◆◆なき◇◇の★★
一歩。
ソウマは、足を踏み出した。
その一歩は、ただ前へ進むための動作ではなく、停止した◇◇の膜を押し分ける行為に近かった。
足裏が石床に触れた瞬間、◇◇の空気がわずかに震えたように感じられた。
その震えは、音ではなく、皮膚の内側で生じる微細な振動として伝わってくる。
まるで、歩くという行為そのものが、この◇◇の停止を乱す唯一の力であるかのようだった。
さっきまで胸の奥を締め付けていた冷たさは、まだ消えていない。
それは、心臓の裏側に薄い氷片が貼り付いているような、鈍い痛みを伴う冷たさだった。
冷たさは、ただの感覚ではなく、◇◇の停止した空気と同じ性質を持っているように、じんわりとソウマを蝕んでいた。
◇◇が止まっているから、自分の内側も凍りつく。
そんな当然とは言えない因果が、胸の奥で静かに成立しているようだった。
絵画を見た。
自分しか知らないはずのものを見せられた。
誰にも語ったことのない記憶。
その奥底に沈めていたはずの断片が、まるで他者の手によって掬い上げられ、キャンバスの上に晒された。
覗かれた。
侵入された。
自分の内側が外側へと反転するような感覚に襲われ、視界に映るものさえ、自分の★★として信じられなくなった。
絵画に描かれていたのは「記憶」ではなく「記憶の◆◆」だったのではないか。
そんな疑念が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
記憶そのものではなく、記憶を見つめた瞬間の自分の視線。
その視線の軌跡が、絵画の中に封じ込められていたように思えた。
それでも最後には、歩くことを選んだ。
何かが答えを示してくれるのを待つのではなく、自分で進むと決めた。
だから、今も歩いている。
それだけは、疑うことのない事実だ。
少なくとも、そのつもりだった。
足を動かす。
身体が前へ進む。
ただそれだけのことを、一つ一つ確かめるように、ソウマは歩いていた。
歩くたびに、◇◇の停止した空気がわずかに震え、薄い波紋が広がるような錯覚が生じる。
その波紋は、視覚ではなく、皮膚感覚として伝わってくる。
◇◇が、自分の歩みに反応している――そんな感覚があった。
一歩。
二歩。
三歩。
自分の身で体感したものは、事実として信じられる。
それは、あまりにも単純な因果だった。
今の自分には、その単純さが必要だった。
複雑なものは、今の自分を容易に崩壊させる。だから、単純さに縋った。
何が起きているのか分からない。どうして時間が止まっているのか分からない。何故、自分だけが動けるのかも分からない。絵画に何故あの光景が描かれていたのかも分からない。
この王城で何が起きているのか。
何故、この廊下は無限に続くのか。
何故、あんなものがあってしまうのか。
何故、何故、何故――
疑問は、考えるほどに増殖し、頭の中で葉脈のように枝分かれしていく。
疑問の枝は、やがて自分の★★そのものを締め付ける蔦のように絡みつき、その蔦は思考の隙間に入り込み、◇◇の停止した空気と同じようにじわじわと広がっていく。
だからこそ、今は余計なことを考えなかった。
歩けばいい。
少なくとも、自分が歩くと決めたのだから。
四歩。
五歩。
六歩。
視界の中にあるものを、意識的に流していく。
壁。
柱。
燭台。
窓。
扉。
どれも、これまで何度も見てきたものだった。
しかし、見慣れているという感覚が、今は逆に不気味だった。
見慣れているはずのものが、見慣れているように見えること自体が、何かの罠のように思えた。
◇◇が「見慣れている」という感覚を模倣しているだけなのではないか――そんな疑念が浮かんだ。
この王城へ入ってから、どれだけ歩いた?
何度、同じ廊下を歩いた?
何度、同じような扉を見た?
分からない。
時間そのものが、もうまともに測れなくなっている。
時計は止まっている。
外の◇◇も止まっている。
ならば、自分が歩いた時間だけが、この◇◇に残された唯一の時間なのか。
そんな考えが浮かんだ。
だが、すぐに捨てる。そんなことは考えるべきじゃない。
ソウマは前を見た。
廊下の先。
少し離れた左壁に、扉が一つある。
ただの扉。
目を引くような装飾はなく、特別大きい訳でも、異様な気配があるわけでもない。
だから、ソウマはそのまま通り過ぎようとした。
七歩。
扉の横を通る。
八歩。
そのまま前へ進む。
九歩。
歩き続ける。
そして、十歩目を踏み出そうとしたところで、
足が止まった。
「…………」
ソウマは、何となく振り返った。
扉がある。
当然だ。
さっき横を通ったのだから、後ろにある。
何もおかしくない。
そう思って、前へ向き直った。
「仕切り直しだ」
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
歩くたびに、◇◇の空気がわずかに震える。
その震えは、音としては聞こえない。
しかし、皮膚の内側で微細な振動となって伝わってくる。
まるで、歩くという行為そのものが、この◇◇の停止を乱す唯一の力であるかのようだ。歩数を重ねるほど、その振動は濃度を増し、◇◇の空気が薄い膜のように揺らぎ始める。
そこで、また足を止めた。
振り返るまでに、少し時間が掛かってしまった。
見たくないわけではないが、ただ見た瞬間に何かが確定してしまうような気がした。
確定――その言葉が、胸の奥で重く響く。
この◇◇では、◆◆することが存在を確定させる。
◆◆しなければ、存在は揺らぎ続ける。そんな法則が、歩くたびに濃度を増していく。
それでも、ゆっくりと頭を左に向けると、そこには――
扉があった。
「――――」
ソウマはもう、露骨に驚きはしなかった。
通り過ぎたはずの、これといった特色のない扉。
通り過ぎたはずだ。
通り過ぎたのだ。
しかし、そこにある。
まるで、通り過ぎたという事実そのものが書き換えられたかのように、扉は停止している。
だが、その停止は「動いていない」という意味ではない。
◇◇全体が止まっている中で、扉だけが◆◆されることによって存在を維持しているような、奇妙な緊張感を孕んでいた。
扉の縁に沿って、薄い影が揺れている。
揺れているはずがないのだ。
◇◇は止まっているのだから。
それでも、揺れているように見えるのは、ソウマの視線が扉を◆◆するたびに、扉の存在が微細に再構成されているからだ。
「……ループが露骨になってますよ」
あえて軽い調子で言いながら、ソウマは扉を見つめた。
軽口を叩くことで、自分の思考が◇◇に干渉するのを少しでも抑えようとしていた。
この◇◇では、思考そのものが◇◇の構造に影響を与える。
疑念が増えれば、◇◇の空気は重くなる。
恐怖が増えれば、廊下は伸びる。
◆◆が増えれば、扉は近づく。
そんな因果が、歩くたびに濃度を増していく。今までのことを考えれば、簡単に片付けることもできる。
「またループした」と言えば済む。
しかし、済ませてはいけない気がした。
この扉は、ただのループではない。
この廊下が永遠に続くのは、何か別の理由がある。
◇◇がソウマの★★を素材にして再構成されているのが、その証拠だった。
ソウマは一度、目を閉じた。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
そして、もう一度目を開けた。
扉はある。
同じ場所に、同じ形で。
同じように閉じている。
しかし、さっきよりも存在感が濃い。
◆◆された回数が増えたことで、扉の存在密度が上がったかのように感じるそれは、依然としてそこに佇んでいる。
「…………」
一度扉から離れて、もう一度近づく。
今度は歩数を数える。
歩数を数えるという行為そのものが、◇◇の距離を確定させる。
歩くたびに、◇◇が生成される。
数えるたびに、◇◇が確定する。
そんな因果が、歩数の中に潜んでいる。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
十歩離れて、歩き出す。
十歩という数字は、◇◇の距離を測るための基準だった。
しかし、この◇◇では基準そのものが揺らいでいる。
十歩離れたはずの距離が、十歩として存在し続ける保証はどこにもない。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
五歩。
五歩だ。
五歩だ。
五歩なのだ。
廊下が縮んだ?
扉が近づいてきた?
あるいは、自分の歩数そのものが◇◇の尺度として書き換えられた?
歩くという行為が、◇◇の距離を生成している。
そんな仮説が、頭の中で静かに形を持ち始めていた。
歩数が◇◇を作り、◆◆が◇◇を確定させる。
その法則の中で、扉は揺らぎ続けている。
ソウマは床を見た。
石床が続けた模様を見て、柱との位置関係を確認する。
右側の柱の横は、コーヒーにミルクを入れた時のようなマーブル模様。
その奥の燭台の横は、杢目模様。
壁の継ぎ目の横は、フラクタル模様。
模様は確かに連続している。
しかし、その連続性が本当に「連続」なのかどうか、今の自分には確信できなかった。
模様そのものが、歩くたびに再構成されている可能性すらあった。
ソウマはその場で振り返った。
扉はない。
「……」
もう一度、前を見る。
扉はない。
後ろを見る。
扉はない。
扉が存在していたはずの空間は、均質な停止した空気に塗り潰されている。
扉が存在した痕跡を消すために、◇◇が白紙化されたかのようだった。
「結局、横にあるのか」
そう漏らして左横を見る。
そこには当然、扉がある。
――そのはずだった。
扉は消えていた。
否、消えたというより、◆◆されなかったために存在が確定しなかったと言うべきかもしれない。
この◇◇では、◆◆されなければ存在は揺らぎ、揺らいだまま消える。
扉は、◆◆されなかった瞬間に、存在の密度を失ったのだ。
ソウマは眉を寄せた。
前にもない。
後ろにもない。
それならば、横にあるのは必然。
しかし、横にあるのは、永遠に続く白い壁だ。
――否。
白い壁は、ただの壁ではなかった。
その白さは、均質で、無機質で、どこまでも平坦で、何も描かれていないキャンバスのようだった。
近づけば模様が見えるわけでもなく、触れれば質感が変わるわけでもない。
ただ、白い。
それだけなのに、その白さは扉が存在した痕跡を塗り潰すために生成された『白』であるように思えた。
◇◇が、扉の存在を消すために白紙化した。
そんな感覚があった。
ソウマは何となく答えをわかっていながら、後ろを見た。
「やっぱりな」
後ろには何もない。
空気が停止している。
その停止は、ただの停止ではない。
◆◆されなかった空間が、存在密度を失って沈殿した状態。
空気が沈殿する――そんな現象は本来あり得ない。
しかし、この◇◇では、あり得ないことがあり得ることに傾いていく。
ソウマは前を見た。
「やっぱり、ない」
前にも、扉は存在していない。
前方の空間は、白い壁と同じように均質で、どこまでも平坦で、何も描かれていない。
◇◇が扉が存在したという事実そのものを消去しようとする白が、そこにあった。
後ろ、前、横。
扉は、消えていた。
消えた――その言葉は正しいが、正確ではない。
扉は消えたのではなく、◆◆されなかったために存在の定義が確定しなかったのだ。
この空間では、◆◆されなければ存在は揺らぎ、揺らいだまま消える。
存在の定義が低下し、やがて◇◇の停止した空気に吸収される。
扉は、◆◆されなかった瞬間に、存在を失ったのだ。
ソウマはゆっくりと息を吸った。
停止した空気が肺に入る。
その空気は、温度を持っていない。
冷たくもなく、暖かくもない。
ただ温度が存在しないという状態だった。
温度が存在しない空気は、呼吸という行為そのものを曖昧にする。
吸ったのか、吸っていないのか。
肺が膨らんだのか、膨らんでいないのか。
その境界が曖昧になる。
◇◇が、ソウマの身体感覚にまで干渉しているという感覚さえもあった。
ソウマは歩こうとした。足を前に出そうとした。
しかし、足は動かなかった。
動かないのではない。
動くという、当たり前の概念そのものが、◇◇の停止した空気に吸収されていた。
歩くという行為は、◇◇を生成する。
しかし、◇◇が生成を拒むとき、歩くという行為そのものが成立しなくなる。
「……歩け」
ソウマは小さく呟いた。
その瞬間、◇◇の空気がわずかに震えた。
その震えは、歩くときに感じるものと同じだった。
◇◇が、ソウマの声に反応し、声が◇◇を揺らした。
その瞬間、足が動いた。
一歩。
◇◇が生成された。
白い壁の表面に、微細な影が生まれた。
影は、扉の形をしていた。
しかし、影は影のままだった。
存在するための前提が足りない。
◆◆が足りない。
◇◇は、扉を生成しようとしているが、まだ確定していない。
二歩。
影が濃くなる。
扉の縁が、わずかに立体感を持ち始める。
しかし、まだ「扉」と呼べるほどの存在はない。
三歩。
影が形を持ち始める。
扉の取っ手が、薄い輪郭として浮かび上がる。
◇◇が、扉を再構成しようとしている。
しかし、再構成は不完全だ。
四歩。
扉の影が、白い壁からわずかに浮き上がる。
その浮き上がりは、◇◇が「扉を存在させるべきかどうか」を迷っているような揺らぎだった。
五歩。
扉は――存在しなかった。
影は消えた。
扉の輪郭は消えた。
◇◇は、扉の再構成を拒んだ。
◆◆が足りなかったのではなく、◇◇が扉を存在させることを選ばなかったのだ。
◇◇が選ぶ。
◇◇が決める。
◇◇が構成する。
その構成の素材は、ソウマの◆◆だった。
ソウマは静かに息を吐いた。
白い壁を見つめる。
壁は、ただの壁ではない。
◇◇が「扉を消した」という選択を刻み込んだ壁だった。
扉は消えた。
しかし、消えたという事実は、◇◇の構造に刻まれた。
その構造は、ソウマの★★によって生成された。
◇◇は、ソウマの★★を素材にして生成されている。
歩くたびに◇◇が伸び、◆◆するたびに◇◇が確定し、疑念が増えるたびに◇◇が揺らぐ。
この廊下は、もはや一つの空間ではない。
ソウマの★★そのものを素材にした、生成され続ける構造体だった。
扉は消えた。
しかし、消えた扉の「痕跡」は、◇◇の停止した空気の中に沈殿している。
その沈殿は、◇◇の底に積もる砂のように、ゆっくりと形を持ち始めていた。
◇◇は、ソウマの歩みに合わせて形を変えている。
その事実だけが、静かに、しかし確実に、彼の背筋を冷たく撫でていった。
◆◆?
◇◇?
★★?
今回言うべきことは一つだけです。
◆◆、◇◇、★★。
この三つを、覚えておいてください。




