★★に残らぬ◇◇
消えた扉は、ソウマの記憶にしか残らなかった。
先ほどまで、確かにそこにあった。
ソウマを幻惑させるように現れ、無幻の廊下という異様な空間の中で、随一と言っていいほど明確な形を持っていた、何の特徴もない扉。
それが、消えている。
振り返った先にあるのは、先ほどまでと何も変わらない石造りの壁と、どこまでも続いているように見える無幻の廊下だけだった。
扉があったはずの場所には、痕跡すらない。
傷も、隙間も、扉が存在していたことを示すような僅かな違和感さえ残っていなかった。
まるで、最初から存在していなかったように。
分かっている。
間違いなく、存在していなかったのではない。
ソウマは、確かに見た。
確かにそこへ近づき、確かにその存在を★★していた。
だからこそ、今の光景が理解できない。
先ほどまでソウマを幻惑させていた無個性な扉は、無幻の廊下に残らず、この◇◇から消されていた。
そんな異様な光景を目の当たりにしながらも、ソウマは平然としていた。
――否。
平然としている訳ではない。
その内心は、先ほどからずっと落ち着いていなかった。
扉が消えた。
ただ、それだけならまだいい。
だが、問題はその消え方だった。
壊れる、開く。
誰かが持ち去る。
このような直接的な原因はないと断定できる。
そこにあったという事実そのものが、◇◇から切り取られたように消えているというのは、ある意味直接的かも知れない。
そして、その異常を★★できているのは、おそらく自分だけだ。
ソウマの記憶には、確かに扉が残っている。
だからこそ、目の前の何もない空間を見れば見るほど、頭の中に一つの矛盾が積み上がっていく。
あったはずなのに、ない。
見たはずなのに、証明できない。
そんな不可解な光景に対して、動揺と、それ以上に強い困惑を抱いていた。
それでも落ち着いて見えるのは、ソウマの無茶な平常心の心掛けだった。
状況が分からないなら、分からないなりに考える。
怖いなら、怖いままでも動く。
取り乱してしまえば、それこそ本当に何もできなくなる。
そうやって、自分自身を無理やり前へ向かせているだけだ。
良く言えば、元気付け。
悪く言えば、自分を騙している。
「これから何を、といったところか」
口から出た声は、自分が思っていたよりも落ち着いていた。
その声を聞いて、ソウマは僅かに息を吐く。
少なくとも、声だけならまだ大丈夫らしい。
ソウマは自分が置かれた状況を今一度整理することにした。
何が起きたのかを完全に理解することはできなくても、自分が何をしてきたのかなら、順番に並べることができる。
滲みに触れ、時間が停止した。
知らぬ間に近づく黒い人型から逃げた。
前庭に入った。
そして、存在しない足音に追われた。
逃げるように進み、無幻の廊下を彷徨い、そこで扉を見つけた。
その扉も、今はない。
こうして一つずつ並べてみれば、改めて実感する。
成果なし。
自分が何をしているのか、自分自身でも分からなくなりそうだった。
贔屓目に見ても、無意味な行動ばかりだ。
何かを解決した訳でも、もちろん時間停止の原因を突き止めた訳でもない。
この空間の正体が分かった訳でもない。
危険から逃げて、歩いて、また危険がないかを警戒しているだけ。
結果として、自分が今どこにいて、何をすればいいのかさえ曖昧になっている。
「……何もできちゃいない。そもそも目的って何だ?」
その言葉を口にしたところで、ソウマは一度だけ黙った。
目的。
そう考えれば、今までの自分は目的というものを明確にしていなかった。
ただ、この状況から抜け出したい。
ただ、何か手掛かりが欲しい。
ただ、何かが起こるのを待つのが嫌だった。
そんな曖昧なものだけを抱えて、ここまで歩いてきた。
まず、ソウマは今の自分の目的が何なのか考えた。
何のためにここにいるのか。
何を目指して歩いているのか。
その問いの答えは、考えてみれば簡単なものだった。
「この停止を解くこと」
口にした瞬間、それがあまりにも当然の答えだったことに気づく。
そうだ。
自分がしたいことは、結局これだけだ。
時間が止まっている。
なら、それを解けばいい。
そのために何をすればいいのかが分からないだけで、目的そのものまで分からなくなっていた訳ではない。
幸い今のところ、ソウマの命を脅かす出来事には出会っていない。
黒い人型に追われたとはいえ、今は姿を見せていない。
扉のような不可解なものも消えた。
少なくとも、今この瞬間に死が迫っている訳ではない。
しかし、いつまで経っても人と話せないというのは、想像するより心身を削ってくる。
声を掛けても返事はない。
周囲に誰かがいたとしても、時間が止まっている以上、その誰かは動かない。
自分だけが動ける。
その事実は幸運か不幸か、ソウマの自由を奪っていないのだが、同時にひどく孤独だった。
◇◇が自分を置き去りにしているような感覚が、少しずつ積み重なっている。
「……だから、この廊下を歩いていた?」
ソウマは、自分自身へ問い掛けるように呟いた。
歩いていれば、何か見つかるかもしれない。
そう思っていた。
何か変化が起きるかもしれない。
そう期待していた。
だが、それは結局、ただの願望だった。
自分の思考を、口に出さないといけないほどに。
頭の中だけで考えていると、どこまでも同じところを回り続けてしまう。
だから、わざわざ声に出して、自分の考えを自分自身に聞かせている。
そこまでしなければ、自分が何をしているのかを見失いそうだった。
「……この大馬鹿。やることが的外れなんだよ」
自分自身へ向けた言葉に、ソウマは小さく息を吐いた。
大体、ただ歩くだけで何になるというのだ。
歩けば目的地に辿り着くという保証がある訳でもない。
そもそも目的地そのものが分かっていない。
だったら、歩くことを目的にしてしまっている今の自分は、何も進んでいないのと同じではないか。
そう思うと、妙に腹が立った。
自分の馬鹿さ加減に。
ソウマは一度、勢いよく自分の頬を叩き、気合を入れた。
乾いた音が、静まり返った廊下に響く気がした。
じん、と頬が痛む。
その痛みを感じながら、ソウマは一度だけ目を閉じた。
考えるのは、ここまででいい。
分からないなら、動く。
少なくとも、何もしないよりはましだ。
「うっし、行くか」
声を上げる。
自分を鼓舞するための、半ば無理やりな掛け声だった。
そして、足を前へ出そうとした。
――その瞬間。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
「――っ!」
地鳴りのような低い音が、石床の下から響いた。
その音は、遠くから近づいてくるようにも聞こえた。
――違う。
近づいているのではない。
足元から直接、響いている。
ソウマの身体へ振動が伝わってくる。
何が起きている。
考えるより早く、ソウマは反射的に足元を見た。
視線の先にあるのは、先ほどまでと何も変わらない石床。
――そう思った、次の瞬間。
ピシッ
乾いた音がした。
石床に、一本の線が走った。
「……え?」
目の前で起きたことを、ソウマの脳が理解するまでに僅かな時間が必要だった。
亀裂。
そう★★した瞬間、その線が一気に広がった。
石床が、その線から割れた。
「――!」
足場が消えた。
身体が真下に落ちる。
予兆らしい予兆すらなかった。
ほんの一瞬前まで、自分の身体を支えていたはずの石床がなくなったことで、ソウマの身体は何の抵抗もなく暗闇へ投げ出された。
足場を突然失ったその男は、精神だけでも必死に抵抗していた。
考えるより先に身体が動いた。
手を精一杯伸ばす。
指を広げる。
身体を捻る。
何かを掴め。
何でもいい。
床の端でも、石の欠片でも、何か一つでも掴めれば――。
しかし、石床を掴むことは叶わなかった。
伸ばした手の先にあるのは、何もない。
指先が空を切っていった。
「くっ――!」
身体が落ちていく。
視界が反転する。
頭上にあったはずの床が、一瞬で遠ざかっていく。
さっきまで自分が立っていた場所が、急速に小さくなっていく。
ただでさえ高く見えた天井は、今は最早遠い。
床が離れていく。
その下には、果ての見えない暗闇が待ち受ける。
身体が落ちていく。
全身で重力を感じる。
落下しているという実感が、異様なほどに強かった。
腹の奥が浮くような感覚。
身体を下へ引っ張る力。
どれだけ手足を動かしても、その力から逃れることができない。
何もない空間を、自分だけが下へ向かっている。
手を伸ばしても何もない。
足を動かしても何もない。
掴めるものがない。
止まる場所がない。
ただ落ちていく。
ただ、ただ落ちていく――。
どれほど落ちたのか分からない。
時間の感覚も、少しずつ曖昧になっていった。
体感、数十秒ほど落ち続けた。
実際はもっと長いかもしれない。
あるいは、もっと短い、刹那の出来事だったのかもしれない。
落下している最中だというのに、時間が正常に流れているのかさえ分からなくなる。
ただ一つ確かなのは、身体が今も落ち続けているということだけだった。
上を見ると、既に穴は小さくなっている。
最初はまだ見えていた。
自分が落ちてきた場所も、そこから続く廊下も。
だが、それらはもう遠い。
暗闇の向こうに、小さな穴がある。
それだけになっていた。
「まずい――!」
声が漏れる。
身体を捻り、本能に逆らいながら目を開く。
怖い。
目を閉じてしまいたい。
だが、閉じてしまえば何も見えない。
何も見えなければ、何かを掴むこともできない。
ソウマは死ぬ覚悟を決めて、何か掴めるものがないか探した。
視線を走らせる。
左右を見る。
上を見る。
下を見る。
しかし、何も見つからない。
最早、穴は見えなくなっている。
自分がどこから落ちてきたのかさえ分からない。
ソウマは、パニック状態の脳をフル回転させながら考えた。
魔法を使えるか。
使える。
だが、使っても役に立つものはない。
何か衝撃を抑えるものはないか。
何か足場を作れないか。
何か、身体を受け止められるものは。
クッションなんて以ての外。
そもそも、この◇◇に都合よく存在する訳がない。
なら、どうする。
何か。
何かないか。
だが、身体は落ち続けている。
思考している間にも、確実に地面へ近づいている。
考える時間すら、残されていない。
ソウマは意識が朦朧としてきながらも、必死に下を見る。
暗闇しかない。
そう思っていた。
だが、その暗闇の中に、何かが見えた。
黒く同化して見えづらい。
輪郭がほとんど分からない。
それでも、確かに何かがある。
細長い。
そして、その先端がこちらを向いている。
ソウマの視線が、そこへ吸い寄せられる。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬で十分だった。
――尖った石だ。
ソウマは直感的に理解した。
石に落ちる。
このままなら、避けられない。
身体を動かす余裕もない。
何かを掴むこともできない。
ただ、落ちる。
その先にあるものへ向かって。
走馬灯を、見た。
その瞬間。
――◇◇が、止まった。
音が消える。
さっきまで確かに存在していたはずの音が、突然その意味を失った。
地鳴りも、風の音もない。
自分の身体が空気を切る音すらない。
空気が消える。
落下が消える。
重力によって引かれていたはずの身体が、その動きを失う。
自分の身体が、空中で静止する。
先ほどまで確実に下へ向かっていた身体が、まるで◇◇から切り離されたように、その場に留まっていた。
何も動かない。
何も変わらない。
それでも、自分だけが動ける。
ソウマは荒い息を吐いた。
「……はぁ……っ」
喉が震える。
胸が大きく上下する。
自分がまだ生きていることを、身体が必死に訴えていた。
また、この時間だ。
死ぬ寸前の、自分だけが動ける時間。
何度もソウマの命を拾ってきた、自分だけの異常。
それは今回も、死の直前に現れた。
落下中という、重力が完全に支配しているはずの状況。
その中でさえ、この時間は発動した。
落下を止めた。
死を止めた。
ソウマだけを、◇◇から切り離した。
――あと数センチ。
あと数センチ遅ければ。
ソウマは文字通り、その石に串刺しにされていただろう。
その事実を理解した瞬間、遅れて身体の奥から震えが込み上げてくる。
だが、今はそれを気にしている暇はない。
生きている。
まだ動ける。
なら、ここからだ。
ソウマは、空中でゆっくりと身体を動かした。
まず、周囲を見る。
自分を取り囲む暗闇と、その中に浮かぶ尖った石。
そして、時間が止まっているという事実。
すべてが動かない。
まだ、間に合う。
そう思った。
この時間なら、きっと何とかできる。
今までだって、そうだった。
死ぬ寸前にだけ与えられる、永遠で、ほんの僅かな猶予。
それさえあれば、まだ。
そう思った。
そう思っていた――のだが。
【今回の小ネタ】
「素朴実在論」
私たちは普段、自分が見たり聞いたりしている世界を、そのまま「現実」だと思っています。
目の前に机があれば、そこに机がある。
誰かがそこにいれば、その人がいる。
あまりにも当たり前なので、わざわざ疑うことはありません。
しかし、厳密に考えてみると、私たちが直接知覚しているのは「世界そのもの」ではなく、自分の感覚や脳を通して構成された世界です。
つまり、「自分にはそう見えている」ことと、「世界が本当にそうなっている」ことは、必ずしも同じではありません。
普段はその二つが一致しているように感じられるからこそ、私たちはそれを意識することなく生きています。
だからこそ、その二つが食い違ったとき、人は強い違和感を覚えるのかもしれません。




