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スライムさんは、ギルドで優等生を演じています  作者: 安威要
第一章 順路をお守りください

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第15話 お足元にお気をつけください

 朝のギルドは、今日も静か、いや、騒がしかった。


 帳場では羽根ペンが乾いた音を立て、奥の蒸気管が白く息を吐く。煤けた煉瓦壁に貼られた注意札が、ガス灯の黄に鈍く浮いていた。『濡れた床に注意』『無断立入禁止』『工具持出厳禁』。どれも当たり前のことしか書いていないのに、なぜかこういう場所では札のほうが人より偉い。


 レンは掲示板の前で一枚の依頼札を眺めるふりをしながら、背後の気配を待った。


「レンさん」


 案の定、よく通る声が飛んでくる。


「マスターがお呼びです」


「急ぎですか」


「呼ばれた人間がまず聞くことではありません」


 受付の向こうで、受付嬢は今日も涼しい顔だった。書類を揃える指先だけが速い。


「善処します」


「走らないでください」


「まだ走ってません」


「走る前三歩くらいの顔をしています」


 そんなものまで顔に出るのかと思ったが、言い返しても勝てないのでやめた。レンは肩をすくめ、執務室へ向かう。


   ◇


 マスターの机の上には、今日も書類の層ができていた。インク壺の脇に置かれた圧力弁、外されたままの真鍮カバー、端で低く唸る小型ボイラー。整っているとは言い難いが、崩れてはいない。必要なものだけが、必要な位置にある机だった。


 レンが入るなり、マスターは一枚の紙を机に滑らせた。


「昨日の続きを見るぞ」


 それは、レンが持ち帰った変換表を書き写したものだった。箱番号、保管札、搬出記録。そこに最後だけ異なる筆圧で書かれた小さな文字――『最終』。


 マスターはその二文字を指で叩いた。


「これだ」


「やっぱり、そこですか」


「紙だけ見て押せる印じゃない」


 マスターは短く言った。


「箱の数を合わせるだけなら、帳場の奥で済む。だが、こいつは違う。現物がどこを通って、どこで名前を変えたか知らなきゃ、最後の辻褄は合わん」


 レンは黙って紙を見る。


 クラウスは現場の人間だ。運ぶ。並べる。札を掛け替える。

 エメリヒは紙の人間だ。帳簿を触る。許可証を作る。印を合わせる。

 だが、その上で『最終』をつける人間は、どちらか一方だけでは足りない。


「現場も紙も分かる奴」


「あるいは、現場を見た奴から、間違いのない報告を上げられる位置にいる奴だ」


 マスターは椅子にもたれた。


「旧保守区画の閲覧理由はこっちで作る。お前は下を見てこい」


「見るのは何を」


「足跡だ」


 レンが顔を上げると、マスターは目だけで笑った。


「誰が通ったかじゃない。誰が“通れることを知ってるか”を見ろ」


   ◇


 地下へ降りる階段は、昼でも薄暗い。


 ギルドの裏手、資材倉庫の脇を抜けた先に、保守員用の鉄扉がある。表には『関係者以外立入禁止』の札。蝶番は古く、押すと低く鳴いた。


 地下の空気は冷えていた。湿ってはいるが、爽やかではない。鉄と泥と古い石の匂いが混ざっている。頭上の配管では、ときおり蒸気が細く鳴いた。排水路のほうからは、絶えず水の音が来る。


 レンは灯りを少し絞り、旧保守区画へ向かった。


 正規の通路は途中で閉鎖されている。木柵が打たれ、『通行止め』の札が下がっていた。だが札が人を止めるのは、人が札を守るときだけだ。レンは柵の脇、配管と壁のあいだの狭い余地に身体を滑り込ませ、そのまま向こうへ抜けた。


 先はさらに古い造りだった。煉瓦は黒く湿り、床石には細かな段差が多い。壁には流量計の箱と、止水弁の札が並んでいる。どれも何年も触られていない顔をしているくせに、そこに混じって一つだけ、真鍮の縁が新しく拭われた計器があった。


 レンは足を止めた。


 指先で触れる。乾いていない油が、ごく薄く残っていた。


「……最近だな」


 計器の下、排水調整用の小さなバルブにも同じ油の筋がある。しかも締め切りではなく、ほんのわずかに開いている。水位を落としすぎず、しかし流れを鈍らせる位置。誰かが意味を分かって触った手つきだった。


 その先に、旧保守員の詰所がある。半端な広さの部屋で、壁に配管図の色褪せた紙、端に折り畳み寝台の骨組みだけが残っていた。机の上は空だ。だが空すぎる。使われていない部屋の散らかり方ではない。片付けたあとの空き方だった。


 レンは机の下にしゃがみ、床を見た。


 泥の擦れ跡が二つ。片方は作業靴。もう片方は底の硬い、もっと上等な靴だ。保守員ではない。しかも硬い靴のほうは、この区画の歩き方を知らない。段差でわずかに滑り、踵を取られている。


 そのくせ、奥へは来ている。


 レンは顔を上げた。詰所の奥、壁際の点検札の列。その一枚だけが、掛け直したばかりの向きで揃っていない。手に取る。札の表には『第三排水枝路・点検不要』。ありふれた文句だった。


 裏返す。


 小さな朱が、木札の裏に押されていた。


 丸でも四角でもない、半端な潰れ方の印。だが色が同じだ。昨日見た変換表の『最終』と、同じ朱肉。安物の赤ではなく、油の強い、やけに沈んだ色。


 レンは札を灯りの下へ寄せた。印は読めないほど小さい。読ませるためのものではなく、確かに見たという合図だ。


「紙だけじゃない、か」


 呟いたところで、遠くで金具の鳴る音がした。


 レンはすぐに札を戻し、灯りを落とす。


 足音。二人。正規通路のほうから来る。一人は慣れている。もう一人は重い。止まる位置が悪い。段差を知らない歩き方だ。


 レンは詰所の脇、配管の裏にある狭い点検余地へ身体を押し込んだ。人間なら肩がつかえる幅だが、今のレンには足りる。


 灯りが近づいた。


「ここまで来る必要があるのか」


 低い声。やはり上等な靴のほうだ。


「あります。上だけ合わせても、下が残れば崩れますので」


 こちらは現場側の声だ。クラウスではない。だがその下で動く人間だろう。


「最終は」


「まだです。ですが今日中に見せろと」


「水は落とすな。痕が変わる」


「承知しております」


 靴音が詰所の前で止まる。木札が触られる気配。レンは呼吸を浅くした。


「……こんなところまで見に来るのか」


「見に来るからこそ、最後が押せるんでしょう」


 短い沈黙。


「次で片を付けろ」


「はい」


 足音がまた遠ざかる。正規通路のほうへ消えるまで、レンは動かなかった。水の音だけが残る。


 やがて完全に気配が切れてから、ようやく身体を抜く。


 点検札は元の位置にある。だがもう十分だった。


 『最終』は帳場の奥で生まれる印ではない。地下の現物と、死区画の扱いと、排水の加減まで含めて、最後に「よし」と言う手だ。


 なら、待つ場所は紙の上ではない。


   ◇


 執務室へ戻ると、マスターは報告書を読んでいるふりをしていた。ふりなのは、半分くらい本当に読んでいないからだ。


「どうだった」


 レンは机の上に簡単な図を描いた。旧詰所、排水枝路、計器、バルブ、点検札の位置。靴跡の数。油の新しさ。会話の断片。


「点検札の裏に小さな朱がありました。変換表の『最終』と同じ色です」


「見た証だな」


「ええ。それと、上の人間らしい靴が下まで来ています。歩き慣れていませんでしたが、来る必要は知っていた」


 マスターは図の上に指を置いた。


「水は落とすな、か」


「痕が変わると言っていました」


「つまり、地下の状態そのものが帳尻合わせに使われてる」


 マスターは鼻で笑った。


「手間のかかる真似だ」


「手間をかけるだけのものが流れてるんでしょう」


「あるいは、手間をかけないと流せないもの、だな」


 しばらく二人で図を見た。


 マスターが先に口を開く。


「もう一段だ」


「最終確認者を絞りますか」


「絞るのは後でもいい。先に、そいつがどこで“最終”になるかを潰す」


 マスターは図の旧詰所から、細い排水枝路へ指を滑らせた。


「下で見て、上で合わせるなら、そのあいだに道がある。道を押さえれば、誰が困るかで分かる」


 レンは頷いた。


「次は、その手前ですね」


「そうだ」


 マスターは図を引き寄せ、机の端に置いた。


「印じゃない。足元だ」


 執務室を出ると、帳場のほうで受付嬢が誰かに言っていた。


「ですから、お足元にお気をつけください。濡れておりますので」


 聞こえてきたその声に、レンは少しだけ目を細めた。


 次に見るべきなのは、印ではなかった。

 その印が、どこで“よし”になるのか――その足元だった。

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