第12話 関係者です
『走らないでください』
朝のギルドでその声を聞くと、レンは反射で歩幅を整えた。
走らない。急がない。止まるべきところで止まる。優等生の基本だ。
二階へ上がり、マスターの部屋へ入る。
「顔は足りるか」
「足ります」
「声は」
「使わずに済ませます」
「済まなかったら」
「通します」
マスターは机の上の小さな布切れを顎で示した。
印章管理の補助係が落とした、汗の染みた襟布だ。昨日のうちに拾ってある。
「戻れなくなるなよ」
「優等生ですから」
「信用してない」
「知ってます」
そのくらいの会話で十分だった。
今日は考えるより先に、動く話になる。
◇
倉庫裏の路地は、朝の煤と湿気を薄く残していた。
レンは壁際で目を閉じ、布切れを掌に収める。
汗、油、乾いた紙の匂い。痩せた男。肩は落ち気味。首をすくめる癖。顔立ちは平凡で、印象だけが薄い。
借りる。
外側だけ。
目を開く。曇った窓ガラスに映った顔は、昨日までのレンではなく、印章台の脇で紙を運んでいても誰も二度見しない顔になっていた。
「上等ではないですけど」
それでいい。
今日は上等さより、見慣れた感じのほうが必要だ。
肩を少し落とし、歩幅を短くする。
『関係者以外立入禁止』の札の前を、今度は止められずに通った。
通れる。
その感覚は気持ちが悪いくらいあっさりしていた。
昨日までは色の違う札ひとつで弾かれた場所だ。人の顔が変わるだけで、こんなに扉は軽くなる。
◇
管理区画の中は、外の倉庫よりさらに静かだった。
印章台。封蝋箱。鍵棚。確認用の小型秤。
どれも小さく、きれいで、触る人間が限られている道具ばかりだ。物の量ではなく、正しさを扱う場所の顔をしている。
補助係らしい男が、レンを見るなり言った。
「遅い」
レンは軽く肩をすくめるだけにした。
下手に喋るより、愛想の悪い補助係のほうが安全だ。
「そっち、封台の控え持ってけ。あと三番の鍵も戻せ」
いきなり仕事が来る。
「分かりました」
短く返す。
声は低めに、喉を使わず。
通った。
通ると分かった瞬間に、今度は忙しくなる。潜入はだいたいそういうものだ。
控え紙を受け取り、印章台の脇を通る。
印は用途ごとに分かれていた。税収保留、押収仮置、確認済、移送許可。どれも似ているが、縁の欠き方や柄が少しずつ違う。
そこへクラウスが入ってきた。
「七番、先に回してください」
薄い声で、だが迷いなく言う。
印章台の係は頷くだけで、何も疑わない。
クラウスはやはり外の調整役ではない。
この中で言葉が通る位置にいる。
◇
三番の鍵を戻し、控え紙を帳場へ持っていく。
その途中で、別の補助係が箱を抱えたまま声を上げた。
「そっち、空いてるなら手伝え! 搬送口が詰まってる!」
予定にない。
だが断れる立場でもない。
レンはそのまま補助路へ回った。
狭い通路の先に、小さな巻上げ器と滑車がある。倉庫裏の荷揚げ口と繋がる、人目につきにくい補助搬送路だ。
木箱が三つ。
どれも小さいが、重い。
「それ、下へじゃないんですか」
思わず口に出すと、箱を抱えた男が鼻を鳴らした。
「今日から上で合ってる」
その言い方で十分だった。
箱の行き先ではなく、箱の身分が途中で変えられている。
一本目の箱が滑車へ掛けられる。
索がきしむ。
細い搬送路では、人ひとりの手際がそのまま事故になる。
二本目を載せるとき、隣の男が足を滑らせた。
「おい」
箱が傾く。
落ちれば角が割れる。割れれば中身より先に封が死ぬ。
レンは踏み込まず、箱の下へ肩を差し込んだ。
腕力で持ち上げるのではなく、滑車の戻りと相手の手元の高さを合わせる。重心を一度受けて、横へ逃がす。
「支えて!」
短く言うと、男が反射で持ち直した。
箱は落ちずに済んだ。
「……今日は妙に手が早いな」
「落とすと怒られるので」
「誰に」
「だいたい全員にです」
それで笑われた。
笑われるくらいがちょうどいい。
◇
三箱目を運ぶ途中で、決定的なものが見えた。
箱の外印は押収仮置。
だが控え紙の記号は税収保留七。
逆もある。
つまり中身ではなく、箱が途中で別の身分を着せられている。
正しい記号、正しい印、正しい棚。そこへ順番に通せば、誰が見ても正しく見える。
「そっちは保留七だ」
奥からクラウスの声。
「印が違います」
印章台の係が言う。
「今日から合ってる」
クラウスはそう返した。
ぞっとするほど自然だった。
今日から合ってる。つまり、昨日までは違っていても問題にならない、ということだ。
その場で誰かが問いただす空気ではない。
手順が先に進めば、正しさは後から付いてくる。そういう流れができている。
◇
問題は、そのあとで起きた。
「おい」
背中から声。
振り向くと、年嵩の補助係が眉を寄せていた。
「お前、今日どこの番だ」
来た。
レンは箱を持ち上げたまま、足を止めない。
「三番です」
「三番の誰だ」
そこまで来るか、と内心で舌打ちする。
答えるより早く、隣の封蝋台で小さな火皿が倒れかけた。
誰かの袖が引っかけたらしい。
レンは反射で箱を膝へ預け、空いた手で火皿を支えた。
そのまま滑りかけた封蝋棒を指先で止め、台の縁へ戻す。
さらに反対側では、巻上げ索が半ば噛んでいた。
このまま引けば、箱が斜めに跳ねる。
レンは火皿を戻した勢いのまま、索へ手を伸ばした。
手首で一度引っかけ、力の向きを変えてから支柱へ寄せる。軋みが止まり、箱が揺れだけで済む。
周囲の視線が、質問から事故のほうへ流れた。
「何やってる!」
「すみません!」
「先にこっち押さえろ!」
声が飛ぶ。
現場はこういう時、ひとりの違和感より目の前の事故を優先する。
レンはその隙に箱を持ち直し、補助路の奥へ半歩下がった。
だが年嵩の係だけは、まだこちらを見ている。
まずい。
これ以上は近くで見られる。
◇
離脱は一息で決めるしかなかった。
レンは箱を所定の台へ置くふりをして、横の低い補助路へ滑り込んだ。
人が正面から通る道ではない。巻上げ器の支柱裏、配管脇、保守員がしゃがんで抜けるための細い通路だ。
「おい、そっちは」
呼ぶ声が後ろで止まる。
止まるのは当然だ。まともな人間は、そんなところへ仕事の途中で入らない。
レンは走らない。
肩を低くし、配管を避け、支持具の隙間を抜ける。
曲がり角で視線を切り、次の分岐で足音を消す。
乾いた煉瓦が服に擦れる。
手袋の内側が少しだけ気になったが、止まる理由にはならない。
最後の狭所だけ、道具袋を外して先へ投げた。
幅が半寸変わるだけで通りやすさは違う。
抜けた先は、倉庫裏の荷車置き場だった。
人の声は遠い。追ってくる足音もない。
「……関係者、終了ですね」
壁にもたれて息を吐く。
借りた顔のまま長居はしない。人気のないところで元へ戻し、手袋の指先を一度確かめる。
今日はまだ、内側を気にせずに済んだ。
◇
マスターの部屋の灯りは、帰りを待っていたみたいに点いていた。
「で」
レンは紙片と控えの走り書きを机に置く。
「入りました」
「見れば分かる」
「クラウスは中の手順に触れてます。外の調整役じゃない」
「他は」
「箱の身分が入れ替えられてました。押収仮置の印がついた箱に、税収保留の控えが付いてる。逆もあります」
マスターの目が細くなる。
「盗んでるんじゃないな」
「はい」
「身分を入れ替えてる」
その言葉が、一番しっくりきた。
「印章台の係も関わってますか」
「少なくとも気づいてはいるだろう。だが許している手は別だ」
マスターは控え紙の記号を指で追った。
「クラウスの上に、印そのものを許可できる人間がいる」
「たぶん」
「次だな」
レンは頷く。
箱は動いていた。
印も動いていた。
だが本当に追うべきなのは、動かした箱でも、押し直された印でもない。
次に追うべきは、箱でも印でもない。その入れ替えを許した手だ。




