第13話 帳面の裏側
『走らないでください』
朝のギルドでその声を聞くと、レンは少しだけ肩の力を抜いた。
昨日は関係者の顔で入り、今日はまた優等生の顔へ戻っている。戻れているうちは、まだましだ。
二階へ上がり、マスターの部屋へ入る。
「顔は戻ったか」
「たぶん」
「たぶんで仕事をするな」
「優等生向きの仕事じゃなかったので」
「それは知ってる」
机の上には、昨夜レンが持ち帰った控えの写しが広げてあった。
押収仮置。税収保留。棚番号。控え記号。赤鉛筆で何本か線が引かれている。
「印を触る手の上に、許す手がある」
マスターはそう言って、赤線の交わる一点を爪で叩いた。
「帳面ですか」
「帳面の表じゃない」
視線を上げると、マスターは少しだけ口元を歪めた。
「裏だ」
レンは机の紙を見直した。
正規の台帳ではない。確認控えでもない。昨日見た管理区画の流れから考えるなら、その中間にある何かだ。
「正式な帳面に載る前の控え」
「あるいは、載せるかどうか決めるための控えだな」
「嫌な感じですね」
「気分のいい不正を見たことがあるか」
それはなかった。
◇
午前中、レンは表向きの確認業務の延長で、税務倉区の控え室へ入った。
倉庫ほど広くはない。
だが紙の量だけは多い。綴じ紐で束ねた控え簿、印の試し押し紙、封緘番号の一覧。どれも表に出る前の、半端に正しい顔をしている。
こういう場所は嫌いだ、とまでは言わない。
ただ、乾いていて、息を浅くしたくなる。
帳場の補助が一人、台帳の端をそろえていた。
「何か用ですか」
「保留区画の確認で、前日の控え照合を」
「どこの命令で」
「ギルド」
「便利ですね」
「よく言われます」
相手は少しだけ嫌そうな顔をしたが、追い返すほどの熱意はなかった。
優等生の札は、入れない場所には通じないが、半端な場所にはよく効く。
控え簿は三種類に分かれていた。
一つは正規台帳へ上げる前の集計。
一つは印章台で使う確認控え。
そしてもう一つ、綴じ方の雑な薄い簿冊がある。
雑、といっても扱いが悪いわけではない。
むしろ逆だ。あとで捨てるつもりだから、綴じ方だけが適当なのだ。
「これ」
レンは指先で簿冊の端を押さえた。
「何だ」
「確認前の仮控えですか」
補助は一瞬だけ黙った。
その間が答えだった。
「見ても分からんぞ」
「分かるかどうかは、見てから決めます」
嫌味を返される前に、簿冊を開く。
並んでいるのは、番号、棚、印種別、移送先。
表台帳より情報は少ない。その代わり、矢印と訂正が多い。
誰かが途中で流れを変えている。
レンの指が止まった。
昨日の控えにあった記号と、同じ並びがある。しかもその横に、小さく別の印がついていた。
「徴許」
思わず声に出る。
「読むな」
「読めるように書いてあるので」
「読まれたくて書いてるわけじゃない」
もっともだった。
徴許。徴税許可か、徴収許可か。
略し方は雑だが、意味は十分に嫌だ。
クラウスが中で手順を触れたとしても、その上で「よし」とする手がある。
その時、控え室の扉が開いた。
入ってきたのは、昨日管理区画で遠目に見た、仕立ての良い上着の男だった。
現場の人間ではない。だが現場を動かす側の顔をしている。
補助が背筋を伸ばす。
「お疲れさまです」
「七番の控えは」
「いま……」
そこでようやく、男はレンに気づいた。
「誰だ」
「ギルドの確認です」
補助が先に答えた。
男の視線がレンの手元、開かれた仮控え簿へ落ちる。
まずい。
気配が変わった。
怒鳴る人間のそれではない。静かに面倒を消す側の気配だ。
「それは誰に見せろと言われた」
「見せろとは言われてません」
レンは簿冊を閉じた。
「置け」
「そうします」
素直に従う。
従うが、閉じる瞬間に必要な行だけは頭へ入れる。
七番。
押収仮置から税収保留へ。
徴許あり。
署号、エ・二。
誰の略号かまではまだ分からない。
「ギルドは、ずいぶん奥まで首を入れるんだな」
仕立ての良い男が言う。
「優等生なので」
「質問の答えになってない」
「便利な肩書きなんですよ」
男は笑わなかった。
その代わり、補助へ向けて短く言う。
「次からは先に通せ」
その一言で十分だった。
今の仮控えは、見られたくない位置にある。
◇
控え室を出たところで、レンは歩幅を変えなかった。
走らない。
振り返らない。
見つかった時ほど、優等生はそうする。
だが角を二つ曲がったところで、後ろの足音が一つ増えた。
「おい」
呼び止めではない。確認だ。
レンはそのまま進む。
前には荷車。右に細い補助通路。左は行き止まりの棚裏。
右だ。
荷車の脇を抜けるふりで半身になり、そのまま補助通路へ滑り込む。
幅は狭い。紙束を抱えた人間なら嫌がる通路だ。
「待て」
待つ理由がない。
レンは走らず、早足だけで距離を切った。
通路は途中で低くなる。頭上を配管が渡り、床の片側に古い排水溝。人が追うには足元が悪い。
後ろの足音が一度止まる。
慣れていない。
それで十分だ。
レンは角で体を傾け、支持具の陰へ入った。
そのまま二歩、三歩。さらに細い点検路へ抜ける。昨日の補助路ほど狭くはないが、普通の役人が好む道でもない。
後ろで、舌打ちがした。
「くそっ」
声は近い。
だが追っては来ない。来られないのだろう。服を汚したくない人間の足取りだった。
レンはそこでようやく一息だけ吐いた。
◇
夕方、マスターの部屋。
「見たか」
座る前にそう言われる。
「見ました」
レンは紙に覚えてきた記号を書き出した。
「正規台帳の前に、仮控えがあります。綴じの雑な薄い簿冊です」
「やはりあったか」
「そこに流れの書き換えが残ってました。昨日の七番もあります」
マスターの目が紙へ落ちる。
「他は」
「“徴許”という略記。たぶん、上の許可印です」
「署号は」
「エ・二」
マスターがそこで指を止めた。
「エか」
「心当たりが?」
「ある」
短い返事だったが、軽くはなかった。
「エメリヒですか」
マスターは即答しなかった。
それが逆に答えに近い。
「まだ断定はしない。だが、紙の上で強い奴の匂いはする」
「クラウスの上に、紙を許す手がある」
「ああ。箱を動かすんじゃない。箱の意味を変える許可だ」
レンは小さく頷く。
押収品を税収保留へ。
税収保留を押収仮置へ。
箱そのものではなく、箱に付いた“正しさ”を入れ替える。
「気づかれました」
「誰に」
「たぶん、上着のいい人に」
「顔は」
「見られました。でも優等生の顔です」
「それなら半分助かる」
半分しか助からないらしい。
マスターは紙の上に、クラウスの名とエの略記を並べた。
「繋がったな」
「まだ細いですけど」
「細い線ほど切れやすい。だから今のうちに太くする」
「次は」
マスターは仮控えの走り書きを指で弾いた。
「裏帳簿だ」
「本命ですね」
「そこまで行けば、向こうももう知らん顔はできない」
レンはそれを聞いて、少しだけ喉の奥が乾くのを感じた。
紙の裏側まで来た。
次はもう、ただの確認では済まない。
帳面はまだ表向きには整っている。
だがその裏では、箱の意味そのものが書き換えられていた。
優等生の仕事は今日も少しだけ増えた。
そして次に必要なのは、見る目より、もう少し深く潜る覚悟のほうだった。




