ない。持ち込んだのは最低限の着替えと、仕事で使う小物と、あとは壊れても惜しくない程度の生活用品だけだ。
昨夜、マスターから渡された紙を頼りにここへ来て、鍵を受け取り、金を置き、余計な会話もせずに部屋へ入った。貸主らしき女はレンの顔をろくに見なかったし、レンも向こうの名を聞いていない。
それでいい。
ここは住む場所というより、住んでいることにするための場所だ。
レンは外套を羽織り直し、扉を開けた。
◇
朝の路地は狭い。
人ひとり分の幅しかない石段、片側へ傾いた木柵、壁に押しつけられた古い樽。湿った石畳はところどころ沈み、靴の底に泥を薄く貼りつかせる。レンは急がずに歩いた。
急げば目につく。
急がなければ、ただの住人に見える。
一度、路地の角で洗濯籠を抱えた女とすれ違った。女はレンを見て、見なかった。次の角では、煉瓦壁にもたれていた若い男が目だけを上げ、やはり何も言わなかった。
いい街ではない。
だが、よそ者に関心が薄い街は、今のレンには都合がよかった。
表通りへ出る前に、一度だけ足を止める。
背後の気配を拾う。
誰もついてきていない。
そのまま狭い路地を抜け、大通りの端へ出る。そこから先は、ただの出勤の顔をして歩けばいい。レンは歩調を少し変えた。急がず、迷わず、決まった場所へ向かう足取りにする。
見られても不自然ではない。
それが今朝の仕事の半分だった。
◇
ギルドの正面には回らない。
裏手へ回り、資材置き場の脇を抜け、保守用の鉄扉へ入る。錆びた蝶番が低く鳴く。湿った空気が上がってくる。
地上の空気は、ここで切れる。
地下へ降りる階段は、今日も同じ角度で足を迎えた。三段目が少し削れていることも、踊り場の右側だけ水が溜まりやすいことも、もう身体が先に知っている。
レンは奥へ進んだ。
見慣れた配管。
見慣れた段差。
聞き慣れた水の音。
だが仕事の中身は、少し変わっていた。
前までは、直せばよかった。
壊れたところを見つけ、詰まったところを通し、狂った機構を戻せば、それで終わった。
今は違う。
直したことが分かってはいけない。
レンは排水枝路の脇で膝をついた。流れが少しだけ鈍い。鉄格子に細い布屑と泥が絡んでいる。見落とされる程度の詰まりだ。だが放っておけば二日で水位が上がり、三日で足場に染み出す。
指先で絡みをほどく。
布を外し、泥を押し流す。
水はすぐに音を変えた。
だが、それだけでは足りない。
レンはそのまま壁際の泥を指でならした。さっき膝をついた跡を消す。格子の端に残った擦れも、湿った布で軽く拭う。水位が戻った痕跡が不自然にならないよう、バルブをほんのわずかに動かし、流れが最初からそうだったように整える。
終わってから、最初の状態に近づける。
面倒だが、必要な仕事だった。
次は搬送路の脇だ。古い巻上げ器の歯が一枚、ほんの少しだけ噛み込みかけている。誰かが慌てて回したのだろう。今はまだ動くが、次に荷をかければ止まる。
レンは工具を差し込み、歯を戻した。
油を足す。
余った油は拭う。
拭った布は持ち帰る。
残してはいけない。
◇
地上へ上がると、帳場の音はさらに硬くなっていた。
「こちらの控えをお願いします」
「記載漏れがあります」
「再確認いたしますので、そのままで」
言葉が増え、返答が短くなる。
書類の動きは速いのに、焦りは見せない。
整っている。
整えすぎている。
レンは受付の前で立ち止まった。
「報告を」
言いかけると、受付の向こうの彼女は目も上げずに言った。
「不要です」
短い。
レンは少しだけ目を細めた。
「不要?」
「口頭報告は残りますので」
紙をめくる。印を押す。次の書類へ手が伸びる。
「記録される形のやり取りは減らします。必要なものはマスターへ直接」
そこまで言って、ようやく一瞬だけ顔を上げた。
「書類をご確認ください」
レンは差し出された紙を受け取る。
ただの物資受領票だった。表向きは雑貨搬入の確認で、レンには関係がない。
だが、その一枚を手に持ったままここに立っていれば、“ただ通りがかった者”ではなくなる。帳場の前にいる理由ができる。
レンは少しだけ口元を緩めた。
「忙しそうですね」
「点検前ですので」
返事は変わらない。
「問題がなければ、何も起きません」
「逆に言うと、問題があれば起きるんですね」
「当然です」
ぴしゃりと言って、彼女はまた紙へ視線を戻した。
融通が利かない。
だが今は、そのほうがありがたい。
◇
午後、スラムへ戻る前に、レンは一度だけ遠回りをした。
裏路地を二本ずらし、使わない階段を上がり、古い煙突の陰で少し待つ。追う者がいれば、ここで動きが乱れる。だが今日は誰も来ない。
そのまま部屋へ戻る。
扉を閉めると、地上のざわめきが少しだけ遠くなる。
地下ほどではない。だが、完全に街の中でもない。
レンは椅子へ腰を下ろし、借りた部屋を見回した。
安全ではない。
信用もできない。
だが、“ここに住んでいる者”として扱われるには十分だ。
寝台の軋む音を聞きながら、レンは一度だけ手を見た。
昨夜、地下で戻したものは、今もそこにある。普段と変わらない顔をして、変わらないまま一体に収まっている。重くもないし、熱もない。ただ、遅れて返ってくる感触だけがある。
なくしたくはない、と思った。
それが地下そのものなのか、戻る場所なのか、それとも別の何かなのかは、自分でもよく分からない。
そのとき、窓の外で何かが鳴った。
金属が触れる、小さな音。
レンは動かなかった。
次に来たのは、足音ではない。
水の音だった。
ここは地上だ。
地下の枝路のような流れは、そう簡単には聞こえない。
だが、聞こえた気がした。
レンはゆっくり立ち上がる。
窓には寄らない。まず床を見る。次に扉の隙間。最後に、壁の向こうの気配を拾う。
何もない。
少なくとも今は。
それでも、誰かが“見る位置”を探しているような気配だけが残った。
レンはしばらく動かず、それから静かに灯りを落とした。
点検はまだ始まっていない。
だが、もう見られ始めている気がした。




