まだ形のないもの
白が広がる。
扉に感じた境界は、やはり曖昧だった。
向こう側に何があるのかは、まだ見えない。
ただ見えるのは、目を覆い尽くす白。
ソウマはそれを思いながら足を踏み出す。
白の中へ、踏み出していく。
その時、背後から声がした。
「――ソウマ」
ソウマは振り返らなかった。
「……何だ?」
「そこでは、見えるものを信じない方がいいよ」
ほんの僅かに、足が止まった。
それでも、振り返らない。
“リリア”が何を知っているのか。
何を意図しているのか。
今は、それを確かめる必要はなかった。
ソウマは白の奥へ進んだ。
背後の廊下が、少しずつ遠ざかっていく。
白だけが残る。
そして、その白の中で、理覚が再び小さく反応した。
――ゼロか五十か。
今度は、その言葉が。
先ほどとは少しだけ違って聞こえた。
◇◇◇
その扉は一枚、そこに並んでいた。
つい先ほどまで何もなかったはずの場所に、まるで以前からそこに存在していたとでも言わんばかりに、無機質な一枚の扉が静かに佇んでいる。
時間の止まった王城の中で、存在しないはずのものが現れること自体は、もはや驚くべきことではない。これまでにも、あるはずのものが消え、ないはずのものが現れ、空間そのものが知っている形から外れていく光景を何度も目にしてきたからだ。
だからこそ、今のソウマが警戒していたのは、三枚の扉が突然現れたという事実ではなかった。
なぜ、三枚なのか。
そして――なぜ、この三枚なのか。
白い扉だった。
白、と呼ぶことさえ躊躇うほど周囲の色に馴染んでおり、扉そのものを縁取るものもなければ、材質の違いを示すような光沢や木目もなく、装飾らしい装飾も見当たらない。
ソウマが自分自身の手で、意図的に開いたままにしたもの。
その向こう側にも、ただ白が広がっている。
床があるのか、壁があるのか、それとも天井が存在しているのかさえ分からないほど、すべての境界が曖昧になっていた。
しかし、ソウマはその白を見つめながら、単純に「何もない」とは判断しなかった。
何もないのなら、これほどまでに視線を奪われるはずがない。
白い空間の中に何かがあるわけではない。
むしろ逆で、何もないように見えてしまうことそのものが異常だった。
ソウマには、前々から試したいことがあった。
それは――
「……理覚の制御」
未だ自分でコントロールできない、属性の特色らしきもの。
“叡属性”という前例のない、情報なんてものは一切ない不明要素。
その中で確かに重大な役割を担っているはずの、理覚という危険察知。
「自分の属性ぐらい制御できないとまずいって、リリアに言われたよな……」
今のソウマは、あまり気に留めず、理覚がその意思とは関係なく暴走している。
それをどうにか、自分で働かせたり黙らせたりすることは、必要不可欠なことだろう。
ソウマは理覚が暴走した時の感覚を思い出し、それを再現しようとした。
「――あれ?」
視界の奥に見えたのは――
「構造線……!?」
死ぬ寸前だけ見えるはずの、構造線だった。
理覚と呼び始めたのは、一体いつからなのだろう。
この男が呼び始めた呼び名なのか。
それとも、あの男によって意図的につけられた、意味ある名称なのだろうか。
答えは出ない。出せない。
まだ、知らない。
理覚が暴走する感覚。
それは、理覚を“展く”という感覚。
理覚、というものが実際どこにあるのかも分からない。
しかし、分からなくても良いのだ。
直感的に、理覚によって導かれるのだから。
「間違いなく、構造線だ……」
ソウマは目の前に広がる光景を、信じざるを得なかった。
簡単に信じられるものではないことはもちろん分かっている。
しかし、この光景と、あの静止した世界で見たものを知っていれば、皆口を揃えてこう言うだろう。
「同じだ……」
と。
ソウマは一度真っ白になった頭に、思考を復活させた。
数回ほど深呼吸をして、動揺している自分を落ち着かせる。
そうしてもう一度、理覚を展き、そして白い空間を見た。
視界の奥に構造が浮かび上がる。
いつもなら、壁には壁の、床には床の、空間には空間としての構造線が存在している。それらが互いに結びつくことで、目の前の世界がどういう形をしているのかを読み取ることができる――はずだった。
この白い空間だけは違った。
構造線がないわけではない。
しかし、一つの線を捉えようとすれば、細い線が生まれる。
そして、それは途中で途切れ、別の線が現れたかと思えば、また何の痕跡も残さず消えていく。
そこに存在する何かを認識しようとした瞬間、その「何か」が形を定めることを拒んでいるかのようだった。
「……」
ソウマは理覚を閉じた。
白の空間。
そこに何があるのかも、何もないのかも分からない。
理覚でさえ、その構造を完全には捉えられない。
何もない。
そう思った直後、ソウマは一歩を踏み出した。
足の裏に、確かな感触が返ってくる。
「……?」
視線を落とす。
白。
自分の足が見えている。
その下に何か白いものがあることも分かる。
だが、それが床なのかどうかは分からない。
ソウマはもう一歩進んだ。
今度は意識して、足の裏へ伝わる感覚を探る。
硬い。
少なくとも、沈み込むような感触ではない。
ならば床なのだろう。
しかし、床だと判断した瞬間、その言葉に違和感が生じた。
床というのは、本来ならば何かの下にあるものだ。
壁や柱や天井と位置関係を持ち、人間がその上に立つことで初めて「床」として認識できる。
では、ここには何がある?
ソウマは周囲を見渡した。
白以外のものは、何一つない。
遠近感も曖昧で、どこまでが近く、どこからが遠いのかすら判然としない。
それでも、自分は確かに立っている。
それだけは疑いようがなかった。
ソウマは振り返った。
開いた扉が、白の中に浮かんでいる。
その向こうには、王城の痕跡がある。
だが、こちら側にはその痕跡は一切なかった。
そして、今立っている場所がどこから始まっているのかも分からない。
ソウマはしばらく扉を見つめ、それから白の奥へ視線を向けた。
どこまでも続いているように見える。
しかし、その「どこまでも」という言葉すら、この場所では正しいのか分からない。
距離を測る基準がないからだ。
それでも――。
ソウマは歩き出した。
理覚が示した言葉が、頭の奥に残っている。
――ゼロか五十か。
何を意味しているのかは、まだ分からない。
だが、この空間がただの「何もない場所」ではないことだけは、既に分かり始めていた。
白の奥へ進むほど、その感覚は強くなっていく。
何もないのではなく、何かがあるのに、それを「ある」と認識するための形だけが与えられていない。
ソウマは、その違和感を胸の内に残したまま、さらに一歩を踏み出した。
白の奥へ進んでも、景色は変わらなかった。
歩いている。
その感覚だけは、確かにある。
足を前へ出せば、足裏には硬質な感触が返ってくるし、身体を動かせば、その動きに合わせて重心も移る。少なくとも、ここへ入る前までソウマが知っていた「歩く」という行為そのものが失われたわけではない。
だが、進んだ距離だけが分からなかった。
振り返るとそこには、入ってきた扉がある。
白い空間の中にぽつりと残されたその扉は、こちら側へ開いたまま、何事もなかったかのように佇んでいた。
ソウマはしばらく、それを見つめた。
距離として考えれば、数歩程度しか離れていないように見える。だが、先ほどまで自分が立っていた場所を思い返すと、どうにも辻褄が合わなかった。
(……もっと歩いたはずだ)
感覚だけではない。
足を動かした回数も覚えているし、歩幅も意識してはいないがほぼ変わっていないはずだ。少なくとも、扉からここまでが数歩で済むような距離ではなかった。
それでも、扉は遠ざかっていない。
ソウマはもう一度、前を見る。
何もない。
白い。
床と壁の区別さえ曖昧な、均質な空間がどこまでも続いている。
視界の端から端まで白が占めているというのに、光源がどこにあるのかは分からず、影もない。
自分の身体に遮られるはずの光すら存在せず、白の中に立っている自分だけが、辛うじて「ここにいる」という事実を残していた。
ソウマは手を伸ばした。
何かに触れるつもりはない。
ただ、この場所に本当に境界が存在しないのかを確かめるためだった。
指先を前へ突き出し、そのままゆっくりと進めていく。
突っかかるものは、何もない。
当然だ。
少なくとも、目にはそう見える。
しかし――。
ソウマは指を止めた。
何もないはずの場所で、指先は妙に落ち着かなかった。
触れているわけでも、押し返されているわけでもない。
ただ、そこから先へ手を伸ばすことに、言葉にしにくい違和感があった。
空気の温度が変わってもいない。
風という現象すらも、この空間は知らないだろう。
それでも、何かを跨ごうとしているような感覚だけが残る。
「……境界、か」
境界。
それは、本来なら二つのものを分けるものだ。
こちらと向こう。
内側と外側。
始まりと終わり。
何かが存在するからこそ、その周囲には境界が生まれる。
ならば、この場所に境界があるということは――。
ソウマは視線を落とした。
白い床。
そこには何の線もない。
継ぎ目も、段差も、傷もない。
そして、ようやく意図的に使えるようになった理覚を展き、構造線を見た。
理覚を展いた瞬間、視界の奥に淡い何かが浮かび上がった。
だが、それはいつも見るあの光景のようには見えなかった。
線がある。
そう思った次の瞬間には、線ではなくなる。
何かの輪郭に見えたかと思えば、輪郭そのものが意味を失い、ただ白の中に薄く滲んだ痕跡だけを残して消えてしまう。
ソウマは目を細めた。
もう一度、同じ場所を見る。
今度は、そもそも何もない。
理覚を展く感覚を強くしても、結果は変わらなかった。
見えないのではなく、見ようとした瞬間に見るための形が崩れている。
それが、この空間の特徴なのかもしれない。
ソウマはそう考えながら、再び歩き出した。
今度は前へ進むことよりも、周囲の変化を意識する。
一歩。
二歩。
三歩。
白い景色は変わらない。
四歩。
五歩。
それでも何も変わらない。
十歩を越えたところで、ソウマは足を止めて横を見た。
何もない。
反対側を見ても、何もない。
上を見る。
白。
下を見る。
白。
それだけだった。
普通なら、ここまで何も変わらなければ、何かがおかしいと判断したはずだ。
だが、この場所では違う。
おかしいという判断そのものが、少しずつ意味を失っていく。
異常がないのではなく、異常と正常を区別するための基準が、最初から置かれていないのだ。
そもそも夢幻の廊下を体験しているソウマにとっては、今更気に病むほど重大なことではなかった。
ソウマは静かに息を吐いた。
そして、再び後ろを見た。
扉がある。
先ほどと同じ場所に。
ある――。
ソウマは眉を寄せた。
同じ場所というには、いささか抵抗があった。
自分は歩いた。
確かに歩いた。
それでも、扉との距離が変わっていない。
では、この空間では距離そのものが意味を持たないのか。
それとも――
ソウマは扉へ向かって歩き出した。
戻るためではなく、確かめるために。
歩く。
歩く。
白い空間の中を、まっすぐに。
それでも扉は近づかない。
足元には何もない。
左右にも何もない。
ただ、背後にあったはずの扉だけが、一定の距離を保ったまま視界に残り続けている。
まるで、ソウマがどれだけ歩いても、そこだけは動かないように。
あるいは――
ソウマ自身のほうが、動いていないように。
「……ありえない」
その考えが浮かんだところで、ソウマは立ち止まった。
身体は動いている。
足も動いていた。
事実として、進んでいるという過程は確かにあった。
だが、「動いた」という結果は、この空間では確かなものとして残っていない。
歩いたという事実と、距離が変わらないという事実。
二つを並べれば、本来ならどちらかが間違っている。
しかし、どちらも間違っているようには考えられなかった。
辻褄が合わない。
(……気味が悪い)
ソウマは扉を見つめた。
白い空間に残された、唯一の明確な形。
あの扉だけは、確かな境界を持っている。
扉には表と裏があり、開く側と閉じる側があり、向こう側とこちら側がある。
つまり――あの扉だけが、この場所に「分かれている」という概念を持ち込んでいる。
ソウマはゆっくりと手を伸ばした。
迷いなんてものはない。
指先が、扉の表面に触れる。
冷たい。
硬い。
確かな感触がある。
その瞬間、白の空間の中で初めて、自分以外の何かの存在を感じた。
ソウマは扉から手を離さないまま、目を閉じた。
白の中には、境界がある。
そして境界があるなら、その両側には――何か別のものがある。
ソウマは目を開いた。
白い扉を見つめる。
その向こう側を確かめるように、ゆっくりと指先へ力を込めた。
しかし、扉は開かなかった。
鍵が掛かっているわけではなく、第一、動かない。
まるで、開くという結果だけが、まだこの場所には存在していないように。
ソウマはしばらく、その扉を押し続けた。
白い空間は、何も答えなかった。




