第17話 立入禁止です
帳場の音が、いつもより詰まっていた。
紙が擦れる。印が押される。羽根ペンが走る。
どれも同じはずの音なのに、間がない。ひとつが終わる前に次が重なる。
誰かが急いでいる音だ。
「順路をお守りください」
受付嬢の声が通る。
「そちらは立入禁止です」
声の調子は変わらない。
だが、返事を待たない。次の書類にすぐ手が伸びる。視線も戻らない。
言葉だけが残り、相手はもう見ていない。
レンはその横を通った。
止められなかった。
止められない場所へ行くとき、人は声をかけない。
声をかけても止まらないと分かっているからだ。
◇
執務室の扉は開いていた。
マスターは机に向かったまま、紙をめくっている。
「どうだ」
「下は整っています」
レンは言った。
マスターの手が止まる。
「整ってる?」
「水位が揃っている。バルブが固定されている。閉鎖区画の柵も掛け直されています」
レンは続ける。
「昨日より動きやすい」
マスターはゆっくり息を吐いた。
「通す気だな」
「ええ」
短い沈黙。
「上は」
「締める」
即答だった。
「出荷は一部止める。許可証は通さない。帳簿も照合をかける」
「全部ではなく?」
「全部止めると、全部止まる」
レンは頷く。
「半端に止める」
マスターの指が机を叩いた。
「半端だと、通ろうとする」
紙を一枚めくる。
「通ろうとする奴は、決まった道を使う」
そこで顔を上げた。
「そこにいろ」
それだけだった。
◇
地下の空気は、湿っている。
だが、昨日とは違う。
水の音が揃っている。
乱れがない。跳ね返りが少ない。
流れが均されている。
レンは階段を降りながら、その違いを拾った。
一段ごとに音が変わる。
下に行くほど、揃う。
誰かが調整した。
それも一箇所ではない。複数だ。
鉄扉の内側、柵の前で止まる。
昨日よりきちんと閉じられている。
だが、留め具の位置が浅い。
外す前提で閉じている。
レンはそのまま脇へ回り、配管と壁の隙間に身体を滑り込ませた。
通れる幅だ。
向こう側に出る。
旧保守区画。
床の泥は新しい。
だが増えているだけではない。
方向が違う。
往復の跡と、片道の跡が混じっている。
入って、出ていない跡。
出てきて、入っていない跡。
途中で形を変えている。
レンはしゃがみ、泥を指でなぞった。
乾き方が違う。
新しいものと、少し前のものが混ざっている。
順番がある。
先に通ったもの。
あとから調整されたもの。
人が動き、後から流れを整えた。
立ち上がる。
巻上げ器を見る。
鎖は中途で止まっている。
昨日よりわずかに低い。
下から引き上げるにはちょうどいい高さ。
試しに軽く触れる。
動く。
引けばすぐに落とせる。
そのまま、排水枝路へ向かう。
途中、バルブを一つ確認する。
昨日と同じ位置ではない。
ほんのわずかに開きが違う。
水位を保ちながら、流れを鈍らせる位置。
痕を消すための調整だ。
さらに進む。
もう一つ。
ここは締められている。
昨日は開いていた。
流れを変えている。
一本の線になる。
入口で落とす。
途中で流す。
出口で整える。
通すための流れだ。
レンは交差点へ着いた。
排水と搬送が交わる場所。
段差が多く、足場が悪い。
頭上の配管が低く、視界が切れる。
通るには向かない。
だが。
通るしかない。
レンはその手前で止まる。
位置を選ぶ。
出入口の直線上ではない。
横から見える位置でもない。
通るとき、視線が外れる場所。
そこに身体を収める。
手を伸ばす。
届く。
引ける。
押せる。
距離を測る。
足場を確かめる。
一度だけ重心を乗せる。
音が出ない位置を選ぶ。
頭をわずかに下げる。
配管に触れない高さ。
呼吸を落とす。
灯りを落とす。
動かない。
◇
上では、紙が動いていた。
「この番号は」
「再確認中です」
「許可証は」
「通していません」
「搬出は」
「一部停止です」
マスターは頷くだけだ。
止めない。
急がせない。
ただ、詰める。
「急ぐな」
低く言う。
「急ぐと雑になる」
報告の男が一瞬言葉に詰まる。
「雑になると、外れる」
それだけで、十分だった。
男は何も言わずに下がる。
マスターは紙を一枚めくる。
まだ崩れていない。
だが、揃いすぎている。
揃いすぎたものは、外れるときが分かりやすい。
◇
地下は、静かだった。
水の音だけが続いている。
一定の高さ。
一定の流れ。
だが。
完全ではない。
わずかに揺れる。
レンはそれを拾う。
ほんの一瞬、音が重なる。
どこかで別の流れが入る。
すぐに消える。
人の手だ。
最後の調整。
時間が曖昧になる。
呼吸は浅い。
身体は動かない。
だが、完全に止めない。
わずかに、揺らす。
止めすぎると、次の動きが遅れる。
動かないために、動く。
水音が、変わる。
今度は明確だ。
遠くで金具が鳴る。
振動が、床を伝う。
レンの指先がわずかに動く。
来る。
足音。
一人ではない。
重さが違う。
歩幅が違う。
だが迷いがない。
この道を知っている足音。
段差で一度だけ乱れる。
すぐに戻る。
交差点へ向かう。
水音に混じって、声が落ちる。
「ここでいい」
「はい」
短い。
無駄がない。
レンは動かない。
影が差す。
灯りが揺れる。
足音が近づく。
空気が変わる。
湿り気が押し出される。
交差点に入る。
その位置で。
足音が、止まった。




