第19話 点検が入ります
レンの住まいが決まってから、一ヶ月が過ぎていた。
安住の地と呼べるかは分からない。
だが少なくとも、追い立てられることはなくなっていた。
戻る場所がある、というのは思っていたより面倒だった。
どこへ潜るか、どこから出るか、誰に見られないか。そういう計算を毎朝しなくていい。地下へ降りれば、水の音も、段差の位置も、頭上の配管の低さも、全部もう知っている。
それだけで、十分なはずだった。
朝のギルドは、今日も静かに騒がしい。
帳場では羽根ペンが紙をひっかき、壁沿いの蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁にガス灯の黄がにじみ、油と濡れた外套の匂いが混ざっていた。どこかで圧力計の針がかすかに鳴り、遠くでバルブがひとつ閉まる。
変わらない。
変わらないはずだった。
「順路をお守りください」
よく通る声が飛ぶ。
レンは掲示板の前で足を止めたまま、そちらを見ない。
「……書類の不備がないよう、事前にご確認をお願いします」
その一言だけで、今日は少し違うと分かった。
前から言いそうなことだ。
だが、前は言わなかった。
受付の向こうにいる女性は、次の書類へすでに手を伸ばしていた。視線も上げない。返事も待たない。声だけを投げて、それで終わる。
レンは依頼札に目を落としたふりをした。
紙の並びが、妙にきれいだ。
昨日は右の端が少しだけずれていた。今日は全部ぴたりと揃っている。
誰かが整えた。
必要があって。
「レンさん」
今度は自分に向けて呼ばれる。
顔を上げると、受付の向こうの彼女はやはり紙を見たままだった。
「マスターがお呼びです」
「急ぎですか」
「順路をお守りください」
それだけ言って、ようやく一瞬だけ目を上げた。
「呼ばれた方は、寄り道せずに向かってください」
いつものようで、少しだけ余計だった。
レンは何も言わず、執務室へ向かった。
◇
マスターの机の上には、紙が増えていた。
山というほどではない。
だが、層が厚い。
同じ種類の書類が、同じ向きで揃えられている。インク壺の隣に置かれた圧力弁、机の端の分解途中の真鍮蓋、小型ボイラーの低い唸り。いつもの机なのに、紙だけがきっちりしすぎていた。
「点検が入る」
レンが入るなり、マスターは顔も上げずに言った。
「上からだ。形式だけじゃない」
紙を一枚めくる。
「ちゃんと見るやつだ」
そこで初めて、ペン先が止まった。
「二ヶ月後」
それだけで十分だった。
第2話の握手のあと、何度か聞かされていた期限だ。
中央の監査が来る。だからそれまで大人しくしていろ。だからそれまで手を貸せ。そういう約束だった。
レンは机の上の紙を見る。
帳簿、許可証の控え、搬入の照合表、保守区画の点検票。どれも抜けがない。抜けがないように、今まさに揃えられている。
「問題がありますか」
レンが言うと、マスターは鼻で笑った。
「あるな」
即答だった。
ペンを置き、指で机を軽く叩く。
「お前だ」
短い。
「所属記録がない。身分がない。雇用もしてない。帳面にいない」
指がひとつずつ動く。
「その上で働いてる。地下に住んでる」
レンは頷いた。
「全部アウトだ」
「そうですね」
「そうですね、で済むなら楽なんだがな」
マスターは椅子にもたれ、ようやく顔を上げた。
「点検で欲しいのは、きれいな帳面だ。帳面にいない人間がうろついて、しかも仕事までしてるとなると、面倒が増える」
「どうしますか」
「隠す」
間を置かずに言った。
「お前は最初からいなかったことにする」
それは予想通りだった。
レンは特に驚かない。
だが、マスターはそこで言葉を切らなかった。
「……ただし、それだけじゃ足りん」
一枚の紙を抜いて、机の端へ滑らせる。
レンが取る。
粗い紙だ。端が少し湿気で波打っている。書かれているのは通り名と番地だけ。きれいな住所ではない。地図の隅へ追いやられたような場所だ。
「スラムに寝床を押さえた」
レンは紙を見る。
「名義は適当に流してある。しばらくはそっちに出入りしろ」
「地下では駄目ですか」
「籠もりきりだと不自然だ」
マスターは即答した。
「昼も夜もギルドの下にいる奴は、それだけで気にされる。監査が入る時期に余計な視線は要らん」
それも、もっともだった。
地下は便利だ。
水があり、人目が少なく、戻る場所としては十分すぎる。だが便利な場所に居座り続けると、便利さそのものが目立つ。
「表に出るな。だが完全に消えるな」
マスターは紙の束を指で揃えながら言った。
「外で見かけても不思議じゃない程度には、どこかに住んでろ」
「スラムに」
「そうだ。下町の連中は他人の素性に興味が薄い。金を払えば部屋くらい貸す」
レンは紙を畳んだ。
正直、面倒だった。
ようやく落ち着いた導線を、また引き直さなければならない。地下から上がり、街を回り、別の寝床へ戻るふりをする。そういう“ふり”が増える。
だが、断れる話でもない。
「分かりました」
「しぶとくやれ」
マスターはもう紙へ目を戻していた。
「仕事は回す。止めると困る」
「記録は」
「残さない。報告もいらん。何かあれば直接来い」
それで話は終わった。
◇
帳場へ戻ると、ギルド全体が少しだけ硬くなっていた。
「確認しました」
「再確認をお願いします」
「番号はこちらで間違いありませんか」
言葉が一つずつ増えている。
箱が一度止まり、開けられ、数が見られ、札が掛け直される。急いでいるのに急いで見せない動きだった。揃っていて、無駄がない。無駄がないぶん、余裕もない。
受付の前で、レンは一度だけ立ち止まる。
「忙しそうですね」
言うと、受付の向こうの彼女は視線を上げなかった。
「点検前ですので」
「大変ですね」
「問題がなければ、何も起きません」
即答だった。
紙をめくる音。印を押す音。視線は戻らない。
レンはその場を離れた。
問題がなければ、何も起きない。
なら、問題があるものだけが、起こされる。
地下へ続く扉を開ける。
◇
湿った空気が上がってくる。
地下の流れは変わっていない。
水の高さも、足場の感触も、頭上の配管が返す響きも、いつものままだ。
レンは奥へ進む。
見慣れた経路。
段差も、曲がり角も、全部知っている。
部屋へ入る。
変わりはない。
置いた工具。壁際の古い棚。排水の細い音。
——そのはずだった。
部屋の奥、排水の溜まりがわずかに揺れていた。
風はない。
流れも一定だ。
それでも、形だけが崩れては戻る。
レンは立ち止まる。
しばらく、そのまま見る。
何も言わない。
言う必要がない。
ゆっくりと近づく。
手を入れる。
冷たい。
水と同じ温度だ。
だが、遅れて返ってくる。
同じ感触が。
レンはそのまま手を止めた。
わずかに引く。
水の形が崩れる。抵抗はない。
だが遅れてついてくる。まとまりを保ったまま。
引き上げる。
水が切れる。
一瞬だけ、そこに形が残る。
石のようで、石ではない。
光を返すのに、輪郭が定まらない。
次の瞬間には崩れ、手の中で消えた。
吸い込まれるように、戻る。
レンは静かに息を吐いた。
これで持ち運べる。
地下とスラムを、何度も往復する必要はない。
水面はすぐに平らに戻る。
何もなかったように。
レンは手を見下ろし、それから振り返った。
地上へ続く階段の方へ。
戻る場所は一つではなくなった。
その代わり、どちらにも長くはいられない。
それでも、行くしかない。
点検は、もう始まっていた。




