絵画は何を映すのか
絵画の前で、ソウマは呼吸を忘れていた。
胸の奥で、何かがゆっくりと沈み込むような、重く冷たい感覚が広がっていく。
その冷たさは、ただの驚愕ではなく、もっと深い、もっと根源的な恐怖のようなものだった。
絵画には、古衣装を身につけた男は描かれていなかった。
そこにあるべき「人物」という概念そのものが、最初から欠落しているかのように、静かに、淡々と、空白が広がっていた。
描かれていない。
その事実が、胸の奥で鈍い音を立てる。
その音は、心臓の鼓動とは別の、もっと深い場所――自分の認識の底で鳴っているように思えた。
代わりに、ソウマの脳内にいつも焼き付いている、あの構造線のある世界が描かれていた。
あの世界。
あの線。
あの静止した世界の中でしか見えない、不可解で、説明不能で、理解を拒むような――
まるで自分の脳内の奥底に巣食う影が、絵画の表面に浮かび上がってきたかのような。
あの世界。
あの線。
あの静止した空間の中でしか成立しない、奇妙な構造。
それが、今、王城の壁に、絵画として存在している。
存在しているように見える。
存在していると認識してしまう。
そのたびに、胸の奥がざわつき、背骨の奥をゆっくりと撫でていくような感覚が広がる。
「――――」
ソウマは無意識のうちに、絵画へ近づいていた。
気づけば、額縁に額がつくほど近づいて、絵画を見ていた。
視線を忙しなく往復させる。
何度も、何度も。
自分の頭に残っている、あの光景との違いを探すように。
比べるように。
あるはずもない差異を、必死に掘り起こそうとするように。
その行為自体が、すでに異常であることを理解しながらも、視線を止められなかった。
「……違う、違う、違う……」
声にならない声が、喉の奥で震えた。
絵画の線は、確かに“あの線”だ。
だが、同時に“あの線”ではないようにも見える。
どちらでもあるし、どちらでもない。
見える。
見えてしまう。
見えているように思える。
見えていると『認識』してしまう。
そのたびに、胸の奥がざわつく。
ざわつきが波紋のように広がり、背骨の奥をゆっくりと撫でていく。
「……はぁ……っ」
呼吸が乱れる。
乱れているのに、乱れているように見えない。
自分の呼吸が、自分のものではないような感覚が、背骨のあたりをじわじわと這い上がってくる。
ソウマの息、足、目線、体の動き、鼓動さえも早くなる。
何度も、何度も。
あのことを考えてきた。
あの光景。
あの線。
あの静止した世界。
しかし、一度も。
一度も、一度も。
あの光景も、「時間停止」という能力も、「構造線」も。
誰にも、言ったことがないのだ。
誰にも。
一度も。
一言も。
それなら――何故。
何故、ここに。
何故、この絵画に。
何故、この王城の壁に。
何故、この“停止した世界”の中に。
何故、この絵画は、ソウマしか知らない、知るはずもない光景を描いているのだろう。
「……なんで……だよ……」
声が震える。
震えているのに、震えているように聞こえない。
自分の声が、自分の耳に届いていないような感覚が、頭の奥を締め付ける。
その締め付けは、痛みではなく、もっと深い、もっと根源的な違和感だった。
絵画の線が、ゆっくりと揺れた。
揺れたように見えた。
揺れていないようにも見えた。
どちらでもあるし、どちらでもない。
世界が、ソウマの認識に合わせて形を変えているような――
そんな錯覚が、喉の奥で膨らむ。
その錯覚は、ただの思い込みではなく、世界そのものが自分の視覚を参照しているような、そんな異常な感覚だった。
「――――っ」
ソウマは思わず後ずさった。
足が床を踏む感触が、妙に薄い。
床が床として存在しているのか、自分が床を踏んでいるのか、その境界が曖昧になる。
世界の輪郭が、視界の端でゆっくりと滲んでいく。
滲んでいるように見える。
滲んでいないようにも見える。
どちらでもあるし、どちらでもない。
絵画がそこにある。
あるはずだ。
あるように見える。
あるように認識している。
そのたびに、胸の奥が冷えていく。
冷たさが、心臓の奥に沈み込んでいく。
「……なんで……ここに……」
ソウマは絵画を見つめたまま、
自分の脳内に焼き付いているあの光景を思い出す。
あの世界。
あの線。
あの“静止した世界”。
それは、自分だけが知っているはずのものだ。
自分だけが見たはずのものだ。
自分だけが理解しているはずのものだ。
それなら――
「……なんで……」
絵画の線が、ゆっくりと、まるでこちらを見返すかのように揺れた。
その瞬間、ソウマの背筋が凍りついた。
背筋の奥に、冷たい刃物を押し当てられたような感覚が走る。
世界が、自分を見ている。
世界が、自分の認識を覗き込んでいる。
世界が、自分の“視覚”を利用して形を変えている。
そんな錯覚が、胸の奥で膨らんだ。
その錯覚は、ただの恐怖ではなく、世界そのものが自分の内側に侵入してくるような感覚だった。
「……いや……違う……違う……違っ……」
ソウマは頭を振った。
振ったはずなのに、振った感覚が薄い。
自分の体が、自分の体ではないような感覚が、全身を締め付ける。
その締め付けは、まるで世界が自分の身体の輪郭を奪っているような感覚だった。
絵画の線が、ゆっくりと滲んだ。
滲んだように見えた。
滲んでいないようにも見えた。
どちらでもあるし、どちらでもない。
世界が、ソウマの認識に合わせて形を変えている。
そんな錯覚が、胸の奥で膨らんだ。
その錯覚は、もはや錯覚ではなく、世界そのものが自分の認識を参照して動いているような異常だった。
世界が、自分の視覚を覗き込み、自分の脳内の構造を読み取り、自分の記憶の奥底に沈んでいる光景を引きずり出しているような感覚があった。
「……っ……はぁ……っ……」
呼吸が乱れる。
乱れているのに、乱れているように聞こえない。
自分の呼吸が、自分の耳に届いていない。
自分の体が、自分の体として存在していない。
世界が、自分の認識に合わせて形を変えている。
そんな錯覚が、胸の奥で膨らんだ。
その膨らみは、恐怖ではなく、世界そのものが自分の内部に侵入してくるような、そんな異常な感覚だった。
「……なんで……ここに……」
絵画の線が、ゆっくりと揺れた。
その揺れが、ソウマの認識を揺らした。
揺らされた認識は、世界の輪郭を曖昧にし、床や壁や空気の存在を不確かなものに変えていく。
世界が、自分を見ている。
世界が、自分の認識を覗き込んでいる。
世界が、自分の“視覚”を利用して形を変えている。
「……っ……」
ソウマは、絵画から目を離せなかった。
離したくても、離れなかった。
絵画が、自分を見ているように思えた。
絵画が、自分の認識を覗き込んでいるように思えた。
絵画が、自分の“視覚”を利用して形を変えているように思えた。
その思いは、ただの錯覚ではなく、世界そのものが自分の内部に侵入してくるような感覚だった。
「……なんで……ここに……」
世界が、自分を見ている。
世界が、自分の認識を覗き込んでいる。
世界が、自分の“視覚”を利用して形を変えている。
それゆえ――この光景が、あるのだと。
この絵画が、存在しているのだと。
この異常が、成立しているのだと。
絵画から目を離せないまま、ソウマは呼吸を整えようとした。
――整わない。
呼吸が乱れているのに、乱れているように聞こえない。
自分の呼吸が、自分の耳に届いていない。
まるで、呼吸という行為の感覚を、この世界に奪われてしまったかのようだった。
呼吸の存在そのものが、世界の側に吸い取られているような感覚があった。
「……はぁ……っ……」
声が震える。
震えているのに、震えているように聞こえない。
自分の声が、自分の声として存在していない。
世界が、自分の脳内を覗き込んでいる。
世界が、自分の“認識”を利用して形を変えている。
その変化は、世界が自分の内部に侵入し、自分の認識の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
絵画の線はゆっくりと滲み続けている。
滲み、滲んで――
いつしかその絵画は、ネグラディアと戦闘をした際の光景を、浮かべていた。
その光景は、記憶の奥底に沈んでいるはずのものだ。
誰にも言ったことのない、誰にも知られていない、誰にも理解されていないはずのものだ。
それが、今、絵画の表面に浮かび上がっている。
「……やめろ……」
ソウマは絵画から目を離そうとした。
離れない。
離れようとする意思は、この空間に押し返されている。
絵画が、自分を見ている。
絵画が、自分の認識を覗き込んでいる。
絵画が、自分の“記憶”を利用して形を変えている。
その変化は、世界そのものが自分の内部に侵入し、自分の記憶の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
「……やめろ……やめろ……」
声が震える。
震えているのに、震えているように聞こえない。
自分の声が、自分の耳に届いていない。
世界が、自分の認識を覗き込んでいる。
世界が、自分の“衝撃”を利用して形を変えている。
その衝撃は、世界そのものが自分の内部に侵入し、自分の感情の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
「……っ……」
ソウマは、無理やり絵画から目を離した。
離したはずだ。
離したはずなのに、離した感覚が薄い。
自分の視線が、自分の視線として存在していない。
世界が、自分の視線を奪っている。
世界が、自分の認識を奪っている。
世界が、自分の“見え方”を奪っている。
その奪われた感覚は、世界そのものが自分の内部に侵入し、自分の視覚の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
「……なんで……」
ソウマは廊下を見渡した。
壁。
柱。
床。
燭台。
すべて、そこにある。
――あるはずだ。
あるように見える。
あると認識している。
そのたびに、胸の奥が冷えていく。
冷たさが、心臓の奥に沈み込んでいく。
世界が、自分を見ている。
世界が、自分の認識を覗き込んでいる。
世界が、自分の“細胞”を利用して形を変えている。
世界が、自分の――
◆◆◆
ソウマは廊下を歩き出した。
一歩。
足が床を踏む感触が、妙に薄い。
その薄さは、床の存在そのものが曖昧になっているような感覚だった。
二歩。
床が床として存在しているのか、自分が床を踏んでいるのか、その境界が曖昧になる。
その曖昧さは、世界の輪郭が自分の認識によって揺らいでいるような感覚だった。
三歩。
世界が、自分の歩みを“見ている”ような感覚が背中にまとわりつく。
その感覚は、世界そのものが自分の内部に侵入し、自分の動作の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
四歩。
自分の歩みが、自分の歩みとして存在していないような感覚が足元を締め付ける。
その締め付けは、世界が自分の身体の輪郭を奪っているような感覚だった。
五歩。
世界が、自分の歩みを利用して形を変えているような錯覚が胸の奥で膨らむ。
その膨らみは、世界そのものが自分の内部に侵入し、自分の動作の構造を利用して形を変えているような感覚だった。
「……やめろ……」
ソウマは頭を振った。
振ったはずなのに、振った感覚が薄い。
自分の体が、自分の体として存在していない。
その存在の曖昧さは、世界が自分の身体の輪郭を奪っているような感覚だった。
「俺は……何をしに……?」
ふと零れたその言葉は、ソウマをハッとさせた。
その言葉は、世界の異常の中で唯一、自分の内部から自然に出てきたものだった。
(何で王城に来たんだ……?)
王都に来た理由は、思い出せる。
パラドクシアとの戦闘で失われた右腕を再生させるため。
ガルドに出会って、寝たらあの[無]の空間に飛ばされ、謎の男に何だか言われて。
王都侵食で北通りに向かって、黒い人型と遭遇して、滲みに触れて。
世界が止まった。
肖像画。
無限の廊下。
そのすべてが、今の異常につながっているように思えた。
「違う……その前……」
何か、何かあって――
その「何か」が、今の異常の根源にある。
「――前庭」
停止した世界での、聞こえるはずのない足音。
次第に近づいてくるその異常から逃げるために、王城に滑り込んだのだ。
その足音は、世界そのものが自分を追いかけてくるような感覚だった。
「王城で……俺は何を……?」
その問いに、答えは返ってこなかった。
現時点で、自分がしていることといえば、ただ異常に抵抗しているだけだ。
停止した世界を抜け出すために、世界を再び動かすために、何か手がかりがあるはずだと考えて歩き回っている。しかし、ここまで来ても、その手がかりは何一つ掴めていない。
肖像画を見つけた。
無限に続く廊下を歩いた。
奇妙な現象をいくつも目にした。
だが、それらが何を意味するのかは分からない。
自分が何かを見つけたのか、それとも、ただ世界に見せられているだけなのか。
歩いたことに意味があったのか。
詮索したことに意味があったのか。
そもそも、自分がこの王城へ入ったこと自体に意味があったのか。
何も分からない。
分からないまま、ただ歩いている。
その事実を自覚した瞬間、足元から力が抜けていくような感覚がした。
何をしても、何も変わらない。
立ち止まっても、何も起きない。
歩いても、何も起きない。
絵画を調べても、廊下を進んでも、異常を探しても、世界は何一つ答えを返してくれない。
まるで――最初から、自分の行動など必要としていないかのように。
「…………」
ソウマは足を止めた。
廊下の先を見る。
何もない。
振り返る。
そこにも、何もない。
壁も、床も、柱も、燭台も、すべてがそこにある。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
何も変わっていない。
何も変えられていない。
ならば、自分は何のために歩いている?
「立ち止まっても、歩いても、進むことはできない」
ぽつりと呟いた。
言葉にしてみると、妙に馬鹿馬鹿しかった。
歩いているのだから、物理的には進んでいる。
実際、足を動かせば身体は前へ進む。
それなのに――何も進んでいない。
場所だけが変わって、意味だけが置き去りになっている。
「……物理的には進んでるけどな」
自分で言って、自分で可笑しくなった。
こんな状況で、そんなことを気にしている場合か。
そもそも、物理的に進んでいることに何の意味がある?
この世界では、歩いたという事実すら、自分がそう認識しているだけなのかもしれない。
「……は」
喉の奥から、短い息が漏れた。
「はは……」
もう一度。
「ははは……」
止めようとしても、止まらなかった。
笑えるようなことなんて、一つもない。
右腕を失って。
王都は異常に侵されて。
時間は止まって。
自分だけが動いて。
その挙げ句、自分しか知るはずのないものまで、目の前に現れた。
何が起きているのかも分からない。
どうすればいいのかも分からない。
それでも、笑った。
笑うしかなかった。
「ハッ……!」
ソウマは口元を歪めた。
怖い。
今でも、怖い。
さっき見た絵画のことを考えるだけで、胸の奥が冷たくなる。
あれが何なのか分からない。
どうして存在しているのかも分からない。
そして何より――あれを見ている自分自身の認識さえ、もう信用できない。
それでも。
「停止上等」
ソウマは、ゆっくりと顔を上げた。
「自分の能力と似た現象だぞ?」
笑みが深くなる。
強がりだった。
ただの強がりだ。
こんな世界に対して、何の根拠もない。
勝てる保証なんてない。
抜け出せる保証もない。
自分の能力が、この異常に通用する保証すらない。
それでも――。
「太刀打ちできないで、どうするんだよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
ここで立ち止まったら、本当に何も分からなくなる。
怖いから動けない。
分からないから考えられない。
何をしても意味がないから、何もしない。
そんな風にしてしまえば、この世界に自分の意思まで奪われる。
それだけは、嫌だった。
「……ハッ!」
ソウマは笑った。
狂ったように。
自分でも分かっている。
これは勇気なんかじゃない。
恐怖を誤魔化すための笑いだ。
折れかけた自分を無理やり立たせるための、最後の強がりだ。
それでもいい。
今の自分にできることが、それしかないのなら。
「だったら――来いよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
世界に向けたのか。
この異常に向けたのか。
それとも、自分自身に向けたのか。
「俺は、まだここにいるぞ」
足を踏み出す。
一歩。
今度は、床の感触を確かめるように。
二歩。
世界がどう見えているのかではなく、自分がどうするのかを確かめるように。
三歩。
意味がなくてもいい。
正解が分からなくてもいい。
少なくとも――立ち止まる理由にはならない。
ソウマは、歩き続けた。
その歩みが正しいのかどうかは、まだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、歩くことを選んだのは、この世界ではなく自分自身だった。
それだけだった。




